00 コラム

2020年11月18日 (水)

同調心理について

 1994年5月 日比谷公会堂で行なわれた「東京福音クルセード」という福音派の聖会にピーターワグナーとシンディ・ジェイコブスが来日し、超教派の聖会が開かれた。あれから30年弱が経過し、「レストレーション(後の雨運動)、第三の波」「リバイバル運動」「吟味なき霊的現象の歓迎」「オカルト的な霊的現象」「使徒職の回復」「新使徒運動」を歓迎する教会の中で、カルト化が見られるようになっていき、珍しくないほどにカルト化のことばが聞かれるようになった。そのような運動の中で、「悪霊の追い出し」を強調し、「霊の戦い」を重要視し、「土地の聖め」が必要だという教えが起こり、「オリーブ油等での聖め」をする信者たちが起こり、「四隅に杭を打っての祈り」や「戦いの天使ミカエルを呼び出す祈り」をする人たちも出てきて、中には、病人や弱っている人への暴力的な悪霊追い出しをしたり、素手で体内から悪霊をつかみだすというパフォーマンスをする牧師・伝道師を語る人たちも見られるようになっていった。

 世界の国民性を語るジョークというものを聞いたことがあるだろうか。沈没する豪華客船から客を海に飛び込ませるために、船長が放つ言葉として、国民性をよく現わしているジョークである。アメリカ人はヒーローになりたがる性質、日本人は周囲の皆に合わせる性質などをジョークにしているのだが、日本人の多くには、「皆さん、そうしてますよ。」と言われると、安心してしまうような性質がある。これは悪いことではなく、和を大事にし、協調性を美徳とする性質でもある。また、いろいろ外国の文化を取り入れ、うまく日本流に融合させ、独自の文化に定着させていくような面にも表れている。それはそれで、よいところである。が、周囲に合わせるという性質が、聖書の福音となると話は別である。

 「使徒職」への認識の差によって「油注ぎによる絶対的な権威」というものが教えられ、神への軽視による「個人的な口当たりの良い預言」を神からのものとし、「オカルト的な要素による悪霊との戦いでの勝利」をも信じることで、一般社会では「ハラスメント」としか言いようのない言動を、時には自己流のみことば解釈を用いてまでも正当化していくことが見られるようになり、正統と呼ばれていた教会の内部に融合されていくことによって※1、居場所をなくしていく信者たちが出てきた。
※1 もちろん、融和しない教会もあったが、それはそれで意図せずに閉鎖的になり、少しでも関係した者にとっては落ち着けず足を運べなくなる。

 キリストの愛とかけ離れた異質な教えが教会の内部に浸透してしまい、罪を正当化していくことを繰り返していくと、結果として「罪に麻痺していく」ことになる。社会組織の中でのハラスメントは、加害者と被害者双方への配慮と心理的な対応を要する難しい問題であるが、キリスト教のカルト化にみられるハラスメントには、そこに、「神」という絶対的な権威が絡むので、より難しくなっている。キリスト教のカルト化には、神の愛に反し、聖書基準ではなく指導者の気分による「悔い改めのない罪の赦し、罪の容認」が必ず存在している。結果、聖書の言わんとしている神の愛がわからないまま、信徒は指導者依存になっていく。

Triangle 左の図は、米国の組織犯罪研究者ドナルド・R・クレッシ―教授が提唱した不正の仕組みに関する理論を一般化した「不正のトライアングル」をカルト化への移行時の例に当てはめた図である。
この理論では、不正の共通の背景として、下記の3つの条件が存在するとされている。
 ① 不正を犯す動機の存在(不正を働こうとする動機があること)
 ② 倫理観の欠如および不正の正当化(不正を犯す気があること、不正を正当化する理由があること)
 ③ 不正を犯す機会があること(対策が不十分で不正を犯すことが可能な状態にあること)

そのため、「動機」「正当化」「機会」この3つの条件を満たさないように、事前に予防するためのリスク管理と早期に発見できるようなリスクへの対応を整備・運用することが組織としての不正対応の基本となる。

 リスクというものは、意識していないと見えないものである。見ようとしなければ見えないのである。結果が出た後では、被害も大きくなる。結果として表れる前に対策を取り、予防するためには、意識をもってリスクに対するアンテナを広げ、必要な感性を高めていく必要がある。何がリスクであるかを知り、リスクに対する感度(センシティビティ)を高めることである。

