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2012年9月

2012年9月13日 (木)

遠回りされる神

「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。『民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。』」(出エジプト13:17)

 

エジプトを出た民は、神の民として訓練され、形作られる必要があった。
神は知っておられた。人間の弱さ、罪の性質を。
強く好戦的なペリシテ人の国の道を通れば、必ず、目の前の困難に目を留め、
神から目が離れ、エジプトに戻ろうとする弱さを知っておられた。
だから、神は、近道だけれども、険しいペリシテの道ではなく、
遠回りでも、信仰によって歩みやすい道を選ばれたのであった。
しかし、その配慮があっても、民は、幾度となく、不信仰に陥り、
エジプトに引き返そうとしたのであった。
そのような民を、神は、見捨てることなく、40年も付き合われた。
近道を通れば、40日ほどで行ける距離であった。
40年は長かったが、それは、神とともに歩むための訓練の時であり、
回り道であったが、民にとって、信仰に生きる最善の道であったのである。
町に入り、宣教を続けた。

 

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長い苦しみに、嫌気がさしてはいないか。
神は、あなたを一番よくご存知であり、あなたにとって、何が必要であるかを
誰よりも(あなたよりも)、知っておられるのである。
そして、その必要は、神にとって、難しいものではないのである。
神の時がきて、ふり返ってみると、あなたは、そこに宝を見出すだろう。
弱さも、罪も、神に委ね、感謝の祈りをもって、進んでいこう。
神に不可能はない!

 

 

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2012年9月 8日 (土)

主とともにある苦しみは宝

「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。」(使徒 14:20)

パウロとバルナバがイコニオムという町(現在のトルコにあった町)の会堂で
話をすると、大勢の人が信仰に入った。
そのことをおもしろく思っていない人々は、ユダヤ人の指導者たちと手を組んで
使徒たちを石打ち(みんなで大きな石を投げつけて死に至らせる死刑)にしようとした。
それを知ったパウロたちは、少し南の町のルステラとデルベの方に行き、宣教を続けた。
ルステラに行くと、生まれながらの足なえの人が、パウロの話に耳を傾けていた。
パウロは、彼にいやされる信仰があるのを見て、彼を癒した。
このことで、群衆が彼らを神のように扱った。
そこに、ユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにして
町の外に捨て去ったのであった。
心配した弟子たちが、パウロを取り囲んでいると、パウロは息を吹き返して、
町に入り、宣教を続けた。

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人生には、良いときもあるだろうが、苦しみも多々ある。
神のみこころを行っていても、いや、行えば行うほどに、苦しみが
やってくる時がある。
神なき喜び・楽しみは、はかないが、神あっての苦しみは、天に宝を積む
苦しみである。
永遠の時の中で、死に打ち勝たれたイエスにあって、死というものは
一種の通過点に過ぎない。
だから、パウロは死をも神に委ね、みこころの中を突き進んでいったのである。
あなたの苦しみは、主の知らないものではない。
主のもとにすべてを委ね、疑いを捨て、主とともに歩んでいこう。
それこそが、しあわせに通じる道である。

 

 

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2012年9月 7日 (金)

神は必要をご存知だ。

「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」(イザヤ 65:24)

 

主の民は、主の喜びであり、また、楽しみである。
主の民は、主の創造したものを喜び、用いる。
主の祝福は、尽きることはない。
主は、天に無尽蔵の蔵をお持ちであり、私たちのために、それを惜しみなく与えようとしておられる。
主は、私たちの必要を、私たちが口にするより前から、ご存知である。
そして、それをどのようなことのために、必要としているかも知っておられる。

 

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いろいろな必要のために、あれこれ心を悩ましてはいないか。
私たちがなすべきことは、主に信頼することである。
信頼の中での祈りは、必ずしや、絶妙のタイミングで、答えられる。
必要すべてを主の前に、差し出し、感謝の祈りをささげよう。
主の答えがやってくる!

 

 

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2012年9月 5日 (水)

不可能はない。

「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、
どんなことでもできるのです。』」(マルコ 9:23)

 

おしの霊につかれた息子の父親が、解放と癒しを求めて、イエスの弟子の
もとにやってきた。
弟子たちは、解放を試みたが、できなかった。
そこへ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に行っておられたイエスが
戻って来られた。
解放することができなかった弟子たちは、律法学者たちと議論していた。
子供の父親は、イエスに言った。「もし、おできになるのなら、助けて
ください。」と。
冒頭のみことばは、そのことばを受けてイエスが答えたことばである。

 

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世の常は、「これはできない。」「できることとできないことがある。」
「何か問題があってできないのだ。」と理論付けの説明を試みる。
しかし、イエスはこう言われる。「できるものなら、と言うのか。
信じる者には、どんなことでもできるのです。」
「どんなことでも」である。神に不可能はないのである。
時には、自分の足りなさが責められて、「できない」と結論付けたくなることが
あるかもしれない。
自分ではなく、「信じるなら、どんなことでもできる」と言われる神を見上げて、
信仰を働かせて、祈り続けよう。
神の時に、速やかに解決がやってくる。

 

 

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2012年9月 1日 (土)

主の解決を!

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」(イザヤ37:4)

 

どちらを選べばよいか、どの選択をすればよいか、分からないという時がある。
事が重大であれば、重大であるほどに、どうすればよいか分からなくなる。
願望やリスク、いろいろ考えて、選択するかもしれない。
うまくいけば安堵の喜び、失敗すれば違う道を選べばよかったと、後悔するだろう。
自分では決められなくて、占いに走る人もいる。
どうしたら、平安に間違いなく選べるだろうか。
ユダの王ヒゼキヤは、強敵アッシリアに攻められ、神を冒涜する手紙を
受け取った時、降伏する道、戦う道…といろいろ浮かんだだろうが、まず、
主の前に行ってその問題を置いた。そして祈った。
祈りは聞かれ、翌朝、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、
十八万五千人を打ち殺し、アッシリアの王は、帰って行った。
主は、思いも浮かばなかった道―戦わずして勝ち、主の栄光が満ちる―と
いう方法を取られたのである。

 

・・・・・・・・・・・・
主の道は、私たちの思いに、はるかに勝っている。
私たちは、あれこれ思い悩むが、苦難も益に変えて下さる主は、思いもよらない解決法をお持ちである。
主の前にあなたの問題を差し出し、祈ろう。
主ご自身が解決へと導いて下さる。

 

 

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