主題からの学び「愛Ⅱ」
目標とする愛、偽善ではない愛とは(続き)
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:22,23)
御霊の実
「しかし、神の人よ。あなたは、これらのこと(金銭を愛すること)を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」(Ⅰテモテ 6:11)
「全く低い心〈謙そん〉と柔和〈無私、寛大、温和〉をもって、また忍耐をもって、さらにまた、あなたがたは互いに愛し合っているのですから、互いに忍び合い〈人をいれ〉、忍耐をもって〔あなたがたに似つかわしく生活しなさい〕。平和の結び合わせる力をもって、み霊〔がつくり出してくださった、み霊〕の調和〈一致〉を守る〈保つ〉ことに、熱心になり〈真剣に努力し〉なさい。」(エペソ 4:2,3〈詳訳〉)
互いに忍び合い、受け入れ、忍耐をもって、一致を保つことに、熱心に努力すること。
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:12-14)
互いに忍び合い、赦し合う。その上から、愛の帯で結ばないと、バラバラになってしまう。愛は結びの帯として、完全なものである。
「あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(Ⅰテモテ 1:4,5)
異なる教えから守る愛。
「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ 5:19,20)
真理から迷い出た者への愛。
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ 3:14-18)
いのちを捨てるべきだと言っても、そうそうできるものではない。そのような愛は、自分はそのような愛がないなあと目指して、あわれみを示していくところに、形成されるものである。ことばや口さきだけでなく、行ないと真実をもった愛。
「そして私たちは、神が私たちに対していだいておられる愛を知り〈観察と経験によって、理解し、認め、意識し〉、また信じて〈心服し、信仰を置き、より頼んで〉います。神は愛です。そして愛のうちに住む〈愛のうちに住み続ける〉者は、神のうちに住み〈神のうちに住み続け〉、神もまた彼のうちに住んでおられます〈彼のうちに住み続けられます〉。この〔神との一致と交わりによって〕愛が私たちに完成され〈完全になり〉ました。それは私たちがさばきの日に対して確信を持つ〈確信と大胆さをもってみ前に出る〉ことができるためです。というのは、私たちはこの世においては彼と同じようであるからです。愛のうちには恐れがありません〈恐怖は存在しません〉。かえって十分に成長した〈完成した、完全な〉愛は恐れを追い出してしまいます〈恐れを全く追放してしまいます〉。というのは、恐れには刑罰という思想が伴うからです。〔それで〕恐れる者は、まだ愛が十分成長を遂げていないのです〈まだ成長して愛の全き完成に、はいっていないのです〉。私たちは彼を愛しています。彼がまず私たちを愛してくださったからです。もしだれかが、『私は神を愛している』と言いながら、〔キリストにある〕自分の兄弟を憎んでいる〈ひどくきらい、嫌悪している〉ならば、その人は偽り者です。というのは、現に見ている自分の兄弟を愛さない者が、目に見えない神を愛することはできないからです。神を愛する者は、また自分の兄弟〈信者〉をも愛すべきです。この戒め〈義務、命令、指示〉を私たちは彼から受けているのです。」(Ⅰヨハネ 4:16-21〈詳訳〉)
愛には、恐れがない。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ 5:1-3)
重荷とはならない神の命令、この命令を守ること。
「それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(Ⅱヨハネ 5,6)
愛のうちを歩むこと
なぜ、愛せよと、命じられているか。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)
私たちのイエスさまへの愛を、信じてくださっているから。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ 14:23,24)
イエスを愛するなら、イエスの言われた(命じた)ことを守るはずだから。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ 15:9-11)
私たちが、イエスの喜びに満たされるため。
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(Ⅰペテロ 1:22)
真理に従うことによって、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのだから。
「祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」(Ⅰペテロ 4:7-9)
多くの罪をおおうから。罪人である私たちは、互いの愛によって、罪が赦されていることを体感し、イエスさまに罪を赦されたもの同士としての交わりの中で、喜びに満たされるのである。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34,35)
「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(Ⅰヨハネ 2:5)
「これが神の命令〈戒め、指示〉です。すなわち、私たちがみ子イエス・キリスト〈メシヤ〉のみ名を信じ〈信仰し、信頼し、心服し、より頼み〉、彼が私たちに命ぜられたように、私たちが互いに愛し合うべきであるということです。」(Ⅰヨハネの手紙 3:23〈詳訳〉)
イエスの弟子であることを、すべての人が認めるため。
「愛する者たちよ、私たちは互いに愛し合おうではありませんか。というのは、愛は神から〔出ているから〕です。そして〔同心の友を〕愛する者は、神を父として生まれた〈神から生まれた〉者であって、〈ますます〉神を知る〈理解する〉《神を認め、また認識し、彼についてのさらにすぐれた、また明りょうな知識を得る》ようになります。愛さない者は神を親しく知ってはいません〈彼を知らないし、また決して知ったのではありません〉。というのは、神は愛だからです。神はそのみ子、ひとり子〈独特の〔み子〕〉をこの世につかわされました。それは彼によって私たちが生きるためです。ここに私たちに対する神の愛が明らかにされ〈明らかに示され〉たのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためになだめの供え物〈贖いの犠牲〉としてみ子をつかわれました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこれほど〔までに〕私たちを愛してくださったのだとすれば、私たちもまた当然互いに愛し合うべきです。だれも〔いまだかつて〕一度も神を見たことはありません。しかし、私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちのうちに住み〈生き、そしてとどまり〉、また神の愛〔本質的に神のものであるあの愛〕が私たちのうちに完成されます〈十分成長した状態になります、全行程を走り終えます、全うされます〉。」(Ⅰヨハネ 4:7-13〈詳訳〉)
愛は神から出ているから。
私たちの愛と神の愛
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。・・・自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。・・・それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。・・・あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」(ヤコブ 2:8-20)
愛するとは、律法的に行なうものではない。その人の自由意志によって、心から、イエスを見上げて、自分なりの精一杯の愛で、愛することである。見上げたそのイエスの愛によって、また、信仰によって、完成化していくものである。神については、悪霊どもも、知識においては、私たちよりよほどよく知っている。彼らにないのは、愛と愛による行ないである。
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛します()か。』ペテロはイエスに言った。『「はい。主よ。私があなたを愛する(
)ことは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します(
)か。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛する(
)ことは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します(
)か。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛します(
)か。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛すること(
)を知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ 21:15-17)
精一杯の愛()で、主イエスに、ついていくことが、大切。
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