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2011年10月

2011年10月31日 (月)

主に従う覚悟をもってすがりつこう。

「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』(ルツ 1:16)

 

士師記の時代、ユダのベツレヘムの地にききんがあったため、エリメレクという人が妻ナオミとふたりの息子を連れ、モアブの野に滞在することにした。滞在中にエリメレクは死んで、ふたりの息子は、モアブの女を妻に迎えた。嫁の名はオルパとルツであった。約十年間が過ぎ、ふたりの息子もまた死んでしまった。ユダの地のききんが終わったことを聞き、ナオミは嫁を連れてユダに戻ることにした。しかし、帰途、ナオミは不安になり、オルパとルツに別れを切り出す。戻った後の暮らしもどうなるかわからない状況で、モアブの女である嫁の困難を考えると、故郷で再婚したほうが、幸せになれると考えたためであった。ナオミの苦汁の決断であった。オルパは、泣く泣く故障へ帰って行ったが、ルツはナオミにすがりつき、一緒に連れて行って下さいと懇願した。ルツの決意が固いことを見て取ったナオミは、ルツとともにベツレヘムへ戻った。

 

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ルツはナオミの中に、モアブでは得られない神への信仰を見ていた。「あなたの神は私の神です」と。その神は、欲を満たすだけのご利益信仰の神ではなく、困難の中にもともにおられ、不思議なことをなしてくださる神、平安を与えて下さる人格を持った神として、ルツに映っていた。それは、ナオミを通して伝わってきた。この神から離れたくない、ルツはそう思った。夫とふたりの息子の死という苦しみを通っても、神は愛であると、ルツには伝わってきたのであった。その愛を信じ、ルツはどんなことがあってもナオミとともに乗り越えようと覚悟をもって、ナオミにすがりついた。へりくだった心ですがりつくルツの姿に、ナオミは平安を得たことだろう。どんな困難もルツは耐えて、ともに乗り越えてくれるだろうと。もうイヤだ、と思えるような困難も、へりくだり、信仰をもって主にすがりつくなら、困難は祝福へと変えられる。主を信じる覚悟をもって、従って行こう。

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2011年10月30日 (日)

あきらめてはいけない!

「そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。『私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。』すると、主は仰せられた。『攻め上れ。』」(士師記 20:23)

 

ベニヤミンに属するギブアは、神が滅ぼされたソドムの町のように罪に染まっていた。帰宅途上のそばめを連れたレビ人がギブアで一夜を明かさなくてはいけなくなった。彼らを迎え入れようとする家はなく、やっと通りがかったひとりの老人が泊めてくれることになった。その時、町のよこしまな者たちによって、そばめ暴行死事件が起こる。ベニヤミンがイスラエルの中で行ったこの恥ずべき出来事に対し、他の部族が報復することとなった。事件を起こしたよこしまな者たちを引き渡す要求に対し、ベニヤミンは聞こうとせず、精鋭部隊を招集したのであった。神は、そばめの出身であるユダから最初に上るように仰せられた。神に伺いながらの出陣であったが、イスラエル人は最初は二万二千人、次には一万八千人と打ち負かされてしまう。三度目には、すべてのイスラエル人が主の前に出て、泣きながら断食し、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、伺ったところ、神は勝利を告げられ、イスラエルは大勝利を治めた。

 

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神が言われたことであっても、すぐには成らず、かえって間違っていたかのように悪い方向へと向かうことがある。そこで疑い、あきらめたならば、勝利を手にすることはできない。神が言われたことならば、再度、神に聞こう。また、神に喜ばれない事柄がないか、振り返ってみよう。誠心誠意をもって、罪をきよめていただき、へりくだった心で、御前に立つなら、神は勝利を与えて下さるお方だ。あきらめずに、主に祈ろう!

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2011年10月29日 (土)

神に聞こう。

「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」(士師記 18:31)

 

士師記の時代は、指導者もなく、めいめいが自分の正しいと見えることを行っていた。そのような状態が続き、末期的状態となっていた。エフライムの山地出身のミカという人物の母が、息子が自分から盗んで返した銀の一部で、彫像と鋳造を造った。ミカは、神の宮を持っていて、自分のために、旅人としてやってきたレビ人を買収して祭司に任命したのであった。そこへ、ダン族が偵察にやってきた。ダン族には、主よりの相続地が割り当てられていたが、まだ勝ち取ることができないでいたのである。ダン族は、まず、ライシュを攻め取ることにした。ライシュの人々は、豊かな地で何不自由なく平穏に過ごしていて、他との交渉がなかったのである。ダン族は、その平和な民を襲う前に、ミカが持っている彫像と鋳造とレビ人とテラフィム、エポデを盗み、自分たちのものとした。そうして、ライシュを襲い火で焼き占領した。ミカから盗んだ彫像等は、ダン族が自分たちのために、シロの宮に安置した。

