09 サムエル記 第一

2011年11月26日 (土)

災難も祝福に

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(Ⅰサムエル 30:6)

 

ダビデの留守中に、町がアマレク人によって攻撃され火で焼き払われ、残っていた女子供をみな、連れ去られていた。ペリシテの王アキシュのところで、アマレク人を襲ってはアキシュにバレないように皆殺しにし、偽っていたツケが回ってきたかのような状態である。誰も殺されていなかったことは、幸いなことであった。この災難に今までついてきていた民がみなダビデを打ち殺そうと言い出した。仕えていたサウルによっていのちをねらわれ訓練されていたダビデは、殺そうとする民をあわれみ、神を見上げ奮い立ち、無事、略奪者の手からみなを救い出したのであった。しかも、多くの分捕り物もいっしょに…。

 

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信仰者にとって、災難は、災難で終わらない。悲惨な状態も、主と共にあり、行動するならば、前にも増す祝福へとつながる。信仰から出たことは、主が祝福してくださる。恐れずに主に聞きながら、突き進んで行こう。

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2011年11月25日 (金)

最後の機会

「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。『霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。』」(Ⅰサムエル 28:8)

 

ペリシテ人の軍隊がやってきた時、サウルは恐れ、主に伺おうとしたが、答えてもらえなかった。それで、かつて自分の手によって霊媒や口寄せを追い出していたにもかかわらず、霊媒に頼って、死んだサムエルを呼び出そうとした。それほど、サムエルを頼っていたのである。霊媒女の前にサムエルが現れ、サウルの死を告げた。この後、サウルは、ペリシテとの戦いに敗れ、自害して死ぬ。

 

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いつも主の御名を用いていながらも、サウルの歩みは主に見捨てられた平安のないものであり、最期も悲惨なものとなった。一方、ダビデは、敵陣に身を寄せながらも、祝福を受け、守られていた。同じ神の民であり、神の名を呼びながら、この差はどこから来たのか。ダビデは自分の前に主をおき、主に従う心を持っていた。一方、サウルは選びに慢心し、神の前に自分をおき、従う前に自分の意志があり、自分の意志ならば、罪も罪とせず歩んだ。これが決定的な差を生み出した。霊媒という主に受け入れられない方法を用いていたにもかかわらず、サムエルがサウルの求めに応じて現れたのは、主の許しがあってのことである。神の憐れみである。神は、悲惨な死を前に、サウルが悔い改めることを望んでおられただろう。サウルは、最期まで悔い改めを拒み、王としては立派ではあったが、不本意な死を遂げることとなった。心に浮かんだなら、他がどうであっても、悔い改める機会を逃さず、今、悔い改めよう。

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2011年11月24日 (木)

認めることの重要性

「サウルは言った。『主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。」(Ⅰサムエル 23:21)

 

サウルの関心は、いつまでも自分のことだけであった。サウルに媚を売り、ダビデの居場所を知らせに来たジフ人たちに、サウルが言ったことばである。この前の章では、家来たちに「だれも私のことを思って心を痛めない。」と言って、祭司たちの虐殺を引き起こしている。ダビデを殺すための会話の中で言われた「主の祝福」、サウルの信仰はどうなっているのだろうか、と思わされるところである。サウルの信仰は自分自身であった。神の上に常に自分がいた。神の栄光のために仕える信仰ではなく、自分の栄光のために神を利用する信仰である。サウルの頭の中では、私のことを思ってくれたら祝福を、そうでなかったら呪いを、自分より目立つ者やその者に加担する者には死を、という考えが成り立っている。

 

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主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われた。「自分を捨てる」とは、自分の感情を置いて、みことばに明け渡すことである。サウルはダビデの活躍がねたましかった。自分の中でねたみが起こった時、その感情を否定せずに認め、主の前に持っていくことが大事である。「私はダビデをねたんでいます。主よ、この感情を聖めて下さい。私もあなたのために活躍したいです。ダビデに劣らないくらいに私をも祝福してください。」サウルが、主の前にへりくだり、こう祈れたら、事態は変わっていたかもしれないのである。主の御前にへりくだろう!

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2011年11月22日 (火)

聖霊体験

「サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。」(Ⅰサムエル 19:23)

 

自分を殺そうと付け狙うサウルから逃れるために、預言者サムエルのもと(ナヨテ)に身を寄せたダビデであったが、サウルは執拗に追っかけた。預言者をも恐れないサウルの行動。サウルが送った使者たちに、神の霊が臨み、預言した、ということを三度繰り返した後、サウル自身が出向いた。サウルにもまた、神の霊が臨み、預言しながら歩いて、ナヨテに着き、サムエルの前で預言して、一昼夜、裸で倒れていたのであった。

 

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サウルに神の霊が臨み、預言し、一昼夜倒れていたのは、サウルが聖かったからとか、神の力が与えられたとかというわけではなかった。神の力で、恍惚状態に陥らせ、ダビデを捉えることを阻むためであった。この神による体験は、サウルを改心させなかった。この後、サウルは、そのためなら息子ヨナタンを殺してもいいと思うほどにダビデへの殺意に満ちていく。聖霊に満たされた体験は、あなたをへりくだらせているだろうか。改心へと導いているだろうか。体験は、聖さの証しとはならないことを覚えておこう。

