00 コラム

2020年6月15日 (月)

預言について

「聖書における預言は、聖霊によって示された神の啓示を意味する。新約聖書では,預言はすべてのキリスト者が求めるべき聖霊の賜物の一つに数えられている(Ⅰコリ14:1,5,39)。・・・旧約時代には、一般に預言者と言われる特定の人だけに預言の賜物が与えられたが、新約時代には、預言の霊はすべての人に約束され(ヨエ2:28‐29,使2:16‐18)、事実、教会の中にそのことが起った(使21:9,Ⅰコリ12‐14章)。」(新聖書辞典より)

「イエスのあかしは預言の霊です。」(ヨハネの黙示録 19:10)とあるが、預言というのは、イエス・キリストの証に結びついていくものである。
実現せずに、結果、イエス・キリストの証とならない実を結んだとしたら、それは神なる主が語られたものではない。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
いろいろ言い訳があるかもしれないが、語る人間は神ではない。誤って捉えることも、主観が入ることも、感情から自分を語ることもありうる。
「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリント14:29)とあるが、吟味する者が、同じ思想、同じ価値観の者だとしたら、あまり意味をなさない。大切なのは、聖書全般を知り、聖書が示している神によっての吟味である。

 語られた預言が信仰者にとって、信仰を送る上で励ましとなり、自分の足で神と共に信仰を歩む力となり、自分の内でキリストへの感謝として育んでいけば、成長と共に、それが神だったか明らかになっていくだろう。あなたに成る実がそれを証明する。
神の預言と言って語る人は、良くも悪くも人間である。一時的に神に用いられることもある。(Ⅰ列王記28章では、サウルへのみこころを語るために、神は霊媒師をも使って、サウルに真実を告げられた。)逆に、民数記22章のバラクのように、事実を語っていた者が神に反していくこともある。
神からの預言は、しがみつくものではなく、人間が実現に向けて頑張るものでもなく、信仰によって受け止め神を待ち望む信仰が練られていき、御霊の実を結ぶものである。

 

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【参考】新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

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2020年5月12日 (火)

伝道について

「伝道することとは,人々がキリスト・イエスによって神に信頼を置くように,また彼らの救い主として彼を受け入れるように,そして,彼の教会の交わりにおいて彼らの王として彼に仕えるように,聖霊の力によってキリスト・イエスを提示することである」(新キリスト教辞典より)

 異端で知られているとある団体では、聖書を引用して、2人ペアで各家庭を訪問して、その団体特有の聖書勉強会につなげている。

2人組というのは、マルコ6章7節、ルカ10章1節で、イエスさまが12弟子を世に遣わすときに用いられたスタイルである。
それを言葉通りに忠実に実行しているわけである。
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:9-12)とあるように、ふたりというのは知恵でもある。

但し、そのやり方を実行することによって、イエス・キリストが伝えられれば、である。 

みことばにあるから、聖書のことばを伝えているから、と同じことをただ真似しても、心の内が異なっていたなら、キリスト・イエスは伝わらない。 みことばは、律法の掟ではない。恵みとしてとらえた時に、神なるキリストが輝きを放つ。

「私は100人以上の人を救った。あなたは何人救った?」と聞かれたことがある。その人は、もともとコミュニケーション能力にたけている方だった。間違ってはいけない。神は、ロバの口を用いても(民数記2:28)、みこころをなされる方である。人が救われるのは、ご聖霊の働きであり、私たちはなすべきことをするだけである。
そして、どれだけ多くの人を救ったとしても、「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)ともみことばにあるが、重要なのは、後にどのような実が残るかである。

 人によって得意不得意は異なる。不得意なやり方を強要されるお方ではない。友なるキリストを紹介したい、伝えたいという思いをもって、自分に合ったスタイルで機会を用いて伝えればよいのである。
やり方によっては、キリスト・イエスではなく、伝道している自分を伝えていて、さらに、時代にそぐわないやり方次第では、伝道の妨げにもなりうるのである。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)とあるように、一番の伝道は「愛」であり、「愛」がなければ、本来のキリストは伝わらず、妨げにすらなってしまうのである。

キリストなる神を正しく知り、主の愛に立って、機会を用いて伝えていこう。祈りつつ種をまけば、ご聖霊が働いてくださる時が来る!

 

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2020年4月 2日 (木)

体験からの信仰

体験から入った信仰であっても、みことばだけで信じた信仰だったとしても、イエス・キリストを神として信じたならば、そこに優劣はない。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とイエスがトマスに言われているが、体験なしで信じれらるのは、すごい事だと思う。

が、体験しないと信じることができない弱さがある人間に、キリストはご自身を現わしてくださるお方でもある。
祈りがきかれた、霊的な不思議な体験をした、癒しを受けた・・・
体験は、信仰を強め、確信を持たせてくれるが、キリストでなくても、体験はできる。
人間的な思い込み、妄想ということもありうる。

それが、キリストかどうかという判別は、聖書に照らしてどうか、どのような実を結んでいるかに尽きる。
明らかにキリストとは違う実を結んでいるならば、それがどのように不思議なことであったとしても、その時その人の心が高揚していたとしても、イエス・キリストという名を使っていたとしても、聖書に現わされている神「イエス・キリスト」ではない。
が、オカルト的なものを見るあまりに、奇跡・癒し・不思議だからという理由ですべてを否定することもまた間違いであり、分裂の原因となる。
見分けるには、聖書の神を知ることである。知らずしては、異なる道に進んでしまう。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ 24:4,5)

あなたが経験した体験が、キリストの愛に立ち、キリストの似姿に通じる実を結ぶものでありますように! 

 

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2020年3月 5日 (木)

カルト化は社会問題

ハラスメントやいじめは、被害者にとっては心に刻み込まれる出来事ですが、人の心がよくわかっていない加害者によっては、記憶の彼方に葬り去り覚えてもいない出来事になっていることがあります。
これは些細な出来事だったから、というわけではありません。

いくら対話しても気付こうとしない加害者に対しては、社会的な対応をしつつ、被害者が出来ることは、これ以上の被害を受けないためにも法の裁きと神のさばきに委ねることです。
聖書が語る神は、公正に悪をさばかれるお方です。
神のさばきは、すべての人が神(神は愛である)を知るようになるという目的を持ったものです。
委ねようとしても、行き場のない苦しみがあるかもしれません。
そのことも、神はご存知です。
神だと思って違う方向を見ている被害者に対しては、神はあらゆる事を通して気付くのを待たれます。
初めに植え付けられた神知識は、誤っていても気づかないこともあり、一人では整理し切ることはできません。
完全な人はいないからです。
必ず主観が入ります。
独りよがりのまま、もしくは他の偏った知識で突っ走る事は、新たなカルトに向かうことになり、かつての被害者が、気付かないまま加害者になったり、異端的な違う宗教を産み出したりということだってあり得る行為です。

ここにカルト化対応の複雑さがあります。
誤ったアプローチによっては、カルト対策をしていたつもりで、拡散に協力していたということになりかねないということも絡んできます。

社会では、ようやく犯罪被害者支援が浸透してきましたが、キリスト教カルト化の被害者視点に立った支援はまだまだという状態です。
宗教という閉ざされた中だけでは、解決しない社会問題です。
弱っている時にやってくる「オレ神詐欺」は、すぐ隣にある問題です。

「オレ神詐欺」への正しい認識を持ち、被害を受けた人の置かれた苦しみを理解し、誰しもが安心して頼れる開かれたキリスト教会が増えることを願っています。

 

 

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