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2013年4月

2013年4月14日 (日)

花の装い以上に

Tutuji「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6:30)

 

もはや、国民病となっている鬱の病。
自殺死する人が交通事故死の6.5倍にもなっているという。
誰しも、悩み苦しみの渦中にある時には、その問題ばかりが思いを占め、心が捕らわれて行ってしまうものだ。
その問題がどんなに大きくても、全知全能の神に解決できないものではないことを覚えておこう。
自分の生立ちや環境等、変えることができない問題を抱えているかもしれない。
神がいるとしたら、何と不公平なのかと思えてしまうかもしれない。
しかし、聖書は言っている。「神にはえこひいきなどはない」(ローマ 2:11)と。
この世の中は、永遠ではない。永遠に比べると一瞬の時である。
また、神は、どんなことをも有益なことに変えられるお方である。
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ツツジの写真をクリックして拡大して見ると、おしべが宝石のように輝いているのが、見えるだろう。
この花一つ一つの装い以上に、私たちを祝福してくださる神がおられる。
咲き誇る花のように、私たちも輝こう。

 

 

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2013年4月11日 (木)

「あなたが燃え尽きてしまう前に」(ウェイン・コデイロ著 ニューホープ東京リソース発行)

Moetsuki「すべての牧師とクリスチャンリーダーたちに伝えたいこと」と表記されている燃え尽き症候群になることを予防するための対処法が書かれた本である。
とある教会に行った時に、目に留まった本であり、さっそく購入して読んでみた。
読み終わった感想は、燃え尽きそうなっている牧師とクリスチャンリーダーたちにとっては、脱出する方法を教えてくれる良い本であると思った。
これを実践しているのが、複数の牧師やクリスチャンリーダーがいて、キリストの愛で支え合ったチームとして機能している教会ならば、とても良いのだが、間違った使い方をするならば、信徒としては、つまずくだろうなぁと感じた。

牧師とクリスチャンリーダーたちの鬱への予防の第一歩としては、とても良い本であり、助けとなった。
心に留まった8つの箇所を抜粋する。

①「…ストレスはバーンアウトにつながり、バーンアウトには巨大化した鬱が伴います。…忙しくしていれば自分が役に立っている、必要とされているという感覚が得られるのですが、それには到底払いきれないような代償が伴います。言ってみれば、未来の精神の安定を借金のカタにして今の達成感を買っているようなものです。」(65頁)
★ 現在の自分の存在感をどこに置いているかをチェックしよう。

②「リアン・ペインの『The Healing Presence(癒しの存在)』という本は私にとって良い本でした。この本では、内省による罪、つまり自分を悪く見るばかりで、神さまを見ないこと、また神様の目で自分を見ないことの罪について語られています。」(83頁)
★ 神様は私たちを 「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ 43:4)という目で見てくださっていることを忘れないようにしよう。

「私たちは他人の行動の目に付く点や、例えば職場のリーダーの欠点を見つけた時、それをあたかも自分の責任であるかのように気にしがちです。…心配するに足る正当な理由はあるかもしれませんが、しかし、それはあなた個人の責任範囲ではありません。」(90頁)
★ 自分と他との正常な境界線を明確にしつつ、力量に応じて関わっていくことが必要。

③「1996年、コカコーラ社の元社長であるブライアン・ダイソン氏はジョージア工科大学の卒業式で祝辞を述べ、人生で大切なものをボールに例えて説明しました。
 人生は5つのボールをジャグリングしているようなものです。それぞれのボールが何を表すかは一人一人で違いますが、例えば、仕事、家族、健康、友人、精神としましょう。あなたはそのすべてを空中で操っています。すぐに分かってくることですが、仕事のボールはゴムでできていて、落としてもまた跳ね返ってきます。しかしその他の4つ、つまり家族、健康、友人、そして精神のボールはガラス製です。一度落としてしまえば傷がつき、ヒビが入り、ひどい時には割れてしまって、二度と元の姿には戻りません。」(93,94頁)
★ 重みがある名言だと思う。

