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2016年2月

2016年2月19日 (金)

「信仰」という名の虐待 Part9【最終回】 「主イエスは虐待をする宗教者についてなんと言ったか」

 「信仰」という名の虐待の問題に対して、私たちクリスチャンはどういう態度をとらなけらばならないでしょうか。まずキリスト教の中で、問題の存在を認めなければなりません。虐待などないと言うならば、何も解決できないと思います。もちろんクリスチャンとしてこの問題を認めるのは簡単なことではありません。それは一つの汚点だからです。しかし、キリスト教とは愛と救いの宗教だと思い教会に来た人たちが、このような虐待を受けた時に、どれほど絶望的なことでしょう。
 それに対して、クリスチャンが事実を認められないならば、イエス・キリストのメッセージは「偽善な教え」となるのではないでしょうか。認めるということは、キリスト教の教えが正しいと思っていても、クリスチャンも人間であり、誤りを起こす可能性があることを頭に入れておくということです。
 私は、13世紀のように人を裁くための宗教裁判〈異端審問〉を望んでいるわけではありません。しかしクリスチャンとして、謙虚に受け止める必要があると思います。キリスト教界は自分のこととしてこの問題を捕らえ、見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
 新約聖書において主イエスは、「信仰」の名によって虐待をする人たちを強く批判しました。そのことについてアメリカの牧師デビット・ジョンソンは、次のように述べています。
 ―主イエスは罪人を批判したことがありません。その当時の宗教者と彼らの律法主義「宗教システム」に対して激しい論争をしました。主イエスはマタイの福音書23章4節で、「信仰」という名の虐待をする宗教者を批判しています。「彼らは思い荷をくくって、人の方に載せ、自分ではそれに指一本さわろうとはしません」
 多くの人たちはその当時の律法主義という「宗教システム」とその宗教者から、傷や差別などを受けたので、心が癒されるために主イエスのところに来ました。マタイ9章36節に、主イエスのところに来ていた人たちの精神的で霊的な(魂の底の)胎動がはっきり表れています。「弱り果て、打ちひしがれている」。ここで使われているギリシャ語は、外からくるストレスによって表れてくる感情を意味しています。とくに律法主義からくるプレッシャーです。
 この律法主義を変えるために、神はご自身のひとり子主イエスを遣わされました。主イエスは傷ついた人、疎外された人、差別された人などのために来ました。マタイ11章に主イエスの使命がはっきり書かれています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」主イエス、そしてキリスト教の本当の使命は人々の心を解放することです。人々を奴隷にすることではありません。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年3月17日号

 


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2016年2月18日 (木)

「信仰」という名の虐待 Part8 「意見の違いを単純に虐待と結びつけることはできない」

 牧師の考え方や行動に高ぶりによる変化が現れた場合、その教会の信徒もしくは役員、さらにその教会を管轄する教団はそのことを速やかに指摘し、やめさせなければなりません。神学校でも、そうした問題の危険性に対して教育をする必要があります。
 信仰とは個人の内面にかかわるものですから、とても個別的な姿をもつものです。しかし一方ではみことばを通して、教会生活を通して「あるべき信仰のあり方」を考える必要もあります。この二つの姿の中で私たちはバランスをとり、苦しみも受け取り、喜びも与えられ、救いの感謝をもって主の道を生きていきたいと願うのだと私は思っています。個々人でそれぞれのバランスの取り方が違っていて当然です。
 私たちが一致している点は、神様を通して罪人であることを教えられ、イエス様を通して救われた者であるということに尽きると思います。その救いの後に、「救われた者は、みな同じ考え方にならなければいけない」というところに落とし穴があります。例えば、牧師の願いと信徒の願いは一致しない場合もあるはずです。牧師の願いが至上命令なのではありません。みことばにはクリスチャンとしての様々な教えが書かれています。そのみことばをどのように読み、どのように従うのかということに対して大事な理解の助け手となる牧師の役割は大切なものですが、教会を作り上げていくためには、信徒一人ひとりのみことばに対する理解の深まりが必要だと思います。
 クリスチャンがそれぞれいろいろな意見をもっているように、牧師についての考え方も人それぞれです。そのことから、教会の中で信徒と牧師の間に意見の違いが起こることがあります。信徒が牧師に対して不満をもつこともありえます。牧師と意見が違っていたために自分から教会を離れたケースがあります。信徒があまりにも完璧主義者で、また被害者意識をもっていたために教会に来なくなったケースもあります。
 ある女性は、牧師がいつも自分のことをきにかけていてくれないということで大きな不満を持っていました。彼女は教会に来たら、必ず牧師に祈ってもらわなければ気がすみません。しかし牧師は他の大切な仕事もあって、必ずしも彼女のために時間を取れないこともありました。そのうちに彼女は、「牧師は私を嫌っている」「牧師は私を裏切っている」と考えるようになりました。そして教会へ行くのをやめたのです。
 多くの教会に、似たようなケースがあると聞いています。確かに信徒と牧師の間にトラブルが持ち上がることがあるでしょうが、それらすべてが「信仰」という名の虐待ではありません。牧師が信徒を自分の欲望のために管理支配しようとしないかぎり、それは虐待とは言えないのです。信徒が牧師と、あるいはその教会と自分の考えとが違うということで教会を離れるのはその信徒の一つの選択です。ですから、教会の中で起こるトラブルを単純に「信仰」による虐待に結びつけないよう注意する必要があると思います。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年3月10日号

 


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2016年2月17日 (水)

