00 主題からの学び

2003年2月20日 (木)

主題からの学び「愛Ⅱ」

目標とする愛、偽善ではない愛とは(続き)
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:22,23)
  御霊の実
  「しかし、神の人よ。あなたは、これらのこと(金銭を愛すること)を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」(Ⅰテモテ 6:11)

「全く低い心〈謙そん〉と柔和〈無私、寛大、温和〉をもって、また忍耐をもって、さらにまた、あなたがたは互いに愛し合っているのですから、互いに忍び合い〈人をいれ〉、忍耐をもって〔あなたがたに似つかわしく生活しなさい〕。平和の結び合わせる力をもって、み霊〔がつくり出してくださった、み霊〕の調和〈一致〉を守る〈保つ〉ことに、熱心になり〈真剣に努力し〉なさい。」(エペソ 4:2,3〈詳訳〉)
  互いに忍び合い、受け入れ、忍耐をもって、一致を保つことに、熱心に努力すること。
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:12-14)
  互いに忍び合い、赦し合う。その上から、愛の帯で結ばないと、バラバラになってしまう。愛は結びの帯として、完全なものである。
「あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(Ⅰテモテ 1:4,5)
  異なる教えから守る愛。
「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ 5:19,20)
  真理から迷い出た者への愛。
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ 3:14-18)
  いのちを捨てるべきだと言っても、そうそうできるものではない。そのような愛は、自分はそのような愛がないなあと目指して、あわれみを示していくところに、形成されるものである。ことばや口さきだけでなく、行ないと真実をもった愛。

「そして私たちは、神が私たちに対していだいておられる愛を知り〈観察と経験によって、理解し、認め、意識し〉、また信じて〈心服し、信仰を置き、より頼んで〉います。神は愛です。そして愛のうちに住む〈愛のうちに住み続ける〉者は、神のうちに住み〈神のうちに住み続け〉、神もまた彼のうちに住んでおられます〈彼のうちに住み続けられます〉。この〔神との一致と交わりによって〕愛が私たちに完成され〈完全になり〉ました。それは私たちがさばきの日に対して確信を持つ〈確信と大胆さをもってみ前に出る〉ことができるためです。というのは、私たちはこの世においては彼と同じようであるからです。愛のうちには恐れがありません〈恐怖は存在しません〉。かえって十分に成長した〈完成した、完全な〉愛は恐れを追い出してしまいます〈恐れを全く追放してしまいます〉。というのは、恐れには刑罰という思想が伴うからです。〔それで〕恐れる者は、まだ愛が十分成長を遂げていないのです〈まだ成長して愛の全き完成に、はいっていないのです〉。私たちは彼を愛しています。彼がまず私たちを愛してくださったからです。もしだれかが、『私は神を愛している』と言いながら、〔キリストにある〕自分の兄弟を憎んでいる〈ひどくきらい、嫌悪している〉ならば、その人は偽り者です。というのは、現に見ている自分の兄弟を愛さない者が、目に見えない神を愛することはできないからです。神を愛する者は、また自分の兄弟〈信者〉をも愛すべきです。この戒め〈義務、命令、指示〉を私たちは彼から受けているのです。」(Ⅰヨハネ 4:16-21〈詳訳〉)
  愛には、恐れがない。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ 5:1-3)
  重荷とはならない神の命令、この命令を守ること。
「それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(Ⅱヨハネ 5,6)
  愛のうちを歩むこと
 
なぜ、愛せよと、命じられているか。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)
  私たちのイエスさまへの愛を、信じてくださっているから。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ 14:23,24)
  イエスを愛するなら、イエスの言われた(命じた)ことを守るはずだから。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ 15:9-11)
  私たちが、イエスの喜びに満たされるため。
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(Ⅰペテロ 1:22)
  真理に従うことによって、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのだから。
「祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」(Ⅰペテロ 4:7-9)
  多くの罪をおおうから。罪人である私たちは、互いの愛によって、罪が赦されていることを体感し、イエスさまに罪を赦されたもの同士としての交わりの中で、喜びに満たされるのである。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34,35)
「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(Ⅰヨハネ 2:5)
「これが神の命令〈戒め、指示〉です。すなわち、私たちがみ子イエス・キリスト〈メシヤ〉のみ名を信じ〈信仰し、信頼し、心服し、より頼み〉、彼が私たちに命ぜられたように、私たちが互いに愛し合うべきであるということです。」(Ⅰヨハネの手紙 3:23〈詳訳〉)
  イエスの弟子であることを、すべての人が認めるため。
「愛する者たちよ、私たちは互いに愛し合おうではありませんか。というのは、愛は神から〔出ているから〕です。そして〔同心の友を〕愛する者は、神を父として生まれた〈神から生まれた〉者であって、〈ますます〉神を知る〈理解する〉《神を認め、また認識し、彼についてのさらにすぐれた、また明りょうな知識を得る》ようになります。愛さない者は神を親しく知ってはいません〈彼を知らないし、また決して知ったのではありません〉。というのは、神は愛だからです。神はそのみ子、ひとり子〈独特の〔み子〕〉をこの世につかわされました。それは彼によって私たちが生きるためです。ここに私たちに対する神の愛が明らかにされ〈明らかに示され〉たのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためになだめの供え物〈贖いの犠牲〉としてみ子をつかわれました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこれほど〔までに〕私たちを愛してくださったのだとすれば、私たちもまた当然互いに愛し合うべきです。だれも〔いまだかつて〕一度も神を見たことはありません。しかし、私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちのうちに住み〈生き、そしてとどまり〉、また神の愛〔本質的に神のものであるあの愛〕が私たちのうちに完成されます〈十分成長した状態になります、全行程を走り終えます、全うされます〉。」(Ⅰヨハネ 4:7-13〈詳訳〉)
  愛は神から出ているから。
 