 逆に、リスク感度が低くなる要因が「同調」と「服従」であると言われている。「同調」とは、根拠がはっきりしていないのに、周囲の人や集団の意見や態度に合わせ、同じ行動を取ろうとする心の動きである。初めは違っていると思っていても同調していくうちに、その人の中では本当になっていってしまう。←麻痺 もう一つの要因「服従」とは圧力のもとで、不本意ながらも相手の指示に従ってしまう心の動きである。服従していくうちに、何も考えなくなって、従うことが定着してしまい、ついには、社会悪であっても従うようになっていく。

 日本人の美徳である国民性が、裏目に出ることのないよう、キリスト教においても、神任せではない人間側にできる責任としてのリスク管理を心掛けるシステム作りが必要である。

 

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2020年10月21日 (水)

聖書の訳について

聖書には、さまざまな訳がある。日本語だけを見ても、協会が訳したもの、個人が訳したもの、いろいろ出版されている。
聖書の原典は、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はコイネーギリシャ語で書かれている。
原語が母国語のように理解できるのが一番であるが、原語はある程度は学べるだろうが、残念なことに一般人には読むこともできない言葉である。
聖書を用意しようとするなら、教会での聖書の読み合わせのために、属した教会で使用している訳を使うのが一番だろう。教会に行っていないならば、一般書店に売っていて、現代の言葉で書かれた読みやすいものならば、問題はないだろう。但し、一部の団体だけで使っているような訳もあるので(例えば異端の訳)注意が必要である。

もともとの原語は、奥が深い豊かな意味を持つこともあり、一つの訳だけでなく、比較して理解を深めるのがよい。
かつて行った教会では、戦前から受け継がれてきた文語訳を使用していて、これが一番だと言われていて、厳粛な気持ちになり、味わい深い響きではあったが、現代人や若者には意味が伝わりにくく、古典文学のようだった。
それでも、教会に合わせて文語訳に変えたほうが良いのか悩み祈った時、「聖書の訳でどれが一番だとか競うのは、愚かなことである。一番というならば、ヘブル語とコイネーギリシャ語で読まなければいけなくなる。それでは読めないし、頑張って読めたとしても意味が分からないだろう。スッと心に入り、神を知ることが一番大事である。」と心に響く言葉があった。人が言うことに合わせて変えたほうがよいかという悩みは消えたのであった。
そのため、「現存の聖書では訳がよくないので、聖霊や天使から新しい訳の聖書を作れという啓示があった」と言われて大金を集めているというようなことを聞くと、惑わしの言葉に聞こえてくる。
いくつかの訳が補い合っているので、現存の聖書で理解するのに十分である。
なによりも大切なことは、聖書の神をゆがめずによく知ることである。

 

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2020年10月19日 (月)

霊の戦いについて

「霊の戦い」と聞くと、カルト化教会を通った人にとっては、それだけで拒否反応が起こるほどに、カルト化しやすい分野である。
それは、「霊の戦い」を強調する、悪い霊に打ち勝てる自分を誇示する人たちの結ぶ実によるものである。

聖書は、始まりの創世記からサタンが出現し、そこから完成のクライマックスの黙示録に至るまで、霊(信仰)の戦いが描かれている。
キリストも使徒たちも、病に命じ、異なる霊に叱りつけ立ち去らせている。「サタンよ、出ていけ!」「病よ、いやされよ!」「嵐よ、静まれ!」と命じることは聖書に書かれている行動なのである(マタイ4:10, マルコ1:25, 3:15, 5:8, 6:7, ルカ4:35, 8:29, 使徒16:18など)(マタイ 8:3, マルコ 9:25, ルカ 5:13)(ルカ 8:24-25)。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ 16:17,18)」
ともある。
では、どうしてキリスト教界内でも意見が分かれる問題となっているのか。

・霊の存在を信じない不信者にとっては、奇異に見える行為である。
・目に見えないことなので、本当に命じたことによるものなのかという証明ができない(たとえ、そのとおりのことが起こったとしてもいろいろな理由付けで否定できる信仰の世界の出来事である)。
   偶然だろう、思い込みだろう、人によるトリックだ・・・等
・命じている人たちのふるまい方
   自分がなした功績のようにふるまう、言動がキリストと同等になったかのように自分に権威付けしてしまう、他のクリスチャンとの差別化がある・・・等
・必要を見分けることなく、何でもかんでも命じてしまう。「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20:7)(しっかりとした聖書教育がなされずに実践している。)
   病人には誰にでも、自分に対して否定的な意見は悪霊の仕業にしてしまう・・・等
・キリストなる神よりも悪霊、サタンに目が行ってしまうことになる。

