00 コラム

2020年4月 2日 (木)

体験からの信仰

体験から入った信仰であっても、みことばだけで信じた信仰だったとしても、イエス・キリストを神として信じたならば、そこに優劣はない。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とイエスがトマスに言われているが、体験なしで信じれらるのは、すごい事だと思う。

が、体験しないと信じることができない弱さがある人間に、キリストはご自身を現わしてくださるお方でもある。
祈りがきかれた、霊的な不思議な体験をした、癒しを受けた・・・
体験は、信仰を強め、確信を持たせてくれるが、キリストでなくても、体験はできる。
人間的な思い込み、妄想ということもありうる。

それが、キリストかどうかという判別は、聖書に照らしてどうか、どのような実を結んでいるかに尽きる。
明らかにキリストとは違う実を結んでいるならば、それがどのように不思議なことであったとしても、その時その人の心が高揚していたとしても、イエス・キリストという名を使っていたとしても、聖書に現わされている神「イエス・キリスト」ではない。
が、オカルト的なものを見るあまりに、奇跡・癒し・不思議だからという理由ですべてを否定することもまた間違いであり、分裂の原因となる。
見分けるには、聖書の神を知ることである。知らずしては、異なる道に進んでしまう。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ 24:4,5)

あなたが経験した体験が、キリストの愛に立ち、キリストの似姿に通じる実を結ぶものでありますように! 

 

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2020年3月 5日 (木)

カルト化は社会問題

ハラスメントやいじめは、被害者にとっては心に刻み込まれる出来事ですが、人の心がよくわかっていない加害者によっては、記憶の彼方に葬り去り覚えてもいない出来事になっていることがあります。
これは些細な出来事だったから、というわけではありません。

いくら対話しても気付こうとしない加害者に対しては、社会的な対応をしつつ、被害者が出来ることは、これ以上の被害を受けないためにも法の裁きと神のさばきに委ねることです。
聖書が語る神は、公正に悪をさばかれるお方です。
神のさばきは、すべての人が神(神は愛である)を知るようになるという目的を持ったものです。
委ねようとしても、行き場のない苦しみがあるかもしれません。
そのことも、神はご存知です。
神だと思って違う方向を見ている被害者に対しては、神はあらゆる事を通して気付くのを待たれます。
初めに植え付けられた神知識は、誤っていても気づかないこともあり、一人では整理し切ることはできません。
完全な人はいないからです。
必ず主観が入ります。
独りよがりのまま、もしくは他の偏った知識で突っ走る事は、新たなカルトに向かうことになり、かつての被害者が、気付かないまま加害者になったり、異端的な違う宗教を産み出したりということだってあり得る行為です。

ここにカルト化対応の複雑さがあります。
誤ったアプローチによっては、カルト対策をしていたつもりで、拡散に協力していたということになりかねないということも絡んできます。

社会では、ようやく犯罪被害者支援が浸透してきましたが、キリスト教カルト化の被害者視点に立った支援はまだまだという状態です。
宗教という閉ざされた中だけでは、解決しない社会問題です。
弱っている時にやってくる「オレ神詐欺」は、すぐ隣にある問題です。

「オレ神詐欺」への正しい認識を持ち、被害を受けた人の置かれた苦しみを理解し、誰しもが安心して頼れる開かれたキリスト教会が増えることを願っています。

 

 

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