00 教会問題

2020年6月 9日 (火)

新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

救われた当時はわからなかったのですが、いろいろ経験してくると、この時のメッセンジャーたちは、いろいろ問題があるのではないかと思っていました。
この時から何年も経って、第三の波とか新使徒運動とかという言葉とともに、いろいろ問題が語られ出してきていますが、当時、この集いを通じて、夫が救いに導かれたことは否定できないため、当惑したこともありました。

信仰は、自分と神様の関係で確立していくものであるから、外側で起こることは、自分側がどのように取り込むかによって、つまり、同じところで同じメッセージを聞いても、人によって受ける影響は異なってくるものである。「外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない」(マルコ 7:18)と主イエスも語っておられる通りじゃ。
教派を超えて、様々な教会による集会は、モチベーションが上がる良い面もあるが、吟味なしに信じ込んでしまうと、似ても似つかぬ同姓同名のイエス・キリストにすり替わっていく危険もあるということを、覚えておきたい。
偏りのない聖書教育を施し、判別していけるように育てていくのは、教師の使命だともいえるのぉ。

救われた喜びが大きかったことや子供たちを連れていたということもあり、話の内容は頭に入っていませんでしたが、この時、メッセンジャーが「今、神様が言われました。『天皇陛下がイエス・キリストを信じます。テレビでイエス・キリストは私の主です、と公言する時が来ます。』」と突然、預言だと語られたことを記憶しています。
まだ何も知識のなかった私は、「本当だとしたらすごい!」と思い、故郷の親族に伝えたことを覚えています。
結局、この言葉は実現せず、この時の天皇陛下も職を退かれていますが、後年、この流れの預言の実現率は20%以下だと言われているということを聞きました。(真理のみことば伝道協会のページ参照)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)とあるように、すべて神の計画の中じゃ。
神を愛しているならば、必ず、神の真理にたどり着く。「神を愛しているならば」がポイントじゃな。ふぉっふぉっふぉっ

 

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2018年11月19日 (月)

危険な教えから守られるために

1.イエス  オリジナルテキスト「神」、主題からの学び「三位一体なる神」、主題からの学び「キリスト者の結ぶ実」
 
キリスト教の基本「三位一体なる神」の子なる神。人類に与えられた唯一の救い。
「この方(イエス)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべ き名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)
救いは、だた、イエスを神と信じる信仰だけによる。
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(イエス)を信じる信仰によっ て、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒 26:18)
「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ 2:17)
は、救いのためには、何かの行ないが必要であると言っているわけではない。“”を結ぶ必要を言っているのである。
神の働きと自我による肉の働きとは異なる。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ 16:24)
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何 でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ 5:19,20)



2.罪
  オリジナルテキスト「罪」

聖書の「罪」は、 「的外れ」という意味を持つ。神から離れた結果、もたらされた罪。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。 『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』女は蛇に言った。 「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。 あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、 あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、 いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。 そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記 3:1-7)
神のはっきりしたことばによる単純ないましめに対する自発的な不従順と違反。結果は、恥と死。
誘惑されるだけでは、罪とはならない。誘惑に対して、自我が目覚め、神を疑い、神ではなく自尊心を満足させる道へ進むことによって罪となる。
アダムとエバは、罪を犯した後、自分の働き(つづり合わせたいちじくの葉)で恥を覆った。神は、それに変えて、血の犠牲(皮の衣)で恥を覆ってくださった。



3.救い
   オリジナルテキスト「救い」
 
信仰による救い。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:9-10)
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ 10:13)

行ないによらず、救いは神からの一方的な恵みである。
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ 2:3-9)



4.証し


証しは、私たちが、神とともに歩んで、聖霊さまの導きに従って行くなら、喜びの中、おのずと証し人となっていくものである。証しをしなければならないと、無理をするなら、逆効果になりやすい。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:8)
イエスを主であると信じ、救いを受けた者はみな、聖霊によって、イエスの証し人となる。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」(伝道者 3:1,7)



5.贖い
   主題からの学び「贖罪の日」


アダムが、罪を犯して以来、罪の赦しのためには、牛や羊ややぎや鳩の血をささげる必要があった。イエス・キリストは、全人類(罪を悔いてこのことを信じる者すべて)の罪を贖うためのほふられた小羊となって、十字架にかかられた。全人類の罪を贖うためには、罪のない完全ないけにえが必要であった。それは、受肉された神にしかできないわざであった。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ 3:23,24)