私たちの愛と神の愛
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。・・・自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。・・・それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。・・・あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」(ヤコブ 2:8-20)
  愛するとは、律法的に行なうものではない。その人の自由意志によって、心から、イエスを見上げて、自分なりの精一杯の愛で、愛することである。見上げたそのイエスの愛によって、また、信仰によって、完成化していくものである。神については、悪霊どもも、知識においては、私たちよりよほどよく知っている。彼らにないのは、愛と愛による行ないである。

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛します()か。』ペテロはイエスに言った。『「はい。主よ。私があなたを愛する()ことは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します()か。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛する()ことは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します()か。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛します()か。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛すること()を知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ 21:15-17)
  精一杯の愛()で、主イエスに、ついていくことが、大切。

 

|

2003年2月 6日 (木)

主題からの学び「愛Ⅰ」

愛は、聖書の集約である。
「『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ 22:36-40)
「『すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。』イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」」(マルコ 12:28-31)
「「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」」(ルカ 10:27,28)

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記 6:5)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ 19:18)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)
「律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 9:21,22)
  キリストの律法とは、自由の律法であり、愛の律法である。

「だれに対しても負債がないようにしなさい〈何も借りがあってはいけません〉。ただし、お互いに愛し合うことのほかは、です。というのは、隣人を愛する人〈他人を愛することを実行する人〉は〔人間同士の関係に関する〕律法の全要求を満たしてその律法を完全に守った人だからです。姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、むさぼっては〈よこしまな欲望をいだいては〉いけない、という戒めと、そのほかのどんな戒めも、隣人を自分のように愛しなさい、というこの命令一つに要約されるのです。愛は隣人に害を与えません〈決してだれをも傷つけることをしません〉。だから愛は律法の全要求を満たす〈律法を完全に守ることな〉のです。」(ローマ 13:8-10〈詳訳〉)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」(箴言 27:5)
  愛は、(最終的には)決してだれをも傷つけることをしない。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ 5:13-15)
 
愛の性質、特性
(愛する、神の愛)    (好きである、愛する、好む、自分を愛する愛、利己的な愛)
エロス(性愛)          聖書の掲げる愛は、
「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言 10:12)
「エルサレムの娘たち。私は・・・あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7,3:5,8:4)
  他からせかされて持つものではなく、おのずと目ざめるもの。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Ⅰコリント 8:1)
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント 13:1-8)
  決して絶えることがない。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント 13:13,14:1)
  いつまでも残り、一番すぐれているもの。
 
目標とする愛、偽善ではない愛とは
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」(伝道者 3:1-8)
  相手の心が開かれるのを待つ愛。愛の押し売りをしない愛。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ 5:434-48)
  迫害する敵のために祝福を祈る愛。
「しかし、〈心に留めようとして〉今耳を傾けているあなたたちに言うが、あなたたちの敵を愛〈することを習慣と〉しなさい。またあなたたちを忌みきらう者〈憎しみをもってあなたたちを追求する者〉に親切を尽くしなさい〈よくしてやり、りっぱに応対しなさい〉。あなたたちをのろっている者の祝福を祈り求め〈幸福を祈り〉、あなたたちをはずかしめている者〈ののしり、とがめ、誹謗し、脅かしている者〉に神の祝福〈愛顧〉を願い求めなさい。あなたのほお〈上あご〉を打つ者には、ほかのほお〈上あご〉をも差し出し、あなたの上着を奪う者には、下着をも拒んではいけない。〔必要があって〕あなたたちに請い求める者には、だれにでも与えてやり、あなたたちの持ち物を奪い去る者には、返すことを求めて〈要求して〉はいけない。人にしてもらいたいとあなたたちが思う〈望む〉ように、そのとおり人にしなさい。あなたたちが自分を愛する者を愛する〔だけ〕ならば、どのような誉れ〈感謝〉があろうか。〔全くの〕罪人でさえ、彼らの愛する者〈彼らを愛してくれる者〉を愛するからである。あなたたちに親切にする者〈よくする者〈愛顧を示す者〈利益を与える者〉に親切にする〈よくする〈愛顧を示す〈利益を与える〉のならば、どのような誉れ〈感謝〉があろうか。とりわけ罪深い者でさえ、そのようにしているからである。返してもらえると思う者に利息つきで金を貸すのであれば、どのような誉れ〈感謝〉があろうか。 
評判の高い罪びとでさえ、金額を取り戻すつもりで、〔同じ〕罪びとに利息つきで貸すからである。しかし、あなたたちの敵を愛し、人に親切にし〈よくしてやり〈愛顧を示し、だれかが彼らから益を受けるようにしてやり〉、返してもらうことを当てにしないで〈望まないで〈損をしてしまったなどと思わず〈だれにも失望せずに〉、貸してやりなさい。そうすれば、あなたたちは大きな〈豊かな、厚い、ねんごろな、有り余るほどの〉報い〈報酬〉を受け、いとも高いかたの子となる。いとも高いかたは、恩知らずの者〈利己主義者〉にも悪人にも、親切で〈慈悲深く〈寛大で〉あられるからである。あなたたちのみ父があわれみ深く〈同情深く、優しく、物わかりがよく、情け深く〉あられるように、あなたたちもあわれみ深く〈同情深く、優しく、物わかりがよく、情け深く〉ありなさい。」(ルカ 6:27-36〈詳訳〉)

