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2015年7月

2015年7月27日 (月)

終わりのときのリバイバル

 今、この時に、知らないといけない内容が下記のレポートに記されている。
ご一読を!!

        終わりのときのリバイバル Pdf

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聖霊に導かれ、聖霊にコントロールされる
(議案6に対する応答)
アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
ジェネラル・プレスベタリーにおいて採択
2000年8月11日
日本語訳:日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団正教師)佐々木正明 牧師

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 この文章は、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が、トロントの笑いのリバイバルの影響を憂慮し、その間違いを指摘し警鐘を打つために、2000年8月11日に総会において採択したものです。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団はこれを翻訳して、すべての所属教職者に配布しました。しかし、当時の日本においては、トロントのリバイバルなるものについては、うわさ程度にしか知られていなかったために、この文章も、あまり意味のないものとして、忘れられてしまったのではないかと思われます。翻訳した本人もまったく忘れておりました。しかし、あるきっかけで、「ペンテコステ信仰の継承」という文を書いている途中で思い出し、やっと探しだしました。最近日本においても、トロントのリバイバルに代表される後の雨の教えが、非常な勢いをもって広がっていることを、憂慮し、改めて、この文章を公表するものです。なお、古い文書をスキャナーで取り込み、活字化しましたので、オリジナルとは幾分異なるところがあるかもしれません。お許しください。
2007年2月15日  佐々木正明

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 伝道者の書の著者が言うように、日の下には新しいものは一つもありません。 (伝道1:9)
世代は移り変わります。リバイバル運動も興り、衰えます。神に対する飢え渇きもたかまり、また、残念ながらさめて行きます。ある人々は、突然予期しないことが起こるよりは、おなじことのくり返しを好みます。他の者は、かつて起こったためしがない、異常なことを見たいと躍起になります。
        
リバイバルの中の極端な人々

 リバイバルの時には、神は往々にして、それまで顧みられることがなかった真理を、教会に思い起こさせてくださいます。そしてそのようなときには、極端な者が現れ易くなります。ある者は、教理の復興を拒絶してしまい、他の者は、熱に浮かされて、聖書の教えから外れてしまいます。両方の極端も危験で、キリストの栄光に傷をつけてしまいます。

 アズサ街で始まったリバイバルは、(20世紀初頭) 今日にいたるまで、神の臨在に対する思いもよらない、けた外れの反応を、人々の中に生み出してきました。マリア・ウッドワースエターは、1880年代に伝道の働きを始め、1914年のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団設立の後まで、その働きを継続していましたが、自分の初期の働きについて、 「男も女も、死んだように倒れ、横たわっている」と、報告しています。※(1) 人々が倒れると、このようなことを見たこともなかった彼女は、どうしたら良いのかわかりませんでした。結局彼女は、神の力が働いておられるのだと結論付けました。とはいえ、このような肉体的な反応は、組織化されたり企画されたり、計画的にくり返されたりして、彼女の働きの、目玉商品になるようなことはありませんでした。このようなことが起こったとき、彼女は、それが聖霊のお働きであると認めただけでした。

 現在のリバイバルの中には、特定の個人や働きに倣った現象※※(1)を体験し、それが神の特別な臨在の証拠であると、期待されるようになってきたものがあります。たんなる人間の反復と、神の訪れを混ぜ合わせてしまう、このような期待は、間違いなく神の臨在を保証する、かぎりなく変化に富んだ、新鮮な、正真正銘の神の働きを、神の子供たちから奪い盗ってしまいます。

 

メディアに影響されるリバイバル

 今日のリバイバルは、現代の情報手段と技術の恩恵を受ける一方、犠牲にもなっています。20世紀の最初の4半世紀のリバイバルは、少々古くなった話題を載せざるをえない情報誌や、自分の目で見たことを行く先々で報告する人々によって、語り伝えられたものですが、こん日のリバイバルの出来事は、生で放映され、あるいはより魅力的に宣伝するため、録画され編集されて行きます。テレビの映像世界と競争するため、しばしば、劇的な、肉体的側面が、映像画面で宣伝されるのですが、魂を救い人生を変える、聖霊の内なる働きは、それほど目に見えるものでも、壮大なものでもないのです。とは言え、神様の働きがこのように進められているのには、それなりの理由があります。メディアで有名になった伝道者たちは、決して、神の優先順位を人間の優先順位と、取り替えてはなりません。
           
 残念ながら、ペンテコステ派やカリスマ運動に属する人々の間には、リバイバルというものを、そのリイバルに同調しているメディアが報告する、床に倒れたり、制御できないほど震えたり、笑ったり、その他いろいろな人間的な反応をする者の数で判断する人たちがいます。ときにはそのような肉体的反応が、霊的であることの証拠、もしくは、神がその働きを祝福しようとしてお選びになった、証拠として見られています。そうであるかも知れないし、そうでないかも知れないのです。

聖霊を消してはならない

 真面目なペンテコステの信徒が、決してしたくないことは、聖霊を消す、あるはい悲しませることです。私たちは、パウロがテサロニケ人に向けて、「聖霊を消してはなりません」 (Ⅰテサ5:19)と書いたとき、彼が何を言おうとしていたか充分に心得ています。しかし、その2節後で、彼は「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅くまもりなさい」 (Ⅰテサ5:21)と、忠告しています。 ですから私たちは、聖霊がお望みになる通りに、自由に油を注ぎ、活動をしていただくと同時に、しっかりと吟味して識別するようにという戒めを守る、ふたつの責任を重く受け止めなければなりません。もし、聖霊によって鼓舞されたと思われる預言さえも、吟味されなければならないとするなら、(Iコリント14:29) 聖霊のお働きであると思われる肉体的反応も、吟味することができるものであり、されなければならないはずです。しかし、そのようなことを吟味するときは、いつも、キリストの心と精神で行わなければなりません。私たちは、知らずしらずのうちに、極端に走ってしまったまじめな信徒たちを、 ・・・・・もし彼らが教えを受け入れる態度をもち、自分たちが所属しようと選んだキリストのみ体の、分別のある吟味に聞く耳をもっているなら・・・・交わりから断ち切りたくはありません。

 アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、創立以来ずっと、リバイバルの「現象」について、聖書に基づいて声明を出す必要を感じてきました。その必要が、現在のリバイバルの報告にも当てはまるものであるために、私たちは、自分たちの関心に聖書的な理由があることを確認し、それを列挙したいと思います。しかし何にもまして、まず、私たちは、聖霊の働きは、たとえどのようなものであっても妨げたくないという、私たちの願いを再確認しておきます。もし、神からのものであれば、私たちはとどめることはできないし、とどめようとすべきでもありません。もし人からのものであれば、時が来れば消滅します。しかし私たちは、いつまでも続く霊的成長をもって、教会を祝福しようと願っておられる聖霊の助けによって、識別するようにと、聖書に教えられているのです。そういうわけで、私たちは、聖書の教えと模範に従わず、行き過ぎと誤用に陥っていることを示している、次の分野について、注意深く吟昧するように呼びかけるものです。※(2)

逸脱した教えを退ける

 神の臨在を願い、人生を作り変え、悪魔が盗み破壊したものを取り戻す、神の力を見たいと祈っている人たちの心と生活の内には、たしかに神が活動しておられます。しかし、識別されて誤りが正されなければ、正真正銘の聖霊の働きと共に、その正真正銘の神の働きを、浅はかな誤った感情の発露に変えてしまう、教えややりかたがしばしば入り込んでくるのです。聖書の教えに何かを加えたり、それから遠ざかったりする教えの中にも、普通は、人間が付け加えたものや、聖書の異常な解釈といった屑の下に埋もれた、わずかな真理が存在します。人々の生活を変え、教会をその最初の愛と情熱に呼び戻す、聖霊の働きを、不注意によって消してしまうようなことは、絶対にしてはなりません。聖書から遠ざかることが、地域教会の命と安定性に危険を及ぼすようであれば、私たちは警告の言葉を発しなければなりません。私たちは、以下の分野に、心配の理由を見つけ出しています。