6.悪、世の苦難


神を愛し、イエス・キリストとともに生きる時、悪い出来事も、苦難も、益になる。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐え ることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、 脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント 10:13)
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰 めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふ れているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたが たの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(Ⅱコリント 1:4-6)



7.悪魔、悪霊


神にそむいた堕落天使長サタンとその手下の御使い。霊的な存在である。私たちは、悪い問題に遭遇すると、目に見える人間に目をとめがちであるが、憎むべき対象は、背後の霊であって、人ではない。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ 2:4)
いずれにしても、私たちに起こるすべてのことは、主の赦しがないと起こり得ない。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ 28:18)
最悪に思えることも、ヨブの試練のように、永遠の時の中での主の御手の内では、意味あることであり、神を愛する者にとっては、すべてが益となるのである。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
場合によっては、授けられている主の御名の権威を用いて、勝利を受け取る必要がある。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、…」(マルコ 16:17)
「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント 15:57)



8.安息


安息は神の秩序の基本である。創造のサイクルの第7日目に当たる。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコ 2:27-28)
人間のための安息日。人間には安息日が必要。
初代教会の人々は、キリスト復活の日を“主の日”と呼んだ。そして、週の初めの安息日に聖なる日として集まっていた。
「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒 20:7)
「…いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」(Ⅰコリント 16:2)
「あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。…七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息である。」 (レビ記 23:2,3)
聖なる会合の日=安息日 例祭=お祭り、喜びの日、週に一度
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ 10:9)



9.預言者
   主題からの学び「御霊の実」、主題からの学び「愛Ⅰ」、主題からの学び「愛Ⅱ」

主が語られたことは、必ず成就する。地に落ちることはない。部分的に当たることやある程度の奇蹟は、悪魔・悪霊たちにもできること。“”を見て判断すべきである。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」(エレミヤ 28:9)



10.さばき
   主題からの学び「罪とさばき」、メッセージ「さばく力」

「さばいてはいけない」「ゆるしなさい」は、キリスト教の教えであるが、これが律法的に使われていくと、主イエス・キリストの愛から離れた異質な教えとなってしまう。
「〔人を〕さばいてはいけない。〈さばきを宣告したり、非難を浴びせたりしてはいけない〉。そうすれば、あなたたちもさばかれない。〔人を〕罰して〈罪に定めて〉はいけない。そうすれば、あなたたちも罰せられない〈罪に定められない〉。免除して〈赦して〈釈放して〉やりなさい〈憤ることをやめ、憤りをしずめなさい〉。そうすれば、あなたたちも免除される〈赦される〈釈放される〉。」(ルカ 6:37〈詳訳〉)
ここでいう「さばく」は、「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」であって、「罪への指摘や忠告のこと」ではない。 愛から出た「罪への指摘や忠告」は、神の国を治めるために、必要なことである。
「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)
非難ではない罪を治める行為を「さばく」とし、「さばくな!」と非難して押さえ込むことは、カルト化の徴候の一つである。



11.赦し


「ゆるしなさい」もまたキリスト教の教えであるが、これが律法的に使われていくと、主イエス・キリストの愛から離れた異質な教えとなってしまう。
聖書は、「被害を受けても、黙って耐えてゆるしなさい」とは言っていない。
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したら、行って、あなたと彼の間だけで〈ひそかに〉、彼に彼のあやまちを示しなさい。もし彼があなたに聞けば、あなたはあなたの兄弟を取り戻したのである。しかし、もし彼が聞かなければ、ほかにひとりかふたりの人を伴いなさい。それはふたりまたは三人の証人の証言によってすべての言葉が確認される〈支持される〉ためである。もし彼が彼らに注意を向けないならば〈よく聞いて従うことを拒むならば〉、教会に告げなさい。そしてもし彼が教会にさえも聞くことを拒むならば、彼を異教徒また税金取り立て人として扱いなさい。」(マタイ 18:15-17〈詳訳〉)
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ 20:23)

