42 ルカの福音書

2019年3月15日 (金)

理不尽さへの怒りがある時は

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ 18:7)

ひとりのやもめが、ある裁判官のところにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていたとある。
やもめは、立場が弱かった。そのやもめが、たよった相手は、「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であった。
そのような裁判官であっても、あきらめずにやってくるやもめのために、裁判をしてやることにしたのであった。
「うるさくてしかたがないから」という理由からであったが、「許せ」ととりあわなかったり、軽くあしらったりしたわけではなく、法律によって裁くことにしたのである。

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寂しい思いを抱いていて、理不尽な出来事の中、傷の中で怒りを抱え込み、閉じこもっていないか?
私たち罪人の怒りを身に受け、十字架にかかって救いの道を開いてくださった主は、裁判官とは比較にならないお方である。
その主があなたを愛し、共にいてくださっているのだ。
怒りを隠し、悟っているかのように心を冷めさせ、封じ込め、心身を病ませてはいないだろうか。
人の罪は自他に傷を与える。罪の取り扱いは、決して軽いものではない。
神の法律によって裁かれる。
神の法律は、「神である主を愛し、隣人を愛する」に集約される法である。
原罪を持つ私たち人間は、自らの罪にも気づかないものである。
人の言動に怒りを覚えた時は、怒りを隠したり、逆に爆発させたり、適切ではない方法で他に向けたりすることを止め、主の前に持ち出そう。

例え、激しい怒りを主にぶつけることになったとしても、十字架にかかられ、罪を受け止め、救いの道を開いてくださり、今も生きておられる主イエスは、その怒りを受け止め、正しく導いてくださる。

聖書は、私たちに道を示している。
主を頼る私たちに、主は必ず応え、今は理不尽に思えるような事柄をも正しく裁いてくださる。
人にはできないことを、主はなされる。
他からきた罪により、寂しく理不尽な怒りを抱えている時、あわれみ深い主の存在に気付けますように。

 

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2018年4月 9日 (月)

献金の真実「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書21章より~

『献金の真実-金持ちと貧しいやもめの献金-』ルカの福音書21章1~38節(新改訳聖書使用)

献金の心

 

 前章では、主イエスは、律法学者たちについて気を付けるよう弟子たちに教えられていた。主イエスが目を上げて見ると、「金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。」(ルカ 21:1)現代の日本で言うなら、賽銭箱に賽銭を投げ入れるような感じである。賽銭箱に金持ちたちがお札を投げ入れる行為は、人々の目を引き、時にニュースになることもあるが、多く捧げる人は、当時も人々の興味を引いていたことだろう。金持ちたちが献金を投げ入れる中、ある貧しいやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れているのが、主イエスの目に留まった。
 レプタ銅貨というのは、1デナリ(当時の1日分の賃金に相当)の128分の1で、現在の1日分をざっくり1万円として換算するならば、1レプタは約78円となる。レプタ銅貨2つは160円に満たない額である。聖書では、神への捧げものの目安として、十分の一が示されているが、

 

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創世記 14:20で、アブラムはすべての物の十分の一を、いと高き神の祭司メルキゼデクに与えている。

 

創世記 28:22で、ヤコブは神に「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」と請願を立てている。

 

・律法での捧げものの規定で、十分の一という割合が示されている(レビ 5:11, 6:20, 14:21, 27:30, 27:32民数記 5:15他12ヶ所申命記 12:6他6ヶ所レビ 27:30では「それは主の聖なるものである。」と書かれている)。

 

・続く旧約聖書では、至る所で十分の一の概念が出現し、マラキ 3:8に続いている。

 

・新約聖書でも主イエスは、十分の一を土台として語られている(マタイ 23:23、ルカ 11:42, 18:12)。

 

ヘブル 7章でもこの概念は引用されている。
十は神の十全を象徴する数値である。
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それをそのまま掟としてとらえると、神の愛が見えなくなる。献金を税金のような規則としてとらえると、神は取り立てる方のようにしか見えなくなるだろう。まだ累進課税を取り入れている税金のほうが公平に見えてきてしまうことになり、ミナのたとえの1ミナを預けられた者のように、「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方」(ルカ 19:21)と歪んだ神に見えてしまうことになりかねない。

 

