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2020年9月

2020年9月 8日 (火)

異言についての考察2~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

B教会のB主任牧師が異言を異常と思えるほどに嫌っているのには、理由があることが最近になってわかりました。
先代のB0牧師は、日本のキリスト教界の重鎮の弟子の一人でしたが、そのB0牧師のメッセージ集を読む機会があり、Ⅰコリント14章からの異言についてのメッセージが記載されているのが目に留まりました。
どこの団体(教会)かを特定することが目的ではないため、引用を記すことができないことが残念ですが、大筋では大変すばらしいメッセージが書かれていましたが、異言については、こればかりは体験しないと理解できないもののため、聞く人にも何を言っているのかはっきりとわかる言葉でなければいけない、分かる言葉でないならば教会では黙さないといけないという内容が書かれていました。そして、実際の2つのケースが書かれていました。
一つは、奉仕に行った先の地方の教会の隣の店の上階で異言派の集会が開かれていて、不統一に大きな声を出して夢中になっているのが外まで聞こえ、気違いの集まりだった、という自身が見た内容でした。
もう1つは、D教会(偶然にも後にうるが行った教会)に行ったという人から聞いた話でした。異言を求めてD教会に行ったその人は、どうしても異言を語れなかったところ、そこにいた一人の朝鮮の人が、朝鮮語で祈り始めた、するとその教会の先生が「あっ異言を語り出した、聖霊のバプテスマを受けたのです」と言った、それでインチキだと言ってD教会を退いたというので、このようなところもあるのだと知っておいてほしいという内容で、人づてに聞いたのか、インチキだと言って出てきた人に聞いたのか、どのような人に聞いたのかは、書籍には書かれていませんでした。
この異常な体験談が語り継がれ、不要な恐れを代々にわたって抱かせ、力で封じるか、ないものとして扱うかしか対応しきれなかったのだと思いました。

   

「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)キリストを信じる者に初めて聖霊が注がれた場面じゃが、確かに「他国のことばで」とあり、いろいろな国の人がいるところで、自分の国のことばで語るのが聞けた現象じゃった。が、理解できない言葉はなかったとは記されてはいない。「人の異言や、御使いの異言」(Ⅰコリント 13:1)と聖書にあるように、人の言葉ではない異言もあるのじゃ。旧約聖書にも、ダニエルしか解き明かせなかった神からの手が書いた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(ダニエル 5:25)という言葉が記されているぞ。それゆえ、人の原語に限定するのは、おかしなことじゃ。
また、「ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。』と言ってあざける者たちもいた。」(使徒 2:13)とあるように、陶酔しているような状況が見られたのは、聖書に書かれていることじゃ。その時の状況で「他国のことば」で理解できる人がいたのは、神の配慮のしるしであった。聖霊に満たされた全員がわけのわからない言葉で、陶酔していたら、それこそ、初めから不要な分裂を招いたのではないかな。
「炎のような分かれた舌が現われて・・・」というのは、制御できない舌というのを思い出す現象じゃ。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)。 「異言」のギリシャ原語は、Grgrw (舌)である。制御できない舌を持つのが人間で、何をどう祈ったらよいのかもわからない時にも、舌をゆだねて、ぐじゃぐじゃした思いを神に向け祈ると、不思議に神を身近に感じることができる、聖書の聖い「異言」はそのような面を持つ賜物じゃ。神を身近に感じ、陶酔していくこともありうるだろう。陶酔していても、トリップしているわけではなく、意識はきちんとしているのであり、人をつまずかせないように賜物を管理するのは、各自の責任である。Ⅰコリント 14:2でパウロも、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」と言っているじゃろう?
ただ、ひけらかすように祈ったり、聖い者になったかのようにふるまうのは、認識が違っていると言える。神からの体験は、聖さとはまた別の神の目的がある現象じゃ。
これは異言ではないのじゃが、神の霊が下っての満たしという面では同じということで例に挙げるが、サウルは、神の霊が下り、高揚して預言を語り王となった(Ⅰサムエル 10:10-13)のだが、ダビデを殺そうと追っかけて行った先でも、神の霊が臨み、預言をしながら歩いてサムエルのところに行き、一昼夜の間、サムエルの前で預言し、裸のまま倒れていた(Ⅰサムエル 19:23,24)とあるのじゃ。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とあるが、体験なしに信じることができるならば、それはそれで、幸いなことじゃ。そして、体験したなら、その管理は受けた側に責任が発生することを覚え、神への恐れを失うことなく、神と人を愛し、神とともに賜物を用いて仕えていこうではないか!

うるは、いろいろ考えてしまって、疑いも起こるので、体験していなかったならば、信じ続けることができたかどうか・・・、主がご自身を現わしてくださったので、聖書が事実だと知ったのです。体験がなかったら、聖書を読んでも、いい話だったなで、いろいろあった時にしぼんでいたかもしれません。主はその人に応じた導かれ方をなさるのだなと思うと、感謝がわきます💛

 

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【参考】異言についての考察1~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.5.4)

 

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2020年9月 4日 (金)