悔い改めのない状態を一方的に「ゆるしなさい」と押さえ込むことは、主イエスの教えではない。(ゆるさないのではなく、神に委ね手放すことは必要である。)
悔い改めのない者を赦すことは、神もなされないことである。
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ 17:3)
ただし、弱さを考慮しなければならないことも、聖書は言っている。
「弱い信者というべき人について言えば、彼を〔あなたがたの交わりの中に〕喜んで迎え入れなさい。彼の考えを批評する〈彼の良心のとがめに対して判決を下す〈論議をもって彼を悩ます〉ことにならないようにしなさい。」(ローマ 14:1〈詳訳〉)」
「ゆるす」こともまた、律法ではなくキリストの愛によってなされるべき事柄である。

 

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異端の性質

キリスト教異端派の創始者には、どれほど小さい宗派(セクト)でも必ず、正しいのは自分であり、既成の教会は、 誤っていることを時が証明するであろうという同じ期待がある。※1

 キリスト以前からあり、キリスト教にも取り入れられた異端に、グノーシス主義があった。 これは、「ギリシア、ユダヤ、オリエントの思想を吸収したもので、物質界は悪であるので、善なる神が物質界を創造したことはありえない、 堕落した霊的存在であるソフィア(知恵)の子供が物質界を造ったのである。そして、救いは、信仰と愛だけで得られるのではなく、 哲学的知識や直感、魔術的儀式や教え、秘密の知識の伝授によって得られる。」というものである。
 使徒の働き8章は、魔術師シモンのキリスト教徒への改宗を描いている。 このシモン・マゴスは、ピリポによって洗礼を受け(使徒 8:13)、お金で聖霊の賜物を買おうとしてペテロの叱責を受けたときは謙遜に応えた(使徒 8:18-24)。しかし、その後、彼はキリスト教から離れてしまった。彼は、必ずしも、完全なグノーシス主義ではなかったが、 教父たちはシモン・マゴスを異端の父、いくつかのグノーシス主義の産みの親、初めてグノーシス主義の要素をキリスト教に結びつけた人物とみなしている。 彼は、「偉大な啓示」というグノーシス主義の文書の著者とされている。シモン・マゴスは、サマリヤ人のメシアになったのみでなく、シモンは第一の神、 あるいは至高神と自称しさえしたという。シモン・マゴスが起こした宗派(セクト)の一つはシモン派と呼ばれ、世界を救うためにシモンはこの世に来た、と主張した。※2
 シモン・マゴスのように、キリストを信じても、悔い改めに向かわず、欲に支配されるなら、このような異端を生み出す危険がある。

 聖書にも、異端的教えは見られる。
 割礼や律法に従うことも強いずに、異邦人キリスト教徒を受け入れていたパウロに反論して、ユダヤ人キリスト教徒は、「割礼と律法の遵守を行わなければ、救われない。」という主張を立てた。 これが、激しい論争となったので、エルサレム会議を開き、『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。』」(使徒 15:28,29)という決定を下した。
 このユダヤ人キリスト教徒の系統は、パウロの死後数世代間、4世紀か5世紀に至るまで、教会内部の少数の異端者として存続していた。※3

 

引用:※1 「異端の歴史」(D・クリスティ=マレイ著 教文館発行)  20頁
参考:※2 「異端の歴史」(D・クリスティ=マレイ著 教文館発行) 39-40頁
引用:※3「異端の歴史」(D・クリスティ=マレイ著 教文館発行)   29頁

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聖書から見たサタンの性質

異端と呼ばれる教えには、似たような教えが多く見られる。そのような教えの出所は神ではなく、サタンである。
同じみことばを用いて似たようなことを言っていたとしても、サタンの教えには、神の性質である“”はなく、次に列挙するサタンの性質が見られる。

①うそつき(偽る者)
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願ってい るのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを 言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」 (ヨハネ 8:44)

②神より、自分に従わせようとする  
サタンは支配したがる。神の上に立とうとする。 歴代の悪王の中には、自分の言うことに従わないと、処罰する者もいた。
「だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」(ダニエル 3:6)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ 5:1)

③神からもらった良いもの(賜物)を奪おうと、また捨てさせようとする
「あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」(Ⅱテモテ 1:14)

④時に、サタンは自分の計画をなすために、この世の権力を差し出す
「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ 4:6)

⑤神よりも、しるしや奇蹟に目をとめさせる
「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから 飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。』」(ルカ 4:9-11)

