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2003年1月

2003年1月 9日 (木)

主題からの学び「罪とさばき」

罪の理解
「これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」(民数記 35:29)
  聖書は、神のことばであり、教科書(教えの書)でもある。
  世のさばきに、六法全書があるが、神のさばきには、聖書がある。
  神のさばきは、神のご性質である愛に基づいたものである。
 
人をさばくことの禁止
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目かも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ 7:1-5)
「〔人を〕さばいてはいけない。〈さばきを宣告したり、非難を浴びせたりしてはいけない〉。そうすれば、あなたたちもさばかれない。〔人を〕罰して〈罪に定めて〉はいけない。そうすれば、あなたたちも罰せられない〈罪に定められない〉。免除して〈赦して〈釈放して〉やりなさい〈憤ることをやめ、憤りをしずめなさい〉。そうすれば、あなたたちも免除される〈赦される〈釈放される〉。」(ルカ 6:37<詳訳>)
  ここでいう「さばく」は、「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」であって、「罪への指摘や忠告のこと」ではない。
  愛から出た「罪への指摘や忠告」は、神の国を治めるために、必要なことである。
  「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)

「そういうわけで、ほかの人をさばく〈罪に定める〉人よ。あなたは、たといあなたがだれであろうと、どのような言い開き〈弁明〈正当化〉もできません。というのは、ほかの人に対して審判者としてふるまう〈判決を下す〉ことによって、自分自身を罪に定めているからです。なぜなら、さばくあなたが〔自分でとがめてその非を鳴らしている〕その同じ事を常習的に行っているからです。〔しかし〕私たちは、そのようなことを行なう人々には神の審判〈有罪判決〈有罪宣告〉が、正しく〈真理にかなって〉、下ることを知っています。それなのに、ああ人よ、あなたはそのようなことを行う人々をさばいて〈罪に定めて〉しかも自分自身がそれを行なうとき、自分は神の審判をのがれる〈神による有罪宣告、有罪判決を免れる〉と考える〈思う〉のですか。あなたは神の情けと寛容と強い忍耐との豊かなことを軽々しく取り扱う〈それにつけ込む〈過小評価する〉〔ようにそれほどに盲目になっている〕のですか。あなたは、神がその情けをもってあなたを悔い改め〈すなわち、神のみこころを受け入れるために心と内なる人を変えること〉に導こうとしておられる〔事実に〕無とんちゃくなのですか〈ほんとうに無知なのですか〉。ところが実は、あなたは、自分の無感覚ながんこさを悔い改めない心によって、神の正しい審判〈正当な断罪の宣告〉の現れるあの怒り〈憤り〉の日のために、み怒り〈憤り〉を自分のために積み重ねているのです。なぜなら、神はだれにでも、その行いに応じて〈公正に、行いの値するとおりに〉報いを与えられるからです。」(ローマ 2:1-6<詳訳>)
  人を「さばく(告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること)」という罪からの悔い改めの促し。
「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。」(ローマ 5:16)
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙8:1)
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ 8:33-34)
  神のさばきは、恵みあるさばき。
「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。…一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(Ⅰコリント 4:3-6)
  「告訴する、断罪、さばきの宣告、非難、罰すること」をするのは、主である。

 ex. 「しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(Ⅱペテロ 2:16)

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(Ⅰテモテ 5:24,25)
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ 13:1,2)
 
