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2012年1月

2012年1月12日 (木)

人の心は移ろいやすい

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ 2:24,25)

 

多くの人たちがイエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じたが、イエスはそのようなことで一喜一憂されなかった。すべての人の性質を知っておられたイエスは、人の評判や支持により立っておられなかったのである。

 

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人間の態度と言うものは、その時々の状況や雰囲気で、変わりやすいものである。原罪を持つ人間が頼りにならないということを知っておられるゆえに、ご自分を任せることをなされなかったのである。「あの人がああしたから、私がこうなったのだ。」「他の人たちが助けてくれないから、できない」と人に自分を任せることをせず、神を見上げ、自分の足で、イエスさまについて行こう。

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2012年1月11日 (水)

神への信頼

「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」(Ⅱ列王記 23:26)

 

ヨシュアは、徹底的に偶像を破壊した。すたれていた過越しのいけにえをもささげた。しかし、主は、ユダにもたらしたマナセの偶像礼拝の悪を許されなかった。

 

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罪を許すのは、神にとって簡単なことである。しかし、罪を許しはしても、人間は矯正されない。罪のもたらす結果を味わうことなしには、人間には罪を悔いることができなかっただろう。愛である神は、私たちにあえて試練を通される。試練によって、私たちは、多くのことを学ぶ。神は、神を愛する者たちに対し、不必要なことはなされない。どんな時にも、神を信頼し、神に感謝をささげよう。

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2012年1月10日 (火)

罪に対する悲しみ

「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――」(Ⅱ列王記 22:19)

 

宮の破損を修理しようとした時に、宮で見つかった律法の書。ヨシヤはそこに書かれたことに衝撃を受けた。律法に従わなかったために、自分たちに向かって燃え上がっている主の怒りを知り、女預言者フルダのもとにみこころを求めに、使者を遣わした。フルダは、主の怒りは消えることがないと語ると同時に、へりくだったヨシヤへ、主のあわれみのことばを取り次いだのであった。

 

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自分たちに語られる罪とさばきを真摯に受け止め、嘆き悲しむことは、罪の性質を持つ私たちにとって、たやすいことではない。信頼とへりくだりを要することだ。「みんなやっているじゃないか」とか、「これくらいいいじゃないか」とか、「そう言うお前だってあんなことをしたじゃないか。」とか言い訳するのが、肉にある私たちである。罪にマヒしないための予防法は、罪に対して嘆き悲しむ心を失わないことである。ヨシヤは罪に対し、「先代までの王がもたらしたものだ。」「父アモンや祖父のマナセが犯したことで、仕方がない」とは言わず、自らの罪として心を痛め嘆いたのであった。その心を主は喜んでくださった。罪に対する嘆きを忘れないようにしよう。

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