⑥「神のようになりたい、神に取って代わりたい」という高ぶり
「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(イザヤ 14:13,14)

⑦偽物をあちこちに、本物のまわりに氾濫させ、神の賜物を悪いもののように思わせる
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見 せます。」(マタイ 24:24)

⑧自分で深く考えさせないで、ただ、信じるように強いる
「たとえ、自分の考えに合わなくても、又、どのような矛盾を感じたとしても、真理を受け入れるように。」 (ものみの塔の創設者チャールズ・T・ラッセル)
聖書の神の教えは…
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒 17:11)
「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、…」(ルカ 1:3)

⑩神の思いに反する人の思いを利用して、神の働きを妨げる
「信仰から離れたら呪われる。
 この組織から離れたら行くところはない。
 ハルマゲドンが近い。
 不信仰になるなら、病気や事故に見舞われる。
 サタンが家族を用いて反対する。
 伝道熱心でなければ、不幸な目に会う。
 このようなことが 起こったのは、自分が不信仰だったからではないか。
 仲間から見張られている。
 仲間から信仰に熱心であると思わ れていないのではないか。
 こんな自分を神は受け入れてくれないのではないか…。
 カルト教団の信者の心の中に は、恐れが果てしなく続く。」(大野キリスト教会内新世界訳研究会著、「カルト教団とは何か」)
このような恐れを抱かされるような、みことばの引用をして、伝道させたり、奉仕させたりする。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(Ⅱコリント 3:17)

⑩神の思いに反する人の思いを利用して、神の働きを妨げる
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」(マタイ 16:21,22)

⑪弱さを責め立て、セルフイメージをおとしめ、神の働きができないようにさせる
「主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せ られた。」(ゼカリヤ 3:1)

⑫同情させて、引き込み、かきまわすような場合もある
「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を 苦しめないでください。」(マルコ 5:7)
霊を見分け、知恵をもって対処する必要がある。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)
その反対の、憎しみ、怒り、不安、偏狭、冷淡、悪意、不実、頑固、無節制は、神の実ではない。
私たちは、実によって、イエス様のものか、そうではないものかを知ることができる。

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2017年8月 7日 (月)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart8【最終回】

【それでは教会員はどうするか 祈り、謙虚に、恐れず、黙らず】

 自分の教会がカルト化し、マインド・コントロールが行われているのではないかと疑問を抱き始めた教会員は、どうすれば良いのでしょうか。
 まず、何よりも先に、祈ることが必要です。主が介入してくださるように。関係者一人ひとりに知恵と力と勇気を与えてくださるように。また、主の癒しが与えられるように。カルト化している教会には、傷ついている信徒が多くいます。問題が明るみに出るにしたがって、牧師が傷を受けることも考えられます。
 次に、個人的に牧師と会って、教会に関する問題点を打ち明けると良いでしょう。その中で重要なのは、カルトやマインド・コントロールの問題に関して、牧師に正しく理解していただくことです。どこに問題があるかについて、言葉で説明するか、本を読むように勧めます。自分に同調する仲間を作ろうとしたり、牧師の悪口を言い触らしたり、分裂を起こしたりすることは禁物です。
 第3番目に、牧師が問題点を認め、その改善のために対策を打ち出したなら、全面的にサポートすることです。お互いに赦し合い、お互いの癒しのために祈り合い、前のことを忘れて、共に健全な教会形成を目指しつつ力を合わせることです(ヤコブ5章16節)。
 第4番目に、牧師がマインド・コントロールの問題などを理解したうえで、教会にそのような事実はないと否定し、牧会方針の健全さを十分に説明した場合、その説明を謙虚に受け入れることです。牧師に対する誤解があったなら、赦しを求めることも必要でしょう。
 第5番目に、牧師が話に耳を貸さなかったり、マインド・コントロールに関する情報を拒否したり、「牧師を批判するとは何事だ!」という態度を見せて、話を持ちかけた信徒に罪責感を負わせようとした場合、同じ教団の理事か、カルト問題を専門的に扱う団体に相談すると良いでしょう。本当に問題があるかどうか、信徒だけで判断することが難しいケースがあります。また、牧師が信徒の話を受け付けなくても、先輩の先生、あるいは専門家の話なら聞く、ということも考えられるでしょう。
 第6番目に、事態が改善されない場合、最後の手段として、自分を守るために教会を去り、別の群れで交わりを求める、という選択があります。カルトは、グループを離れた者に「裏切り者」とレッテルを貼り、「神にさばかれる」と恐怖心を植え付けますが、これは、人をコントロールするための心理的トリックです。「宗教団体を出ることイコール神に背くこと」というカルトの論法は、聖書に何の根拠もありません。どこの宗教団体に属していようと、主はご自分を見上げる者を顧みてくださるのです。
 いずれの行動をとるにせよ、一人の信徒として、教会におけるカルト問題に立ち向かおうとする時、並々ならぬ勇気が要求されます。「私は信徒にしか過ぎない。先生にどうこう言う立場ではない」と考えて、問題に目をつぶるクリスチャンが多くいます。しかし、黙っていることは問題を容認することであり、場合によっては、「霊的虐待」に協力することにもなりかねません。主の助けを祈り求めつつ、声を上げるべきです。
 教会内(あるいは牧師)の問題を指摘されても、「神がさばかれるから、私は黙っているだけだ」と言う人がいます。一見、信仰深い態度のように見えますが、責任回避にもなりかねません。すべきことをしたうえで神のさばきに委ねるのであれば、それは謙虚で立派なことでしょう。しかし、罪に目をつぶり、問題に対して黙っていては悪を容認することにしかならないのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月27日号