危ないからやめてしまうというのも、聖書的解決ではない。

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人をつまずかせないよう注意を払い、心の高慢に陥らないよう、キリストを見上げて、信仰の戦いをしていこう。神から出たか他から出た行為かは、誰の目にもはっきりとわかる時が来る。神を恐れつつ、神が導く人に仕えていこう。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」(マタイ 15:13,14)

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。・・・」(マルコ 9:38-42)

 

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2020年10月15日 (木)

消えたい思い

救いを求めて神のもとに来たはずなのに、クリスチャンになってうつ病になるという現象をみる。
心療内科や病院に行ったなら、「宗教をやめれば治るんだけどね」と言われたことがあると聞く。
なぜ、神の愛を説くキリスト教会でそのようなことが起こるのだろうか。

消えたいという思いはどこからきたか?
自分のいる場所から存在を消したい、消えてしまいたい、居場所がない、そういう様々な思いがあり、なぜそういう思いになったかは、人それぞれで、掘り下げて耳を傾けなければ本質はわからない。
いずれにしても、消えたいということは、その人にとって「その場からいなくなりたい」と思ってしまう要因が何かしらあるのだろう。
教会を訪れる人は、生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち、そういった要因によって培われてきたものを抱えて、主のもとにくるわけである。
それらは、クリスチャンになったからといって、変わるわけではない。キリストを知って、「生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち・・・」も主の計画があったことを知って、有益なものに変えられるのが理想である。
「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語り続けてくださっている主を知り、消えたい思いはなくなっていく。
ところが、互いの間に神の愛があるはずの主の集いの中で、福音は正しくても、偏見や疑いがあるとしたら、人前ではいくら言葉にしてなくとも、目は口ほどに物をいうというように、思いは伝わってしまうことだろう。
そうならないためにも、主の教会には、偽りのない交わり、キリストの愛を中心にしたコミュニケーションは欠かせない。
あなたを知りたいと思うことなしにキリストの愛の実践はない。言葉での確認、互いのコミュニケーションは大切である。

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否定的な思いは時に苦しみを招くが、それが自己防衛本能からくる思いだと気付いたならば、本能を与えてくださり、気付かせてくださった神に感謝しよう。気付きから、見えてくるものがある。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28) と言われたキリストは、私たちに安息を与え、平安と喜びで満たしてくださるお方である。あなたの仕えているキリストはどのキリストだろうか? 人の姿をとってこの世に来られるほどに私たちを愛してくださっているキリストか? 奴隷のように支配するキリストか? 聖書の神を正しく知っていこう。

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2020年6月15日 (月)

預言について

「聖書における預言は、聖霊によって示された神の啓示を意味する。新約聖書では,預言はすべてのキリスト者が求めるべき聖霊の賜物の一つに数えられている(Ⅰコリ14:1,5,39)。・・・旧約時代には、一般に預言者と言われる特定の人だけに預言の賜物が与えられたが、新約時代には、預言の霊はすべての人に約束され(ヨエ2:28‐29,使2:16‐18)、事実、教会の中にそのことが起った(使21:9,Ⅰコリ12‐14章)。」(新聖書辞典より)

「イエスのあかしは預言の霊です。」(ヨハネの黙示録 19:10)とあるが、預言というのは、イエス・キリストの証に結びついていくものである。
実現せずに、結果、イエス・キリストの証とならない実を結んだとしたら、それは神なる主が語られたものではない。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
いろいろ言い訳があるかもしれないが、語る人間は神ではない。誤って捉えることも、主観が入ることも、感情から自分を語ることもありうる。
「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリント14:29)とあるが、吟味する者が、同じ思想、同じ価値観の者だとしたら、あまり意味をなさない。大切なのは、聖書全般を知り、聖書が示している神によっての吟味である。