 十分の一は目安であると言ったが、金持ちの十分の一と困窮者の十分の一は、額も重みも違う。金持ちが十分の一としていくら大金を捧げても、ありあまるほどの十分の九が残る。痛くもかゆくもない。ただし、目安がなければ、捧げる行為は軽んじられていくことになる。どうでもよい額(量)ではなく、さりとて困窮することのない額(量)が十分の一なのである。ただし、捧げものは、額(量)ではなく捧げる心が大切である。捧げる対象は人や教会ではなく、神に捧げるものである。また、喜んで捧げることができない時は、捧げることができなくても、神はその心をご覧くださる。献金は、人との関係ではなく神との関係だ。主イエスはパリサイ人たちが律法通りにすべての十分の一を捧げているのを知っておられたが(マタイ 23:23、ルカ 11:42,18:12)、行いを自負する心を秘めながら、みもとに聞きに来る人たちには、持ち物全部を売り払い、貧しい人に施すように言われている(ルカ 18:22、マタイ 19:21)

 

 主イエスは、やもめがレプタ銅貨2つを献金箱に入れるのを見て、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ 21:3-4)「真実を告げる」と重要な教えであると前置きされている。貧しいやもめが捧げた160円(レプタ銅貨2つ)は、惜しんだ末に、少ない額を捧げたものではなく、手持ちの全生活費であった。今日食べるものがない、明日もどうなるかわからない、その中で、神のもとに来て信仰によって捧げた生活費全部であった。

 

 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)
 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント 9:7-8)

終わりの時

 

 額(量)ではなく心だとは言っても、人間は豪華できらびやかな物や裕福さに目を留めがちである。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。」(ルカ 21:5)その会話を聞いた主イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ 21:6)と言われた。

 

 ユダヤ人とローマ帝国の戦い(ユダヤ戦争)で、起源70年にエルサレム神殿は崩壊した。しかし、この時の崩壊では、神殿の壁の一部(嘆きの壁)の石は積まれたまま残っている。27節には、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」と主イエスの来臨が語られているが、これは、世の終わりに起こることである。恐ろしいことが書かれているが、それはどの視点で見るかによる。信仰者にとっては贖いの日であり(ルカ 21:28)、恵みの時であることも盛り込まれている。「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」(ルカ 21:18)

 


 この章では、その時になすべきこともいろいろ教えられている。罪の結果を刈り取る終わりの時が近づく中での、主の愛である。その一つ、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ 21:8)イエスの権威を自分のものであるかのようにふるまい、「時は迫っている」〈詳訳〉と人々をあおる者たちが大ぜい出てくるが、「そんな人々のあとについて行ってはなりません。」と言われている。この章に書かれている教えをよく理解し、心に留めて歩んでいこう。

 

落ち穂の会

 

 

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2018年3月26日 (月)

敵に向き合う知恵「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書20章より~

『敵に向き合う知恵-イエスに立ち向かう律法学者たち-』ルカの福音書20章1~47節(新改訳聖書使用)

福音を語るイエス

 

 ろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエスは、毎日昼は宮で教え、福音を宣べ伝えておられ、夜はエルサレムから東に「安息日の道のりほどの距離」(使徒 1:12、おおよそ1Km)にあるオリーブ山に戻って過ごされていた(21:37)。イエスが語られた福音とは何か。イエスが語られた福音=よい知らせは、神の国が近づいた、神は正しくさばかれる、悔い改めて神に立ち返れ、信仰をもって神に従いなさい、そうすれば救われるとイエスは民に語っておられた。その現れが、いやしであり、奇蹟であり、イエスが示す神の愛によって弱り果てていた人々は神を愛する力をいただいた。ローマの圧政、パリサイ人や律法学者たちの律法的な教えは、民を潤すことはなく、飢え渇いていた民たちはみな朝早く起きて、イエスの教えを聞こうと宮にいるイエスのもとに集まってきた(21:38)

 

イエスに立ち向かう指導者階級

 


 教えを聞いた民の心がイエスに向いていくので、宮での立場も危うくなってきた祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに立ち向かっていく。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(20:2)何とおそまつな質問だろうか。イエスの並ならぬ権威を認めているのである。「誰の許しを得てやっているのですか」でも「なぜこのようなことをしているのですか」でもない。そのような質問のほうがまともである。祭司長、律法学者、長老たちは、神の権威は感じていたのである(神だからあたりまえであるが)。イエスが「神の権威」と答えれば、神に対する冒涜罪で死罪にできたのである。それを言わせたいがための質問である。「もう我慢がならぬ」という感じで徒党を組んで立ち向かおうとやってきたのである。

 

向き合うイエス

 