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2017年6月26日 (月)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart7

【家庭崩壊あおり組織を正当化する「迫害」は誰の名のゆえか】

 カルト教団はしばしば過去に組織に降りかかった「迫害」の話を用いて、組織の宣伝をします。「あなたがたは必ず迫害を受ける」と、信者に警告することもあります。
 例えば、エホバの証人の研究生(求道者)は、学びの初期の段階で、次のように教育されます。「もし永遠の命をいただきたいなら、神と王なるみ子、および神の王国についての正確な知識が必要です(ヨハネ 17:3)。悪魔サタンがあなたにこの知識を得させたくないと考えていること、そしてあなたがこの知識を得るのを力の限り妨害することは確かです。どのようにそれを行なうでしょうか。一つの方法は、ちょう笑などの形であなたが反対されるように仕向けるのです」(『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』23頁)。
 エホバの証人の研究生の多くは、ここに書かれたとおりの経験をします。家族から反対されて、家庭の中で様々なトラブルが起きますが、本人は、「やはり、組織の予告どおりだ」と、組織に対する確信を強めるのです。
 カルト化した教会の信者も、家族の迫害に遭って、最後に家庭崩壊を経験することがよくあります。その悲劇の多発を正当化するために、カルト教団は決まって、マタイによる福音書10章の聖句を引用します。
 「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます…わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(20~21節、34~37節)。
 カルト教団はこの箇所を取り上げて、「あなたが家族から迫害を受けるのは、キリストのみことばの成就である。家族を捨てることこそ、真の弟子になる条件だ」と信者を教育します。また「迫害は、この教団が神の祝福されている唯一の真の宗教組織(教会)であることを証明している」と宣伝をするのです。
 しかし、真のクリスチャンが迫害を受ける理由は何でしょうか。「わたしの名のために」とキリストは言われます(マタイ24章9節、5章11節、ヨハネ15章21節、使徒5章40~41節、9章16節参照)。イエス・キリストに対する個人的な愛・信仰・献身のゆえに、人が迫害を受けるなら、それは確かに、キリストのみことばの成就であると言えましょう。しかし、カルト信者の場合、迫害が起こる原因が他にあります。つまり、信者のグループ(指導者)に対する盲従・盲信、異常に高いノルマ達成の強要、社会に対する破壊的行為などです。そのような理由で迫害(批判)されることがあっても、それは主イエスの語られたみことばとは無関係です。キリストの名のための迫害ではなく、そのカルト教団の名のゆえの迫害なのです。
 真のクリスチャンは確かに、キリストの名のゆえに、迫害を受けることがあります。家庭において、トラブルが発生することもありますが、基本的には、家庭が幸福になることは神のみこころです。ですから、「迫害」が起きた時に、すぐに別居や離婚を勧める多くのカルト教団の方針は、キリストの約束を否定するものです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月20日号

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2017年6月 3日 (土)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart6

