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2011年12月19日 (月)

「主は生きておられる」

「そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。『なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。』」(Ⅱ列王記 5:20)

 

アラムの王の将軍ナアマンはらい病にかかっていた。ある日、サマリヤの預言者がらい病を直せることを聞き、エリシャのもとにやってきた。ヨルダン川に七たび身を浸すように言われ、怒って帰ろうとしたが、思いとどまり、エリシャに告げられたとおり、やってみた。すると、らい病がいやされ、きよくなった。イスラエルにいる神の存在を知ったナアマン将軍は、お礼に贈り物を贈ろうとした。しかし、エリシャは「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」と、頑として受け取らなかった。主を讃え、帰途に着いたナアマンが、かなりの道のりを進んだとき、エリシャに仕える若者ゲハジは、「主は生きておられる。必ず何かもらって来よう。」と思い、ナアマンを追いかけた。銀と晴着を要求し、受け取ったゲハジは、エリシャの前に出て、「どこにも行かなかった」と偽ったときに、らい病に侵されたのであった。

 

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「主は生きている」と、謝礼の贈り物を受け取らなかったエリシャ。「主は生きておられる」と、必ず何かもらってこようという決意を実行したゲハジ。ゲハジは、エリシャのもとで、同じ神のわざをたくさん見てきた。シェネムの女の息子が生き返った時にも、側にいた。この奇蹟を拝し、ゲハジは何を見てきたのだろうか。利得、誉れ…そのようなものに人は心を奪われやすい。エリシャは自分に向けられた贈り物は受け取らず、ナアマンに主への礼拝のための土を与えた。「主は生きておられる」と同じ言葉を用いているが、ゲハジの言葉は、自分が主体となっていた。「主は生きておられる…から私(たち)は受け取るべきだ」と。主体となってしまう自分はいないか。一時の快楽に惑わされることなく、よく吟味し、主の祝福にとどまろう。

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