 そのような質問にもかかわらず、主イエスは無視して相手にしないわけでもなく、がつんと言い負かすわけでもなく、立ち向かってきた相手に、知恵のある言葉で答えられている。考える余地を与え、拍子抜けさせるように導こうとされているかのように言っている。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(20:3-4)質問をかわして話をはぐらかしているわけではない。バプテスマのヨハネは、イエスを証言してこの世を去っている(ヨハネ 3:26では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたが証言なさったあの方」とヨハネに言っていて、ヨハネは「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。」(ヨハネ 3:28)「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言っている)。天からと答えたなら、イエスはそれ以上の人物だと認めないと矛盾が生じる。人からと答えると、民衆を敵に回す。民の上に立つことを好む彼らにそれはできない。祭司長らは「どこからか知りません。」(20:7)と答えている。民衆を教える立場の者たちであるのにかかわらず「知りません。」とおそまつな答えとなったのであった。

 

ぶどう園と農夫のたとえ

 


 イエスはこの後、ぶどう園と農夫のたとえを話された。またもや主人が何か(今回はぶどう園)を預け旅に出るという話である。旅先から収穫の分け前をもらうために主人が順に3人のしもべを送るが、農夫たちは袋叩きにしてひどいめにあわせ、傷を負わせて送り返す。どうしたものかと思案した主人は、愛するあととり息子を送れば、敬意を払ってくれるに違いないと遣わしたが(3度(3は神の完全数)送ったしもべにひどい仕打ちをされても、信じる愛がそこにある)、農夫たちは議論した結果、あととりを殺してしまえば財産はこっちのものだと殺してしまった。どうしてそのような発想になるのか、主人への愛もなければ、感謝も敬意もない。十分な収穫があっただろうに(主人が分け前を要求できる収穫があった)、もっともっとと元々自分の物でもないものにもかかわらず、欲に支配された結果である。息子を殺された主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園はほかの人たちに与えた、という話である。聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません。」(20:16)と言ったが、同じ話を聞いていた律法学者、祭司長たちは、「イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)とある。悔い改めの機会は、いつも目の前に置かれていた。しかし、いつも神を説いていた彼らは神の権威を見ても、神を認めず、つまり、神の存在を信じていなかったのである。

 

エスカレートしていく計画

 


 イエスと議論しても勝てず、捕えようとしても、民衆を恐れてできない。機会をねらっていた律法学者、祭司長たちは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った(20:20)。しかし、イエスはそのたくらみを見抜いておられ(20:23)、またもや知恵で返され、間者は、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、イエスの答えに驚嘆して黙ってしまうしかなかった(20:26)

 

 間者が黙ってしまったためか、サドカイ人が復活についての質問を投げかけ、イエスはきっちり教えられている。その答えは、律法学者に「先生。りっぱなお答えです。」(20:39)と言わしめるほどであった(「先生」と言いながらも上目線であるが)。律法学者たちは「もうそれ以上何も質問する勇気がなくなった」(20:40)とある。

 

 そこで、今度はイエスが、質問をされた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っているのに・・・」(20:41-44)ご自身のことを言われているのだが、答えを求めているのではない。人知を超えている事柄ゆえに、神の不思議に目を向けさせ、考える余地を与えられている。

 

 民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに律法学者たちに気をつけるよう、言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(20:46-47)

 

落ち穂の会

 

 

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2018年3月18日 (日)

小さな事にも忠実だったから「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書19章より~

『小さな事にも忠実だったから-ミナのたとえ-』ルカの福音書19章1~27節(新改訳聖書使用)

ザアカイの救い

 

 神のご計画があるゆえに、エルサレムに向かっていたイエスは、手前のエリコの町に入られた。エリコに近づく道ばたでは、盲人がいやされる奇蹟が起こっていた。19章は、取税人ザアカイの救い(1-10)、ミナのたとえ(11-27)、主に用いられたろばの子(28-35)、エルサレムに近づき喜んで賛美する弟子たちとエルサレムを思い涙する主イエス(36-44)、宮をきよめて毎日宮で教えられるイエス(45-48)という構成で書かれている。

 

 エリコの町に、ザアカイという取税人のかしらで金持ちがいた。多くの人々が押し寄せる中、背が低い彼は、イエスを一目見たいと、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。取税人というのは、ローマから税金を取り立てるよう委託された人である。当時のユダヤはローマの属国だったため、ローマに税を納めていた。取税人は、ユダヤ人でありながら異邦人のために働いている人とみなされ、また、規定以上の税額を徴収することによって私腹を肥やしていたため、同胞のユダヤ人から嫌われ、罪人とみなされていた。ザアカイはそのような取税人のかしら(元締め)であった。