【奇跡に驚き無防備になりがち真理への愛失わせる惑わしも】

 心の病で苦しんでいたある男性の話です。カウンセリングを受けても、薬を飲んでも、病気が治らず、挫折していました。そんなある時、「奇跡が起こる」という噂の教会を知りました。ワラをもつかむ思いで教会の門をくぐりました。病気のことを話すと、「必ず治る」と言われ希望を持ちましたが、薬を捨てさせられ、断食させられ、献金を強要されてしまったのです。しかし、奇跡が起こらないばかりか症状が悪化する一方でした。男性は教会に行くのをやめようと思い、牧師に話しました。すると「この教会をやめる人は、皆、死ぬんですよ」と宣告されたということです。
 人間はともかく、「しるし」を求めます(Ⅰコリント1章22節参照)。特に、大きな悩みを抱えている人は、その傾向が強いと言えましょう。聖書は決して、奇跡を祈り求めることを禁じている訳ではありません。もちろん、聖書の神は全知全能で、今も奇跡をなしてくださるお方です。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」と語りかけてくださる主です(詩篇50章15節)。
 しかし聖書はまた、奇跡が起こるかどうかは神の摂理の中の問題であることを示しています(使徒4章24~30節、ローマ書15章17~19節参照)。真の奇跡は、必ずしも人間の要求どおりに起こるものではなく、主がご自身のみこころ(計画、目的)をなすために、ご自分が良いと思われる方法とタイミングで行ってくださるものです。(Ⅰヨハネ5章14~15節参照)。
 ですから、いかなる場合にも「奇跡」を保証するグループは、神の主権の領域を犯しており、聖書から逸脱しています。奇跡は、それが神のみこころにかなった時にのみ、起こるのです。
 では、奇跡が起こる教会は根も葉もない噂に過ぎないのでしょうか。確かに何かが起こっているのでしょう。「問題が解決した」「病気が治った」「解放された」と実感し、大胆に証しをしている人がいるでしょう。しかし、不思議なことが起こっているから健全であるとか、聖書に忠実であるとか、神の祝福を受けていると、一概には言えません。サタンの力による「しるし」もあるのです。
 「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します…不法の人の到来は、サタンの働きによるものであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(Ⅱテサロニケ2章3~4節、9~11節)。
 奇跡を見せつけられた人間は、驚きが大きければ大きいほど、無防備になりやすいものです。「これだけの奇跡を行うことのできる人(団体)は、きっと神に導かれているのだから、その教えもすべて神から出ているに違いない」と考えます。最終的には、奇跡をなした人の言うことを鵜呑みにするようになるのですが、そこで、「真理への愛」が失われ、「悪の欺き」や「惑わす力」が働き始めるのです。結局のところ、どんな不思議が起こっているかが最大の問題ではありません。聖書の真理が正しく語られているかどうか、これこそが重要なのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月13日号

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2017年5月27日 (土)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart5