 語られた預言が信仰者にとって、信仰を送る上で励ましとなり、自分の足で神と共に信仰を歩む力となり、自分の内でキリストへの感謝として育んでいけば、成長と共に、それが神だったか明らかになっていくだろう。あなたに成る実がそれを証明する。
神の預言と言って語る人は、良くも悪くも人間である。一時的に神に用いられることもある。(Ⅰ列王記28章では、サウルへのみこころを語るために、神は霊媒師をも使って、サウルに真実を告げられた。)逆に、民数記22章のバラクのように、事実を語っていた者が神に反していくこともある。
神からの預言は、しがみつくものではなく、人間が実現に向けて頑張るものでもなく、信仰によって受け止め神を待ち望む信仰が練られていき、御霊の実を結ぶものである。

 

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【参考】新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

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2020年5月12日 (火)

伝道について

「伝道することとは,人々がキリスト・イエスによって神に信頼を置くように,また彼らの救い主として彼を受け入れるように,そして,彼の教会の交わりにおいて彼らの王として彼に仕えるように,聖霊の力によってキリスト・イエスを提示することである」(新キリスト教辞典より)

 異端で知られているとある団体では、聖書を引用して、2人ペアで各家庭を訪問して、その団体特有の聖書勉強会につなげている。

2人組というのは、マルコ6章7節、ルカ10章1節で、イエスさまが12弟子を世に遣わすときに用いられたスタイルである。
それを言葉通りに忠実に実行しているわけである。
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:9-12)とあるように、ふたりというのは知恵でもある。

但し、そのやり方を実行することによって、イエス・キリストが伝えられれば、である。 

みことばにあるから、聖書のことばを伝えているから、と同じことをただ真似しても、心の内が異なっていたなら、キリスト・イエスは伝わらない。 みことばは、律法の掟ではない。恵みとしてとらえた時に、神なるキリストが輝きを放つ。

「私は100人以上の人を救った。あなたは何人救った?」と聞かれたことがある。その人は、もともとコミュニケーション能力にたけている方だった。間違ってはいけない。神は、ロバの口を用いても(民数記2:28)、みこころをなされる方である。人が救われるのは、ご聖霊の働きであり、私たちはなすべきことをするだけである。
そして、どれだけ多くの人を救ったとしても、「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)ともみことばにあるが、重要なのは、後にどのような実が残るかである。

 人によって得意不得意は異なる。不得意なやり方を強要されるお方ではない。友なるキリストを紹介したい、伝えたいという思いをもって、自分に合ったスタイルで機会を用いて伝えればよいのである。
やり方によっては、キリスト・イエスではなく、伝道している自分を伝えていて、さらに、時代にそぐわないやり方次第では、伝道の妨げにもなりうるのである。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)とあるように、一番の伝道は「愛」であり、「愛」がなければ、本来のキリストは伝わらず、妨げにすらなってしまうのである。

キリストなる神を正しく知り、主の愛に立って、機会を用いて伝えていこう。祈りつつ種をまけば、ご聖霊が働いてくださる時が来る!

 

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2020年4月 2日 (木)

体験からの信仰

体験から入った信仰であっても、みことばだけで信じた信仰だったとしても、イエス・キリストを神として信じたならば、そこに優劣はない。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とイエスがトマスに言われているが、体験なしで信じれらるのは、すごい事だと思う。

が、体験しないと信じることができない弱さがある人間に、キリストはご自身を現わしてくださるお方でもある。
祈りがきかれた、霊的な不思議な体験をした、癒しを受けた・・・
体験は、信仰を強め、確信を持たせてくれるが、キリストでなくても、体験はできる。
人間的な思い込み、妄想ということもありうる。

それが、キリストかどうかという判別は、聖書に照らしてどうか、どのような実を結んでいるかに尽きる。
明らかにキリストとは違う実を結んでいるならば、それがどのように不思議なことであったとしても、その時その人の心が高揚していたとしても、イエス・キリストという名を使っていたとしても、聖書に現わされている神「イエス・キリスト」ではない。
が、オカルト的なものを見るあまりに、奇跡・癒し・不思議だからという理由ですべてを否定することもまた間違いであり、分裂の原因となる。
見分けるには、聖書の神を知ることである。知らずしては、異なる道に進んでしまう。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ 24:4,5)

あなたが経験した体験が、キリストの愛に立ち、キリストの似姿に通じる実を結ぶものでありますように! 

