44 使徒の働き

2015年4月15日 (水)

魔術師シモン

 使徒の働き8章に、魔術師シモンのキリスト教徒への改宗の記事が描かれている。

8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。
8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
8:20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
8:25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。

 このシモン・マゴスは、以前から魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。(使徒 8:9) サマリヤの群衆は、ピリポの行なうしるし(癒しや奇跡)を見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。(使徒 8:6)
ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じたサマリヤの人々は、男も女もバプテスマを受けた。(使徒 8:12)
シモン・マゴス自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。(使徒 8:13)

 ここまでは、まだよかったかもしれない。
ある日、信じたサマリヤの人たちのもとに、エルサレムから使徒ペテロとヨハネが送られた。
ペテロとヨハネが、サマリヤの信者たちに、聖霊を受けるように祈り、手を置くと、サマリヤの信者たちは聖霊を受けた(感覚だけではなく、他の人たちの目にみえる現象があった)。
今まで見たことのない現象を見たシモン・マゴスは(しるしやある程度の奇蹟は魔術にもあっただろうが)、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。(使徒 8:18,19)
この後、シモン・マゴスは、お金で聖霊の賜物を買おうとしたことで、ペテロの叱責を受け、「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」と懇願した(使徒 8:18-24)。

 シモン・マゴスについて、聖書は、ここまでしか書いていない。
ただ、「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後…」(使徒 8:25)と使徒たちが主をあかししていったということだけが書かれている。
罪について甘く見てしまうなら、ペテロの言った「この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」(使徒8:22)という言葉をもって、この後、シモンは悔い改めて信仰を送った、めでたし、めでたしとしたいところである。

 しかし、その後、シモン・マゴスは真理から外れてしまったのである。
「彼は、必ずしも、完全なグノーシス主義ではなかったが、 教父たちはシモン・マゴスを異端の父、いくつかのグノーシス主義の産みの親、初めてグノーシス主義の要素をキリスト教に結びつけた人物とみなしている。 彼は、「偉大な啓示」というグノーシス主義の文書の著者とされている。シモン・マゴスは、サマリヤ人のメシアになったのみでなく、シモンは第一の神、 あるいは至高神と自称しさえしたという。シモン・マゴスが起こした宗派(セクト)の一つはシモン派と呼ばれ、世界を救うためにシモンはこの世に来た、と主張した。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 39-40頁)

 ※ キリスト以前からあり、キリスト教にも取り入れられた異端に、グノーシス主義があった。 これは、「ギリシア、ユダヤ、オリエントの思想を吸収したもので、物質界は悪であるので、善なる神が物質界を創造したことはありえない、 堕落した霊的存在であるソフィア(知恵)の子供が物質界を造ったのである。そして、救いは、信仰と愛だけで得られるのではなく、 哲学的知識や直感、魔術的儀式や教え、秘密の知識の伝授によって得られる。」というものである。

 改めて、シモンの懇願のことばをよく見てみよう。「私に起こらないように」「私のために」自己中心の内容である。しかし「自己中心→神のみこころに」というのは、信じた誰もが通る聖別の道であり、聖められる可能性もある。そのため、ペテロは助言している。が、彼は、結局、主というお方を知ることができずに、真理から外れてしまったのであった。
 シモン・マゴスのように、キリストを信じても、悔い改めに向かわず、欲に支配されるなら、主ご自身を否定する異端を生み出す危険がある。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ 2:1-3)

 「キリスト教異端派の創始者には、どれほど小さい宗派(セクト)でも必ず、正しいのは自分であり、既成の教会は、 誤っていることを時が証明するであろうという同じ期待がある。」(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 20頁)

 聖書にも、異端的教えは見られる。
割礼や律法に従うことも強いずに、異邦人キリスト教徒を受け入れていたパウロに反論して、ユダヤ人キリスト教徒は、「割礼と律法の遵守を行わなければ、救われない。」という主張を立てた。 これが、激しい論争となったので、エルサレム会議を開き、『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。』」(使徒 15:28,29)という決定を下した。
 このユダヤ人キリスト教徒の系統は、パウロの死後数世代間、4世紀か5世紀に至るまで、教会内部の少数の異端者として存続していた。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 29頁)

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2013年10月18日 (金)

教会の境界線?