【「聖書を用いるから安心」か?指導者の解釈の絶対化は危険】

 カルト教団(あるいはカルト化した教会)が、聖書を武器として使うことがあります。指導者は、自分の勝手な、人間的な考えや計画を押し通すために、あるいは信者をコントロールするために、聖書を引用する訳です。「私よりも先生のほうが、はるかに聖書に精通しているのだから、従うしかない」と、信者は思考停止になり、言われたとおりの行動を取ります。
 もちろん、指導者として信者に聖書教育を施すことは必要です。しかし、それがただ、聖書の権威を振りかざし、信仰に有無を言わせず服従させるというやり方であってはなりません。十分な時間をかけて、聖書を説きながら、信者に考えさせ、納得させるのです。聖書の神を信じる指導者なら、強引に計画を進めることなどをせずに、聖霊が指導者の考えの正しさを信者に示してくださるまで、忍耐強く待つはずです。そうした聖霊の働きの中においてこそ、信者がキリストを見上げることを学び、神のみこころを祈り求めるようになり、自立した信仰が養われていくのです。
 「聖書を引用しているから」という理由で、宗教団体(教祖)の教えを鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。福音書にあるように、悪魔でさえ、聖書を用いました(マタイ4章1~11節参照)。また、パリサイ人たちも、独自の律法主義を人に押し付けるために、よく聖書を勉強し、引用しました。聖書を調べておきながら、パリサイ人たちは、その中心的存在であるキリストを認めませんでした。「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」でした。聖書が正しく理解され、語られる時に、その結果として、人々はキリストのもとに来ます。キリストとの出会いを経験し、キリストとの個人的な関係を築いていくのです。それ以外の結果をもたらす教えは、聖書の悪用なのです。
 パリサイ人の聖書研究の、もう一つの誤りは、自分たちの言い伝えの重視です(マルコによる福音書7章1~13節参照)。パリサイ人は、先祖から受け継いだ伝統を、聖書と同等視していました。結局のところ、彼らの聖書研究には、様々な「付属品」が付いていた訳です。これも今日、多くのカルトに見られるパターンです。例えば、「聖書に忠実な組織」という看板を掲げているものみの塔協会は、聖書だけでは不十分だという立場を取ります。「忠実で思慮深い奴隷」の助けがなければ、どんなに聖書を読んでも分からない、と言うのです。こうして、協会の刊行物(雑誌・書籍)が聖書と同等の権威を持つものとなります。
 しかし、そのような発想プロテスタントの信仰を否定するものです。宗教改革の三本柱は「恵みだけ」「万人祭司」「聖書だけ」です。プロテスタント・クリスチャンは常に、「聖書だけで十分である」と言う信仰を明確にし、大切にします。
 これに対してカルト化した宗教団体は、「私たちの教祖の解説書を読まなければ聖書を正しく理解できない」とか、「私たちの先生のメッセージを聞かなければ、救われるために必要な知識が得られない」とか、「教会が伝えている福音はもう古いから、新しい啓示が必要だ」というような主張を繰り返すのです。
 「聖書を用いているから、安心だ」という考え方は単純すぎます。自分の考えを権威づけ、正当化するために聖書を利用する人々が多くいます。その教えによってキリストの栄光が現されているか、そのメッセージは聖書の全体と調和しているか、それとも聖書の一部しか取り上げられていないか、などを注意深く考えて、冷静な判断をしなければならないのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月6日号

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2017年5月22日 (月)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart4

【「熱心だから正しい」は誤解 自由を奪い奴隷を生む結果も】

 聖書は、救われるための唯一の条件は信仰であると、終始一貫して語っています(エペソ2章8、9節、テトス3章5節)。この恵みの福音は、自分の弱さや罪を自覚している者にとっては喜ばしい知らせですが、自分はさほど悪い人間ではないと考えている人から見れば、ひどくプライドを傷つけられる話となります。そのような人々は、行いを強調する宗教に共鳴する訳です。
 カルト教団の指導者たちも、ほとんど例外なく、「行いイコール救い」を説きます。それは、彼らにとっては、好都合な教えだからです。カルトにおいては、組織の利益や拡大のために、いかに信者を働かせられるかが永遠の課題ですが、そのためのいちばん効果的で手っ取り早い方法は、「働かない者は救われない」と教えることなのです。
 更に、「神のための奉仕だ」と称して、熱心に働く信者の存在ほど、組織の宣伝になるものはありません。宗教を求める人は、必然的にも、まず、その宗教に入信している人間を見ます。そして、そこで、「熱心だから正しいはずだ」という結論を出すことがよくあるのです。
 エホバの証人の『奉仕年度報告』(伝道報告)を見て、ものみの塔聖書冊子協会に関心を持ったり、確信を強めたりする人々が大勢います。また、第二次世界大戦の時、ドイツのエホバの証人がひどい迫害に耐え、信仰を守り通したという話を聞いて、「この組織こそ神の真の組織であるに違いない」と納得する人も決して珍しくないのです。
 しかし、「熱心だから正しい」という、この単純な考え方には大きな落とし穴があります。問題は、何のための熱心さかということです。つまり、動機は何なのか、ということです。ただ神と人に仕えたいという純粋な心をもって、熱心に奉仕をするなら、それは立派なこととして称賛されるべきでしょう。しかし、その熱心さが救われるためのものになったり、組織に認められるための熱心さであるなら、自己中心的な熱心さになる訳で、決して聖書が勧めている熱心さではないのです。
 カルトの中で見られる熱心さは、まさに、このような間違った熱心さです。そして、使徒パウロも警告しているように、その熱心さによって、自由が奪われ、奴隷が生み出されるのです。
 「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。…キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ4章17節、5章1節)。
 カルトが熱心なのは、伝道戦略に不可欠な要素だからです。多くの場合、新しい人は、カルト信者が一生懸命に活動している姿に引き付けられます。そして、こう考えます。「この人たちは真剣だ。きっと、ここには何か、素晴らしいものがあるに違いない」
 しかし、カルト信者の熱心な活動ぶりに感心する前に、何が彼らをそんなに熱心にさせているか、ということに注目しなければなりません。なぜなら、間違った熱心さもあり得るからです。救われるための熱心さ、仲間として認められるための熱心さ、人の称賛を求めるための熱心さ、ノルマを達成するための熱心さ、自信の無さを隠すための熱心さ、などです。これらの「熱心さ」は、聖書が述べている真の熱心さとは、異質のもので、神の御前で何の価値もない熱心さなのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年9月22日号