 

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神の名によって行なって成功したかのようにみえても、みこころとは限らない。聞く耳をもたない状態の時、神は黙秘される。神への愛から、神ご自身をよく知り、自分の考えではなく、神に喜んで従うようになることを願って、黙秘される。罪の中での成功は、神にはよらない。まず、神に祈り、神というお方がどういうお方であるかを教えていただこう。神はご自身を愛する者を決して見捨てられはしない。黙示録のイスラエル部族の中に、ダンの名はなくなっている。

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2011年10月28日 (金)

見た目はどうであっても

「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」(士師記 14:4)

 

サムソンは、神のお告げによって、胎内にいるときからのナジル人として生を受けた。ナジル人は、神にささげられた者として聖別された者であり、規定された誓約を守る必要があった。サムソンはイスラエルを支配しているペリシテ人からイスラエルを救うために聖別され生まれたのであった。このサムソン、神のナジル人だから聖く正しい者であったかというと、そうでもなかった。女好きだけど熱しやすく冷めやすい性質であり、女性に弱く、神に与えられた強い力を奔放に使うような人物であった。それでも、神に選ばれ、祝福を受けた者であった。ある日、サムソンは、ティムナという町で、ペリシテ人の娘に一目惚れし、両親に妻にもらってくれと懇願したのであった。

 

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律法的に見るなら、主の民の敵であるペリシテ人の女性との結婚なんて、不信仰でさばきにあってもおかしくない事柄である。サムソンの父母も嘆いていた。しかし、聖書は、「
それが主によることだ」と言っている。サムソンは、見方によっては締まりのない不信者のように見えるかもしれないが、個性ある信仰者であった。ほめられることではない事も多々したが、主の計画された働きの中、生涯を閉じた。私たちは、自分の育った環境や価値観で他人を量りがちである。唯一完全なる正しいお方は神のみである。間違いを犯しやすい私たちは、たやすく人を判断せずに、神の律法である「神への愛」と「隣人への愛」に立って輝いていこう。

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2011年10月27日 (木)

悔い改めの大切さ

「神は、アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。」(士師記 9:23)

 

ギデオンがそばめの女奴隷との間にもうけた子アビメレクは、民の上に立って支配したいと、他の兄弟70人を一つの石の上で殺害した。隠れていた末子のヨタムだけが生き残った。アビメレクは三年間、イスラエルを支配したが、悪から出た一致は、所詮もろいもの。愛から出ていない関係は、裏切るのも早い。アビメレクは逆らう多くの者たちを殺していった。テベツという町で、住民たちがやぐらの上に立てこもった時、アビメレクはやぐらの戸に近づき、焼き殺そうとした。その時、一人の女がひき臼の上石を投げ、アビメレクの頭に当たり頭蓋骨が砕けた。これが原因でアビメレクは死に、戦いは治まったのであった。

 

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悪から出た関係は、必ず破たんする。罪は、悪霊の砦となる。しかし恐れることはない。悪霊も神の赦しなしには、何もすることはできないのである。罪を犯しても、それを心から悔い改め、神を愛する道を選びとるなら、神は祝福を与えて下さる。しかし、悔い改めるどころか、それを正当化し、開き直っておくなら、神は悪霊に引き渡されることもされることだろう。それもまた神の愛なのである。苦しみの中、立ち直ってくれるなら、永遠の祝福の中にいれてくださるのである。その可能性があるなら、一時の苦しみは、永遠にくらべると、比較にならない。放置するなら、永遠の苦しみが待っているのだから…。罪を犯さない者は一人もいない。いつも、悔い改める心を、祈りの中でいただいていこう。

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2011年10月26日 (水)

あなたのその力で立ち向かおう。

「すると、主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」(士師記 6:14)

 

主の使いが、略奪にやってくるミデヤン人からのがれて、こっそりと酒ぶねの中で小麦を打っているギデオンに現れて、言った。「勇士よ。」と。ギデオンにしてみたら、戦う気力もないほど圧迫を受けているため、「勇士っていったい誰?」という感じであった。自分でも言っているように「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若い」ギデオンに、主の使いは、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え」と言った。なぜ、ギデオンなのか。主の使いは「わたしはあなたとともにいるから」と言っている。それがすべての理由であった。