1. 霊的賜物が何であるか特定したり、預言といわれるものによって賜物の名を挙げ、手を置いてそれを授けたり分け与えたりするのを、強調しすぎること。  霊的な賜物は聖霊の賜物であり、聖霊が「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(Iコリント12:11) ご自身のお授けになる賜物に力をお与えになるとき、聖霊は、ご自分の役割を代わりなって果たす者を、必要としてはおられません。聖霊が、賜物の活用を鼓舞してくださるときには、たとえ、神様の栄光を少しばかり横取りしようとする、人間の手助けがなくても、誰に対してでも賜物が何であるかを示し、また、確認してくださる事がはっきりしています。このような人間の干渉によって起こる、もっとも大きな弊害は、預言の言葉と受け取られる人間の誤った予測が、決して与えられるはずもない能力や才能を、信徒たちに期待させてしまうところにあります。たしかにパウロは、手を置くことによって賜物が与えられたと言っていますが(Ⅰテモテ4:14、IIテモテ1:6)、 聖書には、テモテが受けた賜物が何であるかは記していませんし、パウロや長老たちが、賜物を分与したという示唆もありません。賜物をお授けになるのは、力が与えられるようにと祈る聖職者ではなく、聖霊です。聖霊が、約束された賜物を超自然的に現して、その預言を確認してくださるまで、特定の賜物の名を挙げることは控えるように、強く注意を促すものです。

2. 現在の使徒職と預言者職が、教会のあらゆる分野を管理すべきであるという、問題のある教え。 
 独立精神が旺盛で、神の国における自分自身の大切さを、過大評価している人たちにとって、組織とか、管理機構というものを、人間的な起源を持つものだと、断言したくなる誘惑は大きいものです。指導者として大きな影響をもっていた、使徒や預言者について聖書で読み、第一コリント12:28 ※(3)と、エペソ2:20、4:11などを間違って解釈し、自分自身、あるいは、自分たちと同じ考え方を持っている人たちを、使徒または預言者と宣言してしまうのです。それで、前の機構を避けるために作り上げた機構が、これに属さない古いものより聖書的であると主張しながら、たちまちのうちに独裁的で横暴な、肉的なものとなることがあるのです。使徒と預言者による指導ということを提唱する人たちは、エペソ書の4章の文節を、しっかり読まずに早々と止めてしまい、教会のすべての役職と働き手が、神に任命されているという事実を、見過ごしにしています。 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、わたしたちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」 (エペソ4:11-15) ※(4)

【アッセンプリーズ・オプ・ゴッド教団は、教団に所属しない人たちの、誤った教理や実践を制御することはできません。とは言え、所属する人々には、キリストの大義を損ない、恥をもたらすような誤りを犯さないために、細心の注意をはらうようにと、励ましています。】

 エペソ2:20においてパウロは、ユダヤ人と異邦人が、普遍的教会※※(2)を形成するために、共に集まったという、歴史的背景についで書いています。20節の、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」という言い方には、不定過去分詞が用いられており、使徒と預言者という土台の上に建てられたという出来事が、過去におこった出来事であることを示しています。エペソ3:5における、使徒と預言者についての言及では、彼らが、霊感を受けた聖書を書いたという過去の出来事を記しています。牧会書簡によると、地域教会の指導は、長老あるいは監督と、執事の手に任せられていました。牧会書簡は、パウロの書簡の最後のものです。これらの最後の著作の中に、使徒と預言者の働きが機能としては継続してもいても、職として存在し続けたと思わせるものはなにもありません。

 新約における預言者は、決して、牧師や伝道者が持っていたような、正式な立場を認められていたとは、説明されていません。彼らは、教会を教え戒めるために、預言的に語ったのです。彼らが聖霊に鼓舞されて語ったとき、彼らの働きは、記憶にとどめられたのです。彼らは、たしかに預書者と呼ばれていましたが職には任じられていませんでした。預言者を自称して地域教会を訪ねて来た者は、当然、良く知られるまでは、疑いのもとに置かれていたのです。それで乱用を避けるため、すべての預言的言葉は、教会によって真偽が試されなければならないと、パウロは教えたのです。(Iコリント14:29) パウロが教え自ら模範を示した、謙遜こそ、あらゆる霊的指導者の、第一の特質でなければなりません。私たちは、誰かれという個人が、使徒職や預言者職につくなどということは別にして、現代の教会に、使徒的働き、また預言者的働きがあること、また、なければならないことを確認します。

 「羊飼い運動」※※(3) という名は、以前ほどではなくなったとはいえ、すでに述べた、使徒と預書者の行き過ぎと密接に関わりながら、まだ活動しています。神に定められ、正当に選ばれた現存の指導者を、手当たり次第、基準もなく、仲間内で任命しあった使徒や預言者と入れ替えてしまうのは、乱用を許す状況を作り上げます。過去において羊飼いの教えは、ひとりひとりの人間が、それぞれ自分の羊飼いに服従させられる、人為的なピラミッド型の管理体制になって行きました。※(5) 羊飼いはまた他の羊飼いに従い、指導を受け、管理され、支配されなければなりませんでした。パウロが、若いテモテを個人的に指導者した例は、現在においても良い手本だとはいえますが、すべての信徒に、個人的羊飼いを持たせて網羅することに、聖書的な基盤はありません。牧師は、結婚している場合にはその配偶者と共に、地域教会の群れの牧者として、もっとも個人的ことがらについてさえ、取り扱うことができます。そして牧師には、神さまに祝福された方法で選ばれた教区長があり、必要ならば彼に支援を求めることができます。しかし、義務感を負わされて、秩序もないなかで、個人的な羊飼いになってもらえる者を探すというのは、聖書的ではありません。キリストのみからだを建て上げよう、また、徳を高めようと心がけている、聖霊に導かれた同労者たちに選ばれ、神に立てられた指導者は、必要な成熟性、安定性、また聖霊の賜物を得ているのです。

3. 発言の賜物によって、個人的導きを伝え、あるいは、押しつけること。  常識には反していても間違いなく神から出ている、聖霊に鼓舞された個人的なアドバイスというものは、とても少ないものであり、みさかいもなく与えられる個人的預言は、たちまち、キリストのみからだの中で、乱用となってしまいます。パウロとパルナバは、まだ良くわからない働きのために、聖霊によって正しく選出されましたが(使徒13:2)、ふたりには、自分たちに与えられる特定の働きのために、さらに、聖霊の方向づけが必要でした。彼らの召しは、信徒たちが集まり、礼拝と断食をしているときに聞こえたのであり、明らかに、パウロとバルナバを含めて、そこにいた者たちはみな、これは聖霊がお語りになっているのだとも確信することができたのです。もし、「預言された」言葉が、神からのものであるならば、聖霊は、それが間違いのない事実であることを、聖霊の働きに選び出された当事者の心に、確信させてくださいます。

4. 聖書の文節の第一の意味に反する解釈によって、み言葉をこじつけ曲解をすること。  以下に述べる教えは、すべて、真理の要素は含んではいるのですが、現在教えられているままでは、間違った指導と非聖書的要素に汚染されており、注意深く避けられなければなりません。ある場合には、単語や言いまわしは聖書から採られていて、聖書的権威を持っているかのように聞こえますが、その適応は、聖書の真理というより、人間の創作によるものです。それらの聖書的真理からの逸脱の多くは、以前にもあったものが再び現れたものであり、また、未来においても、異なった名前の新しい啓示として、出現してくることでしょう。

 現在のみ国、または、支配の神学   神のみ国は、人類の小さなお手伝いによって来るのだという思いは、このような方法で、社会にインパクトを与えようと提唱する人たちの中に、蔓延しています。道に迷ったこの神学は、すぐにも起こるキリストの再臨を嘲笑するわけではなく(IIペテロ3:3-4)、むしろイエス犠は、教会が悪魔とその手下どもから、この地上の支配を取り戻すまでは、お帰りにならないと言うのです。とにかく、クリスチャンは、政治的であれ、教会的であれ、教育、経済、その他の組織であれ、あらゆる可能な手段を用いて支配を勝ち取り、この世界を、キリストがお帰りになるのに、ふさわしい所にすることができると、想定するわけです。※(6)この非聖書的な勝利主義は、これに関係した、他の間違った教えを生み出します。

 明白な神の子、または、ヨエルの軍隊   これらのふたつの名は、現在の神の国の幻に賛同し、敵を打ち負かそうと、一生懸命に活動している者たちに与えられたもので、他の名で呼ばれることもあります。彼らは、キリストがいままさに、いつお帰りになってもおかしくないという、聖書的な理解を持っているクリスチャンを、自分たち、すなわち、彼らがときおり自称する「油注がれた者」に加わらない、生ぬるい者と決めつけます。旧約聖書の中のヨエル書には、間違いなく、終わりの時についての、いくつもの言及があります。しかし、ヨエル書2章に記されている、数が多く強い軍勢は、イスラエルに対する裁きの道具で、いなごの大群のひとつのことです。イスラエルの悔い改めの後、いなごの軍勢は、主によって滅ぼされるのです。この裁きの道具であるいなごが滅ぼされて、はじめて、約束のリバイバルが来るということです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(ヨエル2:28)ヨエルのいなごの軍勢を、キリストの千年の支配のために、地を準備しようと、社会や協力的な教会を攻撃している、間違いなく勝利する戦闘的な軍隊だと見るのは、完全に、聖書の間違った解釈です。

