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2011年11月

2011年11月30日 (水)

律法か愛か

「ヨアブはテコアに人をやって、そこからひとりの知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。『あなたは喪に服している者を装い、…王のもとに行き、王にこのように話してくれまいか。』こうしてヨアブは彼女の口にことばを授けた。」(Ⅱサムエル 14:3,4)

 

息子アブシャロムが妹タマルの復讐のために息子アムノンを殺したことで、ダビデはアブシャロムをよく思わず(「敵意をいだき」と書かれている)、放置していた。ダビデの側近ヨアブが、そのことを憂え、知恵のある女を呼び寄せ、言葉を与え、王のもとに遣わした。かつて、ナタンが王に例えをもって、罪を指摘したように、例えを用いて話した。王は、ヨアブの差し金だと気付いたが、願いを聞き入れ、遠くゲシュルの地に逃れていたアブシャロムをエルサレムに連れてこさせた。しかし、ダビデはアブシャロムを家に引きこもらせ、会おうとはしなかった。側にいながら、会おうとはしない父に、アブシャロムは、業を煮やした。そして、王に会せよと、ヨアブの畑に火をつけてヨアブを呼び寄せて、王との面会を実現させた。この後、アブシャロムは、王に謀反を企て、ダビデを一時的に失脚させたのであった。

 

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よかれと思ってしたヨアブの行動は、ダビデの心を無視したものであった。「こうあるべき」という律法がヨアブの中にはあった。預言者の言葉をまねてみたとて、神の愛から出た言葉とは全然異なるものとなる。ダビデ、アブシャロム、どちらをも悔い改めには向かわせず、溝を広げる結果となった。こうしたほうがよいと思った時は、それが律法から出たものか、神の愛から出たものか、今一度考えてみよう。神の時がある。

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2011年11月29日 (火)

罪の重さを知る

「その手紙にはこう書かれてあった。『ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。』」(Ⅱサムエル 11:15)

 

自分の命をねらっていたサウルに手をかけるのを拒んだと同じダビデの言葉とは思えない言葉である。姦淫の罪を隠すために、手を尽くしたが失敗に終わったダビデが取ったのは、夫のウリヤを他の者の手によって葬り去ることであった。事がすべて終わってから、神は預言者ナタンを遣わされ、ダビデに罪を指摘された。

 

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何も知らずに死んでしまったウリヤを思うと、神はえこひいきをなされているのではないか、と思えるかもしれない。そのように思えるときには、「神の世界は、死で終わるものではない」ということを覚えておきたい。キリストなる神は生きている者も死んだ者も正しくさばいてくださるお方だ。正しいさばきをなさる神は、ダビデがしっかりと自分の犯した罪の重さを知ることができるよう、事のなりゆきを黙認されていたのである。主を恐れつつ、信頼して歩んで行こう。

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2011年11月28日 (月)

回復のために

「それからダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使いをやって言わせた。『私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。』」(Ⅱサムエル 3:15)

 

ダビデがサウルから逃亡している間に、妻ミカルはパルティエルに与えられていた。ダビデを愛していたミカルは、サウルの娘であり、サウルから王の婿となるようにと言われて、出された王の条件をみごと果たして、妻とした女性であった。その後、多くの妻を持ったダビデであったが、ミカルは、サウルと自分をつないだ妻であった。サウルの状態が悪くならなければ、ミカルはダビデの妻であり続けたのである。ダビデは、サウルの息子でありイスラエルの王となっていたイシュ・ボシェテに命じて、そのミカルを取り返させたのである。夫となっていたパルティエルは泣きながらミカルについて来たが、帰された。

 

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主は、私たちが望めば、敵に破壊されたものを取り返し、回復させてくださるお方だ。主の栄光のために、私たちは、信仰によって、そのことをなさなければならない。ミカルは王の妻であった女性である。他の者の妻であり続けることは、今後の国のためにもよくないことであった。パルティエルは「神はわが逃げ場」の意味の名である。パルティエルは犠牲を払ったが、パルティエルの逃げ場であった神ご自身が慰めを与えたことだろう。神の国と神の栄光を第一として歩もう。心配となる他のことは、神が治めて下さる。

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2011年11月26日 (土)