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2011年11月21日 (月)

主の知恵

「サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。」(Ⅰサムエル 16:2)

 

これは、サムエルがサウルに代わる王となる人物に遣わされる時に、言った言葉である。サムエルの目には、サウルは「自分を否定した場合は、預言者をも殺す者」として映っていたのである。実際、民の「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という言葉を聞いて、次第にダビデを殺そうとする前から、サウルにそのような要素があることをサムエルは直感していた。そのような者を相手に、主は真実を告げよとは言われず、あたりさわりのない部分的真実を言えと言われたのであった。

 

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偽りを語らず、真実を告げることは、信頼関係を築く基本である。しかし、誰に対してもばか正直に事実を伝えればよいものでもない。言っても逆効果の場合がある。事実を言ったことで、相手の罪を増長させ、悔い改めの機会もなくしてしまう場合である。主のみことばは、生きている。場合によっては、矛盾のような言葉が語られることもある。どのような人に対しても、主の知恵をいただきつつ、主の真実を伝えていこう。

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2011年11月19日 (土)

サウルの自我

「今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」(Ⅰサムエル 13:12)

 

サウルは、遅れていたサムエルの到着を待たず、自ら全焼のいけにえをささげたことによって、主なる神に退けられた。神がお選びになった者であるにかかわらず、サウルが退けられた理由は、何だったのだろうか。サウルが神を見上げて、信仰により、いけにえをささげたのならば、主はお受けになったことだろう。王になったサウルの関心は、常に自分であった。「民が私から離れる」「私は主に嘆願していない」「私は主のことばを守った」「私の面目を立ててください」…。サウルのことばをざっと見ても、常に主の前面に自分があった。これが、後のダビデの苦難につながっている。主の矯正の御手においてもサウルは変わらず、生涯の終わりにおいては、霊媒師を頼り、面目を保つことを考えてこの世を去った。

 

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サウルは主を信じていたかもしれない。しかし、常に主の上に自分をおいていた。サタンも主が神であることを知っていた(信じていた)のである。信仰者の自我は、自分では気づきにくい。主への自分の信仰と思うからである。主の前に自分をおいてはいないだろうか。いつも吟味する者であり続けよう。

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2011年11月18日 (金)

状況打破のためになすべきこと

「さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」(Ⅰサムエル 12:3)

 

預言者サムエルは、忠実に主の務めをなし、民を勝利へと導いていた。ところが、サムエルが年をとり、息子たちをイスラエルのさばきつかさとしたところから、民は王を求めた。息子たちは、父の道に歩まず、わいろを取ってさばきをまげていたためであった。サムエルが歩んだ主の道に歩んでいない息子たちを、民をさばくポジションにつけたことが原因だが、それでも主を信じる信仰によって歩み、正しくさばかれる神を信じ、神に祈りの中で訴える熱心があったなら、王を求めることはしなかったであろう。平和な中、民は主を忘れ、息子たちに目をとめた結果、人間的な統率力を求めたのである。

 

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このままではよくないという状況の中、打破するためになすべきことは、主に祈り、奇跡的な主の介在を待ち望むことである。人間的に動いてしまうなら、一見、よいように見えたとしても、それが仇となり、後に悪い方向へと進みかねない。これが主のなさったことだという確信とともに動くなら、輝くばかりの主の栄光が降り注がれることだろう。忍耐をもって、祈り続けよう。

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2011年11月17日 (木)

依存するということ

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。』そこで、サムエルはイスラエルの人々に、『おのおの自分の町に帰りなさい。』と言った。」(Ⅰサムエル 8:22)

 

主のみこころは、王を立てることではなかった。王を求めたことは、「民を治めている神を退けたことだ」と言われた。主のみこころは、主のみを信頼し、主により頼み、勝利の道を歩み続けることであった。しかし、今、「王を立てよ」と言われる。王を立てるということは、王の支配下に入り、いろいろな枷がかけられるのだということを、サムエルは説明した。が、民は「どうしても私たちの上には王が必要だ」と聞かなかったからであった。

 

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王を立てることが許されたのは、主の憐れみである。主を拒み、王を立てたいと言って聞かないかたくなな民は、いつ裁かれてもおかしくない状況にあった。それを許して下さったのである。民は、これから続く長い王制によって、人間を王につけるとは、どういった状態かということを、身をもって学んでいくことになる。私たちもまた、神がいるにもかかわらず、必要以上に人間を求めていることはないだろうか。頼りになる人に引張って行ってもらうことは、楽な道であるかもしれない。どのようにすばらしい人であっても、人間には限界がある。自分の足でしっかりと主の御前に立とう。主ご自身があなたを支えて下さるのだから。

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2011年11月16日 (水)

無関心の罪

「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。」(Ⅰサムエル 3:13)

 

子どもが神に対して罪を犯したら、戒めることが必要である。罪がいけないことであると、学ばせることが大切である。これは、愛情からなさなければならないことである。親もまた、口ばかりであってはいけない。よい手本となるよう、神の御前にへりくだることを教えることである。

 

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「わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。」(エゼキエル 33:8) 愛の反対の言葉は、無関心である。子どもたちが、罪が何であるかを知るような大人となるように…。

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