 聖書の出来事と歴史の霊的解釈   霊的成長を励まし教えるために、聖書に記されている歴史的出来事と、聖書の真理を今日の生活に適応させることの間に、類似点を見つけ出すのは、決して悪いことではありません。しかし、それらの出来事が曲解されて、終わりの時の出来事に当てはめられるときには、理性のあるクリスチャンは警戒しなければなりません。使徒の働き17:10-11に記されているベレアの人々は、(パウロが教えていたことを) はたしてそのとおりかどうかと、毎日聖書を調べた」ために、賞賛されています。新しい真理の啓示だと報告された教えは、非常に注意深く調査されなければなりません。ペンテコステの人々は、油注がれた力強い説教に慣れています。しかし、教える者が権威と自信をもって語ったからと言って、教えが真実になるものではありません。それは、常に聖書と調和するものでなければなりません。個人的カリスマ性は、聖書の権威の代わりにはならないからです。

 繁栄の福音   繁栄の福音の説教は、正当なプログラムにも、正当とは言い切れないプログラムにも、収入の増加をもたらしてきました。神は、忠実な者を祝福してくださいます。しかし、祝福は必ずしも経済的収入だけにかぎりません。蒔くものは刈るものとなるという、霊的な原則はありますが、贅沢な、個人的ライフスタイルを支えるために、貧しい者の金を吸い上げるのは、良心に反することです。もし、自分が口にしたあらゆる無駄な言葉について、申し開きをしなければならない時があるとするならば(マタイ12:36)、 怪しい方法で集金した1ドル1ドルに、申し開きをするのが当然ではないかと思います。聖書の教えは、世界中のすべての地域、文化、社会、そして国に適応することができるものです。※(7)

 出産   わずかな真理の要素が、あるべき限度を無理やりに越えさせられた、もうひとつの例が、信徒は神の国に、新しいクリスチャンを産み出さなければならないという教えです。パウロは、ガラテヤ人に、「私の子どもたちよ、あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19) と書いたとき、この概念をきちっと正しく用いています。しかし、この概念で、出産を間近に控えている母親を、そのまま劇のように描写し、まさに子供を産もうとしている母親のように信徒を寝かせ、とりなしをするように勧めるに至っては、真理の乱用です。

 代々にわたる呪い   父の罪が子に及び、3代、4代に至るということが、聖書に記されているのは事実です。 (出20:5、民14:18、申5:9) これら3ケ所のうち2ケ所は、罪が及ぶのは神を憎む者に対してです。また私たちは、遺伝や環境が子孫に影響を及ぼすことも知っています。しかし、旧約聖書の教えは、十字架の上で威し遂げられたキリストの働きという、光のもとで読まれるべきです。新約聖書のどこにも、代々にわたる呪いという概念を、見いだすことができません。たとえ、私たちの回りでは、堕落した被造物が、いまだに、すべての物の回復を待ち望んでうめき苦しんでいようとも(ロマ8:22)、現在、信じる考たちは、自分の罪の呪いの下に生きてはいないのです。キリストのみからだの外にあっては、この全体的な罪の呪いの証拠は、歴然としていることでしょう。しかし、信徒にとっては、たとえまだ、聖霊の助けによって取り扱って行かなければならない、生来の性癖が残っているとしても、罪の呪いは、救いの時点で打ち破られているのです。

5. 何でも悪魔と悪霊のせいにする。  「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者より力があるからです。」(Iヨハネ4:4) 悪魔は存在します。神の永遠のご計画に対抗して、活動できる機会はもうすぐなくなるという中で、悪魔は死にもの狂いで働いているのです。しかし、悪魔は昔より強くなっているのではありません。神は常に支配しておられます。私たちが強調するのは、悪魔の虐待や撹乱あるいは破壊、さらにはみずから進んで悪魔と火遊びをして、彼の支配に身を委ねる者に取り憑くことでもなく、神は全能だということであるべきです。悪魔は、たとえ誘惑し、苦しみを与えることがあるとしても、神の子に取り憑くことはできません。信徒が悪霊に取り憑かれることはあり得ません。

 悪霊と戦い、追放するのは、胸が高鳴るような活動です。これはまた注目を集めます。ここにも真理の要素はあります。不都合なことのすべてが、悪魔のせいにされてはなりませんが、たしかに、取り扱われなければならない特別な事例の中には、悪魔に憑かれているということもあります。そして神は、ご自身の賢さをもって、そのような特別な必要のために、道具を備えてくださいました。たしかに、闇の世の君たちが町や市に任命されているかも知れませんが、すべての町や市、あるいは地理的区分が、悪霊の支配下にあるという聖書的証拠はありません。聖霊は、ある人が悪霊に支配されていて、解放を必要としているという知識の言葉を、聖霊に満たされた信徒にお与えになるかも知れません。また、奇妙な振る舞いをする人に会うと、聖霊は、聖霊に満たされた人のために、その奇妙な行動の原因についで、識別してくださいます。しかし、病気、怪我、出産にまつわる障害あるいは良くない特徴などのすべてが、悪霊の仕業だと言い切ってしまうのは、聖書の読み方が間違っています。罪は、そのしるしをこの世に残しました。しかしところかまわず、名前を拳げて迫い出さなければならない、悪霊という形のしるしではありません。

 私たちは、霊の戦いの中にいます。「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」 (Iペテロ5:8) しかし、この教えは信徒を脅して、毎日のすべての活動を悪魔との大格闘にしてしまう、極端に追い込むために与えられたのではありません。霊的な抗争の中で、すべてのクリスチャンが身に付けるべき武具で、私たちの身を固めるならば、私たちは、悪魔の策略に対して立ち向かうことができると、約束されているのです。(エペソ6:11-17) キリストの血潮によって被われ、自分の武具で身を固めるならば、私たちは、福音を携えて全世界に出ていくという、与えられた任務に専念することができます。出ていく中で、激しい戦いもあることでしよう。しかし、私たちに先だってくださる方は、すでに勝利を収めておられるのです。

肉体的「現象」※(8)を識別する

 ある人たちは、奇妙な肉体的反応を、抗し難い聖霊の力が働いているのだと、弁明します。しかし、多くの場合、それは、神が臨在しておられるという意識の、肉体的反応にすきません。識別することが絶対に必要です。そのような誤りは、上手に取り扱われなければなりません。喜びが過ぎている真面目な信徒には、優しく諭して上げることができます。しかし時には、ふさわしくない現象によって、本物の聖霊の働きが消されてしまわないように、肉的な反応に対して、ただちに対処しなければならない時もあるでしょう。

 ある批評家は、肉体的反応は、聖書に例がなければ、正当なものとは認められないと論じました。しかし私たちは、神が癒されるのは、聖書にはっきりと名を拳げられている、病気だけだとは主張しません。私たちは、かつてまったく知られていなかった、新種の病気でも、神は癒すことがおできになると信じるものです。奇跡的癒しの例も充分に見てきましたし、神はすべての病気を癒すことができるという約束もあるからです。(詩103:3) 同じように、聖書には、聖霊が人々の上に臨み、人々は夢見心地になったり、超自然の状態になったりした例があります。

 パウロは、コリントの人ヘの手紙第2の中で、並大抵ではない超自然的体験について、ごくひかえ目に触れています。「無益なことですが、跨るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましよう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四午前に・・・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。パラダイスに引き上げられて、人間には語る事を許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた事を知っています。このような人についで私は誇るのです。しかし、私自身についでは、自分の弱さ以外には誇りません。」(IIコリント12:1-5) ヨハネはパトモス島において、「聖霊に感じ」る体験をしています。「私は、主の日に聖霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」(黙1:10)旧約の預言者たちも神の臨在に遭遇し、予期しなかったことをしたり語ったりしています。もし、聖書の時代に、聖霊が人々の上に臨まれたとするならば、今日も、聖霊は同じようにすることができます。そしてそのようになさっているのです。しかし、聖書の中ではっきりと、必ずこうなると教えられていない肉体的反応は、それが神からのものか、たんなる人間の反応か、それとも、悪魔が本物の神の働きを妨げようとしているのか、試され、識別されなければなりません。もし、聖書の中に同様の事柄が記されていない糧合には、どのような霊的体験であっても、霊的完全の証拠とされてはならず、すべての人が体験すべきこととされてもならないのです。