災難も祝福に

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(Ⅰサムエル 30:6)

 

ダビデの留守中に、町がアマレク人によって攻撃され火で焼き払われ、残っていた女子供をみな、連れ去られていた。ペリシテの王アキシュのところで、アマレク人を襲ってはアキシュにバレないように皆殺しにし、偽っていたツケが回ってきたかのような状態である。誰も殺されていなかったことは、幸いなことであった。この災難に今までついてきていた民がみなダビデを打ち殺そうと言い出した。仕えていたサウルによっていのちをねらわれ訓練されていたダビデは、殺そうとする民をあわれみ、神を見上げ奮い立ち、無事、略奪者の手からみなを救い出したのであった。しかも、多くの分捕り物もいっしょに…。

 

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信仰者にとって、災難は、災難で終わらない。悲惨な状態も、主と共にあり、行動するならば、前にも増す祝福へとつながる。信仰から出たことは、主が祝福してくださる。恐れずに主に聞きながら、突き進んで行こう。

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2011年11月25日 (金)

最後の機会

「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。『霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。』」(Ⅰサムエル 28:8)

 

ペリシテ人の軍隊がやってきた時、サウルは恐れ、主に伺おうとしたが、答えてもらえなかった。それで、かつて自分の手によって霊媒や口寄せを追い出していたにもかかわらず、霊媒に頼って、死んだサムエルを呼び出そうとした。それほど、サムエルを頼っていたのである。霊媒女の前にサムエルが現れ、サウルの死を告げた。この後、サウルは、ペリシテとの戦いに敗れ、自害して死ぬ。

 

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いつも主の御名を用いていながらも、サウルの歩みは主に見捨てられた平安のないものであり、最期も悲惨なものとなった。一方、ダビデは、敵陣に身を寄せながらも、祝福を受け、守られていた。同じ神の民であり、神の名を呼びながら、この差はどこから来たのか。ダビデは自分の前に主をおき、主に従う心を持っていた。一方、サウルは選びに慢心し、神の前に自分をおき、従う前に自分の意志があり、自分の意志ならば、罪も罪とせず歩んだ。これが決定的な差を生み出した。霊媒という主に受け入れられない方法を用いていたにもかかわらず、サムエルがサウルの求めに応じて現れたのは、主の許しがあってのことである。神の憐れみである。神は、悲惨な死を前に、サウルが悔い改めることを望んでおられただろう。サウルは、最期まで悔い改めを拒み、王としては立派ではあったが、不本意な死を遂げることとなった。心に浮かんだなら、他がどうであっても、悔い改める機会を逃さず、今、悔い改めよう。

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2011年11月24日 (木)

認めることの重要性

「サウルは言った。『主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。」(Ⅰサムエル 23:21)

 

サウルの関心は、いつまでも自分のことだけであった。サウルに媚を売り、ダビデの居場所を知らせに来たジフ人たちに、サウルが言ったことばである。この前の章では、家来たちに「だれも私のことを思って心を痛めない。」と言って、祭司たちの虐殺を引き起こしている。ダビデを殺すための会話の中で言われた「主の祝福」、サウルの信仰はどうなっているのだろうか、と思わされるところである。サウルの信仰は自分自身であった。神の上に常に自分がいた。神の栄光のために仕える信仰ではなく、自分の栄光のために神を利用する信仰である。サウルの頭の中では、私のことを思ってくれたら祝福を、そうでなかったら呪いを、自分より目立つ者やその者に加担する者には死を、という考えが成り立っている。

 

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主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われた。「自分を捨てる」とは、自分の感情を置いて、みことばに明け渡すことである。サウルはダビデの活躍がねたましかった。自分の中でねたみが起こった時、その感情を否定せずに認め、主の前に持っていくことが大事である。「私はダビデをねたんでいます。主よ、この感情を聖めて下さい。私もあなたのために活躍したいです。ダビデに劣らないくらいに私をも祝福してください。」サウルが、主の前にへりくだり、こう祈れたら、事態は変わっていたかもしれないのである。主の御前にへりくだろう!

