2020年7月 8日 (水)

クリスマスについての考察~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

A教会ではクリスマスの日を祝わず、毎日がクリスマスだと教えられていました。しかし、クリスチャンなのにクリスマスに何もしないのは妙だということで、ある時から伝道集会をすることになったと記憶しています。牧師夫人にクリスマスを祝わない理由を尋ねると、「クリスマスはこの世の霊がもっとも働く」と答えられたことを覚えています。また、マンツーマンで教えていた宣教師の教え(クリスマスについての本を出版してもいました)によると思うのですが、下記の理由が語られていました。
・クリスマスはマリアとマリアに抱かれた赤子のイエスがクローズアップされ、力のない神という印象を与える。
・キリストの降誕は、実際12月25日とは異なる時期であった。間違った日に誕生を祝うのはおかしい。
・クリスマスの日は、異教の祭りの日であった。

クリスマスは、神の恵みを覚えて、家庭でお祝いしていました。
クリスマスは、古代ローマで太陽神ミトラスを祝う祭りの日だったということで、異議があるようだが、義なる太陽、まことの光であるイエス・キリストが密教の神から勝ち取った日だという見方もできる。
また、「神であられるのに、神の姿を捨てることができないとは考えないで、自分を無にして、しもべの姿をとって人間と同じ姿になられ、自分を低くして(へりくだって)、実に十字架の死にまでも従順に従われたのです」(ピリピ 2:6,7、新改訳、文語訳、詳訳参照)とある自分を無にした究極の姿が「赤子」という形であったのじゃ。実は、この無力こそが、神の力を流す管となる秘訣だったのじゃ。キリストは信じる者の模範となられた。クリスチャンは神の誕生日として祝っているように見えるが、それは、ただの誕生記念日ではないということじゃ。
今となっては、聖書に記されていず実際の期日を特定できない(神の計画のうち)この定着している記念の日をうやむやにしてしまう働きが、聖書の神から出たとは、考えにくいのだがのぉ。
聖書は深いですね。もっと聖書を深く知りたいと思いました。 

 

|

2020年6月30日 (火)

キリスト教は弱々しい? ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

「『私は罪人であり、さげすまれ非難中傷されるに値する者』それがイエス・キリストに従う者の道」とい言葉に反論する人々がいます。彼らは、「王の王、主の主であるキリストを信じて救われた時、神の子となったので、弱々しい卑下するような考えはふさわしくない。」「罪も信じた時に赦されたのだから、いつまでも罪人意識は必要ない。」と主張します。そのような人たちは、「私には罪がない」と言っています。
賜物を追い求め、自分が高くなって、混乱を招いているコリントの教会にパウロは、このように言っている。
「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」(Ⅰコリント 4:9-13)
「あらゆるもののかす」
とまで言っているんじゃ。また、「私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」(Ⅰコリント 4:16)とも言って、キリストの道を指し示しているのぉ・・・。これは卑下ではなく、神を知るゆえ出た行動を伴った言葉じゃ。
キリストにあって義と認められても、罪の性質がなくなったわけではない。「 私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ 1:15)と言ったパウロは、特別ではなく、罪をよく知っているゆえに心からそう言ったのじゃ。罪がわからないとしたら、神はもっとわからない。罪を知って、神の救いを受け、感謝と赦されている喜びの中にとどまっていようではないか。そうすることで、罪からも守られることになるのじゃ。
すっきりしました。
聖書がいう本当の強さは、何があっても耐え忍ぶことができる強さ、自分を無にし、主にすべてを委ね、何があっても動じない内面の強さじゃ。これは、主を信じているからこそ、できる強さじゃ。

 

|

2020年6月23日 (火)