【神は現在、聖書には記されていない事をなさることができますが、人間の反応は霊性のしるしと考えられてはならず、宗教体験の模範とされてもいけません。】

 肉体的現象にたいする行き過ぎた憧れ   どのような肉体的反応であっても、 (聖書にくり返し記されている、聖霊に鼓舞されて語る異言以外には) 聖霊がその可視的反応の背後においでになるという、確実な証拠とはなりません。神の臨在はいつも風の中、地震の中、火の中※(9))にあるものとはかぎりません。(I列王19:11-l2) 静かなみ声の場合もあるのです。神は、他のことに熱中している信徒たちの注意を引くために、劇的なことがらをお用いになることもあるでしょう。しかし聖霊に満たされたクリスチャンは、いま現在の体験の中でも、常に、聖霊が囁きかけ、そっと脇を突いてくださることに、注意を傾けるべきです。聖霊が、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と、おっしゃりたい時もあるのです。(詩46:10口語訳)

 人間的反応を判断する   預言は、吟味されなければならないと、聖書が告げているように、(Iコリント14:29) 異常な肉体的反応も、吟味されなければなりません。その肉体的表現は、聖霊が罪人の良心に強く迫ってくださった結果でも有り得ます。前世紀のリバイバルでは、罪人が罪の自覚にうめき、泣き、さらには永遠の裁きの恐れに魂を握り潰され、叫び出すことさえありました。そのような現象が、回心ヘ導かれる中でのまじめな表現であるならば、まったく正当なものと思われます。

 信徒たちが体験する肉体的反応を吟味するのは、もっと難しいものです。宗教体験というものは、しばしば感情を伴いますし、ときには、深い情緒的必要の表現でもあるからです。しかし、ただ、感情的体験だけのためにリバイバルを求めるのは、人生を変え、信徒たちをもっとキリストに似た者に造り上げるという、神の本来の目的にそぐわないものです。その人間的反応は、その人個人と会衆の徳を高めるものでしょうか。それは、神の栄光を現し、他の人々が、もっと主に近づきたくなるように、励ましを与えるものでしょうか。あるいは、本物であろうが見せかけだろうが、体験をした者がその体験を語ることによって、ほめられたり、喝采を受けたりするのを望んでいるのでしょうか。それとも、生き方が変わってしまい、とにかく、どのような方法であっても主をお喜ばせしたい、キリストにまったくあけわたし、担えとおっしゃった十字架が、たとえいかなるものであっても、それを背負って行きたいという願いが、ますます大きくなったという話しをするのでしょうか。肉の欲望を捨て、聖さを追い求める決意を、はっきり表現したのでしょうか。その喜びは、神との交わりの聖い喜びの表現でしょうか。それとも、自分の体験と能力を嬉しがっている表現でしょうか。現象の吟味は、預言の場合とおなじように、そこにいた者によってされるべきです。(Iコリント14:29)

 私たちは、全能の神が、金歯をかぶせて下さることも、金粉を降らせてくださることもできる方であることを、認めなければなりません。しかしそのような出来事は。実証※※(4)されるのでしょうか。※(10)もしそれが、そこにいた人たちヘのしるしだとすれば、しるしの理由がはっきりしていなければなりません。しかしそのようなしるしを追い求めていては、わたしたちは、イエス様のところにやって来て、天からのしるしを見せて欲しいと求めたバリサイ人と、なんら変わりなくなってしまいます。(マルコ8:11) どのようにとてつもないしるしであっても、信徒は同じ態度をもって、自分を守るべきです。遠く離れたところで、人づてに聞いた話で吟味するのは危険です。

現象と働き    預言者イザヤは、特異な主の臨在の体験をしました。(イザヤ6) まず、神のみいつと聖さの啓示が、幻によって与えられました。イザヤの最初の反応は神に栄光を帰すことでした。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ6:3) しかしその宣言のすぐ後に、罪深さのゆえに、自分は無価値なものであるという強烈な自覚が起こりました。「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」 (イザヤ6:5) もし、私たちが、神の臨在を本当に体験したならば、たとえ、自分の人生をどのように立派に評価していようとも、神の聖い臨在の前にあっては、卑賤のものにすぎなくなります。私たちの中には、キリストの徳をのぞいては、どのような徳もありません。正真正銘の神との出会いは、深い謙遜を産み出さずにはいないのです。

 神は、御自分の臨在を体験するという代価を払った者を、自責の念の中に閉じ込めておかれません。すぐにも、大宣教命令の一部を遂行する任務をお与えになります。イザヤに対して、神は「行って、この民に言え」とおっしやいました。その託宣は、告げやすいものではありませんでしたが、イザヤは従いました。神の臨在を特別に体験したあとには、主のみ声に従うことが続かなければなりません。とはいえ、瞬間瞬間聖霊の内に歩み、聖霊に満たされている信徒は、感情の山の頂上の体験なしにも、静かな、小さなみ声で神のお導きを聞き、それに従うことができるのです。そのような山の頂上の体験は、消えかけた情熱の火を、再び燃え上がらせるための処方箋かもしれませんが、しっかり立ってみ国の働きをするようにという、召しに応えもせず、そのような体験だけをさらに求め続けるのは、非生産的です。リバイバルには、聖徒たちの気分を良くさせる以上の、目的があるのです。          

地域教会の牧師たちにひとこと

 他の教会から、前例のないようなリバイバルの報告を聞くと、あなたは、なぜ神は、他のところでは、そのようなめざましいみ業を進めておられるのに、自分の教会ではなさらないのだろうかと、考え込んでしまうことでしょう。それが普通です。「うちの教会のどこが悪いのだろう。」「私たちはリバイバルを求めて、神に祈ったではないか。」「私たちは、何かの理由で素通りにされて、今、神がなさっていることには与かれないのだ」と、考え込んでしまうのが普通です。もっと危険なのは、「私たちは神の臨在を体験しているので、他にはなにも欲しくないし、必要でもない」という反応です。あなたは、他の人たちが経験しているような、公衆の注目を得るためにではなく、いま自分のいるところで忠実に、イエス様を見つめていくように召されているのです。自分の会衆と一緒になって、神がお望みになっているような教会になれるように、努力して行く中で、以下の助言を心と記憶に留めておいてください。

1.神は、いまあなたの教会に望んでおられる、霊的成長をさせてくださっているのではいでしようか。父なる神は、ご自分のみ子をお遣わしになって死なせたほどに、ひとりひとりを愛しくださっているのですから、あなたの教会のすべての信徒が、もっとみ子に近づくようにと望んでおられます。

2.妬みや劣等感から、目に見える形で生き生きとリバイバルを経験している教会を、批判しないでください。忍耐深く、忠実に、自分の召しをまっとうしてください。神は、ご自分の方法、ご自分の時、ご自分が選ぶところで、お働きになることができるのです。広い心をもって、神の超自然のお働きヘ向けて、心ぞなえをしていてください。

3.忠実に神の言葉を語り、信徒たちが、さらに神の臨在と力を体験できるように、励まし続けてください。すべての信徒が、もっと主の近くを歩みたいと願うようになるべきです。

4.めざましい神の働きと思われる光景を、どこか他の場所で見てきた者たちに、自分も信徒も影讐されてしまい、他のところの活動を、ただまねるだけにならないようにしてください。神があなたの教会の必要にそって、特別に働いて下さるように求めてください。まねで起こったリバイバルは、人間が作り出した可能性が強いのです。

5.はっきり証明されていない、癒しや奇跡を報告する場合には、最大の注意をはらいましよう。ペンテコステの人々は、神は癒すことができ、癒してくださるということを、はっきり知っています。超自然の癒しの証によって、信仰が励まされ、力づけられることも知っています。しかし癒されたという証が、後から、批評する人たちによって、たいした変化が起こったわけでもないし、継続もしていないと証明されると、キリストのみ名がはずかしめられるのです。偽の報告、嘘の報告、あるいは自分の働きを大きく見せるための、故意のごまかしが非難されると、クリスチャンの証が傷つくだけです。もし誰かがまじめに癒しの証をし、後になって癒されていなかったと判明したような場合、その早すぎた証は、牧師や伝道者の責任とはされなくても、地域の中でのその教会の証に、悪影を与えることになります。            

6.ただ現象を見たいというだけで、特別講師を招かないでください。聖霊の本物の働きに疑いの影を落とすような、いろいろなごまかしが、もう充分以上にされてきたのです。特別講師を招くときは、よく注意してください。アッセンブリース・オブ・ゴッド教団の教職以外の人を招くと、望ましくない教えとやり方を、持ち込むことになるかも知れません。

7.これらの警告に耳を貸さない人たちを、非難しないようにしてください。

8.誤った教理が教えられ、誤ったことが行われているのを確認した場合、あなたには正しい方法で、それについで語る責任があります。あなたは自分の心遣いを、まず、その間違いに直接関わっている人に語るべきです。あなたの心遣いが拒絶されたりも黙殺されたりした場合は、その状況について、教区の指導者に知らせるべきです。「多くの助言者によって安全を得る。」(箴24:6欽定訳) 
   
