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2018年11月19日 (月)

危険な教えから守られるために

1.イエス  オリジナルテキスト「神」、主題からの学び「三位一体なる神」、主題からの学び「キリスト者の結ぶ実」
 
キリスト教の基本「三位一体なる神」の子なる神。人類に与えられた唯一の救い。
「この方(イエス)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべ き名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)
救いは、だた、イエスを神と信じる信仰だけによる。
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(イエス)を信じる信仰によっ て、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒 26:18)
「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ 2:17)
は、救いのためには、何かの行ないが必要であると言っているわけではない。“”を結ぶ必要を言っているのである。
神の働きと自我による肉の働きとは異なる。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ 16:24)
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何 でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ 5:19,20)



2.罪
  オリジナルテキスト「罪」

聖書の「罪」は、 「的外れ」という意味を持つ。神から離れた結果、もたらされた罪。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。 『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』女は蛇に言った。 「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。 あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、 あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、 いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。 そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記 3:1-7)
神のはっきりしたことばによる単純ないましめに対する自発的な不従順と違反。結果は、恥と死。
誘惑されるだけでは、罪とはならない。誘惑に対して、自我が目覚め、神を疑い、神ではなく自尊心を満足させる道へ進むことによって罪となる。
アダムとエバは、罪を犯した後、自分の働き(つづり合わせたいちじくの葉)で恥を覆った。神は、それに変えて、血の犠牲(皮の衣)で恥を覆ってくださった。



3.救い
   オリジナルテキスト「救い」
 
信仰による救い。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:9-10)
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ 10:13)

行ないによらず、救いは神からの一方的な恵みである。
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ 2:3-9)



4.証し


証しは、私たちが、神とともに歩んで、聖霊さまの導きに従って行くなら、喜びの中、おのずと証し人となっていくものである。証しをしなければならないと、無理をするなら、逆効果になりやすい。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:8)
イエスを主であると信じ、救いを受けた者はみな、聖霊によって、イエスの証し人となる。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」(伝道者 3:1,7)



5.贖い
   主題からの学び「贖罪の日」


アダムが、罪を犯して以来、罪の赦しのためには、牛や羊ややぎや鳩の血をささげる必要があった。イエス・キリストは、全人類(罪を悔いてこのことを信じる者すべて)の罪を贖うためのほふられた小羊となって、十字架にかかられた。全人類の罪を贖うためには、罪のない完全ないけにえが必要であった。それは、受肉された神にしかできないわざであった。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ 3:23,24)



6.悪、世の苦難


神を愛し、イエス・キリストとともに生きる時、悪い出来事も、苦難も、益になる。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐え ることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、 脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント 10:13)
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰 めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふ れているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたが たの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(Ⅱコリント 1:4-6)



7.悪魔、悪霊


神にそむいた堕落天使長サタンとその手下の御使い。霊的な存在である。私たちは、悪い問題に遭遇すると、目に見える人間に目をとめがちであるが、憎むべき対象は、背後の霊であって、人ではない。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ 2:4)
いずれにしても、私たちに起こるすべてのことは、主の赦しがないと起こり得ない。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ 28:18)
最悪に思えることも、ヨブの試練のように、永遠の時の中での主の御手の内では、意味あることであり、神を愛する者にとっては、すべてが益となるのである。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
場合によっては、授けられている主の御名の権威を用いて、勝利を受け取る必要がある。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、…」(マルコ 16:17)
「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント 15:57)



8.安息


安息は神の秩序の基本である。創造のサイクルの第7日目に当たる。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコ 2:27-28)
人間のための安息日。人間には安息日が必要。
初代教会の人々は、キリスト復活の日を“主の日”と呼んだ。そして、週の初めの安息日に聖なる日として集まっていた。
「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒 20:7)
「…いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」(Ⅰコリント 16:2)
「あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。…七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息である。」 (レビ記 23:2,3)
聖なる会合の日=安息日 例祭=お祭り、喜びの日、週に一度
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ 10:9)



9.預言者
   主題からの学び「御霊の実」、主題からの学び「愛Ⅰ」、主題からの学び「愛Ⅱ」

主が語られたことは、必ず成就する。地に落ちることはない。部分的に当たることやある程度の奇蹟は、悪魔・悪霊たちにもできること。“”を見て判断すべきである。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」(エレミヤ 28:9)



10.さばき
   主題からの学び「罪とさばき」、メッセージ「さばく力」

「さばいてはいけない」「ゆるしなさい」は、キリスト教の教えであるが、これが律法的に使われていくと、主イエス・キリストの愛から離れた異質な教えとなってしまう。
「〔人を〕さばいてはいけない。〈さばきを宣告したり、非難を浴びせたりしてはいけない〉。そうすれば、あなたたちもさばかれない。〔人を〕罰して〈罪に定めて〉はいけない。そうすれば、あなたたちも罰せられない〈罪に定められない〉。免除して〈赦して〈釈放して〉やりなさい〈憤ることをやめ、憤りをしずめなさい〉。そうすれば、あなたたちも免除される〈赦される〈釈放される〉。」(ルカ 6:37〈詳訳〉)
ここでいう「さばく」は、「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」であって、「罪への指摘や忠告のこと」ではない。 愛から出た「罪への指摘や忠告」は、神の国を治めるために、必要なことである。
「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)
非難ではない罪を治める行為を「さばく」とし、「さばくな!」と非難して押さえ込むことは、カルト化の徴候の一つである。



11.赦し


「ゆるしなさい」もまたキリスト教の教えであるが、これが律法的に使われていくと、主イエス・キリストの愛から離れた異質な教えとなってしまう。
聖書は、「被害を受けても、黙って耐えてゆるしなさい」とは言っていない。
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したら、行って、あなたと彼の間だけで〈ひそかに〉、彼に彼のあやまちを示しなさい。もし彼があなたに聞けば、あなたはあなたの兄弟を取り戻したのである。しかし、もし彼が聞かなければ、ほかにひとりかふたりの人を伴いなさい。それはふたりまたは三人の証人の証言によってすべての言葉が確認される〈支持される〉ためである。もし彼が彼らに注意を向けないならば〈よく聞いて従うことを拒むならば〉、教会に告げなさい。そしてもし彼が教会にさえも聞くことを拒むならば、彼を異教徒また税金取り立て人として扱いなさい。」(マタイ 18:15-17〈詳訳〉)
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ 20:23)

悔い改めのない状態を一方的に「ゆるしなさい」と押さえ込むことは、主イエスの教えではない。(ゆるさないのではなく、神に委ね手放すことは必要である。)
悔い改めのない者を赦すことは、神もなされないことである。
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ 17:3)
ただし、弱さを考慮しなければならないことも、聖書は言っている。
「弱い信者というべき人について言えば、彼を〔あなたがたの交わりの中に〕喜んで迎え入れなさい。彼の考えを批評する〈彼の良心のとがめに対して判決を下す〈論議をもって彼を悩ます〉ことにならないようにしなさい。」(ローマ 14:1〈詳訳〉)」
「ゆるす」こともまた、律法ではなくキリストの愛によってなされるべき事柄である。

 

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