  ① 敵を愛することを習慣にする
  ② 憎しみをぶつけてくる者に、親切によくしてやる。
  ③ のろう者に祝福(幸福)を祈り求める。
  ④ ののしりはずかしめてくる者に、神の祝福を願い求める。
  ⑤ ほおを打つ者に、他のほおを差し出す。
  ⑥ 上着を奪う者に、下着をも拒まない。
  ⑦ 必要があって、請い求める者には、だれにでも、与える。
  ⑧ 持ち物を奪い去る者には、返すことを要求しない。
  ⑨ 人にしてもらいたいと思うとおりに、人にする。
  あわれみ深く(同情深く、優しく、物わかりがよく、情け深く)あること
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ 15:12-14)
「こういうわけで、あなたがたは、正しく愛されている子どもたち〔が、彼らの父を見ならう〕ように、神を見ならう者になりなさい〈神を模倣し《神の規範に従い》なさい〉。また、キリストが私たちを〈あなたがたを〉愛して私たちのために〈あなたがたのために〉ご自身をささげて神に対する〔あなたがたのための〕ほふられた供え物、犠牲となられ、〔それが〕こうばしいかおり〔となったように〕、あなたがたも愛のうちを歩みなさい〈互いに尊敬し合い、喜び合いなさい〉。」(エペソ 5:1,2〈詳訳〉)
イエスが愛してくださったように、兄弟が互いに愛すること。
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ 15:17)
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(ローマ 12:9,10)
「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも省みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(ピリピ 2:1-5)
  偽りのない愛。
  へりくだって、互いに人を自分よりまさっていると思う。
「いっさいのことを愛をもって行ないなさい。」(Ⅰコリント 16:14)
  すべてのことを愛で行なえ。
「兄弟愛をいつも持っていなさい。」(ヘブル 13:1)
  いつも兄弟愛を持て。

「愛Ⅱ」に続く

|

2003年1月 9日 (木)

主題からの学び「罪とさばき」

罪の理解
「これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」(民数記 35:29)
  聖書は、神のことばであり、教科書(教えの書)でもある。
  世のさばきに、六法全書があるが、神のさばきには、聖書がある。
  神のさばきは、神のご性質である愛に基づいたものである。
 
人をさばくことの禁止
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目かも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ 7:1-5)
「〔人を〕さばいてはいけない。〈さばきを宣告したり、非難を浴びせたりしてはいけない〉。そうすれば、あなたたちもさばかれない。〔人を〕罰して〈罪に定めて〉はいけない。そうすれば、あなたたちも罰せられない〈罪に定められない〉。免除して〈赦して〈釈放して〉やりなさい〈憤ることをやめ、憤りをしずめなさい〉。そうすれば、あなたたちも免除される〈赦される〈釈放される〉。」(ルカ 6:37<詳訳>)
  ここでいう「さばく」は、「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」であって、「罪への指摘や忠告のこと」ではない。
  愛から出た「罪への指摘や忠告」は、神の国を治めるために、必要なことである。
  「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)