 

 さて、前章で、イエスは、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(18:24-25)と言われたが、これは、「律法の戒めはみな、小さい時から守っている」と自負していた役人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(18:22)と言った際に、役人が大変な金持ちだったため、非常に悲しんだのを見て、言われた言葉であった。

 

 イエスの視界にザアカイが入った時、イエスのほうから声をかけられた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)思いもよらず個人的に、しかも名前を呼んで声をかけられたザアカイは、大喜びで急いで降りて来てイエスを迎えた。人々の目は、あいかわらず冷たかったが、もう気にならない。ザアカイは立ち上がり、イエスに言っている。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(19:8)このように言う金持ちのザアカイに、イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。…」(19:9)と言われた。

 

 前章の金持ちの役人には、「持ち物を全部売り払い…」で、できない様子に「裕福な者が神の国にはいることはむずかしい。」と言ったイエスが、「私の財産の半分を施す」と言ったザアカイには、「救いが来た」と言われたのである。何が違うのか。パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント 13:3)と言っている。主イエスが金持ちの役人に言ったのは、「財産全部を貧しい人たちに分け与える」という外面的な行為を言ったわけではない。ザアカイは半分でもOKだったが、役人が、たとえ役人が「また稼げばよいか」と財産全部を差し出したとしても、また、イエスの言葉を半分受け止めて、妥協案として「じゃあ、半分(十分ありあまるほどの財産の中、自分のために半分になっても十分だし)を分け与えます」と応じたとしても、受け入れられなかっただろう。アナニアとサッピラが受け入れられなかったように。

 

 役人とザアカイ、決定的に違うのは、その心根である。お金(世の楽しみや心配事)を見ているか、主イエス以外目に入らないほど神を愛しているか、である。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)これは、「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と表題がついているが、ダビデ王(金持ち)が詠んだ詩である。

 

 同胞人から嫌われ、罪人呼ばわりされていたザアカイは、取税人のかしらとしての地位があり、お金持ちであったが、「だまし取った」(19:8)罪意識を持っていた。イエスが多くの人がいる中、自分に目をとめ、しかも泊まる家に選んでくださった、それだけで十分だった。稼いで得た財産の半分を施し、また、だまし取った物は、四倍にして返すという贖罪を語ったザアカイの言葉は、「悔い改めます。」と言葉で言わなくても、土下座しなくても、悔い改めの心が背後に伺える言葉である。真の悔い改めは、被害を与えていれば贖罪の心が伴うものである。そのようなザアカイに、イエスは言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:9-10)罪により失われていた魂が、イエスに出会ってその愛によって救いに預かったのである。

 

ミナのたとえ

 


 この後、これらのことに耳を傾けていた人々が、神の国がすぐにでも現われるように思っていたので、イエスは、ひとつのたとえを語られている。人々は、ザアカイが救われたように人々が救われ、いやしが起こっている奇蹟を見て、エルサレムにもうすぐ行かれるイエスが、エルサレムに乗り込み、神の国を打ち建てると思っていたのである。そのような状況に、イエスは、ミナのたとえを語られた。

 

 身分の高い人が王位を得るために、十人のしもべにそれぞれ1ミナずつ与えて、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」(19:13)と言い残して、遠い国に旅に出る話である。マタイ25章にあるタラントのたとえと似ているが、マタイのほうは、能力に応じて異なる金額を預けていたが、今回のたとえは、みな同じ額である。1ミナは100デナリ(1デナリは1日分の賃金)、1タラントは6000デナリに相当する。タラントのたとえは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と天の御国について語られていた。ミナのたとえは、神の国はすぐに現れるものではないということ(主人がいなくない間のしもべの過ごし方)が語られている。主観によって主人を恐れて1ミナをふろしきに包んでしまっていたしもべは、「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」(19:22)「私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」(19:27)と、その人自身のことばと行動によってさばかれている。いくら「ふろしきに包む」という丁寧さを繕っていても、そういうことを要求はされていず、何にもならなかったのである。

 

