06 ヨシュア記

2011年10月24日 (月)

信仰の決意

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア 24:15)

 

ヨシュアが老人になって、民をそれぞれの相続地に送り出す時に、すべての民に語った言葉である。民が不満を持ちやすく、また、たやすく主から離れる性質をもっていることを、ヨシュアはよく知っていた。相続地を得るために、主が介入して導き入れて下さったのだから、主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えよと、民に注意を与えたのであった。その注意の後で、こう言ったのであった。主を選ぶか、他の神々を選ぶかは、自由意思による選択なのだと。その選択は、自己責任を伴うものである。誰がどうであっても、ヨシュアは「私と私の家とは、主に仕える。」と言い切った。

 

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他の誰が、主から離れ去ろうと、私と家族は主に仕える!と確かな意志をもって決意することが大切である。この決心がないと、他の人に流されやすく、主を信じた後も、ふらふらと風の吹くままさまよってしまう。それでも、主を信じているから大丈夫だと、当人は思っている。聖書は、二心をもって歩むことに警告を発している。これくらいは…という侮りを捨て、今、主に仕えることを決意しよう。

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2011年10月22日 (土)

主の約束は必ず実現する!

「主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(ヨシュア 21:44, 45)

 

主は約束されたことは必ず守られる。カナンの地はイスラエルに与えると神が約束されたように、神は、イスラエルの民をカナンの地に導かれた。民の不信仰によって、年数も経ち、世代も変わったが、その中にあっても、神は約束を守られた。実際は、占領すべきところはまだ残っていたが、神の側では、完了していた。

 

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神は、私たちを幸せにすることを願っておられる。その過程において、聖絶するべき罪や乗り越えなければならない困難があるかもしれないが、神が、信じる者に約束されている祝福すべては一つもたがわず、一人ももれず、必ず実現する。主の私たちへの愛を、疑わずに、信じ続けよう。

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2011年10月21日 (金)

信仰の眼鏡をかけよう

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(ヨシュア 17:18)

 

人数の多いヨセフ一族は、割り当て地のことで、ヨシュアに不満を言った。その要求にヨシュアはどう対処したか。「数の多い民であるのに、なぜ、ただ一つの割り当て地しかくださらなかったのですか。」には、「数が多く、大きな力もあるのだから、森を切り開いて広げよ。山地もあなたのものとせよ。」と言った。「山地には、カナン人らが住んでいて、鉄の戦車を持っています。」と言い返すと、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」と返したのであった。

 

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ヨシュアの答えは、普通ならば、変である。これが信仰である。普通ならば、「強いのだから、追い払えるわけがない。」であろう。ヨシュアは無茶なことを言っているわけではなく、「信仰に立て」と言っているのである。また、強い敵がともに混ざり合って住んでいたなら、平安には暮らせないのである。主が置かれた今いる所での不安な要素、それを通して主は何をなさろうとしておられるのだろうか。困難と思えても、主を見上げ突き進むなら、必ず光が差し込むのである。信仰の眼鏡をかけて、主を信頼して進んで行こう。

 

 

 

 

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2011年10月20日 (木)

主を待ち望む力(若さの秘訣)

「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(ヨシュア 14:12)

 

カレブは、45年前の主の約束を握りしめて離さなかった。その間、荒野の40年とカナンでの戦いの5年と、容易ではない生活を強いられていた。荒野の40年は、信仰に立って行動したヨシュアとカレブにとって、巻き添えをくったようなものであった。カレブは、今85歳になっていた。にもかかわらず、驚くべきことに、40歳の時の力と同様だと言っている。主に従い通した結果であった。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ 40:31)とあるとおりである。カレブは、約束を45年間信じ続け、今もなお信じ、ついには主との約束の地を相続した。

 

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主は、私たちに約束してくださったことは、必ず成る。必要なことは、主を信じる信仰だけだ。どんなに苦しくとも、主がともにいてくださって、この状況すべてが、主の御手の内だ。カレブの45年間も順風満帆ではなかったはずだ。主に希望を抱いて、今日も歩んで行こう!