「そういうわけで、ほかの人をさばく〈罪に定める〉人よ。あなたは、たといあなたがだれであろうと、どのような言い開き〈弁明〈正当化〉もできません。というのは、ほかの人に対して審判者としてふるまう〈判決を下す〉ことによって、自分自身を罪に定めているからです。なぜなら、さばくあなたが〔自分でとがめてその非を鳴らしている〕その同じ事を常習的に行っているからです。〔しかし〕私たちは、そのようなことを行なう人々には神の審判〈有罪判決〈有罪宣告〉が、正しく〈真理にかなって〉、下ることを知っています。それなのに、ああ人よ、あなたはそのようなことを行う人々をさばいて〈罪に定めて〉しかも自分自身がそれを行なうとき、自分は神の審判をのがれる〈神による有罪宣告、有罪判決を免れる〉と考える〈思う〉のですか。あなたは神の情けと寛容と強い忍耐との豊かなことを軽々しく取り扱う〈それにつけ込む〈過小評価する〉〔ようにそれほどに盲目になっている〕のですか。あなたは、神がその情けをもってあなたを悔い改め〈すなわち、神のみこころを受け入れるために心と内なる人を変えること〉に導こうとしておられる〔事実に〕無とんちゃくなのですか〈ほんとうに無知なのですか〉。ところが実は、あなたは、自分の無感覚ながんこさを悔い改めない心によって、神の正しい審判〈正当な断罪の宣告〉の現れるあの怒り〈憤り〉の日のために、み怒り〈憤り〉を自分のために積み重ねているのです。なぜなら、神はだれにでも、その行いに応じて〈公正に、行いの値するとおりに〉報いを与えられるからです。」(ローマ 2:1-6<詳訳>)
  人を「さばく(告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること)」という罪からの悔い改めの促し。
「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。」(ローマ 5:16)
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙8:1)
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ 8:33-34)
  神のさばきは、恵みあるさばき。
「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。…一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(Ⅰコリント 4:3-6)
  「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」をするのは、主である。

 ex. 「しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(Ⅱペテロ 2:16)

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(Ⅰテモテ 5:24,25)
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ 13:1,2)
 
弱い信者への寛容とあわれみの勧め
「弱い信者というべき人について言えば、彼を〔あなたがたの交わりの中に〕喜んで迎え入れなさい。彼の考えを批評する〈彼の良心のとがめに対して判決を下す〈論議をもって彼を悩ます〉ことにならないようにしなさい。」(ローマ 14:1<詳訳>)
「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には彼を立たせることができるからです。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ 14:4,5)
「私たちのうちだれひとり自分のために生きる者はなく〔生きるのは主のためであり〕、まただれひとり自分のために死ぬ者はなく〔死ぬのは主のためです〕。というわけは、私たちは、生きるのは主のために生きるのであり、死ぬのは主のために死ぬのだからです。ですから私たちは、生きても、死んでも、主のものなのです。なぜなら、キリストが死んでまたよみがえられたのは、死んだ者と生きている者のどちらにも主となるという目的をもってでした。あなたはどうして自分の兄弟を批評するのですか〈彼に対して判決を下すのですか〉。またあなたはどうして自分の兄弟を見下す〈軽べつする〉のですか。私たちはみな神の審判の座の前に立つべき者ではありませんか。なぜなら〔聖書に〕しるされています、『主は言われる、私は生きている。すべてのひざが私の前にかがみ、すべての舌が神に向かって告白する〈神を認めて崇め賛美する〉』。それで私たちはそれぞれ神に対して自分自身の申し開き〈さばきの場合の答弁〉を必ずするのです。だから私たちは、もうお互いに批評する〈非難する〈判決を下す〉ことをしないで、むしろ兄弟に対して妨げとなるつまずきの石〈障害物〈妨害物〉を置かないことに決めましょう〈努めましょう〉。」(ローマ 14:7-13<詳訳>)
  兄弟をつまずかせることに対する注意(「つまずき」については、次の機会に)。
 
罪を犯している兄弟を戒める(責める)役割
「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、きこえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ  59:1,2)
罪は、神との隔てとなる。
「気をつけなさい〈いつも自分で注意していなさい〈互いに見張っていなさい〉。もしあなたの兄弟が罪を犯し〈的をはずし〉たならば、彼にまじめに話し〈彼を戒め〉、悔い改めたならば〈罪を犯したことを悔いていたら〉、赦しなさい。」(ルカ 17:3<詳訳>)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(ガラテヤ 6:1)
「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。」(Ⅱコリント 5:10,11)
「罪を犯している〈犯し続けている〉者たちには、みなの前で叱責〈訓戒〉を与えなさい。それは、他の者たちが戒めを受けて、益になる畏敬〈おそれ〉をいだくためです。私は、神とキリスト・イエスとまた、選ばれたみ使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。個人的な先入観〈偏愛〉を持たないで、何事もえこひいきをもってしないで、〔こういう規則を〕守りなさい〈保ちなさい。按手については〈〔除名された違反者を復帰させるとき、また疑わしい件についての按手のとき〕教会の認可を与えることについては〉早まってはなりません。他の者の罪に加わっては〈かかわっては〉なりません。自分自身をきよく保っていなさい。」(Ⅰテモテ 5:20-22<詳訳>)
「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ 5:16)
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言 27:5,6)

