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2020年10月

2020年10月21日 (水)

聖書の訳について

聖書には、さまざまな訳がある。日本語だけを見ても、協会が訳したもの、個人が訳したもの、いろいろ出版されている。
聖書の原典は、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はコイネーギリシャ語で書かれている。
原語が母国語のように理解できるのが一番であるが、原語はある程度は学べるだろうが、残念なことに一般人には読むこともできない言葉である。
聖書を用意しようとするなら、教会での聖書の読み合わせのために、属した教会で使用している訳を使うのが一番だろう。教会に行っていないならば、一般書店に売っていて、現代の言葉で書かれた読みやすいものならば、問題はないだろう。但し、一部の団体だけで使っているような訳もあるので(例えば異端の訳)注意が必要である。

もともとの原語は、奥が深い豊かな意味を持つこともあり、一つの訳だけでなく、比較して理解を深めるのがよい。
かつて行った教会では、戦前から受け継がれてきた文語訳を使用していて、これが一番だと言われていて、厳粛な気持ちになり、味わい深い響きではあったが、現代人や若者には意味が伝わりにくく、古典文学のようだった。
それでも、教会に合わせて文語訳に変えたほうが良いのか悩み祈った時、「聖書の訳でどれが一番だとか競うのは、愚かなことである。一番というならば、ヘブル語とコイネーギリシャ語で読まなければいけなくなる。それでは読めないし、頑張って読めたとしても意味が分からないだろう。スッと心に入り、神を知ることが一番大事である。」と心に響く言葉があった。人が言うことに合わせて変えたほうがよいかという悩みは消えたのであった。
そのため、「現存の聖書では訳がよくないので、聖霊や天使から新しい訳の聖書を作れという啓示があった」と言われて大金を集めているというようなことを聞くと、惑わしの言葉に聞こえてくる。
いくつかの訳が補い合っているので、現存の聖書で理解するのに十分である。
なによりも大切なことは、聖書の神をゆがめずによく知ることである。

 

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2020年10月19日 (月)

霊の戦いについて

「霊の戦い」と聞くと、カルト化教会を通った人にとっては、それだけで拒否反応が起こるほどに、カルト化しやすい分野である。
それは、「霊の戦い」を強調する、悪い霊に打ち勝てる自分を誇示する人たちの結ぶ実によるものである。

聖書は、始まりの創世記からサタンが出現し、そこから完成のクライマックスの黙示録に至るまで、霊(信仰)の戦いが描かれている。
キリストも使徒たちも、病に命じ、異なる霊に叱りつけ立ち去らせている。「サタンよ、出ていけ!」「病よ、いやされよ!」「嵐よ、静まれ!」と命じることは聖書に書かれている行動なのである(マタイ4:10, マルコ1:25, 3:15, 5:8, 6:7, ルカ4:35, 8:29, 使徒16:18など)(マタイ 8:3, マルコ 9:25, ルカ 5:13)(ルカ 8:24-25)。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ 16:17,18)」
ともある。
では、どうしてキリスト教界内でも意見が分かれる問題となっているのか。

・霊の存在を信じない不信者にとっては、奇異に見える行為である。
・目に見えないことなので、本当に命じたことによるものなのかという証明ができない(たとえ、そのとおりのことが起こったとしてもいろいろな理由付けで否定できる信仰の世界の出来事である)。
   偶然だろう、思い込みだろう、人によるトリックだ・・・等
・命じている人たちのふるまい方
   自分がなした功績のようにふるまう、言動がキリストと同等になったかのように自分に権威付けしてしまう、他のクリスチャンとの差別化がある・・・等
・必要を見分けることなく、何でもかんでも命じてしまう。「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20:7)(しっかりとした聖書教育がなされずに実践している。)
   病人には誰にでも、自分に対して否定的な意見は悪霊の仕業にしてしまう・・・等
・キリストなる神よりも悪霊、サタンに目が行ってしまうことになる。

危ないからやめてしまうというのも、聖書的解決ではない。

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人をつまずかせないよう注意を払い、心の高慢に陥らないよう、キリストを見上げて、信仰の戦いをしていこう。神から出たか他から出た行為かは、誰の目にもはっきりとわかる時が来る。神を恐れつつ、神が導く人に仕えていこう。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」(マタイ 15:13,14)

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。・・・」(マルコ 9:38-42)

 

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2020年10月15日 (木)

消えたい思い

救いを求めて神のもとに来たはずなのに、クリスチャンになってうつ病になるという現象をみる。
心療内科や病院に行ったなら、「宗教をやめれば治るんだけどね」と言われたことがあると聞く。
なぜ、神の愛を説くキリスト教会でそのようなことが起こるのだろうか。

消えたいという思いはどこからきたか?
自分のいる場所から存在を消したい、消えてしまいたい、居場所がない、そういう様々な思いがあり、なぜそういう思いになったかは、人それぞれで、掘り下げて耳を傾けなければ本質はわからない。
いずれにしても、消えたいということは、その人にとって「その場からいなくなりたい」と思ってしまう要因が何かしらあるのだろう。
教会を訪れる人は、生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち、そういった要因によって培われてきたものを抱えて、主のもとにくるわけである。
それらは、クリスチャンになったからといって、変わるわけではない。キリストを知って、「生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち・・・」も主の計画があったことを知って、有益なものに変えられるのが理想である。
「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語り続けてくださっている主を知り、消えたい思いはなくなっていく。
ところが、互いの間に神の愛があるはずの主の集いの中で、福音は正しくても、偏見や疑いがあるとしたら、人前ではいくら言葉にしてなくとも、目は口ほどに物をいうというように、思いは伝わってしまうことだろう。
そうならないためにも、主の教会には、偽りのない交わり、キリストの愛を中心にしたコミュニケーションは欠かせない。
あなたを知りたいと思うことなしにキリストの愛の実践はない。言葉での確認、互いのコミュニケーションは大切である。

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否定的な思いは時に苦しみを招くが、それが自己防衛本能からくる思いだと気付いたならば、本能を与えてくださり、気付かせてくださった神に感謝しよう。気付きから、見えてくるものがある。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28) と言われたキリストは、私たちに安息を与え、平安と喜びで満たしてくださるお方である。あなたの仕えているキリストはどのキリストだろうか? 人の姿をとってこの世に来られるほどに私たちを愛してくださっているキリストか? 奴隷のように支配するキリストか? 聖書の神を正しく知っていこう。

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