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒 17:26)

ある教会指導者が、教会員が他の教会に時々行き交わるのを不快に思っていた。
このことを祈り、自分の気持ちをありのままに主に告げた。
その時、冒頭に上げたみことばが目に留まった。
神は、人それぞれをその教会に置かれたのだから、他の教会に行くのは間違って
いる、そう思い、みことばを出して、その教会員を責めた。
その教会員は、その教会を去っていった。
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みことばには、愛がある。
誤った心で聞くと、誤った解釈に陥ってしまう。
そして、それが正しいと思い込んでしまう。
この後に続くみことばには、「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」とある。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない。
教会という地域教会の枠があるのは、その中で、ひとりひとりが神を見出し、神との直結した関係を結ぶためである。
それが神の意図した教会の姿である。
牧師はそのためのお世話をする(牧する)役割が与えられている。
それが機能して初めて、教会は神の愛を流す教会となる。
キリストの愛によって、互いに愛し合い、神の栄光を現していこう。

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2013年9月30日 (月)

いつでも平安!!

「彼らは、『あなたは気が狂っているのだ』と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、『それは彼の御使いだ』と言っていた。」(使徒 12:15)

ペテロは殺されるために牢につながれていた。
ヘロデは、すでに教会のある人々を苦しめるために、迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟のヤコブを剣で殺していた。
2本の鎖につながれていたペテロは、なんと御使いの光で照らされても起きることもなく、御使いに脇腹を叩かれ起こされるまで、2人の兵士の間で寝入っていた。
ヘロデがペテロを引きずり出そうとしていた前夜、御使いかペテロを救い出しにやれって来た時、ペテロは現実の事と思わず、幻だと思った
ペテロはどこにいても、平安であった。
牢につながれていても、それは変わらなかった。
それは主が助けてくださるからという理由付きの平安ではなかった。
死に打ち勝たれた神なるキリストから目を離さないでいたのである。
かつては湖の上で、イエスから目を外し、波を見た時、沈んでしまったペテロであったが。
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死をも恐れない信仰。それは自分で決心し頑張ってなせるものではない。
イエスさまとの日々の偽りのない交わりの中で、培われたものである。
そのようなペテロには、救い出された後も、自分を殺そうとしたヘロデに対する負の感情は見られない。
いつも、死に打ち勝たれたイエスを見上げて歩もう。
永遠の世界がそこにある!

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2013年8月28日 (水)

伝道の精神

「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」(使徒 10:28)

Sさんのもとに、毎週訪ねてくる2人組の人たちがいた。正統な教会からは、いわゆる異端と呼ばれている人たちだった。
Sさんも他の人がしているように初めから相手にせずに、丁重に断っていた。
ある日、入信したてのように見えるおばあさんがベテランの女性とともに、訪ねてきた。
「必要ないので…」とドアを閉めた途端、「あのおばあさんは、今が本当の福音を聞く唯一のチャンスだったかもしれない。」という追いかけたくなるほどの思いがやってきた。
実際、そのおばあさんは、何も知らないで話しをしているうちに、異端の信仰に至ったのであった。
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何も知らないままに、聖書を知りたいという思いから、異端に入信する人もいる。
そのような人を敬遠していては、神の愛に生きることはできない。
神は罪人の私たちを愛し、十字架にかかり、その尊い血潮を流して下さった。
地上の偏見や価値観を捨て、真理への愛を指し示しつつ、人に接していこう。
そこに神の国が到来する。

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2012年9月 8日 (土)

主とともにある苦しみは宝

「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。」(使徒 14:20)

パウロとバルナバがイコニオムという町(現在のトルコにあった町)の会堂で
話をすると、大勢の人が信仰に入った。
そのことをおもしろく思っていない人々は、ユダヤ人の指導者たちと手を組んで
使徒たちを石打ち(みんなで大きな石を投げつけて死に至らせる死刑)にしようとした。
それを知ったパウロたちは、少し南の町のルステラとデルベの方に行き、宣教を続けた。
ルステラに行くと、生まれながらの足なえの人が、パウロの話に耳を傾けていた。
パウロは、彼にいやされる信仰があるのを見て、彼を癒した。
このことで、群衆が彼らを神のように扱った。
そこに、ユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにして
町の外に捨て去ったのであった。
心配した弟子たちが、パウロを取り囲んでいると、パウロは息を吹き返して、
町に入り、宣教を続けた。

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人生には、良いときもあるだろうが、苦しみも多々ある。
神のみこころを行っていても、いや、行えば行うほどに、苦しみが
やってくる時がある。
神なき喜び・楽しみは、はかないが、神あっての苦しみは、天に宝を積む
苦しみである。
永遠の時の中で、死に打ち勝たれたイエスにあって、死というものは
一種の通過点に過ぎない。
だから、パウロは死をも神に委ね、みこころの中を突き進んでいったのである。
あなたの苦しみは、主の知らないものではない。
主のもとにすべてを委ね、疑いを捨て、主とともに歩んでいこう。
それこそが、しあわせに通じる道である。

 

 

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