12 列王記 第二

2012年1月11日 (水)

神への信頼

「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」(Ⅱ列王記 23:26)

 

ヨシュアは、徹底的に偶像を破壊した。すたれていた過越しのいけにえをもささげた。しかし、主は、ユダにもたらしたマナセの偶像礼拝の悪を許されなかった。

 

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罪を許すのは、神にとって簡単なことである。しかし、罪を許しはしても、人間は矯正されない。罪のもたらす結果を味わうことなしには、人間には罪を悔いることができなかっただろう。愛である神は、私たちにあえて試練を通される。試練によって、私たちは、多くのことを学ぶ。神は、神を愛する者たちに対し、不必要なことはなされない。どんな時にも、神を信頼し、神に感謝をささげよう。

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2012年1月10日 (火)

罪に対する悲しみ

「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――」(Ⅱ列王記 22:19)

 

宮の破損を修理しようとした時に、宮で見つかった律法の書。ヨシヤはそこに書かれたことに衝撃を受けた。律法に従わなかったために、自分たちに向かって燃え上がっている主の怒りを知り、女預言者フルダのもとにみこころを求めに、使者を遣わした。フルダは、主の怒りは消えることがないと語ると同時に、へりくだったヨシヤへ、主のあわれみのことばを取り次いだのであった。

 

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自分たちに語られる罪とさばきを真摯に受け止め、嘆き悲しむことは、罪の性質を持つ私たちにとって、たやすいことではない。信頼とへりくだりを要することだ。「みんなやっているじゃないか」とか、「これくらいいいじゃないか」とか、「そう言うお前だってあんなことをしたじゃないか。」とか言い訳するのが、肉にある私たちである。罪にマヒしないための予防法は、罪に対して嘆き悲しむ心を失わないことである。ヨシヤは罪に対し、「先代までの王がもたらしたものだ。」「父アモンや祖父のマナセが犯したことで、仕方がない」とは言わず、自らの罪として心を痛め嘆いたのであった。その心を主は喜んでくださった。罪に対する嘆きを忘れないようにしよう。

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2011年12月27日 (火)

あっちもこっちも?

「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。」(Ⅱ列王記 17:33)

 

サマリヤがアッシリヤに取られ、イスラエル人はアッシリヤに捕え移された。それは、イスラエル人が主の道に歩まず、他の神々に仕えることをやめなかったからであった。アッシリヤの王は、イスラエルの人々の代わりに、周囲の国々から人々を連れてきて、サマリヤに住ませた。その民は主を恐れることを知らなかったため、獅子が送られ彼らを殺した。アッシリヤの王は、捕えていった祭司のひとりを連れてきて、ベテルに住まわせ、主の礼拝を教えさせた。しかし、サマリヤの人々は、めいめい自分たちの神々を安置し、祭儀を行った。これ以来ずっと、サマリヤの人々は、主を恐れ、同時に、刻んだ像にも仕えた。

 

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神はただおひとりである。そうでなければ、もはや、完全なる神ではない。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」と主イエスは言われた。ただ、神だけを愛し、恐れていこう。

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2011年12月26日 (月)

地面を打て

「神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」(Ⅱ列王記 13:19)

 

死の間際のエリシャのもとに、イスラエルの王ヨアシュが訪ねてきた。頼りのエリシャの死を前に、敵のアラムに対し、これからどうすればよいかと思ったのであった。エリシャは、王に、弓に手をかけさせ、アラムに面する東の窓を開けさせ、矢を射させ、「主の勝利の矢。あなたはアラムを打ち、これを立ち滅ぼす。」と告げ、矢を取って地面を打つように言った。ヨアシュは矢を取り、3回打ち、やめたのであった。

 

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預言者であるエリシャは、矢は勝利の矢だと言ったのである。あなたは、これでアラムを打つと。ヨアシュが本当に、敵に勝ちたく、エリシャのことばを真剣にとらえたなら、ダン、ダン、ダン…と何度も激しく打ち付けたはずのところである。ヨアシュは言われたとおりに、矢で地面を打った。しかし、ヨアシュは、何も考えずにか、トン、トン、トンと三度でやめてしまったのであった。信仰の戦いには、従順だけではなく、熱意も必要である。従順だけであっても、そこそこの勝利はあるだろう。大勝利を願うなら、熱心に主を呼び求めることが必要である。主は、勝利を約束された。私たちは、熱心に地面を打ちたたき、そのことを求めようではないか。

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2011年12月21日 (水)

選びと祝福

「そこに行ったら、ニムシの子ヨシャパテの子エフーを見つけ、家にはいって、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、油のつぼを取って、彼の頭の上に油をそそいで言いなさい。『主はこう仰せられる。わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする。』それから、戸をあけて、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」(Ⅱ列王記 9:2,3)

 

イスラエルでは、アハブの子のヨラムが王となっていた。
主は、アハブの家へのさばきのために、エリシャに仕える若者を遣わし、エフーに油を注がれた。
そこで、アハブの妻イゼベルがなした諸悪のために、アハブの家の者を打ち殺すように告げられたエフーは、謀反を起こし、アハブの家に属する者をことごとく滅ぼした。
エフーは、バアル礼拝をも根絶やしにし、改革を行った。
エフーは主が定められた働き―アハブの家へのさばき―をことごとく行い、4代目までの子孫が王座に着くことを約束された。
が、エフーは、心を尽くして主と歩もうとはせず、金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。
このころから、主は敵の手によってイスラエルを少しずつ削り始められた。