出席した聖会にて ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

この時、参加した聖会は、多くの教会が賛同して、超教派として開かれていましたが、気になることがありました。
気になることというのは?
この聖会の朝、主に癒されたことを確信したので、聖会中の「癒されたという方は壇のところに来てください。」という講師の招きに応じ、出ていきました。列に並んでいたところ、外国人スタッフの男性に聞かれるまま「高熱がでて、昨日肝炎だと診断されて救急車で運ばれていたのが、今朝癒されました。」と答えると、「Wow!」とすぐに壇上に上げられたのです。壇上では、講師がうるのところにやってきて、先ほどのスタッフが講師に耳打ちして説明すると、講師は興味なさそうにおでこをはじき、去っていってしまったので、うるは当惑しました(他の方には時間を割いていました)。
その後、講師は、「主イエスをほめよ」の讃美の中、会衆の人たちに手をつないで立って一緒に讃美するように言いました。講師の祈り(号令)で手をつないでいた人々がその場で次々に倒れていきました。手をつないでいたため、うるとへいわくんも意思とは関係なく引っ張られるように倒されていきました。横や後ろには、小さな子供もいましたが、引きずられるように倒され、泣き叫んでいました。
へいわくんは、「イエスさまは、小さな子供たちを大切になさる方だ」とつぶやき、この光景に違和感を覚えたようでした。
このような聖会の状況と高額な駐車場代金に多少の疲れを覚えましたが、主ご自身が癒してくださった喜びが強く、深追いはしませんでした。
が、翌年も同じ講師による聖会の開催が予定されていて、数か月前の阪神・淡路大震災を理由に講師のほうが直前に来日をキャンセルしてきたと聞いた時は、違和感が大きくなったことを覚えています。このような困窮している時こそ、イエスさまが必要なはずなのに、日本に重荷を持っているという講師がキャンセルとなるのは、違うのではないかと思いました。
いろいろなもっともらしい理由が付く場合もあるので、信じていると信じる対象をかばってしまいわからなくなっていくものだが、時が来ると、真理は明らかになっていくものじゃ。しっかりと神を知り、霊の目を磨くことじゃな。よいものはよいものとして受け取り、悪いものは反面教師としてしっかり学び、キリストの似姿に変えられていこうではないか!

 

|

2020年6月22日 (月)

幼子の信仰 ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

うるは、「どちらにしましょうか、天の神様のいうとおり♪」の数え歌が、日本各地にいろいろなパターンで存在しいているように、些細などちらでもよい決められない事柄は自然に任せようというノリで、「〇〇だったらこちらへ、××だったらあちらへ」ということをしていました。聖書がわかってくるにつれ、聖書の神のことを考えて判断するので、必要がなくなったせいかしなくなりました。当時は、神を試すというより、神のみこころを知りたいという一心での行動でしたが、一部の方々には奇妙に映っていたかもしれないと思います。
「なんでもかんでも神に結びつける!これだから宗教は怖い!」と眉をひそめられた経験がある信仰者は多いだろう。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル 16:7)とあるように、神への思いが真剣であれば、神は喜んでご自身を現わしてくださり、それをさげすまれないお方じゃよ。
実際に言われたことはありませんでしたが、振り返ってみると、結構、危なっかしく見えるような歩みをしていたのかなと自分で思いますが、当の本人は神がともにいてくださるのがうれしくて楽しんでいました。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)結果よければ、すべてよしじゃ。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)とあるしな。それを踏まえた上で、聖書をよく知る成長した大人は、幼子がつまずかないように守り、正しい方向へ導く勤めを担っているのじゃな。

 

|

2020年6月15日 (月)

預言について

「聖書における預言は、聖霊によって示された神の啓示を意味する。新約聖書では,預言はすべてのキリスト者が求めるべき聖霊の賜物の一つに数えられている(Ⅰコリ14:1,5,39)。・・・旧約時代には、一般に預言者と言われる特定の人だけに預言の賜物が与えられたが、新約時代には、預言の霊はすべての人に約束され(ヨエ2:28‐29,使2:16‐18)、事実、教会の中にそのことが起った(使21:9,Ⅰコリ12‐14章)。」(新聖書辞典より)

「イエスのあかしは預言の霊です。」(ヨハネの黙示録 19:10)とあるが、預言というのは、イエス・キリストの証に結びついていくものである。
実現せずに、結果、イエス・キリストの証とならない実を結んだとしたら、それは神なる主が語られたものではない。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
いろいろ言い訳があるかもしれないが、語る人間は神ではない。誤って捉えることも、主観が入ることも、感情から自分を語ることもありうる。
「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリント14:29)とあるが、吟味する者が、同じ思想、同じ価値観の者だとしたら、あまり意味をなさない。大切なのは、聖書全般を知り、聖書が示している神によっての吟味である。

 語られた預言が信仰者にとって、信仰を送る上で励ましとなり、自分の足で神と共に信仰を歩む力となり、自分の内でキリストへの感謝として育んでいけば、成長と共に、それが神だったか明らかになっていくだろう。あなたに成る実がそれを証明する。
神の預言と言って語る人は、良くも悪くも人間である。一時的に神に用いられることもある。(Ⅰ列王記28章では、サウルへのみこころを語るために、神は霊媒師をも使って、サウルに真実を告げられた。)逆に、民数記22章のバラクのように、事実を語っていた者が神に反していくこともある。
神からの預言は、しがみつくものではなく、人間が実現に向けて頑張るものでもなく、信仰によって受け止め神を待ち望む信仰が練られていき、御霊の実を結ぶものである。