 

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主は、あえて、自分の力により頼まず、主により頼まないと進めない弱さの中にいる者を選ばれた。主への従順な信仰をもって、自分の持っているだけのわずかな力を主の前に差し出すなら、主はその力を祝福してくださる。神の民の中に入り込み、神の民を圧迫するミデヤン人は、我々に入り込む罪である。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル 12:4)とあるが、信仰者にとって、罪は戦って抵抗すべきものである。その戦いは、「あなたのその力」で十分抵抗できるものなのである。その力を差し出したところに、聖霊なる神が勝利を与えて下さる。あきらめずに、ともにおられる主に信頼していこう!

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2011年10月25日 (火)

信仰者の罪

「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」(士師記 1:21)

 

神の宮であるエルサレム。主のみこころは、主の敵を一掃し、神の民が聖められて他と区別され、主を礼拝しつつ、その交わりの中、主を喜びとし、幸せに生きることであった。一掃する戦いには、神がともにおられたため、ただ信仰によって可能な事であった。しかし、ベニヤミン族だけではなく他のイスラエル人も、カナン人を追い払い尽くすことはせず、共存する道を選んだ。その結果、主の使いによって、「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」という宣告を受けたのであった。

 

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クリスチャンにとって、古い住人である罪。その住人を追い払うことが神のみこころである。これは信仰によってのみなせる戦いである。妥協するなら、それは罠となって、主との交わりの妨げとなっていく。ヨシュアやカレブのように、まず「できる」と信じ、行動していこう。主がともにいて下さる。

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2011年10月24日 (月)

信仰の決意

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア 24:15)

 

ヨシュアが老人になって、民をそれぞれの相続地に送り出す時に、すべての民に語った言葉である。民が不満を持ちやすく、また、たやすく主から離れる性質をもっていることを、ヨシュアはよく知っていた。相続地を得るために、主が介入して導き入れて下さったのだから、主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えよと、民に注意を与えたのであった。その注意の後で、こう言ったのであった。主を選ぶか、他の神々を選ぶかは、自由意思による選択なのだと。その選択は、自己責任を伴うものである。誰がどうであっても、ヨシュアは「私と私の家とは、主に仕える。」と言い切った。

 

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他の誰が、主から離れ去ろうと、私と家族は主に仕える!と確かな意志をもって決意することが大切である。この決心がないと、他の人に流されやすく、主を信じた後も、ふらふらと風の吹くままさまよってしまう。それでも、主を信じているから大丈夫だと、当人は思っている。聖書は、二心をもって歩むことに警告を発している。これくらいは…という侮りを捨て、今、主に仕えることを決意しよう。

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2011年10月23日 (日)

関係の癒し

「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(申命記 32:39)

 

子よ。人を真に癒すことができるのは、主であるわたしである。人は人を、関係の中で癒すことがあるかもしれない。しかし、それは永遠ではない。癒した者が、関係の中で、また傷つけたりしてしまう。なんとむなしいことか…。

 

罪は、人を傷つける。自分も他人も…。人は生まれながらの罪人であるから、容易に人を傷つけてしまい、また、傷ついてしまう。気を配っていても、真理に歩んでいても、人は傷つく。受け取る側もまた罪人であるゆえに、ゆがんで受け取って傷つくこともしばしである。人との関係の中で、この傷が様々な問題を引き起こしていく…。

 

真の癒しは神より来る。修復できない関係も、誤解もすべて神の御手の中にあることだ。神が動いて下さらなければ、いくら労苦しても、表面上をつくろったとしても、どこかでくすぶり続け、いつか溢れてくる。

 

神がなさったことである。神は互いの罪を扱われる。神は必ずよいことをなさる。すべてにおいて神の最善がなされる。苦難は苦難で終わらない。苦難の後には、解放と祝福が待っている。そのことを信じ、受けた傷も、与えた傷も、主にゆだねて、祈り続けていこう。主が共にいてくださる!

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2011年10月22日 (土)

主の約束は必ず実現する!