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2011年11月22日 (火)

聖霊体験

「サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。」(Ⅰサムエル 19:23)

 

自分を殺そうと付け狙うサウルから逃れるために、預言者サムエルのもと(ナヨテ)に身を寄せたダビデであったが、サウルは執拗に追っかけた。預言者をも恐れないサウルの行動。サウルが送った使者たちに、神の霊が臨み、預言した、ということを三度繰り返した後、サウル自身が出向いた。サウルにもまた、神の霊が臨み、預言しながら歩いて、ナヨテに着き、サムエルの前で預言して、一昼夜、裸で倒れていたのであった。

 

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サウルに神の霊が臨み、預言し、一昼夜倒れていたのは、サウルが聖かったからとか、神の力が与えられたとかというわけではなかった。神の力で、恍惚状態に陥らせ、ダビデを捉えることを阻むためであった。この神による体験は、サウルを改心させなかった。この後、サウルは、そのためなら息子ヨナタンを殺してもいいと思うほどにダビデへの殺意に満ちていく。聖霊に満たされた体験は、あなたをへりくだらせているだろうか。改心へと導いているだろうか。体験は、聖さの証しとはならないことを覚えておこう。

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2011年11月21日 (月)

主の知恵

「サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。」(Ⅰサムエル 16:2)

 

これは、サムエルがサウルに代わる王となる人物に遣わされる時に、言った言葉である。サムエルの目には、サウルは「自分を否定した場合は、預言者をも殺す者」として映っていたのである。実際、民の「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という言葉を聞いて、次第にダビデを殺そうとする前から、サウルにそのような要素があることをサムエルは直感していた。そのような者を相手に、主は真実を告げよとは言われず、あたりさわりのない部分的真実を言えと言われたのであった。

 

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偽りを語らず、真実を告げることは、信頼関係を築く基本である。しかし、誰に対してもばか正直に事実を伝えればよいものでもない。言っても逆効果の場合がある。事実を言ったことで、相手の罪を増長させ、悔い改めの機会もなくしてしまう場合である。主のみことばは、生きている。場合によっては、矛盾のような言葉が語られることもある。どのような人に対しても、主の知恵をいただきつつ、主の真実を伝えていこう。

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2011年11月20日 (日)

落胆し、失望している時

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Ⅰテモテ 4:1)

娘よ、弱々しく、弱り果ててはならない。雄々しくありなさい。悪者はいつも勝ち誇ったかのようにふるまうかもしれないが、勝利はすでに主のものである。それらのものにつき従ってはならない。偽りは必ず明らかになる。あなたを悩ますそれらのものは、時が満ちた時、やがて明らかになる。時が満ちた時、その者たちは、言い逃れるすべを持たない。あいまいに歩んでいた者、悪を喜んでいた者たちは、主が必ずさばかれる。そのことをよく知り、忍耐を働かせなさい。わたしの愛に立たない者は、やがて明らかになっていく。あなたは、自分で選んで行ったように思っているかもしれないが、「その力」で行くように遣わしたのはわたしであることを思い出しなさい。ヨセフは、自分で選んでエジプトへ行ったわけではなかった。そこに悪い働きが介在していたとしても、それをも巻き込み、事をなされる神がいることを知りなさい。祈りなさい。祈り抜きなさい。弱さを感じた時は、主のもとで休みなさい。新たな力をわたしは与える。主のいる所は、サタンも目をつけているのである。その中で、ふるい分けが起こることを覚えておきなさい。毒麦のたとえ、羊と山羊のたとえのことを思い起こしなさい。いっしょに育ったとしても、何に従っているかによって、最後は明らかになる。途中でそれを阻んだとしても、中途半端になるだけである。あなたは、どんな時にも、わたしに信頼し、なすべきことをなし、従ってきなさい。落胆は不要です・・・

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2011年11月19日 (土)

サウルの自我

「今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」(Ⅰサムエル 13:12)

 

サウルは、遅れていたサムエルの到着を待たず、自ら全焼のいけにえをささげたことによって、主なる神に退けられた。神がお選びになった者であるにかかわらず、サウルが退けられた理由は、何だったのだろうか。サウルが神を見上げて、信仰により、いけにえをささげたのならば、主はお受けになったことだろう。王になったサウルの関心は、常に自分であった。「民が私から離れる」「私は主に嘆願していない」「私は主のことばを守った」「私の面目を立ててください」…。サウルのことばをざっと見ても、常に主の前面に自分があった。これが、後のダビデの苦難につながっている。主の矯正の御手においてもサウルは変わらず、生涯の終わりにおいては、霊媒師を頼り、面目を保つことを考えてこの世を去った。