 

--------------------

【参考】新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

|

2020年6月 9日 (火)

新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

救われた当時はわからなかったのですが、いろいろ経験してくると、この時のメッセンジャーたちは、いろいろ問題があるのではないかと思っていました。
この時から何年も経って、第三の波とか新使徒運動とかという言葉とともに、いろいろ問題が語られ出してきていますが、当時、この集いを通じて、夫が救いに導かれたことは否定できないため、当惑したこともありました。
信仰は、自分と神様の関係で確立していくものであるから、外側で起こることは、自分側がどのように取り込むかによって、つまり、同じところで同じメッセージを聞いても、人によって受ける影響は異なってくるものである。「外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない」(マルコ 7:18)と主イエスも語っておられる通りじゃ。
教派を超えて、様々な教会による集会は、モチベーションが上がる良い面もあるが、吟味なしに信じ込んでしまうと、似ても似つかぬ同姓同名のイエス・キリストにすり替わっていく危険もあるということを、覚えておきたい。
偏りのない聖書教育を施し、判別していけるように育てていくのは、教師の使命だともいえるのぉ。
救われた喜びが大きかったことや子供たちを連れていたということもあり、話の内容は頭に入っていませんでしたが、この時、メッセンジャーが「今、神様が言われました。『天皇陛下がイエス・キリストを信じます。テレビでイエス・キリストは私の主です、と公言する時が来ます。』」と突然、預言だと語られたことを記憶しています。
まだ何も知識のなかった私は、「本当だとしたらすごい!」と思い、故郷の親族に伝えたことを覚えています。
結局、この言葉は実現せず、この時の天皇陛下も職を退かれていますが、後年、この流れの預言の実現率は20%以下だと言われているということを聞きました。(真理のみことば伝道協会のページ参照)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)とあるように、すべて神の計画の中じゃ。
神を愛しているならば、必ず、神の真理にたどり着く。「神を愛しているならば」がポイントじゃな。ふぉっふぉっふぉっ

 

|

2020年5月14日 (木)

様々なメッセンジャーについて~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

この教会では、国内外からいろいろな教師が招かれていました。時には、偶然とは思えないような内面で不思議なことが起こり、心身が癒される経験もしました。
が、この後、使徒とか預言とかを強調する流れとなっていき、聖書のみことばと違うことを言っていると思うことが増え、今後の教会の動きに影響を与えていったのですが、このような状態の教会で受けた恵みは、どう捉えたらよいのでしょうか?
とかく「伝道」に主体を置いている教会では、様々な外部のメッセンジャーを呼ぶことが多い傾向にあるようじゃ。
面識のない他のメッセンジャーに頼らず、地道に地域に仕えている教会も存在するが、そういったところは、大きく宣伝していないためか、野に咲く花のようによく見ないと目立たないようじゃ。
多様なメッセンジャーからの話を聞けることは、モチベーションを高める刺激となり、活性化につながるというよい面がある。しかしじゃ、それが本来の聖書に即した内容から逸脱していなければの話である。
へりくだった心で神に真剣に祈って受け、信仰の助けになったならば、どこで受けたとしても、恵みとして受け取ればよい。
神は、どのような場所においても、どのような人を用いても、みこころを成し遂げられるお方じゃ。民数記22章28節ではロバの口を開かれ、Ⅰサムエル28章14-19節ではサウルの要請に応じた霊媒師を通してサムエルを送って真実を告げ、使徒の働きではパウロのいるところどこででも、たとえそれが牢獄であっても、ご自身を現わす奇跡を行なわれたのじゃ。
重要なのは、受けとった側がどのような心で、どのような信仰で願い求め、主がどのように答えてくださったか。それは聖書に合致している神か、ということじゃろう。
どこでとか誰からとかというのではなく、自分側の吟味が大切ということですね。

 

|

2020年5月12日 (火)

伝道について

「伝道することとは,人々がキリスト・イエスによって神に信頼を置くように,また彼らの救い主として彼を受け入れるように,そして,彼の教会の交わりにおいて彼らの王として彼に仕えるように,聖霊の力によってキリスト・イエスを提示することである」(新キリスト教辞典より)