「主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(ヨシュア 21:44, 45)

 

主は約束されたことは必ず守られる。カナンの地はイスラエルに与えると神が約束されたように、神は、イスラエルの民をカナンの地に導かれた。民の不信仰によって、年数も経ち、世代も変わったが、その中にあっても、神は約束を守られた。実際は、占領すべきところはまだ残っていたが、神の側では、完了していた。

 

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神は、私たちを幸せにすることを願っておられる。その過程において、聖絶するべき罪や乗り越えなければならない困難があるかもしれないが、神が、信じる者に約束されている祝福すべては一つもたがわず、一人ももれず、必ず実現する。主の私たちへの愛を、疑わずに、信じ続けよう。

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2011年10月21日 (金)

信仰の眼鏡をかけよう

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(ヨシュア 17:18)

 

人数の多いヨセフ一族は、割り当て地のことで、ヨシュアに不満を言った。その要求にヨシュアはどう対処したか。「数の多い民であるのに、なぜ、ただ一つの割り当て地しかくださらなかったのですか。」には、「数が多く、大きな力もあるのだから、森を切り開いて広げよ。山地もあなたのものとせよ。」と言った。「山地には、カナン人らが住んでいて、鉄の戦車を持っています。」と言い返すと、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」と返したのであった。

 

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ヨシュアの答えは、普通ならば、変である。これが信仰である。普通ならば、「強いのだから、追い払えるわけがない。」であろう。ヨシュアは無茶なことを言っているわけではなく、「信仰に立て」と言っているのである。また、強い敵がともに混ざり合って住んでいたなら、平安には暮らせないのである。主が置かれた今いる所での不安な要素、それを通して主は何をなさろうとしておられるのだろうか。困難と思えても、主を見上げ突き進むなら、必ず光が差し込むのである。信仰の眼鏡をかけて、主を信頼して進んで行こう。

 

 

 

 

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2011年10月20日 (木)

主を待ち望む力(若さの秘訣)

「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(ヨシュア 14:12)

 

カレブは、45年前の主の約束を握りしめて離さなかった。その間、荒野の40年とカナンでの戦いの5年と、容易ではない生活を強いられていた。荒野の40年は、信仰に立って行動したヨシュアとカレブにとって、巻き添えをくったようなものであった。カレブは、今85歳になっていた。にもかかわらず、驚くべきことに、40歳の時の力と同様だと言っている。主に従い通した結果であった。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ 40:31)とあるとおりである。カレブは、約束を45年間信じ続け、今もなお信じ、ついには主との約束の地を相続した。

 

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主は、私たちに約束してくださったことは、必ず成る。必要なことは、主を信じる信仰だけだ。どんなに苦しくとも、主がともにいてくださって、この状況すべてが、主の御手の内だ。カレブの45年間も順風満帆ではなかったはずだ。主に希望を抱いて、今日も歩んで行こう!

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2011年10月19日 (水)

捨て身の者を見捨てられないお方

「すると、彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この全土をあなたがたに与え、その地の住民のすべてをあなたがたの前から滅ぼしてしまうようにと、お命じになったことを、このあなたのしもべどもは、はっきり知らされたのです。・・・私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」」(ヨシュア 9:24,25)


ギブオンの民は、主を恐れ、聖絶されないようにと一計を案じた。カナンの住民ではなく遠くからやってきた民のように装い、ヨシュアらイスラエル人をだまし、生かしてくださるよう誓いを取り付けたのであった。聖書には、ヨシュアらが「主の指示をあおがなかった。」とある。ヨシュアは、誓った通りに、ギブオンの民を救った。カナン入植中の大事な局面である。出会う民について、主に伺っていれば、だまされたという汚点は残らなかったであろう。主に伺っていれば、主はへりくだりをもって主のもとにやってきたギブオンの民を、やはり助けられただろう。ギブオンの民はサウルの時代に至るまで、イスラエルとともにいた。そればかりか、サウル王がギブオン人を殺したことで、主はその罪を問われたのであった。

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主はへりくだって、みもとにやってくる者を拒まれないお方である。「あなたのお気に召すように、お目にかなうように」と自分を明け渡したギブオン人のように、自分で握りしめているものを明け渡し、主にゆだねよう。主が祝福してくださる!

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2011年10月18日 (火)

主への侮り

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」(ヨシュア 7:1)
主の約束の地カナンに行くために、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、主の言われた通り、エリコの町のまわりを1度、6日間回り、7日目には7度回った。7度目に祭司たちが角笛を吹いた時、ヨシュアは「ときの声を上げよ」との合図とともに、注意を与えた。「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである」と。厳粛な時に語られたひとつの注意事項だった。にもかかわらず、アカンはこの注意事項を守らず、自分の欲のために、「シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本」を取り、天幕の中の地とその下に隠した。この後、イスラエルにわざわいが起こり、ヨシュアが問いただすと、アカンは、罪を告白した。この後、アカンは、聖絶のものをかすめたために、聖絶されたのである。罪を悔い改めたかのような告白をしたのに、と思うかもしれないが、アカンは主が与えた注意があったにもかかわらず、欲に負けてしまった。隠していたことから、悪いことという自覚はあったことが伺える。また、ヨシュアが聞いた時に、金銀の目方をはっきりと即答していることから、金銀の目方を量って、楽しんでいた様子が伺える。カナン入植の第一歩となる厳粛な時に、アカンは主を侮ったのであった。