 

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サウルは主を信じていたかもしれない。しかし、常に主の上に自分をおいていた。サタンも主が神であることを知っていた(信じていた)のである。信仰者の自我は、自分では気づきにくい。主への自分の信仰と思うからである。主の前に自分をおいてはいないだろうか。いつも吟味する者であり続けよう。

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2011年11月18日 (金)

状況打破のためになすべきこと

「さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」(Ⅰサムエル 12:3)

 

預言者サムエルは、忠実に主の務めをなし、民を勝利へと導いていた。ところが、サムエルが年をとり、息子たちをイスラエルのさばきつかさとしたところから、民は王を求めた。息子たちは、父の道に歩まず、わいろを取ってさばきをまげていたためであった。サムエルが歩んだ主の道に歩んでいない息子たちを、民をさばくポジションにつけたことが原因だが、それでも主を信じる信仰によって歩み、正しくさばかれる神を信じ、神に祈りの中で訴える熱心があったなら、王を求めることはしなかったであろう。平和な中、民は主を忘れ、息子たちに目をとめた結果、人間的な統率力を求めたのである。

 

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このままではよくないという状況の中、打破するためになすべきことは、主に祈り、奇跡的な主の介在を待ち望むことである。人間的に動いてしまうなら、一見、よいように見えたとしても、それが仇となり、後に悪い方向へと進みかねない。これが主のなさったことだという確信とともに動くなら、輝くばかりの主の栄光が降り注がれることだろう。忍耐をもって、祈り続けよう。

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2011年11月17日 (木)

依存するということ

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。』そこで、サムエルはイスラエルの人々に、『おのおの自分の町に帰りなさい。』と言った。」(Ⅰサムエル 8:22)

 

主のみこころは、王を立てることではなかった。王を求めたことは、「民を治めている神を退けたことだ」と言われた。主のみこころは、主のみを信頼し、主により頼み、勝利の道を歩み続けることであった。しかし、今、「王を立てよ」と言われる。王を立てるということは、王の支配下に入り、いろいろな枷がかけられるのだということを、サムエルは説明した。が、民は「どうしても私たちの上には王が必要だ」と聞かなかったからであった。

 

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王を立てることが許されたのは、主の憐れみである。主を拒み、王を立てたいと言って聞かないかたくなな民は、いつ裁かれてもおかしくない状況にあった。それを許して下さったのである。民は、これから続く長い王制によって、人間を王につけるとは、どういった状態かということを、身をもって学んでいくことになる。私たちもまた、神がいるにもかかわらず、必要以上に人間を求めていることはないだろうか。頼りになる人に引張って行ってもらうことは、楽な道であるかもしれない。どのようにすばらしい人であっても、人間には限界がある。自分の足でしっかりと主の御前に立とう。主ご自身があなたを支えて下さるのだから。

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2011年11月16日 (水)

無関心の罪

「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。」(Ⅰサムエル 3:13)

 

子どもが神に対して罪を犯したら、戒めることが必要である。罪がいけないことであると、学ばせることが大切である。これは、愛情からなさなければならないことである。親もまた、口ばかりであってはいけない。よい手本となるよう、神の御前にへりくだることを教えることである。

 

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「わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。」(エゼキエル 33:8) 愛の反対の言葉は、無関心である。子どもたちが、罪が何であるかを知るような大人となるように…。

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2011年11月15日 (火)

ヘロデの喜び

「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」(ルカ 23:8)

 

ヘロデはイエスを喜んだが、この喜びは主ご自身を喜ぶ喜びとは違っていた。ずっと会いたいと思っていた思いも愛情とは違っていた。うわさに聞くイエスを、自分も見たいという興味本位であった。つまり、あくまでも自分中心であり、主に救われたい、罪深い自分の心を変えていただきたいという心は持ち合わせてはいなかった。奇蹟が見られるなら、何でも良かったのである。イエスは、そのようなヘロデの質問に何も答えられなかった。

 

