07 士師記

2011年10月30日 (日)

あきらめてはいけない!

「そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。『私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。』すると、主は仰せられた。『攻め上れ。』」(士師記 20:23)

 

ベニヤミンに属するギブアは、神が滅ぼされたソドムの町のように罪に染まっていた。帰宅途上のそばめを連れたレビ人がギブアで一夜を明かさなくてはいけなくなった。彼らを迎え入れようとする家はなく、やっと通りがかったひとりの老人が泊めてくれることになった。その時、町のよこしまな者たちによって、そばめ暴行死事件が起こる。ベニヤミンがイスラエルの中で行ったこの恥ずべき出来事に対し、他の部族が報復することとなった。事件を起こしたよこしまな者たちを引き渡す要求に対し、ベニヤミンは聞こうとせず、精鋭部隊を招集したのであった。神は、そばめの出身であるユダから最初に上るように仰せられた。神に伺いながらの出陣であったが、イスラエル人は最初は二万二千人、次には一万八千人と打ち負かされてしまう。三度目には、すべてのイスラエル人が主の前に出て、泣きながら断食し、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、伺ったところ、神は勝利を告げられ、イスラエルは大勝利を治めた。

 

----------------------
神が言われたことであっても、すぐには成らず、かえって間違っていたかのように悪い方向へと向かうことがある。そこで疑い、あきらめたならば、勝利を手にすることはできない。神が言われたことならば、再度、神に聞こう。また、神に喜ばれない事柄がないか、振り返ってみよう。誠心誠意をもって、罪をきよめていただき、へりくだった心で、御前に立つなら、神は勝利を与えて下さるお方だ。あきらめずに、主に祈ろう!

| | コメント (0)

2011年10月29日 (土)

神に聞こう。

「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」(士師記 18:31)

 

士師記の時代は、指導者もなく、めいめいが自分の正しいと見えることを行っていた。そのような状態が続き、末期的状態となっていた。エフライムの山地出身のミカという人物の母が、息子が自分から盗んで返した銀の一部で、彫像と鋳造を造った。ミカは、神の宮を持っていて、自分のために、旅人としてやってきたレビ人を買収して祭司に任命したのであった。そこへ、ダン族が偵察にやってきた。ダン族には、主よりの相続地が割り当てられていたが、まだ勝ち取ることができないでいたのである。ダン族は、まず、ライシュを攻め取ることにした。ライシュの人々は、豊かな地で何不自由なく平穏に過ごしていて、他との交渉がなかったのである。ダン族は、その平和な民を襲う前に、ミカが持っている彫像と鋳造とレビ人とテラフィム、エポデを盗み、自分たちのものとした。そうして、ライシュを襲い火で焼き占領した。ミカから盗んだ彫像等は、ダン族が自分たちのために、シロの宮に安置した。

 

----------------------
神の名によって行なって成功したかのようにみえても、みこころとは限らない。聞く耳をもたない状態の時、神は黙秘される。神への愛から、神ご自身をよく知り、自分の考えではなく、神に喜んで従うようになることを願って、黙秘される。罪の中での成功は、神にはよらない。まず、神に祈り、神というお方がどういうお方であるかを教えていただこう。神はご自身を愛する者を決して見捨てられはしない。黙示録のイスラエル部族の中に、ダンの名はなくなっている。

| | コメント (0)

2011年10月28日 (金)

見た目はどうであっても

「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」(士師記 14:4)

 

サムソンは、神のお告げによって、胎内にいるときからのナジル人として生を受けた。ナジル人は、神にささげられた者として聖別された者であり、規定された誓約を守る必要があった。サムソンはイスラエルを支配しているペリシテ人からイスラエルを救うために聖別され生まれたのであった。このサムソン、神のナジル人だから聖く正しい者であったかというと、そうでもなかった。女好きだけど熱しやすく冷めやすい性質であり、女性に弱く、神に与えられた強い力を奔放に使うような人物であった。それでも、神に選ばれ、祝福を受けた者であった。ある日、サムソンは、ティムナという町で、ペリシテ人の娘に一目惚れし、両親に妻にもらってくれと懇願したのであった。

 

