04 民数記

2015年2月22日 (日)

モーセの過ち

 「モーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。』モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』」(民数記 20:10-12)

 モーセという人物は、主が顔と顔とを合わせて選び出され、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」(申命記 3:14)と言われた信仰者であった。

 「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」いきなり、この言葉だけを聞くと、そこに神である主は見えず、ひどい言葉である。
この前に、主である神は、モーセに言われた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」(民数記 20:8)と。
モーセは、主に命じられたとおりに、杖を取ったが、主の言われた「岩に命じる」ことはせず、杖で岩を打ったのであった。しかもしっかり二度…。

 「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記 12:3)モーセが上記のような言動をした原因は民にあった。
エジプトを出てすぐに、パロの追っ手を見た民は「荒野で死なせるために、私たちを連れだしたのか。」とモーセにくってかかった。
その後も民は、「パンが食べたい。飢え死にさせるのか。」「水がない。渇きで死なせる気か。」「モーセが山から降りてこない。私たちを導いてくれる神を造ってくれ。」「マナには飽き飽きだ。肉が食べたい。」…と、神のみわざを見ながらも、ぶつぶつ不平不満を言いつづけ、時には、モーセを石で打ち殺そうとまでしていたのであった(出エジプト 17:4)

 そういう中で、モーセの忍耐が切れたのか、モーセは主を超えて、民に言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 モーセは神に用いられた信仰者であったが、神自身ではなく、神のようにふるまえる権限はなく、岩から水を出されるのは、神であった。
原因は民にあり、非情のようだが、この一つのことで、モーセは、「主である神をイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」という理由で、約束の地カナンに会衆を導き入れることはできず、約束の地に足を踏み入れることができなかったのである。

 モーセの役割は、民の前に、主である神を正しく示し、牧することであった。
私たちは、ここから、何を学ぶだろうか。

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2012年12月 6日 (木)

主に用いられた時の態度

「すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」(民数記 22:28)

 

エジプトから贖い出されたイスラエルの民が荒野にいた時のこと、モアブの王バラクは、勝利していくイスラエル人を恐れた。
そこで王バラクは、「彼が祝福する者は祝福され、彼がのろう者はのろわれる」と評判だった占い師バラムに使いを出して、イスラエルをのろうようにことづけた。
しかし、神に「のろってはいけない。」と言われ、バラムはバラクのところに行くことを拒んだ。
ところが、王バラクがあきらめなかったため、バラムは、神に再確認することにした。
神に「わたしがあなたに告げることだけを行なえ」と言われたバラムは、使いの者たちと一緒に王のもとへと向かった。
モアブで受けようとしている栄誉と富に心奪われ、バラムが出発すると、神は怒りを発せられ、主の使いを送られた。
主の使いを見て道をそれたろばをバラムが打ち叩いた時、主はろばの口を開かれた。
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主に用いられることは、喜びである。
喜びのあまり、自分が素晴らしいものになったかのように錯覚してしまうかもしれない。
しかし、誰もいなかった場合、主はろばの口をも用いられるお方である。
私たちは、「なすべきことをしただけです。」(ルカ 17:10)という謙遜な態度が必要である。
その態度を忘れずに、主のみわざを大いに喜ぼう。
主の栄光が輝きわたるために。

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