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2017年5月15日 (月)

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart3

【聖書と実から吟味されるべき指導者への「服従」のありかた】

 マインド・コントロールの最大の問題点とされているのは、人間の成長が止まってしまうことです。人に依存している間は、人間は自分で考えることをやめ、精神的・霊的・知的成長がストップしてしまいます。本人は素晴らしい人生を発見したと喜んでいますが、その「素晴らしい人生」を歩み続けるために大きな代価を支払うことになります。つまり、自分の心を失ってしまうのです。
 最近、「あるキリスト教会で行われている聖書教育も、一種のマインド・コントロールではないか」と、指摘されるようになりました。牧師は神の権威を主張して「絶対服従」を信者に要求し、その牧会方針によって信者を傷つけてしまうケースが少なくありません。
 確かに、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」という聖句があります(ヘブル13章17節)。「長老たちに従いなさい」とも書かれています(Ⅰペテロ5章5節)。しかし、聖書が教える「服従」とは、何も考えずにやみくもに従うことではありません。霊的識別力のあるクリスチャンは、指導者の話を謙虚に聞いたうえで、それが聖書に忠実なメッセージであるかどうかを注意深く考慮します。そして、確かに聖書と一致した指示であると判断したなら、その指示に従いますが、指導者の言うことが聖書に基づいていない、あるいは聖書に反しているという結論に達した場合、服従しない道を選ぶのです。
 ペテロが語った「人に従うより、神に従うべきです」という言葉は有名ですが(使徒5章29節)、忘れてはいけないのは、これが神の権威を主張した当時の宗教指導者に対して語られた言葉であるということです。
 ベレヤの人々も、パウロから福音を聞いた時に、そのメッセージを鵜呑みにせずに、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」ました(使徒17章11節)。
 聖書に忠実な、真の霊的指導者は、神の権威を主張したりしません。実際のところ、「私は神から権威を授けられているから、私に従いなさい」と言う人は、そのように発言することによって、自分に権威がないことを自ら暴露しているのです。もちろん、聖書に忠実な牧会者には、権威は神から与えられるものですが、それを主張することによってではなく、模範を示すことによって、周囲の人々が認めるようになるものです。神より権威が与えられるのは、人を支配するためではなく、模範を示すためです。霊的な権威は、模範を示すための力なのです(Ⅰペテロ5章3節)。
 また、聖書に忠実な指導者は、聖書の原則に従うことを信者に教えても、聖書が直接、言及していない私生活の問題に介入せず、プライベートな問題に関する判断を、信者に委ねます(ローマ書14章参照)。そうして、自立したクリスチャンを養い育てるのです。
 人をコントロールするために、カルト教団はしばしば、「指導者に服従しなさい」という聖書箇所を悪用します。「私は神から権威を授けられており、一般の信徒であるあなたよりも霊的な事柄を深く理解しているので、何も考えず私に従いなさい」と言います。しかし、聖書はやみくもに人に従う生活を推奨している訳ではありません。
 聖書は指導者の実を調べるように勧めています(マタイ7章15~20節)。信用でき服従して安心な指導者は、キリストと同じような、しもべの心を持っています。クリスチャンは霊的指導者に従うべきです。しかし、神の権威を主張するすべての人に無条件について行くべきではありません。神のしもべとしての実を結んでいる人に従順になるべきなのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年9月22日号

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