 

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罪の誘惑は誰にでも起こる。しかし、実行に移すかどうかは、それぞれの意志による。罪の楽しみははかなく、やがて苦味に変わるものである。罪の誘惑が来たときには、主を思い出そう。私たちの罪のために、身代わりとなって下さった主を。誘惑に負けそうになったときには、「助けてください」と呼ばわろう。聖霊なる神が、いつも私たちを助けて下さる。

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2011年10月17日 (月)

心しなえた時は…

「私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア 2:11-13)

 

ヨシュアが送ったふたりの斥候がきた時、遊女ラハブは、やってきた王の使いからふたりをかくまった。その後、斥候たちのところに来て言ったことばである。エジプトを出てからの主のみわざと主の敵に起こった出来事を聞いて、エリコの人々の心はしなえ、勇気をなくした。そのような中で、斥候をとらえて偵察させまいと悪あがきする王の側近、一方、勇気をなくしている中、残っている勇気をふりしぼり、主への信仰に立つ遊女。この信仰の行為が、ラハブ一家を救い、後世までイスラエルの中で過ごすこととなる。ラハブは、イスラエル人と結婚して、イエス・キリストの系図に名を連ねる光栄に預かったのである。

 

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信仰による行為は、それがたとえ小さなものであったとしても、報いをもたらす大きな結果を生み出す。心がしなえ、勇気がなくなってた時は、主をあがめ賛美しよう。そして、自分の願い事を明確に主に言い表そう。神である主が聞いて下さっている!

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2011年10月16日 (日)

神は不変なるお方

「神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」(申命記 32:17,18)

 

聖書のいう罪は、私たち人間を含むすべてのものを造られた神を忘れ、他の神々を神とすることである。すべての罪はそこから始まる。すべてをお造りになった神は、全知全能であり、その真理は動くことがない。また、人間の都合や願望によって作り出されたわけでもない、全存在をご自身におかれる。

 

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弱っている時、苦しい時、人間は目に見える確かなものに頼りたくなる。目に見える神々は、頼りがいがあるように思える。しかし、それらは不動なる真理の神ではないと聖書は教える。目に見えなくとも、今も生きて働いておられる神に、頼り従って行こう。

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2011年10月15日 (土)

神は見捨てない

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記 31:6)

 

モーセがこの世を去ろうとする前に、民に語ったことばである。40年間、神のもと、モーセは民を率いてきた。エジプトを出たときから民は、事あるごとにぶつぶつと不平不満をつぶやき、モーセはとりなし続けた。民が主を捨て、子牛の像を造って祭り上げ、その後についていこうとしたこともあったのだが、主は見捨てず、民を訓練された。今後も、主を捨てることがあった時はわざわいが身にふりかかることが警告されているが、同時に、わざわいの中であっても、主に立ち返り、心を尽くして主に聞き従うなら、再び祝福すると語られている。わざわいの中であっても、主は、ともにおられるのである。

 

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苦難の中においては、とかく先が見えず、神に見捨てられたかのように思えてくる。そんな時、「どうせ私なんて…」というささやきに同意してしまうと、負のスパイラルに捉えられてしまう。どうせ私なんて何をしてもダメだ、どうせ私は好かれない、どうせ私がしても喜ばれない… これは、自我からくる卑下である。そのような思いが浮かんできた時は、主のことばを思い出そう。「あなたはわたしの宝の民だ。雄々しくあれ。強くあれ。わたしはあなたとともにいて、決してあなたを見捨てない。」心を尽くして主を呼び求めるなら、主は必ず、あなたの声に応え、心に平安を与えてくださるお方だ。その時、なすべき必要がある場合は、そのことも教えて下さるから、信頼することを選び、主を呼び求めよう。

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2011年10月14日 (金)

宝の民

「きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」(申命記 26:18,19)

 