目の梁~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

 B教会でのクリスマスを前に、ハンドベルの練習をしていた時のことなんですけれど、テーブルに乗って遊んでいる男の子をクリスチャンである母親のAさんが注意せず、遊ばせていました。
Aさんは、自分の息子について日頃、「かわいくて、叱ることなんてできないわ」と言っておられました。テーブルの上で遊ばせている光景を見て、一緒に練習していた求道者のBさんが怪訝そうな顔をしてたのが目に入りました。Bさんはしつけにはきちんとされている方でした。
「小さな子のこと、そんな顔をして、さばかなくてもいいじゃない。」そう思った瞬間、目に異物感を感じました。
急に目にまつげが入ったような感覚を覚え、洗面所に行ってみると、まつげのようなものが入っているのが見えました。取ろうとしましたがなかなか取れず、痛さに耐えられず、すぐに家に帰りました。
帰宅し、苦労して引っ張って取ってみると、ずるずると30cmほどのうるの髪の毛が出てきたのです。どうやって入り、どこにどう入っていたのかわからない不思議な体験でした。この特異な体験に、主に目を向けると、「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」(ルカ 6:41,42)のみことばとともに、うるの思いが目のはりだと知らされたのでした。Bさんは、子どものしつけにおいて、正しく感じていただけでした。「さばかなくてもいいじゃない。」と言いつつ人をさばいていたのは、Bさんではなく、私情をはさんで、お世話になっているというフィルターで甘く見ていたうるのほうだったのでした。
このようなことを通じて、正しくさばき治めることは、人間関係において大切なことでもあるということ、視点によって見え方はいろいろ変わるということを主からの実地教育で学べました。

・・・(しみじみうなずいている)

 主の実地教育は、これが2回目でした。1度目は、A教会にいるとき、口を閉ざされたという経験をしたことがあります。みことばを使って、みこころだからやるべきだとよく言ってくるクリスチャンの友人Cさんがいて、それを受け入れて行動すると、言い出しっぺのCさんはいろいろ理由をつけていなくなって、うるにはちょっとした問題が残るということが度々ありました。大好きな友人ではあったけれども、そういうことがあると、同じ経験と思いを持つクリスチャンの 友人Dさんと、ついつぶやき合ったりしていました。つぶやきはよくないという気持ちはあったのですが、 Dさんと一緒にいると、ついその話題になってしまっていました。
そんなある日の祈りの中、主の十字架が鮮やかにせまった時があり、言葉の罪に焦点が当たり、うるの罪がイエス様を十字架につけたのだと悔い改めに導かれ、十字架が自分のものとなったという経験をしました。十字架の場面にいて、当時の権力者たちに聞かれたならば、「イエスさまは、自分が神の子だと言っていたよ。」と事実かもしれないが、悪気なく不利なことを言いかねない自分に気づかされました。
そういう十字架体験をし、Dさんと電車で待ち合わせをした時のことでした。直前にあった出来事から、また、つぶやきになりそうに思えたので、電車が見えた時に、「主よ、Cさんについての話になりそうです。主が好まれない話題はしたくないです。どうか、この口を閉ざしてください。」と祈りました。電車に乗って、Dさんに会って挨拶しようとすると、声が全く出なくなっていたのです(電車に乗る前までは普通に出ていた)。声が出ないという見ようによってはさばきのようにも思われそうな状況ですが、心には喜びが湧き上がっていました。
後にも先にも、風邪をひいても声が出なくなるという経験は、この時だけです。主が祈りを聞かれ、罪から引き上げるための実地教育をなしてくださった!という喜びが大きく、教会に着き、十字架の恵みとそれゆえに声が出ないことをA牧師夫人に伝えると、理解できないというような否定が返ってきました。ともあれ、心は喜びに満ちていて、声も帰宅した頃には出るようになっていました。

「主はその愛するご自身の子を訓練される」(ヘブル 12:7,8意訳)とあるからのぉ。不思議なことをなさるお方じゃなぁ・・・。

そうそう!「声が出ない」「髪の毛が目から出てくる」という歓迎したくない状況の中で、不思議に喜びが湧きあがりうれしかったのは、罪ある身をそのまま愛してくださっている!ということだったんですね。
このような訓練を通じて、主はうるに「罪」というものを教えてくださいました。

 

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2020年9月 3日 (木)

主からの預言~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

初めてB教会の家庭集会に集った日、B1牧師の口を通じて、神がいかに安息を大切にしておられるかが聖書の旧約・新約を通じて語られました。主の安息の中で、私たちはみこころを行なうことができるのだということを、求道者の方々にもわかりやすく解き明かされていました。その説き明かしに、心を耕かされ、性質の違う羊が集っていても、誰も自分自身を主張することなく、群れが主にあって一つとなっていました。特に、うるにとっては、一番つらい時期に、まるでその場にいて見ていたかのように、刺さった言葉をそっと抜いて手当てするようなみことばの解き明かしがなされ、主イエスのもとに来て、安らぎを得たような心地がしました。

新約聖書の教会の中の「預言者」は、原語の意味するところは、「聖霊によって動かされる説教者、講解者」「聖霊によって満たされ、説教や教えによって神のみ旨とご計画を解き明かすように霊感を受けた者」である。
確かに、使徒の働きには、アガボという預言者が「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。」(使徒 21:11)と個人的なことを預言しているのだが、これは、主イエスが信仰ゆえに多くの苦しみを経て、私たちに信仰の模範を残されたことや、パウロが「この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』」(使徒 14:22)と弟子たちを教えていた聖書の言葉と合致する内容であり、確かに実現しているのである。

預言については、A教会で「預言」と言って語られた預言と、B教会で「預言」という言葉は全く使われずに語られた解き明かし、どちらも体験したので、よく理解できます。この期間に、B1牧師を通じて学んだことは、生涯忘れられない宝となっています。この期間に学んだ内容だけではなく、うるは、聖書をどのように読み解くかという一番大切なことをB1牧師の教えを通して、教わりました。心に流れてくるみことばについて、B1牧師は「(聖霊の)水は高いところから低いところに流れる」とよく言われていたことを覚えています。

「みだりに主の御名をとなえてはならない」(出エジプト 20:7)は十戒にある基本的な戒めじゃ。よく吟味できるよう、神を知ることが大事ということじゃな・・・。ふぉっふぉっふぉっ

 

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【参考】預言について(2020.6.15)
    新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

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