異言についての考察2~小羊うるちゃん物語へのコメント~
以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。
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B教会のB主任牧師が異言を異常と思えるほどに嫌っているのには、理由があることが最近になってわかりました。 |
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「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)キリストを信じる者に初めて聖霊が注がれた場面じゃが、確かに「他国のことばで」とあり、いろいろな国の人がいるところで、自分の国のことばで語るのが聞けた現象じゃった。が、理解できない言葉はなかったとは記されてはいない。「人の異言や、御使いの異言」(Ⅰコリント 13:1)と聖書にあるように、人の言葉ではない異言もあるのじゃ。旧約聖書にも、ダニエルしか解き明かせなかった神からの手が書いた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(ダニエル 5:25)という言葉が記されているぞ。それゆえ、人の原語に限定するのは、おかしなことじゃ。 また、「ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。』と言ってあざける者たちもいた。」(使徒 2:13)とあるように、陶酔しているような状況が見られたのは、聖書に書かれていることじゃ。その時の状況で「他国のことば」で理解できる人がいたのは、神の配慮のしるしであった。聖霊に満たされた全員がわけのわからない言葉で、陶酔していたら、それこそ、初めから不要な分裂を招いたのではないかな。 「炎のような分かれた舌が現われて・・・」というのは、制御できない舌というのを思い出す現象じゃ。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)。 「異言」のギリシャ原語は、 ![]() ただ、ひけらかすように祈ったり、聖い者になったかのようにふるまうのは、認識が違っていると言える。神からの体験は、聖さとはまた別の神の目的がある現象じゃ。 これは異言ではないのじゃが、神の霊が下っての満たしという面では同じということで例に挙げるが、サウルは、神の霊が下り、高揚して預言を語り王となった(Ⅰサムエル 10:10-13)のだが、ダビデを殺そうと追っかけて行った先でも、神の霊が臨み、預言をしながら歩いてサムエルのところに行き、一昼夜の間、サムエルの前で預言し、裸のまま倒れていた(Ⅰサムエル 19:23,24)とあるのじゃ。 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とあるが、体験なしに信じることができるならば、それはそれで、幸いなことじゃ。そして、体験したなら、その管理は受けた側に責任が発生することを覚え、神への恐れを失うことなく、神と人を愛し、神とともに賜物を用いて仕えていこうではないか! |
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うるは、いろいろ考えてしまって、疑いも起こるので、体験していなかったならば、信じ続けることができたかどうか・・・、主がご自身を現わしてくださったので、聖書が事実だと知ったのです。体験がなかったら、聖書を読んでも、いい話だったなで、いろいろあった時にしぼんでいたかもしれません。主はその人に応じた導かれ方をなさるのだなと思うと、感謝がわきます💛 |
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【参考】異言についての考察1~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.5.4)
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