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自分中心で主に近づいても、主は答えて下さらない。主の答えをいただくためには、主に明け渡す心が必要である。自分自身の思いを十字架につけ、主のみこころに従いたいという意志が大切である。(決意が大切なのであって、実際にみこころを行わせて下さるのは主の助けによる) 主ご自身を喜んで行こう。

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2011年11月14日 (月)

誘惑に打ち勝とう。

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。」(ルカ 22:3)

 

イスカリオテ・ユダは、いつもイエスのそばで弟子として過ごしていたにもかかわらず、サタンに入られた。サタンの誘惑に心を開いてしまったのである。もしかしたら、サタンは、このように正義をちらつかせて語ったのかもしれない。「このままイエスに従っていても、メシアの王国は来ないぞ。王国を作るために、行動を起こせばよいだろう。イエスを敵に売れば、イエスは圧倒的な奇跡の力をもって、統治を始めざるを得なくなるよ」と。とにもかくにも、ユダは誘惑にのってしまったのである。

 

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サタンは、私たちを誘惑によって取り込み、罪へと引き込んでいく。それはイエスがそばにいても、誘惑に心を開いてしまえば、同じである。誘惑に打ち勝つためには、イエスという方をよく知り、自分の心がどのように思えても、イエスに従い続ける決意を日々新たにし、祈りの中交わりを保っていくことである。もうダメだ、と思えても、自分ではなく、主を見上げて、乗り越えていこう。突き抜けた時、主の愛の新たな面を発見することだろう。

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2011年11月13日 (日)

人か神か

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(ルカ 20:46,47)
律法学者たちは、神についての専門家であった。神というお方を見ず、与えられた知識によって、人の上に立っていることを自負していた。偉そうにふるまうことがステータスとなっていた。皆にうやうやしく接されることが好きであった。祈りについても、人にすごいと思われたくて、人前で長い祈りをしていた。イエスは、こういう人たちは人一倍きびいしい罰を受けるのだと言われた。

 

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神について、教えるということは、高ぶりに陥りやすいものである。神ご自身から目を離し、自分が主体となってしまうと、上述のような状態になってしまい、誤った神観を伝えてしまう。「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ 3:1) 神について教えるということは、身を引き締め、自分を吟味しつつ、なさなければならない働きである。神は愛である。愛のない教えは神からのものではない。そのような教えについていかないこともまた、大切なことである。

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2011年11月 9日 (水)

兄弟への赦し

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 17:3,4)

 

つまずきについて語られた後、イエスが言われたことばである。罪は人を傷つけ、つまずきを起こす。兄弟が罪を犯したら、まず、戒めよと語られている。そういうことはいけないよ、と告げることは大切なことである。裁くのではなく、事実を告げるのである。人に指摘されて初めて、自分のしたことを客観的に見れることもある。次に、赦すように言われている。「悔い改めれば」とあるように、兄弟の場合、罪の自覚が必要である。戒めても、罪を認めようとしないならば、赦しを宣言することは、彼のためにはならない。悔い改めようともしない兄弟に、赦したいと思っても、どうして赦しを宣言することができようか。赦しを必要としていない人に、赦しますと言うことは、自己満足の行為である。彼の将来的な悔い改めの機会を奪うことにもなりかねない。

 

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「赦し」と一言でいうが、「赦し」の世界は奥深い。主の取り扱いなしには、なし得ない。赦したかどうかということは、自分自身にもわかりにくいことである。「赦した」と言っていて、心のどこかでくすぶっていることもある。赦しは、行為となって現れてくるものである。常に、「赦したい」という心をもって、主にゆだねていこう。主の赦しは、兄弟の罪のために被害を受け続けている中でも、無理して赦さないといけない世界ではない。神は、悔い改めのない者を赦すお方ではない。いつでも赦しを用意して、悔い改めることを待っておられる方である。主に似た者となって輝き続けよう。

 

 

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2011年11月 8日 (火)

死を超えられた方イエス

「イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』」(ルカ 13:2,3)

 