 

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2020年3月 5日 (木)

カルト化は社会問題

ハラスメントやいじめは、被害者にとっては心に刻み込まれる出来事ですが、人の心がよくわかっていない加害者によっては、記憶の彼方に葬り去り覚えてもいない出来事になっていることがあります。
これは些細な出来事だったから、というわけではありません。

いくら対話しても気付こうとしない加害者に対しては、社会的な対応をしつつ、被害者が出来ることは、これ以上の被害を受けないためにも法の裁きと神のさばきに委ねることです。
聖書が語る神は、公正に悪をさばかれるお方です。
神のさばきは、すべての人が神(神は愛である)を知るようになるという目的を持ったものです。
委ねようとしても、行き場のない苦しみがあるかもしれません。
そのことも、神はご存知です。
神だと思って違う方向を見ている被害者に対しては、神はあらゆる事を通して気付くのを待たれます。
初めに植え付けられた神知識は、誤っていても気づかないこともあり、一人では整理し切ることはできません。
完全な人はいないからです。
必ず主観が入ります。
独りよがりのまま、もしくは他の偏った知識で突っ走る事は、新たなカルトに向かうことになり、かつての被害者が、気付かないまま加害者になったり、異端的な違う宗教を産み出したりということだってあり得る行為です。

ここにカルト化対応の複雑さがあります。
誤ったアプローチによっては、カルト対策をしていたつもりで、拡散に協力していたということになりかねないということも絡んできます。

社会では、ようやく犯罪被害者支援が浸透してきましたが、キリスト教カルト化の被害者視点に立った支援はまだまだという状態です。
宗教という閉ざされた中だけでは、解決しない社会問題です。
弱っている時にやってくる「オレ神詐欺」は、すぐ隣にある問題です。

「オレ神詐欺」への正しい認識を持ち、被害を受けた人の置かれた苦しみを理解し、誰しもが安心して頼れる開かれたキリスト教会が増えることを願っています。

 

 

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2017年4月17日 (月)

666の数

「ヨハネの黙示録注解 恵みがすべてに」(いのちのことば社発行 岡山 英雄著)は、黙示録を理解するのにとても役立った。
やはり、聖書は恵みに恵みを増し加える書物である。

聖書の中でもヨハネの黙示録は、聖書の集大成であり、創世記から旧約、新約時代をまとめ上げて、暗闇の世の中であっても主の光を反映しつつ歩むよう励ましを与えるために書かれている。
聖書全体を矛盾なく、調和を持って描かれていることを知り、改めて驚かされた。

落ち穂の会の礼拝では、昨年、黙示録を22週かけて1章ずつを丁寧に学んだ。

近年、誤った聖書概念で、666(獣のしるし)を受けないようにと、人々を恐怖に陥れるような教えが見られる。(ローマ 8:15)
確かにヨハネの黙示録には、世の終わりに、右の手か額に獣の刻印(666)を受けさせるような世の中になることが記されている。(3:16)
そして、「また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」(3:17)とある。
これを文字通り受け止めて、666の数字がついたコードを右の手か額に埋め込まれるから、拒否して備えないといけないとする教えがもう何年も前から横行している。
最近、ますます語られているように見受けられる。

ヨハネの黙示録では、「ここに知恵がある。」(3:17)と『知恵』に目を留めさせて「思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」と666の数字が語られている。
正統なキリスト教では、この数は他の聖書箇所でもあるように、象徴的な数字だと解釈する。

理由は…
7章では神のしもべたちに神の印が額に押されるが、実際に目に見える形で押されるわけではない。
ヘブル語を数値化すると、キリストは888になるというが、888のコードを印として実際に押されるわけではない。
神の印が目に見えない霊的なものであるように、獣の印も霊的なものである。
(聖書で6は完全数7から1足りない人間を象徴する。666はそれを完全数の3並べた数である)

獣の印とは…
獣というのは、罪がわからず欲のままに生きる。他人の迷惑を顧みず、自分の存在を誇示する。
神への賛美をしても絶えずその前面に「私の」「私に」「私が」…と出ていたバビロンの王ネブカデネザルのように。(ダニエル 2,3章)
金の欲、暮らし向きの自慢などに注目させる。(Ⅰヨハネ 2:16)

獣に仕えだすと、欲に仕えるようになり、罪を容認し、自己顕示するようになる。
それが、思想(額)や行動(右の手)に現れる。(詩編26:10)

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神の三位一体(父・御子・御霊)を真似るように、悪の三位一体がある。竜・獣・偽預言者である。
時には神のように見えるかもしれないが、そこには真実への愛はない。
悪の三位一体は神の真理を知っていて、偽物にすり替える。99%正しいようなことを言っていても、行きつく先を変えてしまう。
大きなしるしや不思議なことをして選民をも惑わそうとする(マタイ 24:24)者たちからのマインドコントロールに陥らないためには、実を見て神にあって自分で判断していくことが大切である。