主なる神は、民と契約をされた。主が命じた教えに従うことの祝福と、従わないときののろいを。民は祝福とのろいのためにゲリジム山とエバル山に立ち、主の命令を復唱し、アーメンと誓いを立てた。主が契約されたのは、どうでもよい民にではない。主の宝の民に対してである。その宝の民が宝にふさわしい歩みをするようにと与えられたのが律法である。そして律法に従う道を歩むならば、賛美と名声と栄光、誉れが与えられ主の聖なる民となると祝福が約束された。逆に従わない道をとるならば、まさに天と地の差と言えるようなのろいが降りかかることも同時に忠告されたのであった。

 

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主イエスが来られ、律法は成就された。「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ 5:18)とイエスは言われた。主は、「~しなけらばならない」という戒めの律法に起因する敵意を廃棄し、律法の本来の目的を成就するために来られたのである。神の聖さにあずかる聖なる民となるために、その愛をあますところなく、与えられたのである。肉において弱さを持つ私たちのために、聖霊をも遣わしてくださった。そうして、聖霊に委ね歩むことによって、私たちは日々整えられて、主の似姿に変えられていくのである。何という光栄であろうか。この愛に感謝しつつ委ねて行こう。

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2011年10月13日 (木)

神の律法

「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。」(申命記 24:16)

 

律法には、いろいろこと細かな規定が書かれている。これは、「~しなければならない。」とあるからと盲目的に従うことを求めておられるわけではない。このみことばだけ見ると、「罪があったら、殺しは許されるのかぁ」となるところである。が、十戒の「殺してはならない。」(出エジプト 20:13)を無視してはならない。10月2日(日)の「みことばの矛盾?」で書いたように、聖書には矛盾のように書かれている場合が多々ある。神をよく知り、その愛に立つことが大切である。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざまでもがあるように、憎さのあまり、それにつながる者までも憎んでしまうのが人間の生まれながらの罪の性質である。殺しを許容されているわけではなく、その性質をよくご存知の神さまが出した規制の命令である。

 

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神は恐れあがめられるべきお方である。しかし、その前に、「神は愛である」という大前提があることを忘れてはならない。「殺してはならない」と言われる神が、御子を私たちの贖いのために、殺させ給うたのである。それほどまでに、私たちを愛し、神の子としてくださったのである。罪から離れ、神の愛を信じ、大胆に主に近づいて歩んでいこう。

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2011年10月12日 (水)

死刑?どこが神の愛?

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、・・・町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」(申命記 21:18-21)

 

神は愛である。しかし、この個所に書かれていることは、どうだろう。両親の言うことを聞かなかったら死刑?どこが愛か、と思うところだろう。しかし、この律法を知っている両親が、愛する子を連れ、町の長老たちのところへ行く時は、もうどうしようもなく手に負えない状態である。両親が心を尽くして子を訓練し助言を与えても、かたくなで、逆らい、悪にそまった状態である。死を前に子が悔い改めることに最後の望みをかけて行くのである。神は愛であるが、罪については厳しいまでに裁かれる。神は愛であると同時に義なるお方である。そうであるからこそ、私たちの罪を贖うために、主イエスが来られたのである。罪は人や自分を傷つける。放置すると、罪ははてしなく、周囲に広がっていく。その罪を除こうとされることもまた、神の愛である。

 

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何をしてもいいよ、と甘やかすことが主の愛ではない。甘やかし放置するなら、それが当たり前のこととなり、自分中心に物事を考える習慣がついていくだろう。この律法が与えられている社会で育つ子は、両親の言うことを聞くという従順を学びながら育つ。それは、神への従順につながるものである。民は、この教えを聞き、神への恐れを持ちつつ、従順の大切さを学んでいく。

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2011年10月11日 (火)

試みの目的

「その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」(申命記 13:4)

 

信仰生活を送っていく上で、いろいろな助言やアドバイスを受けることがある。主の教えは、私たちを平安に導く。その平安の道とは、主への愛に立つ道である。みことばをよく読み、主が私たちに何を望んでおられるかを知ろう。主は心をご覧になられる。

 

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試みの時、逃げたくなることや放り出したくなることもあるだろう。その時は、その試みは主の御手の内で起こったことであることを思い出そう。一人ではない。主がともにいてくださるのだ。それが、自分の罪や弱さから出た試練であっても、である。主はあなたをとがめるためにではなく、あなたの主への愛を知りたいと思っておられるのだ。主を愛し、よりそっていこう。

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2011年10月 8日 (土)

祝福の道

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」(申命記 11:27,28)

 