④「自分の存在の核のところで癒やしや休息を得るためには、自分の人生において最も重要な5%のことが何であるかを識別し、知っておく必要があります。…私たちがしていることの85%は、誰にでもできることです。…10%のことは、訓練を受けた人であれば、遂行できます。…しかし残りの5%のことは、私以外の人には絶対にできません。…どんなにお金を払っても、代わりがきくものではないのです。また、残りの95%が意味のあるものになるかどうかもこの5%にかかっています。これこそ私が見分け、生活の中心に置かなくてはならないものでした。」(94,95頁)
★ 自分にとっての5%が何であるかを、正しく判断できますように。

⑤「マタイの福音書6章22~23節にはこうあります。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」…イエス様が目の話で伝えたかったのは。人生の出来事をどう受け取るかでした。否定的に受け取ると、精神的にも身体的にもマイナスの影響を受けてしまいます。鬱になることは別に罪ではありません。しかし、神様や人々、状況などを間違った方法でねじくれて見る時、罪にとらわれてしまうことはあります。私たちが問題を見るその目そのものが問題であることも多いのです。偏った見方しかできなければ、チャンスは恐怖に、招待は恐喝にしか見えません。」(129,130頁)
★ 「チャンスは恐怖に、招待は恐喝にしか見えない…」確かに。私たちが傷によって、曲がった見方をすることがないよう、聖霊さまがいつも気付きを与えてくださいますように。

⑥「鬱の嵐の中では、どこに向かっていいのか全く分かりません。そんな時には、振り出しに戻ります。神様は最初にどんな召しを与えられましたか?それはあなたの人生を通してずっと流れているテーマで、人生の公約数のようなものです。レポート用紙に書き出してみてください。…それを目標にして歩めば、生きる理由がもう一度見えてきます。そして、希望も戻ってくるでしょう。」(131頁)
★ 行き詰った時には、こうすればよいのか。単純明快なことだった。

⑦「何か大切なものをなくしてしまったら、もしかしたら始めからやり直さなくてはならないかもしれません。しかし、もう一度最初の召しに立ち返ってください。残りの方向性は、きっとそこで示されるでしょう。」(134頁)
★ あせらずに、時間をかけて主とともに取り戻すことが、一番の近道であり、成功への道だということかぁ。

⑧「マイケルは言いました。「人生っていうのは、つまるところ選択なんだ。余計なものをそぎ落としていけば、どんな状況も結局は選択になる。それぞれの状況にどう反応するかは、その人が選ぶことなんだ。感謝することを選ぶか、恐れることを選ぶか、神様からの知恵を受け取ることを選ぶか、それとも怒りに目を塞がれることを選ぶか。その人がどう生きるかは、その人が選び取っていくものなんだよ」(137頁)
★ 神様が与えられた自由意思による選択、神様の道を選んでいきたいものである。

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2013年4月10日 (水)

神に依存しよう。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

 

人とうまく関わることができず、一人で悩んではいないだろうか。
上手に助け合って、自立した歩みができるならば、神をも必要ではなくなってくる。
誰か特定の人に依存し、もたれかかれば、楽かもしれない。
しかし、人間は不完全であり、限界がある。
占いは、自分で決められないことへの一種の依存である。
自分で決められないという人への依存というのは、主導権を相手に渡すということであり、神の望んでおられることではない。
主導を取ってくださるのは主なる神である。
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自分の足でしっかりと神に立ち、主とともに歩み出そう。
ゆっくりでいい。確かな歩みを、主に導いていただこう。
主の道には、平安がいつもある。
一歩、一歩、踏み固めて歩んだ道は、たやすく崩れ去ることはない。
祈りをもって、確かなものを築き上げていこう。主がともにおられる。

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2013年4月 7日 (日)