聖書にみる具体的な戒め方
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したら、行って、あなたと彼の間だけで〈ひそかに〉、彼に彼のあやまちを示しなさい。もし彼があなたに聞けば、あなたはあなたの兄弟を取り戻したのである。しかし、もし彼が聞かなければ、ほかにひとりかふたりの人を伴いなさい。それはふたりまたは三人の証人の証言によってすべての言葉が確認される〈支持される〉ためである。もし彼が彼らに注意を向けないならば〈よく聞いて従うことを拒むならば〉、教会に告げなさい。そしてもし彼が教会にさえも聞くことを拒むならば、彼を異教徒また税金取り立て人として扱いなさい。」(マタイ 18:15-17<詳訳>)
「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ 4:17)
 
自分自身の聖め
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント 9:27)
  人に言うだけではなく、同じ肉をもつ人間として、自分も気をつける。
「あなたがたは、信仰にたっているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント 13:5)
 
以上のことは、一致のために大切なこと
「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも〈心から〉互いに受け入れなさい。」(ローマ 15:5-7)
  人を心から受け入れること。
「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)
  キリストの律法(神への愛と隣人への愛)のために、訓戒は必要。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ 1:6-2:6)
  交わりは、罪を犯さないようになるためにも必要。
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(Ⅰヨハネ 3:4-6)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」(Ⅰヨハネ 3:9,10)
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ 4:27)

 

|

2002年6月20日 (木)

主題からの学び「贖罪の日」

贖罪の日は、毎年7月10日に守られた。それは、贖いによってイスラエルの全会衆が神との交わりに入れられることを意味する日であった。第7の月の1日はラッパ祭、10日は贖罪の日、15日(14日の夜)から7日間にわたる仮庵の祭が始まる。(レビ 23:24-43
「第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。」(レビ 23:27)
「第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」(レビ 16:29-34)
贖いのために、身を戒め、安息と断食がなされた。
主が訪れる贖罪の日は、年に一度であり、それに備えて、心身共に十分な準備が必要であった。
「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(レビ 16:2)
 
贖いのための犠牲
大祭司は、自分と祭司たちの贖いのために、若い雄牛と雄羊を用意しておく。
「アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、…」(レビ 16:3)
また、大祭司は、民のために、雄やぎ二頭と雄羊一頭を用意する。
「彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。」(レビ 16:5)
この日にささげられる雄牛や雄羊の血でもとうてい罪を除き去ることはできなかった。毎年毎年繰り返された贖い。しかし、ついにキリストが来られたとき、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル 9:12)
キリストが十字架につけられたとき、聖所の幕が裂けた。神と私たちの隔てるものがなくなり、大胆に恵みの御座に近づけるようになったのである。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ 2:14-16)
 
贖い
「(アロンは)聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。」(レビ 16:4)
この儀式において、アロンは、栄光と美を表わす装束を身にまとうことはできなかった。アロンは、身を聖めるために、聖潔の象徴である水を浴び、聖なる亜麻布の長服、ももひき、飾り帯、かぶり物に身を包み、厳粛な務めについた。
大祭司は、自分の罪のためのいけにえの若い雄牛と全焼のいけにえの雄羊を携えてきて、自分と自分の家族のための贖いをする。
また、会衆から、罪のためのいけにえのために雄やぎ二頭、全焼のいけにえのために雄羊一頭を取る。
「罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、…彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」(レビ 16:3,5-10)
雄やぎ二頭のうち、一頭は主のため(聖所との関連で犯された罪の贖いのため)、もう一頭はアザゼルのため(会衆の罪を贖うため)とする。その決定には、くじが引かれた。
 
① 大祭司と大祭司の家族のための贖い
「アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。」(レビ 16:11-14)
大祭司は、手を雄牛の上に置いて罪を告白した後、ほふる。雄牛をほふった後、血を注ぐ前に大祭司は火皿に祭壇の炭火を入れ、両手いっぱいの香を取り、至聖所に入る。香炉を「贖いのふた」の上に置き、香を火にくべ、香の煙を十分に出して、主との間をさえぎるようにする(死ぬことのないため)。聖所から出て、雄牛の血を受け取り、再び至聖所に入る。その雄牛の血を「贖いのふた」の東側(東には、大祭司の天幕があった)にふりかけ、前にも7度ふりかける。
 
② 民のための贖い
「アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。」(レビ 16:15-19)
くじで決まった「主のため」のやぎをほふって、民の罪の贖いをする。大祭司は、三度目の至聖所入りをし、雄やぎの血を「贖いのふた」の上と前にふりかける。こうして、雄牛と雄やぎの両方の血で、祭司、民の両方の罪と汚れのために、聖所をきよめた。後、主の前にある祭壇(香壇)の角に雄やぎの血を塗り、上に残りの血を7度ふりかける。こうして、至聖所、聖所がきよめられた。
 