悪いことが続くと、何かのたたりのように考える人がいる。この世においては、いいことばかりが続くことは決してない。誰でも一度は必ず死ぬ。それは災害であっても、事件や事故であっても、病気であっても、早かれ遅かれ、携挙の時が来ない限り、必ず死ぬ。イエス・キリストは死に打ち勝たれた神である。死ぬも生きるもキリストの内にあれば、永遠の中の一つの出来事に過ぎない。イエスは言われた。「悔い改めないなら、みな同じように滅ぶ」と。心を善いほうに変え、過去の罪を憎んで心底から行いを改めなければ、みな永遠の滅びをむかえる、ということである。これはこの個所で、2度繰り返し言われている大切なことである。

 

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キリストは、ご自身の愛をあますところなく、教えて行かれた。主を信じる者が、心入れ替え、従って来れるように…。主の愛を知り、罪に抵抗する力をいただき、主に従って行こう!

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2011年11月 7日 (月)

信頼を学ぼう。

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」(ルカ 12:29,30)

 

神は私たちの必要をすべて知っておられる。食べ物も、着る物も…。まして信仰生活をおくるうえで、必要なものは何かということもすべてご存じである。よい指導者、頼りになる友、通いやすい教会…etc 信仰をおくる上で、孤独な状態を通らされる時がある。頼りになるものすべてを失ったかのように見えることがある。そのような時、主に語られずして、いろいろ動き回るなら、本当に大切なものが何かということがわからなくなってしまうことだろう。

 

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何もなかったように思えたとしても、天にはすべての用意が整っている。私たちのために用意されているものである。必要でないものを祈っているのならば、神はそのことを教えてくださる。必要がまだ手元に届いていないというのは、神がいじわるしているのでも、ケチっているわけでもない。神の時があるということである。信頼を学ぶ過程である。神が私たちをどれだけ愛しておられるか、十字架の主を見上げ、主を信頼し続けていこう。

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2011年11月 6日 (日)

対人関係での平安を守られる主

「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」(ルカ 10:6)

 

ある主婦が、引っ越した社宅内で周囲になじめずに、困惑していた。仲良くなりたいと努めて話しかけても相手にされず、挨拶しても返されないことがあった。特に一人の人に悩まされていた。友人のクリスチャンに相談すると、「その人のために祝福を祈るといいよ。祝福に値する人ならば、相手が変わるし、値しないような人ならば、祈った祝福は自分に返ってくるから。」と教えてもらった。言われたように祈ってみると、会うとにらみつけられているような状態だったその人が、笑顔で挨拶してくれるようになったそうだ。その主婦は、その体験によって興味を持ち、キリストなる神を信じた。

 

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神は、対する相手がどのような者であっても、いつも、祈る者の平安を守って下さるお方である。恐れずに、祈りつつ、主を証ししていこう。

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2011年11月 5日 (土)

みことばを理解するためには

「そこでイエスは言われた。『あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。」(ルカ 8:10)

 

イエスはよくたとえを用いて訓話を説かれた。それは、彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためであると言われている。たとえというものは、よく考えないと理解できないものである。神を知るためには、聞き従う心を持って聞く必要がある。同じ神の業を見ても、同じ神の言葉を聞いても、心次第で、理解が異なってくる。神というお方がどんな方かということを知り、祈り心をもって御言葉に思いをはせた時に、御言葉は生きた神のことばとして、私たちに語りかけてくる。

 

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御言葉を聞き流す者にはならないで、神が私に語って下さっているものとして取り込んで行こう。神のあなたへのみこころが見えてくる。

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2011年11月 4日 (金)

古いぶどう酒と新しいぶどう酒

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」(ルカ 5:38,39)

 

古いぶどう酒も新しいぶどう酒も同じぶどう酒であることには変わりがない。どちらを好むかは人それぞれである。古い物に親しんだ人にとっては、慣れた古い物で十分であり、新しい物をことさら望まないだろう。

 

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イエスはこのたとえを、パリサイ人や律法学者が、イエスの弟子が断食しないで飲み食いしていることにふれた時に、語られた。信仰の表し方も古い、新しいがある。福音の神髄がずれていないならば、好みがいろいろあったとしても、さばくものではない。のりの良い新しい賛美が好きな人もいれば、古い讃美歌が好きな人もいる。踊ったり叫んだりする賛美が好きな人がいれば、静かにみ前で礼拝するのを好む人もいる。好みの問題である。それを古いものに無理やり新しく継ぎをしようとすると、袋自体を引き裂いてしまうことになりかねない。真理に反しないならば、受け継がれた伝統は、その人にとって大切にしているものである。イエスは、古いぶどう酒を否定はされなかった。その心情をくみ取ることもまた、イエスの愛である。

