66 ヨハネの黙示録

2017年4月17日 (月)

666の数

「ヨハネの黙示録注解 恵みがすべてに」(いのちのことば社発行 岡山 英雄著)は、黙示録を理解するのにとても役立った。
やはり、聖書は恵みに恵みを増し加える書物である。

聖書の中でもヨハネの黙示録は、聖書の集大成であり、創世記から旧約、新約時代をまとめ上げて、暗闇の世の中であっても主の光を反映しつつ歩むよう励ましを与えるために書かれている。
聖書全体を矛盾なく、調和を持って描かれていることを知り、改めて驚かされた。

落ち穂の会の礼拝では、昨年、黙示録を22週かけて1章ずつを丁寧に学んだ。

近年、誤った聖書概念で、666(獣のしるし)を受けないようにと、人々を恐怖に陥れるような教えが見られる。(ローマ 8:15)
確かにヨハネの黙示録には、世の終わりに、右の手か額に獣の刻印(666)を受けさせるような世の中になることが記されている。(3:16)
そして、「また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」(3:17)とある。
これを文字通り受け止めて、666の数字がついたコードを右の手か額に埋め込まれるから、拒否して備えないといけないとする教えがもう何年も前から横行している。
最近、ますます語られているように見受けられる。

ヨハネの黙示録では、「ここに知恵がある。」(3:17)と『知恵』に目を留めさせて「思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」と666の数字が語られている。
正統なキリスト教では、この数は他の聖書箇所でもあるように、象徴的な数字だと解釈する。

理由は…
7章では神のしもべたちに神の印が額に押されるが、実際に目に見える形で押されるわけではない。
ヘブル語を数値化すると、キリストは888になるというが、888のコードを印として実際に押されるわけではない。
神の印が目に見えない霊的なものであるように、獣の印も霊的なものである。
(聖書で6は完全数7から1足りない人間を象徴する。666はそれを完全数の3並べた数である)

獣の印とは…
獣というのは、罪がわからず欲のままに生きる。他人の迷惑を顧みず、自分の存在を誇示する。
神への賛美をしても絶えずその前面に「私の」「私に」「私が」…と出ていたバビロンの王ネブカデネザルのように。(ダニエル 2,3章)
金の欲、暮らし向きの自慢などに注目させる。(Ⅰヨハネ 2:16)

獣に仕えだすと、欲に仕えるようになり、罪を容認し、自己顕示するようになる。
それが、思想(額)や行動(右の手)に現れる。(詩編26:10)

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神の三位一体(父・御子・御霊)を真似るように、悪の三位一体がある。竜・獣・偽預言者である。
時には神のように見えるかもしれないが、そこには真実への愛はない。
悪の三位一体は神の真理を知っていて、偽物にすり替える。99%正しいようなことを言っていても、行きつく先を変えてしまう。
大きなしるしや不思議なことをして選民をも惑わそうとする(マタイ 24:24)者たちからのマインドコントロールに陥らないためには、実を見て神にあって自分で判断していくことが大切である。

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2013年9月 2日 (月)

涙の伝道

「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録 7:17 )

神のもとに立ち返るよう、神の愛に立って、宣べ伝えている伝道者がいた。
来る日も来る日も、語っていたが、誰も耳を傾けることはなかった。
涙とともに祈りを捧げたその時、主が語ってくださった。
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あなたが流してきた涙は決して無駄にはならない。
時がきて必ず神の栄光が各教会を訪れる。
その時、神に敵対していた者たちは、歯ぎしりして悔しがるが、もはや遅い。
その時、彼らは神という方を知ることになる。
恵みの時に宣べ伝えよ。
過ちに走っている人々に、語り伝えよ。
彼らが聞いても聞かなくても語れ。
エレミヤの精神があなたの内にある。
その精神からぶれることなく、みことばを伝えよ。
わたしの嘆きを、わたしの悲しみを、罪人たちに伝えよ。
希望を捨てることなく、語り告げよ。
立ち返る者たちのために、語り続けなさい。
主なるわたしがいつもあなたとともにいることを、忘れずに!

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2013年8月30日 (金)

主のみこころ

「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示録 3:11)

黙示録の7つの教会に言われている言葉。フィラデルフィアの教会には、苦しみと貧しさのスミルナの教会と同様、叱責のことばが見当たらない。
何がほめられているか。「わたしは、あなたの行ないを知っている。」と言われている。
主はそれぞれの行ないに従ってさばかれるお方である。
彼らは何か特別なすごいことをしたわけではない。
自称、神の民だと言っているサタンの改修に属する者の中にいて、そこに同化せずに、信仰を守り通していた。
「少しばかりの力があって(わずかな力しか持っていないが〈詳訳〉)、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」というのが、称賛の理由であった。
忍耐を尽くして主のことばを守ったから、来たるべき試練の時にはあなたを守ろう、と言われている。
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主の喜ばれる信仰は、特別な力が必要なわけではない。
すばらしい能力や賜物が必要なわけでもない。
自分に与えられているだけの力をもって、神のことばからそれず、神に従っていくだけでよいのである。
そのような行ないには、誇るところはない。主はそれを称賛してくださる。
しかし、これが罪の性質のある人間にとっては、なかなか難しい。
罪にいざなう罠が待ち構えている。
与えられている信仰を、感謝をもって守り通していこう。主が見て下さっている。

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