 私たち主イエスのしもべは、等しく聖霊を預けられて、働きを委ねられている。たとえでは、主人が王位を得るために遠い国に旅立っている間、国の建設のために、忠実に商売し(どんな商売をするかはしもべに委ねられていた(15))、十ミナをもうけたしもべは十の町の支配権を与えられ、五ミナもうけたしもべは五つの町の統治権を与えられている。このたとえだけを見ると、もうけないといけないのかとなるところであるが、このたとえは金銭的な成果を言っているのではなく、忠実に仕える心を言っているわけである。与えられている聖霊とともに歩むと、主に会う時には、何かしらの実ができている(何人伝道できたか、人を救いに導いたかではない、人が救われるのは聖霊の働きであり、種を蒔くと実りは人手によらずなるものである)。聖霊を与えられて、働きを委ねられていることをかみしめて、主イエスに会う日を待ち望みつつ、歩んでいこう。

 

落ち穂の会

 

 

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2018年2月25日 (日)

義と認められる祈り「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書18章より~

『義と認められる祈り-自分を高くする者と低くする者-』ルカの福音書18章1~14節(新改訳聖書使用)

失望せずに祈ること

 

 17章では、「信仰を増してください」(17:5)と言う使徒たちに、主イエスが「なすべきことをへりくだってしなさい」と教えられていたが、こつこつと、なすべきことをなそうと心がけつつ、信仰生活を送っていると、うまくいかないことにぶつかり、ふとしたことで、「このままでいいのかなぁ」「祈りが足りなくてこうなっているんだろうか」「私にはもう無理だ、何かどこかで間違ったに違いない」などという思いがやってくることがある。時には人を通じて、やってくるかもしれない。その思いにとらわれていくと、失望→絶望→信仰をやめたくなる の迷路に入り込んでいく。

 

 そのように状況に左右され、失望しがちな私たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、」(18:1)主イエスは、たとえで話された。不正な裁判官のたとえである。神はいつまでもすみやかに夜昼神を呼び求めている信者の訴えを放っておかれることをせず、正しいさばきをしてくださるお方だから、あきらめずにひっきりなしに祈れ、とイエスは弟子たちに教えられている。やもめという立場が弱い者がたとえに出されている。やもめは、裁判官に、対人問題(「私の相手をさばいて…」(18:3))に関して訴えていた。

 

自己顕示欲

 


 対称的に、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して、次のような祈りについてのたとえが語られている。パリサイ人と取税人の祈りのたとえである。パリサイ人たちは、自分たちはよく祈っている者だと思っていただろう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(18:11,12)「ほかの人々のように」と他すべてを見下し、自分が選り抜きんでていると思っているのである。これは、御霊の実ではなく、サタン的性質である。パリサイ人については、「見えのために長い祈りをする」(マタイ 23:14)とも言われているが、ここでは、宮での心の中での祈りであり、人に見せるための長い祈りについてではなく、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している心が取り上げられている。「私は罪を犯したことがない。長時間祈るし断食もよくする。献金も神の分として律法に規定されている十分の一をしっかり行っている。」「私は祈ってなすべきことをみなしているし、伝道のために迫害や苦しみにあっているが、何があっても信仰によって進み続けている。皆さん、私を見て私のように信仰を働かせて下さい。」一見、強い信仰の持ち主のように思うかもしれない。神の本質を知らず、「なすべきこと」をはき違えると、他人をも見下すようになりかねない。聖書でいうところの「罪」を犯さない人間はいない。信仰者であっても許された罪人である。祈りであっても、断食であっても、献金であっても、行いを誇ること自体が、慢心である。パリサイ人の祈りは、信仰的な自分を神にアピールしている。「神」の語を使っていても、心は自分でいっぱいだ。

 

 半面、取税人は、罪を犯してしまう自分の弱さを熟知していて、全知全能の神にあわれみを乞うしかなかった。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」自分では変われない、むせび泣くように胸をたたいて、言葉があふれたような心からの祈りであった。
 パリサイ人たちだけでなく、人間は誰しも、人に認められたい、特に指導者や神など、上位にある者に承認を得たいという欲求が存在する。貪欲になり度が過ぎていくと人を落としても自分を引き立たせるようになっていく。マズローの5段階欲求説では、下層から「生理的欲求」、「安全への欲求」、「愛・所属への欲求」、「承認への欲求」、「自己実現への欲求」と人間の持つ欲がピラミッド式に上へと描かれている。マズローは、晩年第6欲求として自己超越欲求(自分のためだけでなく、他の人々や他の者を豊かにしたいという欲求)を発表している。神のみこころは、自己欲求が満たされ、かつ、神の似姿の第6欲求にシフトしていくことである。

 

承認欲

 