 この小文で、教会の懸念として説明した、教えや人間の反応のいくつかは、数年のうちに、・・・主がお戻りになるのが遅れれば・・忘れられてしまうか、ただ一時期の流行として思い出されるに過ぎなくなるでしょう。あるものは、新しい名のもとに再び現れて来ることでしよう。また、わずかばかりの真理の要素から始まって、極端に陥って聖書から外れてしまった者のように、さらに、新しい教えが出現して来ることでしょう。名称や呼称はともかく、その実際の教えや人の反応を、識別することが肝要です。主は、ただただみ国の建設を目指し、おのれの栄光はまったく顧みず、すべての栄光を主にお献げしようとするご自分の民を、誠実に導き、お守りくださるのです。

 魂が救われ人生が変えられたという報告は、けっして、誤った神学と実践を正当化するものではありません。ところがパウロは、自分と自分の働きにとって、いろいろ妨げになる偽預言者について、次のように語っているのです。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。」 (ピリピ1:15-18) しかし、聖書的な潔癖性をもった、正しい動機でキリストが宣べ伝えられるのを、パウロが望んでいたことは明らかです。そして私たちも、また、同じです。

(脚注)
※(1) Maria Woodworth-Etter, A Diary of Signs and Wonders (Tulsa: Harrison House,1916 reprint) p.37.
※(2) ワシントン州シアトルで開催された、1949年度のアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の総会で、New Order of the Latter Rainの教理を否認する議案が提出され、承認されました。総会記録には、短い討議の後、この議案は絶対多数で可決されたことが記されています。議案は、この小文で論じようとしている多くの問題を扱っていました。
※(3) 「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それから癒しの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Iコリント12:18)
※(4) 教会の指導者の働きの、聖書的ありかたについて、さらに深く学びたい場合は、“The Ministry of the Body of Christ” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House,1974) をご覧ください。
※(5) “The Discipleship and Submission Movement” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1976) をご覧ください。
※(6) この偽りの教えについでは“The Kingdom of God as Described in Holy Scripture” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1990) に、詳しく取り扱われています。
※(7) 繁栄の福音と積極的告白の問題はすでに学ばれていて、“The Believer and Positive Confession" position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1980) に載っています。
※(8) 「Manifestation」(Iコリント12:7《新改訳では「現れ」、この小文では「現象」と訳している》)の聖書的な用法は、聖霊の超自然的もしくは奇跡的な働きを指すものです。しかし、今日の一般的な用法では、神の臨在に対する人間の肉体的な反応を意味しています。
※(9) ただし、この場合風、地震、火などは神のみ業です。
※(10) 確実な癒しは、医療記録によって確認されて、間違いないとされます。ある宗教の信者たちは、イエス様やマリヤの出現、あるいはイエス犠の死のシンボルを見たと主張しています。実証による確認がなければ、そのような報告に対しては、懐疑的にならざるを得ません。リバイバル集会における信じがたい出来事が、未確認のまま報告きれると、キリストの栄光となるよりは、むしろ栄光に傷を付けるものになってしまいます。新約聖書全体を通して、肉体の癒しは、神の臨在と働きの超自然的証拠です。

(訳注)
※※(1) “Manifestations” 新改訳では「現れ」と訳されている。
※※(2) 原文では “the Church” 意味を分かり易くするため、普遍的教会と訳した。
※※(3) “The Shepherding Movement”
※※(4) “Empirically demonstrated?”

原文では “the Holy Spirit”と “the Spirit” という言葉が自由に使われていましたが、読み易くするために、すべて、「聖霊」と統一して翻訳しました。

提供:日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団:佐々木正明 牧師

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2015年7月22日 (水)

『キリストの花嫁 11』雅歌 8:5-14

 10回にわたって講解してきた雅歌であるが、とうとうというか、やっとというか、今回が、最後の項目となる。花嫁は、どうなるのか。壮大な小説を見ているようである。花嫁は、試練の苦しみを抜け、動かぬ平安をいただき、後に続いてくる者たちのために、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)と言っていた。この4節の終わりには、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花婿と花嫁は、祈りの部屋へ行き、親密な交わりを持ち、時が経っていった。

 

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『愛する者に寄りかかって-すべてに高く-』雅歌 8:5-14(新改訳聖書使用)
花婿の権威を帯びた花嫁

 「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌 8:5)これを花婿のことばとする人もいるが、訳によっては、男性が女性に語りかけているように訳されていたり(シリヤ語訳)、女性の語りかけのように訳されていたり(マソラ本文〔6世紀から10世紀に、伝統的な聖書本文を正確に残そうとマソラ学者によって印などをつけてまとめられた聖書〕)するようだ。雅歌は、誰が誰に言ったことばといった説明書きがあるわけではないので、誰が誰に言ったのかは、注意深く内容を照らしていかないと、わからなくなり、そのため、いろいろな見解が出てくる。3章6節では、婚礼の行列を見て、「荒野から上って来るあの美しい人はだれ。」と人々が賛嘆の声を上げているのを見てきた。ことばの意味を考えても、それと同じような周囲のことばである。ところで、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6,8:3)と花嫁は、二度、雅歌の中で言っていた。初めからずっと、変わっていない花嫁の花婿への願いであった。花嫁は、花婿の平安、安息の左の腕を枕にし、力強い右の手で抱かれ、守られることをずっと願っていた。今、花嫁は、ずっと願っていたように、寄りかかりながら、荒野から現われた(上ってきた)のである。寄りかかりながら、と言ったが、その寄りかかりは、「私は何もできないから、守ってね。」と相手に責任を置くような甘えからの依存ではなく、花婿の愛という支配の中、花婿と歩調を合わせながら、ともに同労者として歩んでいくというような、寄りかかりである。それでは、助け合いではないかとなるのだが、「助け合い」とならないで、「寄りかかり」となるのは、相手が完全である花婿だからである。花婿である主イエスは、完全なるお方である。人間は、一人一人、不完全であり、個人でする働きには、限界がある。その人の性質、特質、特長によってなすべき働きは、それぞれ異なる。異なるからこそ、同じ志を持つ者が、多く集まれば集まるほどに(一致が欠かせないが)、完全ではない相手の弱さをカバーし合え、完全な働きとなっていくのである。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ 12:4,5)ここで、花嫁は、完全である花婿に、寄りかかりながら、花嫁として、地上で自分のなすべき働きをしていくのである。厳しい試練の荒野から、花婿に寄りかかって、出てきた花嫁は、キリスト者として、みごとな成長を遂げていた。

 

花嫁の成長

 


 「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」(雅歌 8:5)2章で、花嫁は、花婿を「林の木の中のりんごの木」(雅歌 2:3)にたとえた。赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木は、花婿の象徴であり、りんごの実(雅歌 2:3,5, 7:8)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような、主がそのご性質から私たちに与えてくださるものであった。2章3節で、「私はその(りんごの木)陰にすわりたいと切に望」んだ花嫁の願いが、いつの間にか、ここにきて、かなっている。というか、すわるどころか、すっかりくつろいで(安息して)、花婿が目をさまさせるまで、ぐっすり寝ていたわけである。りんごの木の下は、「あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」と、花婿は言っている。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ 8:26)産みの苦しみというべきとりなしをもって、絶えず働いておられる聖霊さまは、罪の世を歩んでいる私たちを救うために、また、救われた後も、主にふさわしいものとなるために、私たちに「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」といったりんごの実を与えてくださる母である。花嫁は、孤独だと思っていたわけだが、母が、花婿にふさわしい花嫁として整えるという目的をもって、りんごの木の下で、ずっと花嫁のために、産みの苦しみをしていたのである。花嫁は、孤独を感じていたときでも、ずっと、母の愛のとりなしの祈りの中にいたのである。

 

献身への思い

 


 「私を封印のようにあなたの心臓(ヘブル原語のleb〔心〕)の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(雅歌 8:6)と、りんごの実を十分に味わった花嫁は願う。古くから、石や金属などにさまざまな模様や像を刻み、印章にして、封印として使われていた。この封印はひもを通し、胸の辺りに掛かるように首からかけていたり、または、右の手に指輪にしてつけていたりした。封印は、所有を表わす鍵の役割を果たすものであった。今の割印をイメージしていただければ、わかりやすい。ここで見られるのは、花嫁の献身の願いである。成長した花嫁は、花婿の心の上にしっかりとつけられ、また、腕の上にしっかりとつけられ、歩むことを強く願っている。腕はヘブル原語では「腕,肩,力,腕力,(政治・軍事的)力」である。花婿の力を帯びて、出て行こうとする花嫁。