③ アザゼルのやぎ
くじで決まった一頭のやぎの上に民の罪を負わせ、アザゼルとして荒野に放った。
アザゼルとは…?
(1)野に送られるやぎのこと  (2)移動、除去、解放を示す  (3)不毛の地、荒野のこと  (5)荒野にいる悪霊の名 などの解釈があるが、不明である。「全き除去」「罪の全き赦し」の意味が妥当である。罪を負わせたやぎを悪霊の住む荒野に追放し、罪を民から遠く離れたところに追いやることを意図しているようだ。
「彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」(レビ 16:20-22)
主のためのくじに当たったやぎは殺され、その血が贖罪所の上に注がれたが、もう一頭のやぎは、殺されたやぎに贖われたものとして生かされた。
 
④ 全焼のいけにえ
「アロンは会見の天幕にはいり、聖所にはいったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。すなわち、罪のためのいけにえの脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営にはいることができる。罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営にはいることができる。」(レビ 16:23-28)
聖所内で大祭司の衣服に着替えるが、その時、沐浴する。全焼のいけにえの後、至聖所から火皿を取り出す時、そこに残しておいた亜麻布の衣服に着替えたらしい。大祭司の装束になり、全焼のいけにえ(祭司のための雄羊一頭、民のための雄羊一頭)をささげた。
毎年、毎年ささげられていた贖いの血の犠牲、動物の血では、罪は完全に解決されることはなく、神との和解も成り立たなかった。キリストは私たちの贖いのために、来られた。
「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(ヘブル 9:11-15)

 

|

2001年4月 5日 (木)

主題からの学び「異言(原語:舌)」

異言は、議論や分裂の原因になりやすい。目や耳ではっきりと認識できる、肉においては理解できない、霊の領域のものだからである。

賜物としての異言

「ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」(Ⅰコリント 12:10)     ある人に与えられる御霊の賜物

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」(Ⅰコリント 12:28-30)     神の召命として

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(Ⅰコリント 13:1)     人の異言と御使いの異言の区別

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(Ⅰコリント 13:8)     真理が来れば、いつか止むもの

「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」(Ⅰコリント 14:2)     神に話すことば

「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。」(Ⅰコリント 14:4)        自分の徳を高める。

「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。」(Ⅰコリント 14:5)    異言の解き明かしは教会の徳を高める。

「ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。」(Ⅰコリント 14:6)    異言だけでは益にならない。しかし、黙示や知識や預言や教えなどが伴えば益になる。

「それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。」(Ⅰコリント 14:9)    人のために語るなら、明確なことばで語る。

「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」(Ⅰコリント 14:12,13)      教会の特を高めるために、解き明かしを熱心に求めることを勧めている。

「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。」(Ⅰコリント 14:14-16)        霊の祈りと知性の祈り

「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(Ⅰコリント 14:18,19)        異言の賜物への感謝と教会の他の人への配慮

「律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」このように、[奇異な感じを与える]言葉[異言]は信者のためのものではなく、不信者のための<超自然的な>しるしですが、預言<神のみ旨とご計画を解き明かす霊感による説教と教え>は不信者のためではなく、信者のためです。」 (Ⅰコリント 14:21,22<新改訳、詳訳>)
 「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに『ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」(イザヤ 28:11,12)
不信者 (信じない者、信じようとしない者、未信者(まだ信じていない求道者)ではない)者への、不信仰を明らかにさせる機会となる「しるし」

「ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。」(Ⅰコリント 14:23)      秩序と統制が大切。

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」(Ⅰコリント 14:26)        徳を高めるために用いる。

「もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。」(Ⅰコリント 14:27,28)        解き明かす者がいなければ、教会ではだまっていて、自分と神の間で用いる。

「それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。」(Ⅰコリント 14:39)     異言を禁じることの禁止。

 

 グロースサ:舌(異言、ことばと訳されている)

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ 16:17)      信者に伴うしるし

「また、炎のような分かれたが現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)     聖霊のバプテスマと舌(異言)の関係

「しかし、を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)     制御できない舌を聖霊にゆだねる。

 

聖霊のバプテスマに見られる異言

「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。」(使徒 8:16)               水のバプテスマだけ受けていた。

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。」 (使徒 10:44-46)
         水のバプテスマの前にみことばを聞いていたすべての異邦人に聖霊が下っている。
         聖霊を受けたかどうかわかっていた。

「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」(使徒 18:25)       霊に燃えていたが、聖霊のバプテスマを知らなかった。

「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」(使徒 19:6)
    エペソの弟子たちは信じたとき聖霊を知らず、まだ受けていなかった。
           聖霊を受けた人は、異言を語り、預言をした。他には言及されていない。



|

2000年11月 9日 (木)

主題からの学び「三位一体なる神」

父なる神
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト 3:14)
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ 44:6)
    永遠に存在し、唯一なる神
「初めに、神(<エロヒーム>)が天と地を創造した。」(創世記 1:1) 以下、神=<エロヒーム>となっている。
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記 1:26)
    複数形で表現されている神。<エロヒーム>は複数形。
「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」(マタイ 28:19)
    この御名は、父、子、聖霊と3つの名であるにもかかわらず、原語をみると、単数形である。
 