「信仰」という名の虐待 Part7 「牧師の高ぶりを助長する信徒たちの責任も大きい」

 その牧師は、外で仕事をしている信徒の休日の行動までも管理しました。牧師の考えはどんどんエスカレートしていき、信徒たちの財産、そして給料までも、献金することを要求しました。中には抵抗した信徒たちもいましたが、それに対して、「彼らは傲慢になり、神様のために自分を捨てて十字架を背負うことができなかった」と言い、彼らをさばき、教会から追い出してしまいました。
 問題があまりにも大きくなったために、同じ教団の数人の牧師たちがこの牧師とも話し合いの場を持ちましたが、彼は全く話に耳を傾けませんでした。逆に牧師たちが帰ってから、彼は教会の役員を集めて、「サタンが私たちの教会を破壊するために彼らを送ってよこしたのだ」と語りました。その後、この牧師は自分の教団から出て単立の教会を始めました……。このような問題は、全世界に起こっています。
 「信仰」という名の虐待において、「私」の意味が大きく作用していることがわかります。虐待をする牧師たちは「私」を中心に考えているので、最後にはだれのことばにも耳を傾けようとしません。もちろん、この牧師たちが急にこのようになったわけではありません。徐々に変わっていったのです。最初のころは、彼らは説教の中で、聖書のみことばの意味と自分の解釈の仕方を区別して信徒に伝えていましたが、次第に、自分の考え方、自分の聖書の解釈以外は正しくないと思うようになってしまいました。
 極端なものですが、一つの例を挙げましょう。アメリカのジム・ジョーンズという人は、人民寺院というカルト集団のリーダーでした。彼はカルト集団を始める以前は牧師でした。最初はとても良い活動をしていたので、彼の牧会していた教会は少しずつ大きくなっていきました。ある日、教会の中で事件が起こりました。ジョーンズが聖書を投げ、そして踏みつけながら「『私』はある。『私』は神である」と信徒たちに向かって言っていたのです。彼の考え方、行動が変わって行きました。1978年11月、南米のガイアナ共和国で、彼と人民寺院の子どもを含めた912人のメンバーが集団自殺するという結果を生んでしまったのです。
 このような問題では、多くの場合、牧師自信だけではなく、信徒たちにも大きな責任があると言えます。それは、「自分たちの牧師は特別な方である」と思い込んでしまうことです。あるいは、神のように見てしまうことです。時には「先生はとてもすばらしい。先生のような方はほかにいません」などとことばにして伝えてしまうこともあります。大勢の信徒がそのように言うと、そうした雰囲気で牧師自信も、「私はすばらしい牧師に違いない」とおごり高ぶった考えをもってしまう可能性があります。牧師自信が、自己中心的に自分の考えが正しいと思い込むばかりではないのです。
 私を含め、どんな人間でも、同じ過ちを犯す可能性があります。教会内に限らず、どんな社会においても、リーダーに立つ人はこのような誘惑の中に身を置いています。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年3月3日号

 


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2016年2月16日 (火)

「信仰」という名の虐待 Part6 「牧師の言葉を聖書の言葉と思いこませるトリック」

 ある牧師は信徒たちに「私は神様から、みことばによって、テーマを与えられました。それは、『自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい』というみことばです」と言い、次の日曜日のメッセージの中で、二つのみことばを中心にして、このテーマについて語りました。それは、コリント人への手紙第一15章31節のパウロのことばで、「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です」と、マタイの福音書16章24節のイエス様のことば、「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。』です。
 その牧師はいろいろな観点から、自分を捨てるということと、自分の十字架を負うということの意味を説明しました。その時は別に何も問題は起きませんでしたが、その後、徐々に牧師の考え方、行動にズレが生じ、信徒たちから過剰な奉仕を求めるようになってきました。それが、結果的に虐待につながっていきました。毎週日曜日に、聖書から、そのテーマに基づいてさまざまなみことばを使いました。そして教会の中に、そのテーマとマタイの福音書、コリント人への手紙第一のみことばを書いた大きな垂れ幕を、壁に掛けたのです。日がたつにつれ、信徒たちの頭の中から、「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」ということばが離れなくなり、いつもどうしたらそのようになれるかを考えるようになっていったのです。
 そこから徐々に信徒たちは、これらのみことばの本来の意味から離れて強迫的にこのことを考えるようになり、それと同時に牧師も、いろいろな行動を信徒に求めるようになりました。「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」のテーマに基づいて、すべてのことをこのみことばに関連づけてしまうのです。
 牧師は、いつも主題説教の中で巧妙なテクニックを用いながら、信徒たちの考え方をコントロールしていきました。最初から露骨に牧師の意図する考えを話すのではなく、自分を捨てること、自分の十字架を背負うことについて、徐々に何回にも分けながら、自分の考えが、あたかも聖書の本当の意味であると信徒たちに思わせるような説教にしていったのです。
 このケースの最大の問題は、説教のパターンが決まっていて、必ず最後に牧師の言うことに対して無批判的に、そして求めていることに対しては忠実に従わなければならないということでした。なぜなら、信徒たちは、本来の正しい聖書の解釈ではなく、牧師のことばを聖書のことばと思い込み、そこにことばのトリックが含まれていることに気づく者はほとんどいませんでした。
 こうして牧師は、次第に信徒たちの生活を管理し始めました。仕事を辞めさせて、教会のためだけに働くことを命じることもありました。もちろんその人たちに、給料も休みも与えられませんでした。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年2月24日号

 


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