 

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主の定められた働きが大きければ、聖く正しい人物であるとは限らない。
主は、ある目的のために用いようと思う者を用いられる。
主に用いられる時は、その選びを、厳粛に受け止めなければならない。
心を尽くして神を愛し、従うことが肝要である。
主を知ることを怠り、慢心して歩むなら、委ねられた働きが大きくとも、祝福を得ることができない。
逆に、どんなに小さく見える働きであろうとも、心を尽くして主を愛していくなら、祝福が増し加えられていく。
主に信頼して歩もう。

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2011年12月20日 (火)

希望を失った時は…

「 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。『たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。』そこで、彼は言った。『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。』」(Ⅱ列王記 7:2)

 

アラムがサマリヤを包囲したころ、サマリヤではひどいききんがあった。それは、自分の子どもを食べるほどのひどさであった。この惨状に、王の使者は、「これは主からのわざわいだ。これ以上、何を主に期待できようか。」と言ったが、エリシャは、「明日の今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦と大麦が豊かに売られる。」と預言した。その預言の言葉を聞いた侍従は、「たとい、主が天に窓を作られるにしても…」と答えたのであった。エリシャが告げたとおりに、侍従は、小麦や大麦が売られる光景を前に、民に踏みつけられて、死んでしまったのであった。

 

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同じ惨状を通っても、「ああ、もうだめだ。主がともにいても、助からない。」と言う人と、「主に不可能なことはない。みこころは必ずなる。」と言う人がいる。結果は、大きく異なってくる。「もうだめだ」という思いが湧き上がった時は、主の愛を思い出そう。主はあなたを愛し、あなたを救うために、十字架にかかってくださったのだということを。主を信頼し、主が示して下さる希望への道を突き進んで行こう。助けは必ずやってくる。

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2011年12月19日 (月)

「主は生きておられる」

「そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。『なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。』」(Ⅱ列王記 5:20)

 

アラムの王の将軍ナアマンはらい病にかかっていた。ある日、サマリヤの預言者がらい病を直せることを聞き、エリシャのもとにやってきた。ヨルダン川に七たび身を浸すように言われ、怒って帰ろうとしたが、思いとどまり、エリシャに告げられたとおり、やってみた。すると、らい病がいやされ、きよくなった。イスラエルにいる神の存在を知ったナアマン将軍は、お礼に贈り物を贈ろうとした。しかし、エリシャは「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」と、頑として受け取らなかった。主を讃え、帰途に着いたナアマンが、かなりの道のりを進んだとき、エリシャに仕える若者ゲハジは、「主は生きておられる。必ず何かもらって来よう。」と思い、ナアマンを追いかけた。銀と晴着を要求し、受け取ったゲハジは、エリシャの前に出て、「どこにも行かなかった」と偽ったときに、らい病に侵されたのであった。

 

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「主は生きている」と、謝礼の贈り物を受け取らなかったエリシャ。「主は生きておられる」と、必ず何かもらってこようという決意を実行したゲハジ。ゲハジは、エリシャのもとで、同じ神のわざをたくさん見てきた。シェネムの女の息子が生き返った時にも、側にいた。この奇蹟を拝し、ゲハジは何を見てきたのだろうか。利得、誉れ…そのようなものに人は心を奪われやすい。エリシャは自分に向けられた贈り物は受け取らず、ナアマンに主への礼拝のための土を与えた。「主は生きておられる」と同じ言葉を用いているが、ゲハジの言葉は、自分が主体となっていた。「主は生きておられる…から私(たち)は受け取るべきだ」と。主体となってしまう自分はいないか。一時の快楽に惑わされることなく、よく吟味し、主の祝福にとどまろう。

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2011年12月18日 (日)

信仰によって

「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」(Ⅱ列王記 4:25,26)

 

シェネムにひとりの裕福な女がいて、エリシャが通りかかるごとに、エリシャに食事をふるまうようになった。女は、エリシャが休むことができるようにと、屋上に小部屋も作って、もてなした。エリシャは、お礼をしたいと、子どもがいなかった彼女のために、子どもを与えた。その子が大きくなったある日、突然の頭痛で、息を引き取った。その時、母である女は、エリシャのもとにかけつけた。そして、若い者ゲハジに「お子さんは無事ですか。」と聞かれ、「無事です。」と答えたのであった。

 

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強がりでも偽りでもない。「神の人エリシャのことばで授かった子なのだから、エリシャが何とかしてくれる。そもそも、生まれたことも奇蹟であった…」子が自分のひざ元で死んで、平気なわけがない。動転していたことだろう。それでも、信仰に立って、エリシャのもとにやってきたのであった。エリシャが主に祈ると子は生き返ったのである。突然、降りかかった不幸に「無事です。」と答えたシャネムの女のように、信仰をもって主の御前に持って行こう。主が言われるまで、あきらめてはならない。勝利の人生を歩んで行こう。

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