弱い信者への寛容とあわれみの勧め
「弱い信者というべき人について言えば、彼を〔あなたがたの交わりの中に〕喜んで迎え入れなさい。彼の考えを批評する〈彼の良心のとがめに対して判決を下す〈論議をもって彼を悩ます〉ことにならないようにしなさい。」(ローマ 14:1<詳訳>)
「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には彼を立たせることができるからです。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ 14:4,5)
「私たちのうちだれひとり自分のために生きる者はなく〔生きるのは主のためであり〕、まただれひとり自分のために死ぬ者はなく〔死ぬのは主のためです〕。というわけは、私たちは、生きるのは主のために生きるのであり、死ぬのは主のために死ぬのだからです。ですから私たちは、生きても、死んでも、主のものなのです。なぜなら、キリストが死んでまたよみがえられたのは、死んだ者と生きている者のどちらにも主となるという目的をもってでした。あなたはどうして自分の兄弟を批評するのですか〈彼に対して判決を下すのですか〉。またあなたはどうして自分の兄弟を見下す〈軽べつする〉のですか。私たちはみな神の審判の座の前に立つべき者ではありませんか。なぜなら〔聖書に〕しるされています、『主は言われる、私は生きている。すべてのひざが私の前にかがみ、すべての舌が神に向かって告白する〈神を認めて崇め賛美する〉』。それで私たちはそれぞれ神に対して自分自身の申し開き〈さばきの場合の答弁〉を必ずするのです。だから私たちは、もうお互いに批評する〈非難する〈判決を下す〉ことをしないで、むしろ兄弟に対して妨げとなるつまずきの石〈障害物〈妨害物〉を置かないことに決めましょう〈努めましょう〉。」(ローマ 14:7-13<詳訳>)
  兄弟をつまずかせることに対する注意(「つまずき」については、次の機会に)。
 
罪を犯している兄弟を戒める(責める)役割
「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、きこえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ  59:1,2)
罪は、神との隔てとなる。
「気をつけなさい〈いつも自分で注意していなさい〈互いに見張っていなさい〉。もしあなたの兄弟が罪を犯し〈的をはずし〉たならば、彼にまじめに話し〈彼を戒め〉、悔い改めたならば〈罪を犯したことを悔いていたら〉、赦しなさい。」(ルカ 17:3<詳訳>)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(ガラテヤ 6:1)
「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。」(Ⅱコリント 5:10,11)
「罪を犯している〈犯し続けている〉者たちには、みなの前で叱責〈訓戒〉を与えなさい。それは、他の者たちが戒めを受けて、益になる畏敬〈おそれ〉をいだくためです。私は、神とキリスト・イエスとまた、選ばれたみ使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。個人的な先入観〈偏愛〉を持たないで、何事もえこひいきをもってしないで、〔こういう規則を〕守りなさい〈保ちなさい。按手については〈〔除名された違反者を復帰させるとき、また疑わしい件についての按手のとき〕教会の認可を与えることについては〉早まってはなりません。他の者の罪に加わっては〈かかわっては〉なりません。自分自身をきよく保っていなさい。」(Ⅰテモテ 5:20-22<詳訳>)
「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ 5:16)
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言 27:5,6)

聖書にみる具体的な戒め方
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したら、行って、あなたと彼の間だけで〈ひそかに〉、彼に彼のあやまちを示しなさい。もし彼があなたに聞けば、あなたはあなたの兄弟を取り戻したのである。しかし、もし彼が聞かなければ、ほかにひとりかふたりの人を伴いなさい。それはふたりまたは三人の証人の証言によってすべての言葉が確認される〈支持される〉ためである。もし彼が彼らに注意を向けないならば〈よく聞いて従うことを拒むならば〉、教会に告げなさい。そしてもし彼が教会にさえも聞くことを拒むならば、彼を異教徒また税金取り立て人として扱いなさい。」(マタイ 18:15-17<詳訳>)
「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ 4:17)
 
自分自身の聖め
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント 9:27)
  人に言うだけではなく、同じ肉をもつ人間として、自分も気をつける。
「あなたがたは、信仰にたっているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント 13:5)
 
以上のことは、一致のために大切なこと
「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも〈心から〉互いに受け入れなさい。」(ローマ 15:5-7)
  人を心から受け入れること。
「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)
  キリストの律法(神への愛と隣人への愛)のために、訓戒は必要。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ 1:6-2:6)
  交わりは、罪を犯さないようになるためにも必要。
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(Ⅰヨハネ 3:4-6)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」(Ⅰヨハネ 3:9,10)
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ 4:27)

 

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