 28節では、弟子たちの「承認欲」からの発言があるが、主イエスは、根気強く愛をもって教えられている。「すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』」

 


 パリサイ人と弟子たちの自己承認欲には、違いがある。違いはいろいろ挙げられるが、神の言葉をも自分の考えで曲げ、 神を利用しても、自己一致(自己概念〈そうであるべき自分、自己イメージ〉と自己経験〈あるがままの自分〉が一致している状態で、気持ちに嘘がなく、純粋であること。幼子のように…)がないままに自己を達成しようとする自己顕示欲か、自分に痛い所や弱さと向き合って、自分に必要な欲が満たされていないことを神に持っていき、主と共に歩む自己成長の道を選んでいくかがその違いの一つである。

 

 この時点(十字架前)での弟子たちには、目の前のイエスに従い、みこころに応えて、イエスに承認されたいという思いがあった。そのような弟子たちに、主イエスは、自分は十字架にかかって世を去ることを根気強く伝え、目に見える形で人間の模範として世に来たイエスではなく、神への信仰に立つように、導いておられる。

 

 この時の弟子たちには、十字架にかかって一度死に渡されることが人知を超えた事柄ゆえに理解できなかったが、目に見えるイエスがいなくなった時、信仰が芽吹き、聖霊の承認を得て、主のみこころ(なすべきこと)をなすよう力強く変えられて行った。主が与えた信仰が実を結び、自分ではなくイエスを証するものと変えられていったのである。

 

 18章では、見せかけの信仰とは異なる信仰の本質を、不正な裁判官のたとえ(1-8)、パリサイ人と取税人のたとえ(9-14)、幼子たちのように神の国を受け入れる必要(15-17)、金持ちが神の国に入ることの難しさ(18-25)、救いについて(26-30)、十字架とよみがえりについて(31-34)、盲人の信仰によるいやし(35-43)という流れで信仰の本質が語られている。

 

落ち穂の会

 

 

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2018年2月18日 (日)

兄弟を赦しなさい「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書17章より~

『兄弟を赦しなさい-あなたのところに来るなら-』ルカの福音書17章1~10節(新改訳聖書使用)

つまずきを起こさせる者

 

 16章でイエスは、弟子たちに「不正な管理人のたとえ」を話され、聞いてあざ笑っていた金の好きなパリサイ人たちに「金持ちとラザロのたとえ」を話された。その後、弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」(17:1)イエスの話を聞いてあざ笑ったパリサイ人たちは、イエスの話につまずいたのだが、別のところでパリサイ人たちは、律法を自分たち流に曲げ、人々に負いきれない荷物を負わせて、弱い者たちをつまずかせていた(11:46)。真理を語ったことにより、聞いた人がつまずくのは、避けられないことであるが(「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」(ガラテヤ 5:17))、罪によって小さい人ひとりにでもつまずかせることは、「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」(17:2)と語られている。

 

聖書のいう赦し

 

 罪が原因でつまずきを起こす者については、「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」というさばきが待ち受けている状態であるゆえ、弟子たちに「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。」(17:3)と教えられるイエス。「戒める」ことが第一に言われている。次いで「そして悔い改めれば、赦しなさい。」(17:3)と赦しについて語れている。順番がある。ここで注目したいのが、「悔い改めれば」という語である。これは、赦しについて述べられた中では、ルカの福音書のみにある語であるが、どうでもよい語ではない。4節では「あなたのところに来るなら」とも言われている。罪を犯して悔い改める気もない者を、神は寛大な心で赦されたかを考えてみればよい。神がなさらないことを、神とともに歩む者がどうしてできようか。悔い改める気もない者を、自分を飾るために赦すなら、罪を犯した者を悔い改めから遠のかせてしまうことにもなるのである。それは神の愛ではない。宗教的な自己満足である。「悔い改めれば、赦しなさい。」とは「悔い改めない者を赦すな」と言っているわけでもない。その人が悔い改めるまで赦しを延期して、被害者はその案件をその人を含めて手放すのである。「彼(罪を犯した兄弟)を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ 18:17)と言われている状態である。ただし、これは主にある兄弟についてである。まだ、神を知らない人たちについては、悔い改め云々より、神の愛を伝えることが先決である。「悔い改めます」と罪を自覚して、悔い改めても、繰り返してしまうような場合は、寛大な心で「赦してやりなさい」(17:4)とも言われている。それも七度(完全数)。主の愛は偏ったことをなさらない。

 

信仰を増してください

 