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2011年10月19日 (水)

捨て身の者を見捨てられないお方

「すると、彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この全土をあなたがたに与え、その地の住民のすべてをあなたがたの前から滅ぼしてしまうようにと、お命じになったことを、このあなたのしもべどもは、はっきり知らされたのです。・・・私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」」(ヨシュア 9:24,25)


ギブオンの民は、主を恐れ、聖絶されないようにと一計を案じた。カナンの住民ではなく遠くからやってきた民のように装い、ヨシュアらイスラエル人をだまし、生かしてくださるよう誓いを取り付けたのであった。聖書には、ヨシュアらが「主の指示をあおがなかった。」とある。ヨシュアは、誓った通りに、ギブオンの民を救った。カナン入植中の大事な局面である。出会う民について、主に伺っていれば、だまされたという汚点は残らなかったであろう。主に伺っていれば、主はへりくだりをもって主のもとにやってきたギブオンの民を、やはり助けられただろう。ギブオンの民はサウルの時代に至るまで、イスラエルとともにいた。そればかりか、サウル王がギブオン人を殺したことで、主はその罪を問われたのであった。

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主はへりくだって、みもとにやってくる者を拒まれないお方である。「あなたのお気に召すように、お目にかなうように」と自分を明け渡したギブオン人のように、自分で握りしめているものを明け渡し、主にゆだねよう。主が祝福してくださる!

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2011年10月18日 (火)

主への侮り

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」(ヨシュア 7:1)
主の約束の地カナンに行くために、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、主の言われた通り、エリコの町のまわりを1度、6日間回り、7日目には7度回った。7度目に祭司たちが角笛を吹いた時、ヨシュアは「ときの声を上げよ」との合図とともに、注意を与えた。「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである」と。厳粛な時に語られたひとつの注意事項だった。にもかかわらず、アカンはこの注意事項を守らず、自分の欲のために、「シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本」を取り、天幕の中の地とその下に隠した。この後、イスラエルにわざわいが起こり、ヨシュアが問いただすと、アカンは、罪を告白した。この後、アカンは、聖絶のものをかすめたために、聖絶されたのである。罪を悔い改めたかのような告白をしたのに、と思うかもしれないが、アカンは主が与えた注意があったにもかかわらず、欲に負けてしまった。隠していたことから、悪いことという自覚はあったことが伺える。また、ヨシュアが聞いた時に、金銀の目方をはっきりと即答していることから、金銀の目方を量って、楽しんでいた様子が伺える。カナン入植の第一歩となる厳粛な時に、アカンは主を侮ったのであった。

 

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罪の誘惑は誰にでも起こる。しかし、実行に移すかどうかは、それぞれの意志による。罪の楽しみははかなく、やがて苦味に変わるものである。罪の誘惑が来たときには、主を思い出そう。私たちの罪のために、身代わりとなって下さった主を。誘惑に負けそうになったときには、「助けてください」と呼ばわろう。聖霊なる神が、いつも私たちを助けて下さる。

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2011年10月17日 (月)

心しなえた時は…

「私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア 2:11-13)

 

ヨシュアが送ったふたりの斥候がきた時、遊女ラハブは、やってきた王の使いからふたりをかくまった。その後、斥候たちのところに来て言ったことばである。エジプトを出てからの主のみわざと主の敵に起こった出来事を聞いて、エリコの人々の心はしなえ、勇気をなくした。そのような中で、斥候をとらえて偵察させまいと悪あがきする王の側近、一方、勇気をなくしている中、残っている勇気をふりしぼり、主への信仰に立つ遊女。この信仰の行為が、ラハブ一家を救い、後世までイスラエルの中で過ごすこととなる。ラハブは、イスラエル人と結婚して、イエス・キリストの系図に名を連ねる光栄に預かったのである。

 

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信仰による行為は、それがたとえ小さなものであったとしても、報いをもたらす大きな結果を生み出す。心がしなえ、勇気がなくなってた時は、主をあがめ賛美しよう。そして、自分の願い事を明確に主に言い表そう。神である主が聞いて下さっている!

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