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2015年2月

2015年2月22日 (日)

モーセの過ち

 「モーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。』モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』」(民数記 20:10-12)

 モーセという人物は、主が顔と顔とを合わせて選び出され、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」(申命記 3:14)と言われた信仰者であった。

 「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」いきなり、この言葉だけを聞くと、そこに神である主は見えず、ひどい言葉である。
この前に、主である神は、モーセに言われた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」(民数記 20:8)と。
モーセは、主に命じられたとおりに、杖を取ったが、主の言われた「岩に命じる」ことはせず、杖で岩を打ったのであった。しかもしっかり二度…。

 「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記 12:3)モーセが上記のような言動をした原因は民にあった。
エジプトを出てすぐに、パロの追っ手を見た民は「荒野で死なせるために、私たちを連れだしたのか。」とモーセにくってかかった。
その後も民は、「パンが食べたい。飢え死にさせるのか。」「水がない。渇きで死なせる気か。」「モーセが山から降りてこない。私たちを導いてくれる神を造ってくれ。」「マナには飽き飽きだ。肉が食べたい。」…と、神のみわざを見ながらも、ぶつぶつ不平不満を言いつづけ、時には、モーセを石で打ち殺そうとまでしていたのであった(出エジプト 17:4)

 そういう中で、モーセの忍耐が切れたのか、モーセは主を超えて、民に言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 モーセは神に用いられた信仰者であったが、神自身ではなく、神のようにふるまえる権限はなく、岩から水を出されるのは、神であった。
原因は民にあり、非情のようだが、この一つのことで、モーセは、「主である神をイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」という理由で、約束の地カナンに会衆を導き入れることはできず、約束の地に足を踏み入れることができなかったのである。

 モーセの役割は、民の前に、主である神を正しく示し、牧することであった。
私たちは、ここから、何を学ぶだろうか。

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「信仰という名の虐待」という言葉の登場

 「信仰という名の虐待」という言葉が、初めて登場したのは、2002年1月のクリスチャン新聞であった。
「普通の教会が『カルト』化する現象が増えている」という内容で、2002年1月20日号から9回にわたって、また、2002年9月8日号から8回にわたって、その問題をテーマにした2人の執筆者によるコラム記事が連載で取り上げられた。

その後、「『信仰』という名の虐待」「『信仰』という名の虐待”からの回復」「教会がカルト化するとき」という本にもなり、埋もれていたこの問題が、だんだん露見することとなった。

2002年のクリスチャン新聞の記事の一部は、著者パスカル・ズィービー氏のサイトに、その内容が記されている。

こころのケア カウンセリングとリハビリテーション

2006年5月28日号のクリスチャン新聞では、再度、このテーマが取り上げられた。

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2015年2月18日 (水)

共催セミナーのお知らせ

主題:「何が、教会のカルト化の原因か?」
講師:宗教トラブル相談センター・アッセンブリー京都教会)村上密牧師
日時:2015年2月28日(土) 13:30~17:00
場所:99+TACHIKAWA(東京都JR中央線立川駅徒歩5分)
主催:手をつなぐちいろばの会

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ご挨拶

キリスト教会のカルト化の被害者は、適切なケアや指導を受けることができずに孤立することがあります。そのような場合、被害者の方々は心に傷を受け、何年も苦しむことになります。

生まれてから一度もすり傷や切り傷を受けたことがない人はいないのと同様、心に傷を受けたことのない人などいません。傷によっては、自然治癒します。 しかし、キリスト教は永遠のいのちを説いているため、カルト化が被害者に与える傷は、その人の存在そのものに関わり、その心の傷は大きく、適切な処置が必要となります。
この大きな傷をトラウマといいます。信仰を送る中で、トラウマによりさまざまな反応や問題が起きることがあります。しかし、それは決して、おかしなことでも、心が弱いわけでもない、衝撃的な出来事によるあたり前の反応です。

近年、カルト化の現象が多く見受けられるようになりました。それに伴い、被害も多くなってきています。

クリスチャンを名乗るすべての人々が、カルト化についての正しい認識を持ち、被害を受け苦しんでいる人々の境遇を理解し、輝くばかりのキリスト本来の栄光の姿を反映させるものとなるよう、願ってやみません。

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