 イエスの教えを聞き、信仰がないとできないと自覚したのか、使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」(17:5)私たちも祈りのなかで、言った覚えがあるのではないだろうか。主は、この願いに答えられている。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(17:6)そのようにできない使徒たちの信仰のなさを指摘されているのではない。わずかな信仰があれば、できるのだと前置きされたのである。そして、「ところで」(17:7)と耕作か羊飼いをするしもべのたとえを引き合いに、「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(17:10)と答えられている。主人のためになすべきことをあたりまえのようにしていくというのがイエスの答えである。私たちは、「私たちの信仰を増してください。」と祈れば、すごい体験をして、また自分の修行や訓練を神が認めて信仰を引き上げられることを待ち望むかもしれないが、主の答えは、主人である主を見上げ、しもべのようになすべきことを忠実に黙々と喜んでしていくなら、信仰が増し加えられていく、というものである。

 

 これを拒み、「『(神の国が)そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』」(17:21)という言葉を追いかけていくならば、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い」(17:33)という事態に陥ることになりかねない。日々、主の教えをかみしめて、忠実に世に光を指し示していこう。

 

落ち穂の会

 

 

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2018年2月 4日 (日)

不正の富で友をつくる「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書16章より~

『不正の富で友をつくる-神と富に仕えることはできない-』ルカの福音書16章1~18節(新改訳聖書使用)

ルカの福音書

 

 ルカの福音書には、たとえ話が多く語られている。ルカの福音書は、ギリシヤ人を直接の対象に書かれたとされている(マタイはユダヤ人、マルコはローマ人)。ユダヤ人は、聖書(律法)を中心として生活していたので、マタイの福音書は、聖書を多く引用している。ローマ人は、政治と権力という理念によって栄えてきたので、マルコは超自然的な力を示すイエスの奇跡に注目させた。ギリシヤ人は知恵を追求し(Ⅰコリント 1:22)、教養、哲学、理性、美を意識していたので、その心に訴えるよう描かれている。教養的、哲学的であったギリシヤ人は議論好きで、その様子を、ルカは、使徒の働きの中で、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒 17:21)と記している。議論好きの彼らは、たとえ話を興味深く聞いたことであろう。

 

 今日の箇所は、「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」の2つが語られている。どちらもお金にまつわる話である。15章ではやってきた取税人や罪人たちに「放蕩息子のたとえ」が語られているが、「不正な管理人のたとえ」は弟子たちに、「金持ちとラザロのたとえ」は一緒に聞いていた金の好きなパリサイ人たちに向けて語られている。

 

不正な管理人のたとえ

 

 「不正な管理人のたとえ」は、ルカによる福音書の中でも一番難しい箇所だと言われている。主人にお金の管理を任されていた管理人が、他の人からの訴えによって、主人のお金を乱費して首になろうとした時に、助けてもらおうと証文に細工をして債務者に恩を売ったところ、その行為を主人がほめたというたとえであるが、普通に考えれば、管理人は主人のお金を使い込み、自己中心的な考えで、証文を偽り、とがめられて当然のような話であるのだが、このたとえでは主人がほめ、主イエスも「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」(ルカ 16:9)と評価しているのである。聞いていた弟子たちは、さぞかし意表を突かれただろう。このたとえでは、訴えた人や管理人、主人の人格の詳細は述べられていない。

 

 「不正の富」と言われているが、ある牧師は、「富はすべて不正な富である。富というのは、正当な手続きで得た富であっても、どこか不正なものがこびりついているし、そうでなくても富というものはいつでも私たちの心をそこに執着させて、神から引き離そうとする。」と言っている。極端かとも思われるかもしれないが、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ 19:24)と主イエスも言われているように、聖書ではマモン(富)は貪欲に通じる、神に反するものとして描写されている。

 

 「自分たちの世については、世の子らは光の子ら(弟子たち)よりも抜けめがない」(16:8)のであるから、神の子はまことの富(天の宝)のために、不正の富をも用いて神にあって抜けめなく忠実に仕えよと語っているのである。
 主イエスは、このたとえのしめくくりで、神にも仕え、また富にも仕えるということはできないと話された。神と富は対照的に述べられている。

 

パリサイ人たちの反応

 