 

 「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌 8:6)神であられる主は、ねたむほど強く愛されるお方であることが、聖書のあちらこちらで、描かれている。「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト 20:5)「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(申命記 4:24)「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」(ヨエル 2:18)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(ゼカリヤ 1:14)などである。十字架の死という究極の愛、この死のように強い愛は、愛するものを奪う敵に対しては、よみ(抵抗し、拒むことのできない絶対的なもの)のように激しくねたむものでもある。それは、焼き尽くすすさまじい炎のように、激しいものである。不義に対しては、激しい炎をもって、対処する愛。この神の愛(アガペーの愛)を、花嫁は本当の意味で、理屈ではなく体験により、知ったのである。この愛があるなら、恐れるものなどない。この愛の中にとどまった花嫁は、この愛を受けたから、献身を表明したのである。

 

 続けて、花嫁が知った愛の力が述べられている。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌 8:7)すさまじい炎のような勢いをもった愛。大水も洪水も、その炎を消したり、流したりできない。カルメル山で、バアルの預言者たちと対決したエリヤがもたらした神の火に見られる愛である。リバイバルの炎である。神とバアル、どっちつかずによろめいていたなまぬるい民たちの前で、エリヤとバアル預言者は、それぞれ祭壇を築いた。火をもって答える神が、真の神であると。バアル預言者たちが、まず先に、バアルの名を呼んで、祭壇のあたりを躍り回った。朝から真昼まで呼んだり、踊ったりしていたが、何も起こらない。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」というエリヤに、自分たちの愚かさを悟ろうとも、間違いに気付こうともせず、バアル預言者たちは、さらに、大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることをした。ささげ物をささげる時(夕のささげ物で、普通午後3時頃からささげられる)まで、騒ぎ立て、頑張っていたが、当然の結果ではあるが、無駄であった。次に、エリヤが、壊れていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りにみぞまで掘り、全焼のいけにえの一頭の雄牛とたきぎに、たっぷりと(三度とある、三は完全数)水を注ぎ、みぞを流れるほどに、水を満たした。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と言うやいなや、天から主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った(Ⅰ列王記 18:18-39)。主の炎が、エリヤを通じて、リバイバルを起こしたのである。同じように、花婿の愛を流す管となった花嫁から注ぎ出される大水にも洪水にもびくともしないすさまじい炎のような愛は(花嫁自らの愛であったなら、大水どころか、小雨でも、しおしおになりやすい頼りない火であるかもしれないが、火の基は、花婿なのである)、リバイバルをもたらす愛となるのである。

 

 「もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌 8:7)かつては、花婿に寵愛されていても、母の子らに愛されたい、エルサレムの娘たちや夜回りたちや城壁を守る者たちに親切にされたい(愛されたい)と、孤独を感じていた花嫁であったが、今や、愛という性質を体験的に知った。愛は、得よう得よう、欲しい欲しいと、がむしゃらにそのための努力をすればするほどに、そして、たとえ、自分の財産をすっからかんになるまでに、ことごとく与えるほどにまで、頑張っても(そのような頑張りは、自我である、私たちのなすべき努力は、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ 1:5-7)である。)、ただのさげすみしか得られないものであるのだと。愛は、得ようと努力するものではなく、一方的に与えるものであり、花嫁が、花婿の大きな愛に気付き、以前よりも花婿を愛するようになったと同じように、花婿を模範として与え続けていれば、愛を持っているものならば、必ず、自分が花婿に応答したように、その愛に応答してくるものなのだと、知ったのである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花嫁が献身を表明して、更に時が経っていったようである。

 

私たちの妹へ

 


 「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。」(雅歌 8:8)時間が過ぎて、花婿と花嫁の働きによって、妹ができた。「私たちの妹」とあるが、花嫁の献身の結果、救われてくる人は、花婿と花嫁の妹である。救われたての若い妹。まだ愛(乳房で象徴)も知らないような幼い妹。彼女が、花嫁として召される日には、「彼女のために何をしてあげよう。」と配慮する花婿。「もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。」(雅歌 8:9)もし、彼女が、城壁のように妥協なく堂々と救いという土台の上に立つゆるぎない者であったなら、その上に、銀(贖い)の胸壁(ヘブル原語の「野営,駐屯,石壁,宮殿,石段,狭間胸壁」)を建てようと、贖いというゆるぎない敵からの守りを置くことを約束する花婿。「もし、城壁だったら、」という条件があることに注意したい。救われた後、ぐらぐら歩んでも敵からの守りはOKとは言っていない。「彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。」(雅歌 8:9)もし、妹が、戸(ヘブル原語の「戸,戸口,門」)のように、出入りの多い門のように、スカスカ何でも通すような者であったなら、杉の板で囲もう(ヘブル原語の「敵意を示す、包囲する、作る、制限する、抑制する」)と言う花婿。杉は、聖めの象徴である。杉の板は、聖めの板である。聖めという柵で包囲し、制限を設けようと言っている。

 

 「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(雅歌 8:10)花嫁のことばである。今の花嫁は、城壁のように、妥協なく堂々と立つゆるぎない者となっている。また、花嫁の内には、やぐらのように、高くそびえ立つ愛が形成されている。花婿による銀の胸壁と、杉の板によって、つまり、花婿の配慮ある愛の守りによって、花婿の目に、平安をもたらす者のような(花婿に喜ばれているような)、今の自分になったのだという証しのことばである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。妹ができて、また、時が経っていった。

 

すべての者の中で高く上げられた花嫁

 


 ここからの3節は、花婿でも花嫁でもない、第3者のことばのようである。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。」(雅歌 8:11)バアル・ハモンの位置は、不明とされている。バアル(ヘブル原語の「主、夫、所有者」)、ハモン(ヘブル原語の「群集、豊かさ、富」)で、バアル・ハモンは、「群集の主」という意味がある。ソロモン(花婿)には、「群集の主」という所にぶどう畑があった(大勢の信者があった)。「彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。」(雅歌 8:11)花婿は、その群れを、「守る者、管理する者」に任せ、その者たちは、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。「おのおのその収穫によって」とあるが、「銀千枚」と決められている。銀は聖書では、贖いの代価として支払うものである。千は、10(十全)×10×10(三次元すべて完全)で、また、千年王国の千年の統治に見られるように、平和の象徴である。完全な平和。花婿なる夫から、花嫁なる妻を預かった者が、花嫁なる妻を夫に返す時に、銀千枚支払った例が、創世記にある。アブラハムはその生涯で、サラを、二度、妹であると偽った。二度目、ゲラルでのこと、王アビメレクは、サラをアブラハムの妹だと思い、召し入れたわけだが、夢の中で、神にとどめられた。アビメレクは、サラをアブラハムに返したとき、アブラハムではなく、サラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」(創世記 20:16)銀千枚は、夫アブラハムからサラを預かった(実際は、だまされてであったが)アビメレクが、サラを夫のもとに返すときに、平和のうちに、サラを、すべてのものから守り、すべて、正しいとされるために、夫アブラハムに支払われたものであった。こう説明していても、ややこしいのだが、ぶどう畑を任せられた者(花婿から花嫁〔ここでいう花嫁は、今までずっと見てきた花嫁ではなく、後に続いてきた花嫁なる信者(妹)たちである〕なる信者を預けられた者)が、花婿に納める銀千枚は、預かっている花嫁なる信者のために支払われるものなのである。何のためにか。花嫁なる信者がすべてのものから守られ、すべて、正しいとされるために、である。完全な平和を保つためにである。自分のもとにいる花嫁なる信者は、自分のものではなく、花婿のものであることの表明でもある。花婿のものであることの自覚がないなら、花嫁はどのように扱われるかわからない。

 

 「私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。」(雅歌 8:12)ぶどう畑を任された者のことばである。花婿に、銀千枚は、先程と同じ花嫁なる信者のための代価である。「その実を守る者には銀二百枚。」実を守る者への報酬。この二百枚は、銀千枚と合わせて、千二百枚となる。十二は、統治に関する数。実を守る者へ、報酬として、御国の一部の統治が任されることの型であろうか。二はまた一致の数でもある。統治は、一致をもってなされなければならない。

 

 「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。」(雅歌 8:13)12節の後半からは、ソロモン(花婿)に向かって呼びかけている。庭園の中に住んでいる仲間(ヘブル原語のchaber「〔1)団結した 2)共同者,友,礼拝者 3)仲間〕」)たちは、花婿のことばに耳を傾け、指示を待っている。指示を聞かせてくれるように言っている。

