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2020年4月

2020年4月 3日 (金)

信仰告白について ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

既に、家でトラクトに書いてあった通りに、イエス様を受け入れ信じる祈りをしていたのですが、教会の婦人会に行った時に話した後、そこにいた方たちが手を置いて祈ってくださいました。
牧師夫人に「私の後について言葉の通りに祈るように」と言われ、再び信じますという告白の祈りをしました。
牧師夫人が「今日、あなたはこの場でイエス・キリストを受け入れました。・・・」というようなことを言われたときに、既に信じていたつもりだったので、少し違うような気がしましたが、喜びのほうが強かったこともあり、まあいいかと思いました。
この場合、信じた日は、家で受け入れた日でしょうか? 牧師夫人が言われた教会で告白した日でしょうか?

このケースの場合、もちろん、家で受け入れた日じゃ。真剣に祈り受け入れた日であり、キリストと共に生きる決意をし、祈った日だからなぁ。

家で信じて受け入れた日でいいのですね。実は、疑問があって、後に尋ねてみたことがあって、その時に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)を根拠に「公に口で告白して救われる」のだと言われ、そんなものかなと流したことがありました。

ローマ人への手紙のこの個所の前後をよく理解していれば、適用の間違いがわかるだろう。この個所は、「神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ 10:3)神の民であったイスラエルに対して弟子たちを教えるために語られている言葉である。注意して読んでいけば、「信じる人はみな義と認められる」(ローマ 10:4)ということを教えるために語られた言葉だとわかるじゃろう。
「公に」と付け加えているが、教会の権威に縛ることにつながっていくので、注意が必要じゃな。だいいち、口で告白できない人も世の中にはいるのだから、文字通りではなく、聖書全体と神を知り神が意図する意味を判別することが大切な個所じゃな。
律法に生きるか、信仰に生きるかということは、キリストが戦われた最大の事柄じゃな、ふぉっふぉっふぉっ。

ありがとうございました!

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2020年4月 2日 (木)

体験からの信仰

体験から入った信仰であっても、みことばだけで信じた信仰だったとしても、イエス・キリストを神として信じたならば、そこに優劣はない。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とイエスがトマスに言われているが、体験なしで信じれらるのは、すごい事だと思う。

が、体験しないと信じることができない弱さがある人間に、キリストはご自身を現わしてくださるお方でもある。
祈りがきかれた、霊的な不思議な体験をした、癒しを受けた・・・
体験は、信仰を強め、確信を持たせてくれるが、キリストでなくても、体験はできる。
人間的な思い込み、妄想ということもありうる。

それが、キリストかどうかという判別は、聖書に照らしてどうか、どのような実を結んでいるかに尽きる。
明らかにキリストとは違う実を結んでいるならば、それがどのように不思議なことであったとしても、その時その人の心が高揚していたとしても、イエス・キリストという名を使っていたとしても、聖書に現わされている神「イエス・キリスト」ではない。
が、オカルト的なものを見るあまりに、奇跡・癒し・不思議だからという理由ですべてを否定することもまた間違いであり、分裂の原因となる。
見分けるには、聖書の神を知ることである。知らずしては、異なる道に進んでしまう。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ 24:4,5)

あなたが経験した体験が、キリストの愛に立ち、キリストの似姿に通じる実を結ぶものでありますように! 

 

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