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2015年4月15日 (水)

魔術師シモン

 使徒の働き8章に、魔術師シモンのキリスト教徒への改宗の記事が描かれている。

8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。
8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
8:20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
8:25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。

 このシモン・マゴスは、以前から魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。(使徒 8:9) サマリヤの群衆は、ピリポの行なうしるし(癒しや奇跡)を見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。(使徒 8:6)
ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じたサマリヤの人々は、男も女もバプテスマを受けた。(使徒 8:12)
シモン・マゴス自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。(使徒 8:13)

 ここまでは、まだよかったかもしれない。
ある日、信じたサマリヤの人たちのもとに、エルサレムから使徒ペテロとヨハネが送られた。
ペテロとヨハネが、サマリヤの信者たちに、聖霊を受けるように祈り、手を置くと、サマリヤの信者たちは聖霊を受けた(感覚だけではなく、他の人たちの目にみえる現象があった)。
今まで見たことのない現象を見たシモン・マゴスは(しるしやある程度の奇蹟は魔術にもあっただろうが)、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。(使徒 8:18,19)
この後、シモン・マゴスは、お金で聖霊の賜物を買おうとしたことで、ペテロの叱責を受け、「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」と懇願した(使徒 8:18-24)。

 シモン・マゴスについて、聖書は、ここまでしか書いていない。
ただ、「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後…」(使徒 8:25)と使徒たちが主をあかししていったということだけが書かれている。
罪について甘く見てしまうなら、ペテロの言った「この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」(使徒8:22)という言葉をもって、この後、シモンは悔い改めて信仰を送った、めでたし、めでたしとしたいところである。

 しかし、その後、シモン・マゴスは真理から外れてしまったのである。
「彼は、必ずしも、完全なグノーシス主義ではなかったが、 教父たちはシモン・マゴスを異端の父、いくつかのグノーシス主義の産みの親、初めてグノーシス主義の要素をキリスト教に結びつけた人物とみなしている。 彼は、「偉大な啓示」というグノーシス主義の文書の著者とされている。シモン・マゴスは、サマリヤ人のメシアになったのみでなく、シモンは第一の神、 あるいは至高神と自称しさえしたという。シモン・マゴスが起こした宗派(セクト)の一つはシモン派と呼ばれ、世界を救うためにシモンはこの世に来た、と主張した。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 39-40頁)

 ※ キリスト以前からあり、キリスト教にも取り入れられた異端に、グノーシス主義があった。 これは、「ギリシア、ユダヤ、オリエントの思想を吸収したもので、物質界は悪であるので、善なる神が物質界を創造したことはありえない、 堕落した霊的存在であるソフィア(知恵)の子供が物質界を造ったのである。そして、救いは、信仰と愛だけで得られるのではなく、 哲学的知識や直感、魔術的儀式や教え、秘密の知識の伝授によって得られる。」というものである。

 改めて、シモンの懇願のことばをよく見てみよう。「私に起こらないように」「私のために」自己中心の内容である。しかし「自己中心→神のみこころに」というのは、信じた誰もが通る聖別の道であり、聖められる可能性もある。そのため、ペテロは助言している。が、彼は、結局、主というお方を知ることができずに、真理から外れてしまったのであった。
 シモン・マゴスのように、キリストを信じても、悔い改めに向かわず、欲に支配されるなら、主ご自身を否定する異端を生み出す危険がある。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ 2:1-3)

 「キリスト教異端派の創始者には、どれほど小さい宗派(セクト)でも必ず、正しいのは自分であり、既成の教会は、 誤っていることを時が証明するであろうという同じ期待がある。」(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 20頁)

 聖書にも、異端的教えは見られる。
割礼や律法に従うことも強いずに、異邦人キリスト教徒を受け入れていたパウロに反論して、ユダヤ人キリスト教徒は、「割礼と律法の遵守を行わなければ、救われない。」という主張を立てた。 これが、激しい論争となったので、エルサレム会議を開き、『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。』」(使徒 15:28,29)という決定を下した。
 このユダヤ人キリスト教徒の系統は、パウロの死後数世代間、4世紀か5世紀に至るまで、教会内部の少数の異端者として存続していた。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 29頁)

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