赦しは神のわざ

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル 12:2,3)

虐待を経験して育ったとある女性がキリストに出会って救いを得た。
喜びに満ちて、主に従い、仕えた。
虐待という痛み、弱さがあったからこそ、神への飢え渇きが強く、主はその姉妹の求めに応じて、その愛を表してくださり、姉妹の祈りはよくきかれた。
日々が過ぎ、つらかった経験を乗り越えて、主がどんなによくしてくださったかを証する姉妹に、「虐待した人を赦さないといけない」「かわいそうに、もう忘れなさい」という人がいた。
虐待というあまり聞きよくはない言葉を聞きたくない人たちであった。
姉妹は、すでに主に何度も扱われて、赦し、乗り越えてきたことであった。
ところが、その言葉を聞くと、「自分は許していないのだろうか。許します、許しますと祈り、乗り越えてきても、いったいいつまでつきまとうのだろうか。まだ、足りないというのだろうか。自分は、経験した事実を言うことすら、赦されないのか。」と思え、次第に、「主を信じても、あわれまれる自分は、なんとみじめな存在なんだろうか。」という感情が出てくるのであった。
姉妹は、とうとう証も祈りもできなくなってしまった。
苦しい中で、主に呼ばわり、今のありのままの気持ちを伝えた。
その中で、主は言われた。
「赦しは人間のわざではなく、十字架の力によるものだ。」と。
イエスの十字架の力…。姉妹は悟った。
人の言葉がどのように言おうと、どんな時も、十字架にかかってくださったイエスから目を離さないことだ!
イエスの十字架の贖いに思いをはせた時、姉妹に喜びが戻ってきたのであった。
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主から目を離しやすい私たち。
イエスを愛し、隣人を愛する愛も赦しも自ら出てくるものではない。
自ら作り出したものならば、いずれはがれていくことになる。
そのことを認め、今日も主を見上げ、贖いのみわざにより頼みつつ、ゆだねて、主の王道を歩んでいこう。
主は王の王、主の主である!!

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2013年4月 3日 (水)

神よ、どうしてですか。

「その時、アハズ王はアッシリヤの王たちに人を遣わして、助けを求めた。」(Ⅱ歴代誌 28:16)

 

ユダのアハズ王は、主の目にかなうことを行なわず、異教のバアルの偶像を造り、異邦の民の忌むべきならわしをまねた。
自らの子供たちをも、偶像礼拝のために、火の中をくぐらせることもした。
その結果、主の怒りがユダに臨み、同朋のイスラエルの手に渡されることとなった。
同朋イスラエルが攻めてきて、ユダの勇士たちを殺し、女・子供たちをとりこにし、分捕りものを首都サマリヤに持ち帰った時、主は預言者を遣わし、イスラエルの行き過ぎた行為をとがめられ、とりこを帰すように言われたのであった。
分捕りものを持たせたとりこが帰された「その時」、アハズは、敵のアッシリアに助けを求めたのであった。
しかし、アッシリアは、アハズの力とはならず、アハズは主に対して不信の罪を増し加えていった。
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何かわざわいが起こった時、神はひどい方だと思うことがあるかもしれない。
しかし、真実はそうではない。
神は愛である。そのことは、揺るぐことのない真実である。
滅びに向かう人間を、何とかご自身に立ち返らせようとする神の愛の御手によるムチである。
問題は、私たち人間の罪にある。
主は、ご自身の民を、必ず守られる。私たちの思いをはるかに超えた主の方法で守られる。
不信の罪の行く先は、永遠の滅び・死・苦しみである。
私たちは、迷いやすい羊である。主の前にへりくだろう。
苦しい中、神がわからなくなった時は、「わからない、わかるように教えてください」と、ありのままを伝えよう。
主は、いと小さきものたちの祈りに耳を傾けて下さるお方である。
主を信頼して、生き抜いていこう。

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