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2011年11月 3日 (木)

寂しくなったら…

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩篇 68,5,6)

 

子よ、その寂しさを物や人や肉の楽しみに向かわせるのではなく、わたしに向けよ。わたしを呼ばわれ。わたしが与えるものは渇くことなく、永遠の喜びとなって、あなたを満たすことができるものである。寂しい時には、わたしを思い出せ。寂しさは神と親しむための賜物である。

 

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すべてを祝福してくださる神がいる。寂しさを感じた時は、神を呼び求めよう。神があなたの必要に答えて下さる!

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2011年11月 2日 (水)

どうしたことですか。

「するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』」(ルカ 2:49)

 

イエスの両親は、過越祭のエルサレムへの宮もうでを毎年行っていた。男子は13歳になると、律法を守る成人として数えられるため、前年にその予習をさせるのが父の義務であった。※ 12歳のイエスを連れ、祭りの期間を慣習に従ってエルサレムで過ごし、帰路についたが、イエスはエルサレムにとどまっておられ、両親がイエスがいないことに気づいたのは、1日の道のりを進んだ後だった。両親は、血まなこであちこち探しまわりながら、三日後にエルサレムで、神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしているイエスを見つけたのであった。いなくなったイエスを迷子になった幼子のように思っていると、両親に心配させておいて、何て冷たいことを言うのだろうと、思えるような言葉である。しかし、この時のイエスはの成人前の男子である。「成長とともに強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった」イエスである。1日の道のりを3日間かけて捜しまわっていた両親の気持ちは親として当然のものであった。その当然ともいえる心配のあまりの母の言葉、「なぜこんなことをしたのです。父上も私も心配して捜しまわっていたのですよ。」に対し、イエスは「どうしてわたしをお捜しになる必要があったのですか。わたしが必ず父の家にいることを悟っておられなかったのですか」と答えられたのであった。

 

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不思議な誕生、幼い時の預言者のお告げ、神の恵み…、イエスにとっては、両親が悟っていることと信じておられた。どんなに信仰深い人であっても、罪人である私たちは、恐れによる不安を持ちやすいものである。主が望まれる信仰に達しえないものである。そのような弱さを持つ私たちに、主は聖霊さまを与えて下さった。今、恐れ、不安はないか。その時は、「どうしたことですか。わたしがいつもともにいるのを悟っておられないのですか。」と主が語っておられることを思い出そう。聖霊なる神がいつもともにおられ、助け導いて下さっている!

 

※ 新聖書註解 いのちのことば社

 

 

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2011年11月 1日 (火)

躊躇せず従おう。

「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」(ルカ 1:39,40)

 

バプテスマのヨハネの母がみごもって半年経った頃に、御使いガブリエルが処女マリヤのもとに来て、神の子イエスを聖霊によってみごもることを告げた。「おことばどおりこの身になりますように」と答えたマリヤは、不妊だった親類のエリサベツが妊娠6か月になるとも聞いたので、エリサベツの家に行った。はたして、御使いガブリエルが語ったことは本当であった。エリサベツのお腹は大きくなっていて、年下であるマリヤが挨拶するや聖霊に満たされ、「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう」と不思議なことを告げたのであった。それから3ヶ月(3は聖書で完全数である)、エリサベツが臨月を迎えたころまで、マリヤはエリサベツと暮らし、家に帰った。この3か月間でマリヤは勇気づけられたことだろう。これから、妊娠が周囲にもわかってくる時期である。マリヤにとって、この3ヶ月は何と貴重な時期だったであろうか。

 

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主はちょうどよい時に私たちに語られる。主の時がある。早くも遅くもないちょうどよい時である。マリヤは主の言葉を受け、ただちに急いでエリサベツのもとに向かった。これから起ころうとする試練への備えに十分な時間が与えられた。主の言葉を先送りにしてはいないか。主が示された時こそ、その時である。勇気を出して、従おう。主が祝福してくださる!

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