 

 雅歌の最後は、花嫁のことばで締めくくられる。「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 8:14)「私の愛する花婿よ、急いで来てください。ぶどう園の管理者たちが、あなたの声を聞きたいと、指示を待っていますよ、急いでください。よいかおりをただよわせている山々の上にいるさっそうと雄々しいかもしかや若い(雄)鹿のように速やかに駆けつけてください。」花嫁は、管理者や実を守る者など、ぶどう園で働く者たち、また、礼拝者など庭に住む仲間たちよりも、高い位置に上げられ、花婿といつもともにいて、その者たちの間に立って、とりなす者となっていた。

 

 後半部分は、とりわけ難解な箇所であった。しかし、こうして、後半4節(11節から14節)を見ていくと、天の様子がかいま見えるような箇所であった。雅歌に出てきた人物は、花婿に対して、花嫁、エルサレムの娘たち(おとめら)、花嫁と同じ母の子であるが花嫁ではない者、町を行き巡る夜回りたち、イスラエルの勇士たち、王妃たち、そばめたち、ぶどう畑を守る者たち、実を守る者たち、庭に住む仲間たちである。重複しているものがあるかもしれないが、すべての者が、花嫁ではないことが、雅歌で明らかにされている。たとえで、奥義が語られる理由は、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」ない人たちがいて、その人たちが、「悔い改めて赦されることのないため。」である(マルコ 4:12)と、主イエスは言われた。雅歌は、御名のために、迫害などの苦しい中におかれ続けているクリスチャンたちに、多くの慰めを与え続けている愛にあふれた書簡である。

 

落ち穂の会提供

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2015年7月 4日 (土)

『キリストの花嫁 10』雅歌 7:10-8:4

間が空いてしまったが、雅歌の続きを見る。前回までで、「花嫁のことばは、良いぶどう酒のようであり、花婿の愛に対して、なめらかに流れ、眠った者のくちびるをもその愛で満たす」と花婿が、語ったところまでを見た。花婿の愛によって、花婿だけをまっすぐに見るよう成長を遂げ、目覚めた花嫁。

 

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『ヘンナ樹の花の中で-動かぬ平安-』雅歌 7:10-8:4(新改訳聖書使用)

花婿からの賛辞への花嫁の応答

 

 花婿の自分へのあふれんばかりの愛を知り、花嫁は答える。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)もう以前のように、壁を作ったり、自分の殻にこもったりして、花婿を拒否したりはしない。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)この広く、長く、高く、深い人知を越えた花婿の愛を、花嫁は知ったのである。知ったからこそ、花嫁は、心の底から、自分のすべてをゆだねたいと思い、このように言えたのである。「私は、私の愛する方のもの。」と。2章16節では、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」6章3節では、順序が変わって、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と、自我が砕かれ、成長していた花嫁、今度は、「私の愛する方は私のもの」がなくなっている。3段階の成長が見られる。花嫁は、「私の愛する方は私のもの」という自我の主張をしなくてもよいほどに「あの方は私を恋い慕う。」と、花婿に愛されていることを、知ったのである。

 

動かぬ平安

 


 かつては、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:10)、また、「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。」(雅歌 5:2)という花婿からのことばに答えなかった花嫁であったが、花婿の人知を越えた愛を知った花嫁は、今度は、自分のほうから花婿に、誘いかける。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。」(雅歌 7:11)花嫁の心には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)というみこころに積極的に従う準備ができたのである。「野」ヘブル原語では土地,畑,野。「野に出て行って、・・・」は、“Let us go・・・”<英欽定訳(New King James Version Bible)>である。花嫁は、「私たちは、世の中に出て行って、「ヘンナ樹」(平安)の花が咲誇る中で、「夜」(暗闇)を過ごしましょう。」と言っている。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇 23:4)に見られる平安である。どのような中にあっても動かない平安は、成長した花嫁なる信仰者のもつしるしである。使徒の働き6,7章の殉教者ステパノは、自分を殺そうとする多くの敵たちの前でも、「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(使徒 6:15)と、動かない平安の中にいた。また、ペテロが、妻たちに勧めているのは、サラのような平安であった。「あなたがたの飾りは、〔念入りに〕髪を編み<結び>、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、〔単なる〕外面の飾りでなく、穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない<色あせることのない>魅力を持つ、内的な飾り<心の〔奥深く〕隠れた人の持つ美しさ>でなければなりません。これは〔その霊は〕<不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で>神のみ前にきわめて価値の高いものです。」(Ⅰペテロ 3:3,4<詳訳>)

 

 

 

 ある時、教会で祈っていた時、神の御前に、悲しみを注ぎだした後、目の前が黄色に染まった幻を見た。ぼんやりした黄色の中にいて、それが花畑かどこかの中かわからなかったのだが、なんともいえない平安が注ぎ込まれた。「ああ、平安~。」という感じでひたっていたのだが、何のことか、何で黄色なのか、ずっと不思議であった。この11節のみことばを見たとき、ああ、このことだと、直感したので、ヘンナ樹の花を調べてみた。白色の小花が房状になっている潅木ということで、見たものは、この花ではなかった。ヘンナの葉は、黄色、黄褐色、黄土色の染料、顔料に使われる。日本でも、ヘナというトリートメント入り髪染めでおなじみである。このヘンナの染料である赤みがかった黄色、平安の色で染めてくださった現われであった。何かあっても、この時の平安を思い起こすなら、平安に包まれるのである。

 

 「一緒に、世の中に出て行って、平安の中で、暗闇の中を過ごしましょう」と申し出る花嫁。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿とともに、平安の中で、野で夜を過ごし、時が経っていった。

 

愛から出た奉仕

 


 「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。」(雅歌 7:12)苦とも思わず、喜んで、花婿と一緒に世に出て行こうとする花嫁の姿。花嫁にとって、福音の働きは、労働ではなく、愛の自然の行為であることが、わかる。ここに、労働をうかがわせることばは、使われていない。いやいや先延ばしに、日も高くなってからとか、日が傾きかけてから、重い腰を上げて行くのではなく、朝早くから、ともに、出て行くことを待ちわびているのである。花嫁は、おいしいぶどうの実の収穫が予測されるぶどう畑に行き、何をしようとしているのか。3つのことが書かれている。

 

 ①ぶどうの木が芽を出したかどうかを見て、愛を花婿にささげる 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ 15:4,5)と言われているこのぶどうの木から出た芽、芽吹いたばかりの、信じたばかりの信仰の赤ちゃんが生まれたかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 

 ②花がさいたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ぶどうの花は、褐色の小さな米粒くらいのものが、房状に密生する。目立たないが花が一面に咲いているときには、「ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌 2:13)とあるように、ほのかな香りがするそうだ。決してきれいとは言えない花であるが、おいしい実をつけるのには欠かせない地味で目立たない花、目立たないが、ほのかにイエスのかおりを放っている若い信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 

 ③ざくろの花が咲いたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ざくろ(愛)の花は、赤く鮮やかな花である。多くの愛の実をつけるための花、成長している信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」とあるが、そのようなお世話は、花嫁の花婿への愛のあかしなのである。

 

抑えられないほどの花嫁の花婿への愛

 


 「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌 7:13)「恋なすび」というのは、ナス科の春に梅の実くらいの実をつける植物である。青いときには、毒性が強くて食べられないが、黄色く熟すと良い香りを放ち、おいしくなるそうだ。が、麻酔性と下す作用があるという。麻酔作用と、根を抜いた時に、人間の股のような形のあるところから、地中海沿岸の国々では、催淫作用のあるあやしげな植物としていろいろいわれてきたようで、最近まで、催淫作用が信じられていた。ギリシアでは、根をぶどう酒につけたものは、恋を誘発する効き目があると思われ、ラブ・アップルと呼ばれ、不妊の女性に子供が授かるとさえ信じていた。(新聖書植物図鑑<教文館>参照)

 

 「恋なすびは、かおりを放ち、」恋なすびは、熟れてよいかおりを放っている。花婿への新たな愛が起こされた。「私たちの門(ヘブル原語では戸,門,入口)のそばには」それは、奥にきて、やっと起こった愛ではなく、花婿との関係の入口からあった愛であった。花婿と花嫁の関係は、愛から始まったものであった。今、新たな愛が起こされ、というか、妨げとなるような甘えのような不必要な思いは除かれ、愛が深められ、古くからはぐくんできた愛とともに、すべて、最上の愛をたくわえてきた花嫁。花嫁の愛は、不完全ながらも、その時々で、精一杯の最上のものであった。花嫁の花婿への愛は、なくならず、増える一方である。

 