 異端で知られているとある団体では、聖書を引用して、2人ペアで各家庭を訪問して、その団体特有の聖書勉強会につなげている。

2人組というのは、マルコ6章7節、ルカ10章1節で、イエスさまが12弟子を世に遣わすときに用いられたスタイルである。
それを言葉通りに忠実に実行しているわけである。
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:9-12)とあるように、ふたりというのは知恵でもある。

但し、そのやり方を実行することによって、イエス・キリストが伝えられれば、である。 

みことばにあるから、聖書のことばを伝えているから、と同じことをただ真似しても、心の内が異なっていたなら、キリスト・イエスは伝わらない。 みことばは、律法の掟ではない。恵みとしてとらえた時に、神なるキリストが輝きを放つ。

「私は100人以上の人を救った。あなたは何人救った?」と聞かれたことがある。その人は、もともとコミュニケーション能力にたけている方だった。間違ってはいけない。神は、ロバの口を用いても(民数記2:28)、みこころをなされる方である。人が救われるのは、ご聖霊の働きであり、私たちはなすべきことをするだけである。
そして、どれだけ多くの人を救ったとしても、「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)ともみことばにあるが、重要なのは、後にどのような実が残るかである。

 人によって得意不得意は異なる。不得意なやり方を強要されるお方ではない。友なるキリストを紹介したい、伝えたいという思いをもって、自分に合ったスタイルで機会を用いて伝えればよいのである。
やり方によっては、キリスト・イエスではなく、伝道している自分を伝えていて、さらに、時代にそぐわないやり方次第では、伝道の妨げにもなりうるのである。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)とあるように、一番の伝道は「愛」であり、「愛」がなければ、本来のキリストは伝わらず、妨げにすらなってしまうのである。

キリストなる神を正しく知り、主の愛に立って、機会を用いて伝えていこう。祈りつつ種をまけば、ご聖霊が働いてくださる時が来る!

 

|

2020年5月11日 (月)

愛と束縛 ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

「教会に置いてある書籍以外は、あまり読んではいけない」と言われた時、不自由さを感じ、もやもやしました。指示された本棚にはそんなに多くの本はなく、何故だろうと思いました。
また、引っ越して庭がなくなったため、トールペイントで作った子供型の花台を誰かにもらってもらおうと申し出たら、「これは偶像だから置けない」と言われ、「え~?キャラクター化した子供を板に描いてくり抜いただけの置物も『偶像』なの??」とびっくりしました。
読む本を規制することは、異端などマインドコントロールにもつながる手法にもみられるのだが、まだよく理解していない信徒を守りたいという愛情によっても出てくるだろうなぁ。それがどういったことに起因して発せられた言葉なのかは、互いによくコミュニケーションをとって、また聖書のみことばに照らし、消化つつ、キリストの交わりを守っていく必要があるじゃろう。
また、どのような物でも、偶像かどうか判断するには、背景や作った側の思いをよく聞いて判断すべきことじゃろう。
いずれにしても、つまずかせることはよいことではないのう。まず、相手を知りたい(愛したい)というコミュニケーションが大切じゃ。
何故かということを聞ける交わりを作って、互いに信じあえる関係作りが大切ですね。

 

|

2020年5月 4日 (月)

異言についての考察1

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

初めて聞く言葉だった「異言」について、聖書に書かれていることを聞いただけなのに、いろいろ否定的な言葉が返ってきたのは、なぜなのでしょうか?
「異言」については、いろいろな立場や神学的な見解があり、注意が必要な項目となっているなぁ。それは、思いつくだけじゃが、下記のような要因が考えられる。
 ・「異言」の現象が傍観者からは奇異に見える
 ・体験に依存して未経験者を見下して暴走してしまう人たちの存在
 ・霊的な現象のため、理解できない人たちの存在はあって当然なのだが、その人たちへの配慮がなされないことがある
 ・霊的に見える現象がすべて神からとは限らないため
神からの体験は喜びの出来事なのに、その中で注意が必要というのは、不自由じゃないですか?
「配慮しなければならない」と掟(律法)として実行しようとすると、不自由なことじゃが、お互いに愛に根差して行動するならば、必ず、真理への一致に到達できる恵みの事柄なのじゃ。
お互いにキリストの愛に根差して行動するならば、物理的には離れたとしても分裂し続けていることなく一枚岩の教会となるじゃろう。
そうなんですね! キリストの中での成長に応じて、愛することを学ばされます。
「異言」については、またの機会に詳しく。

|

«信仰告白について ~小羊うるちゃん物語へのコメント~