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2020年5月14日 (木)

様々なメッセンジャーについて~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

この教会では、国内外からいろいろな教師が招かれていました。時には、偶然とは思えないような内面で不思議なことが起こり、心身が癒される経験もしました。
が、この後、使徒とか預言とかを強調する流れとなっていき、聖書のみことばと違うことを言っていると思うことが増え、今後の教会の動きに影響を与えていったのですが、このような状態の教会で受けた恵みは、どう捉えたらよいのでしょうか?
とかく「伝道」に主体を置いている教会では、様々な外部のメッセンジャーを呼ぶことが多い傾向にあるようじゃ。
面識のない他のメッセンジャーに頼らず、地道に地域に仕えている教会も存在するが、そういったところは、大きく宣伝していないためか、野に咲く花のようによく見ないと目立たないようじゃ。
多様なメッセンジャーからの話を聞けることは、モチベーションを高める刺激となり、活性化につながるというよい面がある。しかしじゃ、それが本来の聖書に即した内容から逸脱していなければの話である。
へりくだった心で神に真剣に祈って受け、信仰の助けになったならば、どこで受けたとしても、恵みとして受け取ればよい。
神は、どのような場所においても、どのような人を用いても、みこころを成し遂げられるお方じゃ。民数記22章28節ではロバの口を開かれ、Ⅰサムエル28章14-19節ではサウルの要請に応じた霊媒師を通してサムエルを送って真実を告げ、使徒の働きではパウロのいるところどこででも、たとえそれが牢獄であっても、ご自身を現わす奇跡を行なわれたのじゃ。
重要なのは、受けとった側がどのような心で、どのような信仰で願い求め、主がどのように答えてくださったか。それは聖書に合致している神か、ということじゃろう。
どこでとか誰からとかというのではなく、自分側の吟味が大切ということですね。

 

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2020年5月11日 (月)

愛と束縛 ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

「教会に置いてある書籍以外は、あまり読んではいけない」と言われた時、不自由さを感じ、もやもやしました。指示された本棚にはそんなに多くの本はなく、何故だろうと思いました。
また、引っ越して庭がなくなったため、トールペイントで作った子供型の花台を誰かにもらってもらおうと申し出たら、「これは偶像だから置けない」と言われ、「え~?キャラクター化した子供を板に描いてくり抜いただけの置物も『偶像』なの??」とびっくりしました。
読む本を規制することは、異端などマインドコントロールにもつながる手法にもみられるのだが、まだよく理解していない信徒を守りたいという愛情によっても出てくるだろうなぁ。それがどういったことに起因して発せられた言葉なのかは、互いによくコミュニケーションをとって、また聖書のみことばに照らし、消化つつ、キリストの交わりを守っていく必要があるじゃろう。
また、どのような物でも、偶像かどうか判断するには、背景や作った側の思いをよく聞いて判断すべきことじゃろう。
いずれにしても、つまずかせることはよいことではないのう。まず、相手を知りたい(愛したい)というコミュニケーションが大切じゃ。
何故かということを聞ける交わりを作って、互いに信じあえる関係作りが大切ですね。

 

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2020年5月 4日 (月)

異言についての考察1

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

初めて聞く言葉だった「異言」について、聖書に書かれていることを聞いただけなのに、いろいろ否定的な言葉が返ってきたのは、なぜなのでしょうか?
「異言」については、いろいろな立場や神学的な見解があり、注意が必要な項目となっているなぁ。それは、思いつくだけじゃが、下記のような要因が考えられる。
 ・「異言」の現象が傍観者からは奇異に見える
 ・体験に依存して未経験者を見下して暴走してしまう人たちの存在
 ・霊的な現象のため、理解できない人たちの存在はあって当然なのだが、その人たちへの配慮がなされないことがある
 ・霊的に見える現象がすべて神からとは限らないため
神からの体験は喜びの出来事なのに、その中で注意が必要というのは、不自由じゃないですか?
「配慮しなければならない」と掟(律法)として実行しようとすると、不自由なことじゃが、お互いに愛に根差して行動するならば、必ず、真理への一致に到達できる恵みの事柄なのじゃ。
お互いにキリストの愛に根差して行動するならば、物理的には離れたとしても分裂し続けていることなく一枚岩の教会となるじゃろう。
そうなんですね! キリストの中での成長に応じて、愛することを学ばされます。
「異言」については、またの機会に詳しく。

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2020年4月 3日 (金)

信仰告白について ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

既に、家でトラクトに書いてあった通りに、イエス様を受け入れ信じる祈りをしていたのですが、教会の婦人会に行った時に話した後、そこにいた方たちが手を置いて祈ってくださいました。
牧師夫人に「私の後について言葉の通りに祈るように」と言われ、再び信じますという告白の祈りをしました。
牧師夫人が「今日、あなたはこの場でイエス・キリストを受け入れました。・・・」というようなことを言われたときに、既に信じていたつもりだったので、少し違うような気がしましたが、喜びのほうが強かったこともあり、まあいいかと思いました。
この場合、信じた日は、家で受け入れた日でしょうか? 牧師夫人が言われた教会で告白した日でしょうか?
このケースの場合、もちろん、家で受け入れた日じゃ。真剣に祈り受け入れた日であり、キリストと共に生きる決意をし、祈った日だからなぁ。
家で信じて受け入れた日でいいのですね。実は、疑問があって、後に尋ねてみたことがあって、その時に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)を根拠に「公に口で告白して救われる」のだと言われ、そんなものかなと流したことがありました。
ローマ人への手紙のこの個所の前後をよく理解していれば、適用の間違いがわかるだろう。この個所は、「神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ 10:3)神の民であったイスラエルに対して弟子たちを教えるために語られている言葉である。注意して読んでいけば、「信じる人はみな義と認められる」(ローマ 10:4)ということを教えるために語られた言葉だとわかるじゃろう。
「公に」と付け加えているが、教会の権威に縛ることにつながっていくので、注意が必要じゃな。だいいち、口で告白できない人も世の中にはいるのだから、文字通りではなく、聖書全体と神を知り神が意図する意味を判別することが大切な個所じゃな。
律法に生きるか、信仰に生きるかということは、キリストが戦われた最大の事柄じゃな、ふぉっふぉっふぉっ。
ありがとうございました!

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