----------------------
律法的に見るなら、主の民の敵であるペリシテ人の女性との結婚なんて、不信仰でさばきにあってもおかしくない事柄である。サムソンの父母も嘆いていた。しかし、聖書は、「
それが主によることだ」と言っている。サムソンは、見方によっては締まりのない不信者のように見えるかもしれないが、個性ある信仰者であった。ほめられることではない事も多々したが、主の計画された働きの中、生涯を閉じた。私たちは、自分の育った環境や価値観で他人を量りがちである。唯一完全なる正しいお方は神のみである。間違いを犯しやすい私たちは、たやすく人を判断せずに、神の律法である「神への愛」と「隣人への愛」に立って輝いていこう。

| | コメント (0)

2011年10月27日 (木)

悔い改めの大切さ

「神は、アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。」(士師記 9:23)

 

ギデオンがそばめの女奴隷との間にもうけた子アビメレクは、民の上に立って支配したいと、他の兄弟70人を一つの石の上で殺害した。隠れていた末子のヨタムだけが生き残った。アビメレクは三年間、イスラエルを支配したが、悪から出た一致は、所詮もろいもの。愛から出ていない関係は、裏切るのも早い。アビメレクは逆らう多くの者たちを殺していった。テベツという町で、住民たちがやぐらの上に立てこもった時、アビメレクはやぐらの戸に近づき、焼き殺そうとした。その時、一人の女がひき臼の上石を投げ、アビメレクの頭に当たり頭蓋骨が砕けた。これが原因でアビメレクは死に、戦いは治まったのであった。

 

----------------------
悪から出た関係は、必ず破たんする。罪は、悪霊の砦となる。しかし恐れることはない。悪霊も神の赦しなしには、何もすることはできないのである。罪を犯しても、それを心から悔い改め、神を愛する道を選びとるなら、神は祝福を与えて下さる。しかし、悔い改めるどころか、それを正当化し、開き直っておくなら、神は悪霊に引き渡されることもされることだろう。それもまた神の愛なのである。苦しみの中、立ち直ってくれるなら、永遠の祝福の中にいれてくださるのである。その可能性があるなら、一時の苦しみは、永遠にくらべると、比較にならない。放置するなら、永遠の苦しみが待っているのだから…。罪を犯さない者は一人もいない。いつも、悔い改める心を、祈りの中でいただいていこう。

| | コメント (0)

2011年10月26日 (水)

あなたのその力で立ち向かおう。

「すると、主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」(士師記 6:14)

 

主の使いが、略奪にやってくるミデヤン人からのがれて、こっそりと酒ぶねの中で小麦を打っているギデオンに現れて、言った。「勇士よ。」と。ギデオンにしてみたら、戦う気力もないほど圧迫を受けているため、「勇士っていったい誰?」という感じであった。自分でも言っているように「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若い」ギデオンに、主の使いは、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え」と言った。なぜ、ギデオンなのか。主の使いは「わたしはあなたとともにいるから」と言っている。それがすべての理由であった。

 

----------------------
主は、あえて、自分の力により頼まず、主により頼まないと進めない弱さの中にいる者を選ばれた。主への従順な信仰をもって、自分の持っているだけのわずかな力を主の前に差し出すなら、主はその力を祝福してくださる。神の民の中に入り込み、神の民を圧迫するミデヤン人は、我々に入り込む罪である。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル 12:4)とあるが、信仰者にとって、罪は戦って抵抗すべきものである。その戦いは、「あなたのその力」で十分抵抗できるものなのである。その力を差し出したところに、聖霊なる神が勝利を与えて下さる。あきらめずに、ともにおられる主に信頼していこう!

| | コメント (0)

2011年10月25日 (火)

信仰者の罪

「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」(士師記 1:21)

 

神の宮であるエルサレム。主のみこころは、主の敵を一掃し、神の民が聖められて他と区別され、主を礼拝しつつ、その交わりの中、主を喜びとし、幸せに生きることであった。一掃する戦いには、神がともにおられたため、ただ信仰によって可能な事であった。しかし、ベニヤミン族だけではなく他のイスラエル人も、カナン人を追い払い尽くすことはせず、共存する道を選んだ。その結果、主の使いによって、「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」という宣告を受けたのであった。

 

----------------------

 

クリスチャンにとって、古い住人である罪。その住人を追い払うことが神のみこころである。これは信仰によってのみなせる戦いである。妥協するなら、それは罠となって、主との交わりの妨げとなっていく。ヨシュアやカレブのように、まず「できる」と信じ、行動していこう。主がともにいて下さる。

| | コメント (0)