ヨルダン川を渡った後、民は、ゲリジム山とエバル山に立ち、それぞれ祝福とのろいの宣言の誓いを確認する。それぞれの山は、シェケムの町をはさみ、北と南に位置している。この山を見る度に、民はこの祝福とのろいの契約を思い出すだろう。神の命令とは、私たちへの愛から出たみおしえである。神は、何も教えずに、のろいをもたらしはしなかった。祝福の道とのろいの道をわかりやすく教えて、民の自由意思にまかせたのであった。神を愛し、従うことを望みつつ…。

 

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神の思いを知ったなら、従う道を選びたくなるだろう。祝福の道は、神を知ることから始まる。祝福の道が目の前にある。

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2011年10月 7日 (金)

苦しみは幸せの通過点

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(申命記 8:2)

 

奴隷であったエジプトから数々の奇蹟をもって贖い出されたにもかかわらず、民はちょっと不安になると、ぶつぶつ不平不満を言った。その不信の罪のため、四十日で着くような荒野の道程を四十年の間をかけることとなった。人の親がその子を立派な大人にする目的をもって訓練するように、主は民を守りながら、訓練された。事実、主は、蛇やさそりといった危険な生物から民を守り、のどが渇いたと言えば水を与え、お腹がすいたと言えばマナを降らせ、肉が食べたいと言えばうずらを向かわせてくださったのである。その愛に応えて、信仰によって従ってくるようにと、訓練の中で内なる信仰を引出すことが、主の目的であったのである。この後に、こう言い換えられている。「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と。苦しみは「滅ぼすため」ではなく、「しあわせにするため」のものと言われている。

 

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今、試練の中で苦しんでいるならば、主を離してはいけない。「しあわせにするため」という目的があるのだということを信じよう。そして、祈りつつ、耐える力をいただいていこう。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」(ヤコブ 5:13)苦しみを抜けた時に、以前より成長した自分が、喜び笑っている。

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2011年10月 6日 (木)

覆いがある幸せ

「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。」(申命記 5:32)

 

モーセは、十戒をはじめとする律法を民に語り、こう告げた。このことばは、神を知ると知らないとでは、感じ方が大きく異なるものである。神を容赦なく裁く恐ろしい人だと思えば、狭い綱のような所を、必死になって渡っていかなければいけないような命令を出しているように、感じるだろう。しかし、これは、私たちのために、いのちをも捨てられるほど、愛してくださっている神のことばである。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇 91:4)と言われる主のことばである。「おおいの中から右にも左にもそれてはならないよ」と言われているが、主のおおいは広いのである。そのおおいの中で、私たちは自由に歩むことができるのである。

 

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おおいがないところでは、自分で危険を察知する必要がある。痛い目にも合うかもしれない。自由なようでいて、何と不自由な世界だろうか。主のおおいの中、真の自由を楽しもう。

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2011年10月 5日 (水)

遠回りしないために

「すると、あなたがたは私に答えて言った。『私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。』そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。」(申命記 1:41)

 

主の約束の地であるカナンに入る時に、「主があなたがたのために戦われるから行け」と言われたにもかかわらず、民は耳を貸さずに不平をつぶやいた。そのため、「主に従い通したヨシュアとカレブだけがその地に入る」と主なる神は告げられた。今日上げたみことばは、それを聞いた民が言った言葉である。こうなる前は、確かに主は「上って戦え」と命じられた。悪いことになると、「罪を犯した。言われたことをします。」、これは信仰でも悔い改めでもない。状況が悪くなったから言っているに過ぎない。ここでは、「向こう見ず」と言われている。状況は既に変わってしまっているのである。「主が先だって進んでおられる」と「主の怒りをかっている」とでは、全く異なるのである。そのような民に向かって、主は黙って滅ぼすことはなさらず、「上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。」と語られた。これは冷たいように聞こえるかもしれないが、主の愛から出た言葉である。この言葉にも民は従わず、打ち負かされることとなる。この後、主は、民が泣いても聞き入れなかった。これから民は、長い年月をかけて、信仰による従順というものを教わる必要がある。

 

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「上れ」と言ったり、「上るな」と言ったり…、言葉は正反対だが、主がみこころを変えられているのではない。主のみこころは一つ、「信仰によって上れ」である。民の信仰が主のみこころについていけず、信仰が育つまで主は待たれた。自分の目にはどのように見えたとしても、主に聞くことが一番である。遠回りのもとである疑い、恐れを退けて、一日一日を歩んで行こう。

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2011年10月 4日 (火)

神は決して見捨てない。

「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」(マルコ 16:7)

 

