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2012年12月

2012年12月24日 (月)

クリスマスを祝おう

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ 2:11)

 

クリスマスは、キリストの生誕を祝う日である。
ところが、このクリスマスを否定する意見が、クリスチャンの中でも見られることがある。
聞いた理由はこうである。
 ・キリストが生まれた日は12/25のように寒い冬ではなく、日にちが異なるから。
 ・12/25はもともと太陽神を礼拝していたケルト人の祭りを生誕の祝日としたから。
 ・クリスマスによく見られるマリアに抱かれた赤子のイエスの姿が、力強い神のイメージを薄れさせてしまうから。
 ・クリスマスは、最も世の霊が働いているから。 などなど…
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全知全能の神であられるのに、私たち人類を罪の束縛から贖うために、無力な人(しかも赤子の姿)となって、この世に来られたキリストを、12/25を定めて、世界中が喜び祝うクリスマスに、神の栄光が豊かにありますように。
アーメン。

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2012年12月 9日 (日)

神の制約

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Ⅱコリント 6:12)

神を信じ、従いたいと思い、聖書を読んだ時、いろいろな命令が飛び込んでくる。
神の命令を守ろうと必死でがんばり、人にもそれを求めていくと、次第に喜びがなくなっていく。
神が望んでおられることは、何であるかをよく考えよう。
神は愛である。神は規則的に従うことを望んではおられない。
ただ規則的に従うのは、ロボットである。
律法は「神と人との愛に集約される」と主イエスは言われた。
神は神と人への愛から命令を守ることを望んでおられる。
愛から出ているため、それは喜びであり、苦にならない。
人に押し付けることもない。そこには、ただ愛が見られるだけだ。
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まず、神というお方を正しく知ろう。
神がどんなに私たちを愛して下さっているかを。
神の愛の内にとどまり、その自由を満喫しよう。
従わずにはいられない神の愛がそこにある。

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2012年12月 8日 (土)

赦しは主から下るもの

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」(ヘブル 12:5)

主の愛に堅く立つなら、自分を責める必要はないのであるが、私たちは、いつも主の愛に立っていられるほどに、完全ではない。
絶えず罪への誘惑があり、ともすると、ふらっと罪を犯してしまいやすい弱さを持っている。
ここでいうところの罪は、刑法にふれるような犯罪ではなく、神から離れることによってもたらされた罪である。
愛のない行為、自己中心、正しくない思い、無関心…
そのような私たちに、神は御自身の似姿に近づけようと、苦しみの道を歩ませられる。
苦しみの中で、罪への自責の念が起こる。身に覚えのある自責であり、払拭できないものである。
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しかし、罪は自分で処理できるようなものではないことを覚えておこう。
主の前に降参し、主の十字架での贖いは、私自身のものであったことを認め、主の赦しをいただこう。
握りしめている思いを主に差出し、主に委ねて、主とともにしっかり歩もう。
主がすべてを益に、織りなして下さる。
時が来て、すばらしい主のみわざを見るだろう。
その希望を抱きつつ、弱り果てることなく、主の愛に立ち返ろう。

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2012年12月 7日 (金)

自責の念に打ち勝つ秘訣

「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(Ⅰヨハネ 3:20)

うつの病は、自責の念が強いと言われている。責任感が強く、他人を責めるよりは自分を責めてしまう人がかかりやすいようだ。
自責から脱出するためにはどうしたらよいだろうか。
その答えが、このみことばにある。
この前に書かれてあることは、こうである。
「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」
神を愛し、隣人を愛する決心をし、それに基づく自分なりの行動をとっていけば、誰に責められても、そしてうまくいかなくても、「神はご存知である」としっかり立っていられる。
神が心をご存知なので、自分を責める必要はない。
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神は、私たちの弱さをもご存知である。
日々、自分の罪を御前に言い表し、神の赦しの中にとどまり、神の愛の内にとどまり続けよう。
神が、私たちを他を愛する者へと変えて下さる。「神は愛」であるからだ。

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2012年12月 6日 (木)

主に用いられた時の態度

「すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」(民数記 22:28)

 

エジプトから贖い出されたイスラエルの民が荒野にいた時のこと、モアブの王バラクは、勝利していくイスラエル人を恐れた。
そこで王バラクは、「彼が祝福する者は祝福され、彼がのろう者はのろわれる」と評判だった占い師バラムに使いを出して、イスラエルをのろうようにことづけた。
しかし、神に「のろってはいけない。」と言われ、バラムはバラクのところに行くことを拒んだ。
ところが、王バラクがあきらめなかったため、バラムは、神に再確認することにした。
神に「わたしがあなたに告げることだけを行なえ」と言われたバラムは、使いの者たちと一緒に王のもとへと向かった。
モアブで受けようとしている栄誉と富に心奪われ、バラムが出発すると、神は怒りを発せられ、主の使いを送られた。
主の使いを見て道をそれたろばをバラムが打ち叩いた時、主はろばの口を開かれた。
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主に用いられることは、喜びである。
喜びのあまり、自分が素晴らしいものになったかのように錯覚してしまうかもしれない。
しかし、誰もいなかった場合、主はろばの口をも用いられるお方である。
私たちは、「なすべきことをしただけです。」(ルカ 17:10)という謙遜な態度が必要である。
その態度を忘れずに、主のみわざを大いに喜ぼう。
主の栄光が輝きわたるために。

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