 「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに」(雅歌 8:1)花嫁の自制の様子が見てとれる。自制は御霊の実の一つである。花婿に愛されているということで、周りの人々から、一方的で理不尽な怒りをかい(雅歌2:6)、そのために苦しみを通った花嫁は、愛の表現を自制することを学んだ。花嫁としての地位と愛の表わし方によっては、周囲から、さげすみやねたみをかいかねない。信仰を守る過程で、人々からさげすみやねたみを受けることが必要なときもあるが、受けることに甘んじなければいけないときというのは、そのことによって、神が栄光を受けられるときである。不必要なさげすみは、人々をつまずかせないためにも、避けなければならない。「ああ、」とため息まじりに、花嫁は言う。外で(働きの最中)、花婿を見出したときに、とびついて口づけしたくなるほどの愛を表わしたい衝動にとらわれても、やみくもに実行してしまえば、周りにいる人々をしらけさせ、さげすまれるだけである。自分にゆだねられた働きも進まなくなってしまう。実際に、そうしたことによって、花嫁は、打たれ、傷つけられ、かぶり物をはぎ取られた経験をしているのである(雅歌 5:7)。そのような経験を経て、自制する知恵がついた。しかし、「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」同じ聖霊なる母をもつ信者である兄弟姉妹に対してであったなら、いくら、外で、兄弟愛を表わしても、さげすみは受けないで、かえって、感謝されたり、ほめられたりするであろう。

 

 抑えきれないほどの愛で、花嫁は言う。「私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。」(雅歌 8:2)花婿を「私を育てた私の母の家」聖霊の住まいである花嫁の祈りの個室に連れていき、香料を混ぜたぶどう酒とざくろの果汁を花婿にふるまいたいと願う花嫁。「香料(単数)を混ぜたぶどう酒」「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Ⅱコリント 2:15-17)花嫁の持つ「いのちから出ていのちに至らせるかぐわしいキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる交わり。花嫁の持つかおりは、調和のとれない混ぜ物ではないため、ぶどう酒と調和がとれていて、花婿を喜ばせる、おいしいカクテルとなっているのである。「ざくろの果汁」御霊の実の中でも最上のもの、愛。その愛から取れる果汁、搾り取る汁とは、とりなしのことである。誰にも邪魔されず、花婿への愛を思う存分に表現できる祈りの部屋で、花嫁は、花嫁の持つ「いのちに至らせるキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる親密な交わりをし、花嫁の愛から取れた果汁であるとりなしの祈りをささげたいのである。

 

 「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 8:3)2章6節でも言われたこのことば。その時、「左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)などのみことばから、右の手は、力、救いとして表わされている。」と述べた。傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られたいという願いをもって、語ったことばであった。今度は、全く同じことばであり、愛を求めることばでもあるが、前回と異なり、花嫁は、平安の中で、願っている。平安の中での、満ち足りた安らかな愛の表現としての願いである。

 

後に続く者たちのために

 


 2章7節や3章5節に続き、3度目の花嫁のことば。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)前々回や前回と異なり、「かもしかや野の雌鹿をさして」ということばが、なくなっている。2章7節では、傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、花婿からの愛の表現を願った後、言ったことばであった。3章5節では、一度、花婿を拒絶して、去られ、捜しまわって、見つけ出した後、言ったことばであった。「かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。」と、神に誓ってというふうに力を込めていた花嫁は、その後、再び、花婿を拒絶し、捜しまわり、夜回りたちに打ちたたかれ、「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌5:8)と弱々しく懇願していた。そのような経験をして後、花婿の変わらぬ深い愛を確認した後のことばである。「かもしかや野の雌鹿をさして」とわざわざ力を入れて言わなくても、花婿が与えた聞き従わせる権威を身にまとっている花嫁からのお願いなのである。今回の「あなたがたに誓っていただきます。」は、力をこめたわけではなく、権威からのことばである。ヘンナ樹、平安の中にいてゆるがされることのない花嫁は、自分のためにではなく、後に続く私たちのような者たちのために、誓わせているのである。

 

 雅歌に3度言われている「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」愛を揺り起こしたり、かき立てたりしようとする言動は、苦しみ弱っている信仰者を、よけいに苦しめ弱らせることになるのだと、知ってほしい。では、「愛を揺り起こし、かき立てる」という言動とは、具体的にどういうことか、ということになるが、「夢が破れても(生ける水の川発行)」に、そのことについてのわかりやすい例があった。要約してみる。

 

 「愛する人を失い、大きな痛手を負った男性がいて、とても無気力になり、『私は、頑張るのがいやになりました。』と言った。彼の友人たちは心配して、支えになればと、いろいろ努力した。悲しみの処理のし方の本を送った人、愛を伝える手紙を送った人、自分たちが主から励まされたという聖句を添えた人、一緒に祈ったり、ゴルフに行った人・・・。彼ら友人たちが、短い挨拶の後、きまって尋ねることは、『このごろどうですか。』ということであった。何度も繰り返される度に、どんどん嫌な気分は強くなっていった。彼には、友人たちが聞きたがっている答えがわかっていたからである。『大変だが、大丈夫。何とかうまくいっています。』これは、癒されていない彼の真意ではなく、友人たちを安心させるための答えであった。とうとう最後に、彼は、こう答えた。『ええ、まだ本当に大変です。彼女がいなくて、とても寂しいです。どうしたらいいのか、時々、悩みます。でも、もうそんなに落ち込まずに、社交的になって、しなければいけないことを始めるつもりです。いい方向に向かっていると思ってください。心配してくれて、ありがとう。』この最後のことばは、効果があり、友人たちは、ホッとして笑いながら言った。『それを聞いて本当にうれしいよ。ま、皆で祈ってきたんだから驚かないけどね。』この会話から3つのことに気が付いた。

 

 ①彼の友人たちは、自分たちの祈りが、彼が神のみこころを歩み続けることを願うよりも、誰かを元気にすることと関わっていると思い込んでいた。

 

 ②その思い込みには、『もし聖霊さまが彼に働かれたなら、苦しみから抜け、本当に元気になるはずだ』という考え方と、『神の道を歩むことと、すばらしい気分ですごすことは、同義語である』という考え方が含まれている。

 

 ③彼の友人たちは、悲しんでいる人の魂から距離を置いていた。意図的にそうした訳ではないが、苦しんでいる人とは一緒にいたくないということを暗黙のうちに相手に知らせている。事態を改善した人とだけ一緒にいたいのである。
彼は、友人たちに、励まされるどころか、さらなる絶望と深いわびしさの中に追いやられ、激しい孤独の中へと押し流されていくのを感じた。『私は、もう頑張るのがいやになりました。つい昨日、友人二人が私のことを話しているのを聞いた。一人が、彼はどうしているだろう、と言うと、もう一人が、頑張っているよ、と答えていたので、私は悲鳴を上げたい気持ちになった。』私たちは、人生で、ひどい打撃を受けたとき、誰かに、ありのままの自分を受け入れ、立ち直るまで、ただそばにいてほしいと願う。しかし、その人が求めている理想の姿を演じてまで、一緒にいてほしいとは思わない。良い気分にしてほしい訳でもない。自然の愛からではなく、そのような努力をされると、悩みを深めるプレッシャーとなってしまうのである。ただ、単に愛からお互いに仕え合うことが、どうしてそんなに難しいのだろうか。」

 

 苦しみの中にある人に、「早く苦しみから抜けろ」と、「苦しみに浸っていないで、イエスの愛を見よ」と、「イエスを愛せ」と、そのような思いから、あれこれ余計なお世話をすることも同様である。自分にもされた経験、した経験が思い浮かぶような、身につまされる話である。祈ってあげることも含まれる(わからないところでその人のために祈ることとは異なる)。苦しんでいる人は、間違っているところは、愛によって助言を与えてほしいと思うが、苦しいという思いについては、苦しんでいる自分のまま、ただ、つらかったねと、抱きしめ、つらい思いを理解し、共感してほしいだけなのである。その人のために祈ることも、みことばの助言をすることも、「元気?」と尋ねることも、一緒にゴルフに行くことも、してはいけないわけではなく、その心が大切なのである。本当に、相手の祝福を求める真実の愛からの行為であるなら、何をしても、相手を突き落とすようなことにはならないのである。愛から、愛からといっても完璧な愛など、神以外だれも持ち合わせていない。自分の持っている以上の愛が必要な事柄なら、直接には、何もせず、何も言わず、ただ、わからないところで、祈っているだけのほうが、賢明である。祈っているうちに、神が、なすべき愛を与えてくださる。愛の押し売りは、避けねばならない。花嫁は、そのことをよく、知っていたから、こう言ったのである。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。

 

落ち穂の会提供

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