イエスがよみがえられた後、墓の前に来たマリアとサロメに天使が語った言葉である。天使が語った命令は、お弟子たちとペテロに向けての伝言であった。「たとえ死ぬことになっても、主を否まない。」と力を込めて言い張っていたペテロであったが、主が捕まった途端、徹底して主を否定してしまった、そのペテロにである。主イエスの目の前で、三度否んだ後、十字架刑が実行され、それが主イエスとの最後であった。悔やんでも悔やみきれない、自分の弱さがつきつけられた瞬間であった。そのような自分では見たくなかった自分の弱さも、主はご存知で側においてくださっていたことを痛感した。主の愛に満ちた目が焼き付いて離れない。そのようなペテロの心をご存知の主は、名を出すことによって、ペテロへの変わらない愛を示されたのである。

 

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「こんな私など主に愛されはしない。」「お役にたちたいと思っても、失敗ばかりで、何の役にも立たない。」このような偽りに惑わされてはいないだろうか。私がこんなふうなのも、人間が失敗するような不完全な存在であることも、とうの昔からお見通しなのである。それでも信じて従ってきなさいと言われる主がおられるのである。

 

ペテロはこの後、聖霊の力によって、主の証し人として変えられていったのである。全てにおいてみこころをなされるのは、神である。主を信じ、ゆだねて歩んで行こう。

 

 

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2011年10月 3日 (月)

一番たいせつな命令

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ 12:29-31)

 

これは、律法学者がイエスに「一番大切な命令はどれか」と尋ねたときの解答である。どちらも大切であるが、二番目の命令は一番目なくしては実行できない命令である。また、一番目の命令は、神の私たち個人に対する愛を知る信仰なしには、実行しきれない命令である。まず、神がどれだけ私たちを愛しておられるかを知ろう。神に心を向け祈るなら、神はご自身の愛を私たちに教えて下さる。その愛を知り、私たちもまた、神を愛さずにはいられなくなり、神が愛してくださる自分自身を愛し、隣人へとその愛が流れていくのである。

 

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「私には愛がありません。たったの二つの命令すら全うしえない者です。神さま、私を憐れんで、愛を教えてください。」私の内には愛がない、実は、こう認めることが、神の道なのである。自分に愛があると思っていると、いつしか、「これだけ愛してあげてるのに…」という思いが潜むだろう。

 

毎日毎日、聖書を通じ、祈りや人間関係の中で、神の愛を見出していこう。恵みは低いところに下る。

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2011年10月 2日 (日)

みことばの矛盾?

「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」(マルコ 10:5)

 

パリサイ人たちがイエスをためすために、離婚は許されるかどうかと質問した。神の愛の教えを説いておられたイエスが律法に反することを言ったなら、非難しようとねらっていたのである。律法には離縁についての規定があった(申命記 24:1-)。「許される」と答えれば、神が離婚を奨励しているようで、神の愛とは異なっていく。「許されない」と答えると、律法の記述と食い違うようになってしまう。イエスは、「律法にはこう書いてある」とは答えられずに、「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」と質問された。そして、離縁とは別の個所である創世記から、神の愛によるみこころを説かれたのである。

 

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聖書のみことばというものは、使い方次第である。神の愛によらなければ、たやすくそれていってしまう。大切なのは、神というお方を知ることである。聖書にこう書いてある! しかし、他の個所には逆のことが書いてあるかもしれない。

 

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Ⅱコリント 6:12)みことばに従うことは大事なことであるが、自分を追い詰め、がんじがらめになってはいないだろうか。神は聖であり義である。また、神の愛は、広く、長く、高く、深い。行ないにすがるのではなく、神の愛により頼んで、今日も歩んで行こう。

 

 

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2011年10月 1日 (土)

和合して暮らしなさい。

「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコの福音書 9:50)

 

これは、イエスの名によって悪霊を追い出していた者を見たヨハネが、「仲間ではないのでやめさせた」と報告した後で、説かれたイエスの教えである。弟子たちは、イエスの名での働きは自分たち直弟子の特権であるという誇りを持っていた。他の者が悪霊を追い出していたところで、良いことをしているのである。やめさようと思った理由は何であったのか。《知らない者たちによって、イエスの名が使われている》そのことが不快であったのだ。そのような弟子たちに主は言われた。「やめさせることはない。反対しない者は、味方である」と。そして、つまずきを与えることへの注意を与えられた。

 

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不快な思いが起こったとき、それがどこから来ている思いであるか、よく吟味しよう。他人のよくない言動からであったとしても、それは自分から出ている思いである。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ 7:15)塩は腐敗を防ぎ、聖さを保つ。自分自身のうちに塩けを保ち、互いに和合を保って暮らしていこう!

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