 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(ルカ 16:14)この教えを傍らで聞き、金を愛し、世俗的な職業家であったパリサイ人たちは、神に仕えるという形をとりながら実のところは「金の好きな」とあるように富の方に思い入れがあった。このイエスの教えが広まったなら自分たちの立場がなくなると思い、その場で、「イエスを罵倒し〈嘲笑し〈あざけり〉はじめた」(詳訳)のである。「なんというひどい教えか!」「無知もはなはだしい。」こういう感じだろうか。生きるためには、お金は必要であり、全く持たないわけにはいかない。主イエスが言われたのは、「弟子たちは、神に仕えるのだから富を排除し貧乏でありなさい。」と言われたわけではもちろんない。この世の富を用いて神の国を建て上げよ、ということである。これは、もちろん、カルト化教会のように、お金を信者からむしり取って教会や牧師の誉れのために使ってよいということではない。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われたように、友=困っている人が感謝できるような行為のために用いる、証文を書き換える=(借金を)赦し解放する、但し主人が困ることがない範囲で(これは、主人もあきれてほめていることからわかる)

 

 ユダヤ人には、富と善を結びつけて考える習慣があったという。富はよい人間のしるしであった。パリサイ人は善行を見せびらかし、物質的繁栄をその善行の報いと考えていた。彼らは、律法を自分たちに都合よく教え、離婚も公然と行っていた。分別があるようにふるまい、もっともらしく聖書を教えているパリサイ人たちは、律法を自分流に曲げてまでも律法にそった生活をしているように見せかけ、「ラビ(先生)」として人々から尊敬を受けていた。

 

 そのようなパリサイ人たちに向けて、「律法の一画が落ちるよりも天地の滅びるほうがやさしい」(16:17)と、律法が欠け落ちることはないことが強調された後、「金持ちとラザロのたとえ」で「モーセと預言者との教え(律法)に耳を傾ける」(16:31)重要性を告げられているのは、パリサイ人たちへの主の愛なのである。

 

落ち穂の会

 

 

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2013年10月 3日 (木)

悔い改めと赦し

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ17:3)

 

悔い改めれば赦しなさい、というのは、つまずきへの記事の後、「戒めなさい」
の後に言われている
相手にいけないことをしたということを伝えることが、まず、必要である。
それが「戒めなさい。」ということである。
言っても突っぱねるとしたら、そういう相手には、今は何をしても無駄である。
赦しという神の恵みも無駄にしかねない。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりま
せん。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
(マタイ7:6)
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赦しはキリストの教えの中心となるものだが、それも律法ではなく神の愛に基づいた教えである。
神の愛から離れないように、心を見張りなさい。
あなたを神から離そうとしているものがいる。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける
獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
(1ペテロ5:8)
神にしっかりと結びついていなさい。
そうすれば、どんな敵も呪いも、あなたを害することはない。
心が騒ぐときは、主のもとにありのまま進みでよう。
赦しはすでに神によって備えられている。
まず、自分が既に許されていることを知ろう。
主は、あなたがたの思い煩いいっさいを、引き受けてくださるお方だ!

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2012年12月24日 (月)

クリスマスを祝おう

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ 2:11)

 

クリスマスは、キリストの生誕を祝う日である。
ところが、このクリスマスを否定する意見が、クリスチャンの中でも見られることがある。
聞いた理由はこうである。
 ・キリストが生まれた日は12/25のように寒い冬ではなく、日にちが異なるから。
 ・12/25はもともと太陽神を礼拝していたケルト人の祭りを生誕の祝日としたから。
 ・クリスマスによく見られるマリアに抱かれた赤子のイエスの姿が、力強い神のイメージを薄れさせてしまうから。
 ・クリスマスは、最も世の霊が働いているから。 などなど…
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全知全能の神であられるのに、私たち人類を罪の束縛から贖うために、無力な人(しかも赤子の姿)となって、この世に来られたキリストを、12/25を定めて、世界中が喜び祝うクリスマスに、神の栄光が豊かにありますように。
アーメン。

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2012年10月13日 (土)

なすべきことをしただけです。

「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:10)

 

人のために尽くしているにもかかわらず、うまくいかないと感じている人がいた。
みこころを行なったにもかかわらず、うまくいかないのは、相手に原因があると思っていた。
そういうことを繰り返すうちに、何もする気持ちがなくなっていった。
無力感に襲われ、主の前に静まった時、相手に対して不満を抱えている自分の姿が見えた。
人のせいにして歩めば楽である。
自分を見つめなくてすむからだ。
しかしそこには成長がない。
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誰が見てくれなくても、人は受け取ってくれなかったとしても、あなたの善行・動機は、主が知って下さっている。
主に伺いつつ、みこころの中を歩んで行こう。
時が来て、豊かな実がなっていく。

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