神なるイエス
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ 1:1)
    ことばがイエスを指していることは、ヨハネ 1:14以下でわかる。
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ」(テトス 2:13)
「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって」(Ⅱペテロ 1:1)
「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙示録 1:8)
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録 22:12,13)
    イザヤ 44:6の神。これから来られる方はイエス。
「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」(黙示録 3:14)
    アーメンである方:イザヤ 65:16の「まことの神」は、<エロヘ・アメン>。これは、アーメンである方の意味。
 
聖霊なる神
「どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、」(使徒 5:3)
「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒 5:4)と言い換えている。
「聖霊が言われるとおりです。」(ヘブル 3:7)
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ 10:20)
「聖霊が教えてくださる」(ルカ 12:12)
「助け、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ 14:26)
    人格をもたれる聖霊
 
聖書に見られる三位一体
上記以外にも、たくさんの個所が、3つの位格、一つの実体の神について述べている。
古代の人たちにとって、象徴的数字の使い方は、大きな意味をもっていた。それは、聖書においてもである。
聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ 6:3) 
3回繰り返されているのは、三位一体の暗示。
   モーセが、渇きのための民の要求を満たすため、岩を打ち、水を出す個所が2個所ある。1回目のメリバでは、「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」(出エジプト 17:6)と指示され、そのようにした。
2回目のカデシュで、「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(民数記 20:8)との指示に、行きすぎたことをしてしまって(岩を杖で2度打った)、「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数記 20:12)との宣告を受け、モーセは、約束の地に入ることができなかった。なぜ、神は、モーセに、このように厳しすぎると思える判決を下されたか? それは、イエスさまの型となっている岩を2回打ったためである。主が打たれるのは、1度で十分、完全なわざであった。主イエスが1度打たれれば、後は、命じるだけで、恵みは下る。このことを象徴的に残すために、神は、このことに関して、厳しすぎるともいえるような扱いをされたのである。聖書には、このように、神を表すための重要な数が表されている。三位一体を暗示することばも多くあるのである。ご聖霊に、霊の目を開いてもらわずしては、理解することはできない。
三位一体という言葉自体は出てこなくても、このように、三位一体の概念はある。
三位一体という言葉が最初に見られるのは、181年頃のギリシヤ教父アンテオケのテオフィロスの著作においてであるが、教理として確立したのは、キリストの神性をめぐって開かれた325年のニカイア会議においてである。
水、氷、水蒸気、これらは、働きや形が違っても同じ H2Oであるように、神もまた、現われや働きが違っても神である。三つにいまして一つの神なのである。

 

|

2000年9月28日 (木)

主題からの学び「御霊の実」

具体的に、どのような特徴が、御霊の実なのか。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)
  これは、山上の説教の要約といえる。内側のキリストのいのちの結果現される実。
木の実は、木自身のためのものではなく、それを食べる者のためのものである。御霊の実は、クリスチャンが出会う人々への態度を示す。
 
御霊の実は一つ、愛の実であるといえる。
喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の8つの実は、愛の現れである。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません(平安、善意、誠実)。愛は自慢せず(誠実、柔和、自制)、高慢になりません(善意、誠実、柔和)。礼儀に反することをせず(誠実、柔和)、自分の利益を求めず(寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)、怒らず(平安、寛容、柔和、自制)、人のした悪を思わず(平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)、不正を喜ばずに真理を喜びます(喜び、誠実)。すべてをがまんし(寛容、親切、善意、柔和、自制)、すべてを信じ(誠実)、すべてを期待し(喜び、平安)、すべてを耐え忍びます(寛容、自制)。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント 13:4-8)は、御霊の実を拡張したものである。
 
D.L.ムーディは、次のように述べている。
 「喜びは、高められた愛。平安は、応答する愛。忍耐は、疲れを知らぬ愛。やさしさは、耐える愛。善意は、行動にお
ける愛。信仰は、戦いの場での愛。謙遜さは、戒規の下での愛。自制は、訓練下での愛。」
 
喜び (喜び)
喜びは、「神のあわれみ」「祝福」「恩恵」に対する愛の反応である。全聖書に647回使われている(新改訳)。
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ 14:17)
山上の説教:「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ 5:11,12)
 キリスト者の喜びは、環境に左右されない実である。最も試みの大きい環境においてさえも神に依存する。
「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ 8:10<口語訳>)
「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)
 
平安 (平和)
平安は、喜びよりも深く、安定したものである。他の人々と平和を保つ。喧嘩、闘争、党派心からの自由。
山上の説教:「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ 5:9)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ 14:27)
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ 5:1)
「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ 4:9)
 
寛容 (忍耐)
主がどれほど、自分に寛容であられたかを知る者は、他の人々にも忍耐をもつ気持ちができる。
山上の説教:「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」(ルカ 6:27-30)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ 3:9)
「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」(詩篇 86:15)
「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ 1:4)
 
