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2012年8月

2012年8月31日 (金)

神により頼もう。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を
頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

パウロは、死を意識するほどの苦しみの中を幾度となく、通り抜けた。
死に直面する度、小さな自分、土くれにすぎないはかない自分を実感したことだろう。
弱さの中で、主に呼ばわり、幾度となく助けられたことだろう。
死を意識する中で、パウロは、自分の思いを捨て、主に明け渡すことを学んでいった。
その経験に基づくパウロの言葉は、苦しみの中にある多くの兄弟姉妹の慰めとなり、励ましとなった。

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苦しみを知らない者にとって、他人の苦しみは理解できない。
傷ついたことがない者にとって、他人の傷・弱さは理解できない。
「自分は傷ついたことがない強い心の持ち主だ」という人は、強いようだが、実はもろい強さである。自分を知らない強さである。
かすり傷を含め、肉体に傷ついたことがないと言える人がいないように、心に傷を受けない人などいないのである。
主は、愛する私たちのために、涙を流された。
愛すれば愛するほどに、期待すれば期待するほどに、意に反する行為は、傷を与える。
傷つきながらも、その傷を自分にではなく、神に向け、神により頼むところに勝利がある。
神は、弱さの中に働かれる。弱いということは、実は最強なのである。
神が味方だからである。
傷も苦しみも主の前に差出し、明日も神により頼みつつ、信頼とともに生き抜いていこう。

 

 

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2012年8月30日 (木)

沈黙の品性

「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(マルコ 15:5)

 

十字架への裁判で、ののしられ、身に覚えのない訴えの中で、主イエスは沈黙された。
黙っていることは、黙認とされる。無気力や投げやりでそうされたのではない。
神に信頼し、神のご計画は何かを知っていたゆえのことであった。
ねたみによる偽証、強いものへの媚びへつらい、恐れによる黙認…、
そういった罪が渦巻く中で、主は黙認されたのである。
神には、人類の罪を赦し、贖いのみわざを成し遂げるという計画があった。
人間の罪に目を留めず、ただ神を見上げ、沈黙される主。
その姿には、ピラトも弟子も驚いた品性があった。

 

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自分を弁明しようとすれば、するほど、話がもつれ、ややこしくなる。
そのような時は、十字架を耐え忍ばれた、主イエスを思い出そう。
沈黙を貫かれた主イエスに倣おう。そうしたところに、神の品性がやどり、和解の道が開かれる。
明日も、不要な言葉から、私たちの口を、主が守ってくださいますように。

 

 

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