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2020年7月

2020年7月23日 (木)

預言の訓練?~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

預言の訓練というのは、とても不思議でした。神が主権を持たれ、語られるものだと思っていたからです。
聖書的根拠として、訓練の前に次のようなメッセージが語られていました。(当時のメモより)
「彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(Ⅰサムエル 19:20)→預言者のサムエルが監督者となって、ラマで預言者を集め(預言者の一団)、「預言者学校」を開いていた。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ 2:20)→預言してもらうと土台ができる。
「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ 4:14)→賜物を受けた後はヘルプが必要。
どうしたら、主の声を聞けるか?実践していくことである。なぜならば、羊は羊飼いの声を聞ける、だから誰でも主の声を聞ける。
そして、預言を受けたら、預言をもって霊歴戦いに行かなくてはならない。←「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」(Ⅰテモテ 1:18)

「神の声をききたい」という思いもいろいろあり、「神ご自身を知りたい」という神への渇望から思う人もいるだろうし、「神の声を聞き、一儲けしたい」というむさぼりが根底に隠れていても自分すらも気づかずに「神の声をききたい」と 思う人もいるだろう。
吟味も罪の取り扱いも悔い改めもなく、ただ神の声を聞こうということを始めるならば、そこには、混乱が待ち受けているだろう。聖書は、読み方や取り上げ方次第で、どのような教え方もできる書物だから、神をよく知ることが大切なことじゃ。神の愛をよく知ることじゃ。┐(´д`)┌ 

当時を改めて思い出し、当時からこの教えが長年かけてキリスト教界内に拡大していった様子に、語る側も聞く側も、双方、神をよく知り、キリストの律法(神を愛し、隣人を愛する)を全うしていかなくてはならないと、痛感しています。

 

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2020年7月17日 (金)

楽しい教会~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

A教会での交わりは、すごく楽しく、刺激があるものでした。100名以上の信徒がいるそこそこ大きい教会だったこともあり、孤立しがちな育児の時期でしたが、寂しいと思うことはなく、充実していました。だからこそ、居場所を失うことは、とても苦しいものでした。数年間は、12月19日が来るたびに、フラッシュバックのように、落ち込むことがありました。

「教会の交わりはすごく楽しく、熱くなる」カルト的な組織や異端と呼ばれている組織にいる方の口からも同じことをよく聞くのじゃが、それらは、主にあって大事なことではなく、むしろ、他の否定的なものを押し込めてしまい、内部に悪いことがあっても離れなくなる要因になっていく。
人をコントロールしようとすると、人は意識的に、または無意識的にも、飴と鞭を使い分けることがある。初めのうちは、教会や牧師に権威付けをし、依存させる性質を持たせるため、愛を降り注ぐ(「ラブ・シャワー」という)ことは、マインド・コントロールの手法でよく言われていることじゃ。その行為が、愛から出ているのか、別の目的から出ているのか、本当の愛というものは、そんなに簡単にはわからないものじゃ。主イエスが、十字架にかかられるまで、人間は、神の愛がわからなかったのだよ。

うーん、考えさせられますね。

キリストというお方は、本当の愛を求めている人には、人や組織から拒絶されたとしても、自ら探し出して、導いてくださるお方じゃ。イエスに癒された生まれつきの盲人だった人が、ユダヤ人たちから追い出された時に、見つけ出してくださったように(ヨハネ9:35)
そして、よい牧者は、信徒が何を求めているか、よく見て聴き取って、必要なお世話をするものじゃ。牧者というのは、「牧する」者じゃからな。また、よい牧者は信徒が平安に、自分の足で主イエスと共に歩めるように、キリストなる神のことを教え、神なるイエスを指し示し、その道に導き世話をする。そうでない牧者は、自分につけ、自分に依存させるように(不自由なもの)、導く。
「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)とあるとおりじゃ。
だからこそ、信徒は、牧師について愛をもってよく祈り、聖書と聖書の神をよく知り、見極め、相手が誰であってもキリストの愛に立った適切な行動をすることが大切なんじゃ。

ちょっとしたズレをそのままにしていると、だんだん大きくなって、いつか爆発する、そんな感じでした。主の栄光にならないような我慢はするもんじゃないですね!

カルト化というのは、指導者だけで成り立つものではなく、盲目的に信じる信徒と両者があって、できあがるものなんじゃ。双方が、しっかりと神にあって、悔い改め、方向転換することなしには、治まらない問題じゃ。

・・・はい、そのとおりですぅ

 

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2020年7月 8日 (水)

クリスマスについての考察~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

A教会ではクリスマスの日を祝わず、毎日がクリスマスだと教えられていました。しかし、クリスチャンなのにクリスマスに何もしないのは妙だということで、ある時から伝道集会をすることになったと記憶しています。牧師夫人にクリスマスを祝わない理由を尋ねると、「クリスマスはこの世の霊がもっとも働く」と答えられたことを覚えています。また、マンツーマンで教えていた宣教師の教え(クリスマスについての本を出版してもいました)によると思うのですが、下記の理由が語られていました。
・クリスマスはマリアとマリアに抱かれた赤子のイエスがクローズアップされ、力のない神という印象を与える。
・キリストの降誕は、実際12月25日とは異なる時期であった。間違った日に誕生を祝うのはおかしい。
・クリスマスの日は、異教の祭りの日であった。

クリスマスは、神の恵みを覚えて、家庭でお祝いしていました。

クリスマスは、古代ローマで太陽神ミトラスを祝う祭りの日だったということで、異議があるようだが、義なる太陽、まことの光であるイエス・キリストが密教の神から勝ち取った日だという見方もできる。
また、「神であられるのに、神の姿を捨てることができないとは考えないで、自分を無にして、しもべの姿をとって人間と同じ姿になられ、自分を低くして(へりくだって)、実に十字架の死にまでも従順に従われたのです」(ピリピ 2:6,7、新改訳、文語訳、詳訳参照)とある自分を無にした究極の姿が「赤子」という形であったのじゃ。実は、この無力こそが、神の力を流す管となる秘訣だったのじゃ。キリストは信じる者の模範となられた。クリスチャンは神の誕生日として祝っているように見えるが、それは、ただの誕生記念日ではないということじゃ。
今となっては、聖書に記されていず実際の期日を特定できない(神の計画のうち)この定着している記念の日をうやむやにしてしまう働きが、聖書の神から出たとは、考えにくいのだがのぉ。

聖書は深いですね。もっと聖書を深く知りたいと思いました。

 

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