親切 (慈愛、善、やさしさ)
人々の失敗を愛をもって扱うこと。
山上の説教:「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ 5:7)
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ 2:4)
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られる」(ローマ 11:22<口語訳>)
 
善意 (善意、よいこと)
もし、人が心に善意があれば、他人に善を行う。利己的な(パリサイ人的な、自己義認的な)善意は、一種の悪である。これは、他人に利益を加える愛ともいえる。消極的な善は不十分である(途中でやめるくらいなら、やらない方がましな場合もある)。
山上の説教:「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ 5:16)
        「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ 6:3)
「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」(エペソ 5:9)
 
誠実 (信仰)
信仰が生み出す性格と振舞いの誠実さ。「信頼されること」と「信頼すること」
山上の説教:「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ 5:6)
信頼されること:「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」(マタイ 25:21,23)御霊の実を結ぶ者は、他の人々へのことばを守る。契約、約束、義務への忠実。責任逃れをしない。
信頼すること:「不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、」(Ⅰコリント 13:6,7)神への信仰のみならず、人々をも信じること。人々への猜疑の念を持たず、最善を信じる。
 
柔和 (柔和)
柔和とは、怒りや人を傷つけるようなことをあらわさないことである。劣等感からくる小心、臆病、弱さとは異なる。真に強い者は、余裕があり、柔和である。これは、主によってあらわされる力の実である。
山上の説教:「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ 5:5)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ 11:29)
 
自制 (節制、自制、克己、寛大)
真の自己愛といえる。自分を重んじる者、自分の体を聖霊の宮であるとみなす者は、衝動を制御する。飲食のみならず、生活のあらゆる面にわたっての制御。他人への寛大は、完全な自制である。怒り、肉的情熱、食欲、世的な楽しみへの欲、利己主義への制御。
山上の説教:「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイ 7:13)
        「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っている
あなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。」(ルカ 6:25)
「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言 16:32)
 
愛 (愛)
山上の説教:「あなたたちの敵を愛<することを習慣と>しなさい。またあなたたちを忌み嫌う者<憎しみをもってあなたたちを追及する者>親切を尽くしなさい<よくしてやり、りっぱに応待しなさい>。あなたたちをのろっている者の祝福を祈り求め<幸福を祈り>、あなたたちをはずかしめている者<ののしり、とがめ、誹謗し、脅かしている者>に神の祝福<愛顧>を願い求めなさい。」(ルカ 6:27,28<詳訳>)
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34,35)
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Ⅰヨハネ 4:7,8)
 神は愛であるから、キリスト者の結ぶ実も愛である。
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:12-14)
 愛は、他の御霊の実を結んで一つにまとめ、御霊の一致を保つ接着剤。
木が、水を吸い上げ、光を浴びて光合成をして、fruit(実)を成らせるように、私たちも、生ける水をいただき、みことばの光に日々照らして自分のものとして(信仰を働かせて)歩む責任はある。そうすれば、豊かなfruit(実)が成るはずである。

 

|

2000年9月14日 (木)

主題からの学び「キリスト者の結ぶ実」

内におられるキリストのいのちの実際の証拠、特徴
「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇 1:1-3)
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ 7:16-20)
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」(ヨハネ 15:16)
 
良い実を見分けるには。

  1. 悔い改めの実

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ 3: 8)

  1. 御霊の実を結んでいるか

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ 5: 19-24)
「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」(エペソ 5: 9)
「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ 3: 17,18)
 
良い実を結ぶには。

  1. キリストの愛にとどまる

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ 15: 4,5)
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(Ⅱコリント 9: 10)
「いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」(ヤコブ 3:12)

  1. 正しく教えられる

「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」(テトス 3:14)

  1. 試練による訓練

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ 15:2) 
 
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル 12:11)

  1. 愛にとどまるためのできる限りの努力(人間的努力ではなく、内住の御霊への従順への努力)

「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」(Ⅱペテロ 1:5-10)
  人間的な努力で達成された徳は、御霊の実ではなく、ろうで作った模倣の実のようなものである。それは、本物の実ではない。遠くからは本物の実のように美しく見えるが、全く味がない。御霊によってキリストが信者の内に形成されるとき、りんごの木にりんごが自然に成るように、クリスチャンに御霊の実がおのずと生じる。もし、クリスチャンに実がなければ、キリストの霊もない。
 
死か永遠のいのちかは信仰とともに、その信仰の成す実にもよる(何への信仰か。)
「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ 21:19)
「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ローマ 6: 21,22)
 
収穫の実は、自分自身の実ではない。神の国の実である。
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」(マルコ 4: 28)
「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ 4: 38)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ 12: 24)
  この結ぶといわれている語は、持っていく、運ぶという動詞 (フェレイ)という語である。
「私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」(ローマ 1: 13)
「なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」(伝道者 2:26)

|