2020年9月 8日 (火)

異言についての考察2~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

B教会のB主任牧師が異言を異常と思えるほどに嫌っているのには、理由があることが最近になってわかりました。
先代のB0牧師は、日本のキリスト教界の重鎮の弟子の一人でしたが、そのB0牧師のメッセージ集を読む機会があり、Ⅰコリント14章からの異言についてのメッセージが記載されているのが目に留まりました。
どこの団体(教会)かを特定することが目的ではないため、引用を記すことができないことが残念ですが、大筋では大変すばらしいメッセージが書かれていましたが、異言については、こればかりは体験しないと理解できないもののため、聞く人にも何を言っているのかはっきりとわかる言葉でなければいけない、分かる言葉でないならば教会では黙さないといけないという内容が書かれていました。そして、実際の2つのケースが書かれていました。
一つは、奉仕に行った先の地方の教会の隣の店の上階で異言派の集会が開かれていて、不統一に大きな声を出して夢中になっているのが外まで聞こえ、気違いの集まりだった、という自身が見た内容でした。
もう1つは、D教会(偶然にも後にうるが行った教会)に行ったという人から聞いた話でした。異言を求めてD教会に行ったその人は、どうしても異言を語れなかったところ、そこにいた一人の朝鮮の人が、朝鮮語で祈り始めた、するとその教会の先生が「あっ異言を語り出した、聖霊のバプテスマを受けたのです」と言った、それでインチキだと言ってD教会を退いたというので、このようなところもあるのだと知っておいてほしいという内容で、人づてに聞いたのか、インチキだと言って出てきた人に聞いたのか、どのような人に聞いたのかは、書籍には書かれていませんでした。
この異常な体験談が語り継がれ、不要な恐れを代々にわたって抱かせ、力で封じるか、ないものとして扱うかしか対応しきれなかったのだと思いました。

   

「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)キリストを信じる者に初めて聖霊が注がれた場面じゃが、確かに「他国のことばで」とあり、いろいろな国の人がいるところで、自分の国のことばで語るのが聞けた現象じゃった。が、理解できない言葉はなかったとは記されてはいない。「人の異言や、御使いの異言」(Ⅰコリント 13:1)と聖書にあるように、人の言葉ではない異言もあるのじゃ。旧約聖書にも、ダニエルしか解き明かせなかった神からの手が書いた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(ダニエル 5:25)という言葉が記されているぞ。それゆえ、人の原語に限定するのは、おかしなことじゃ。
また、「ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。』と言ってあざける者たちもいた。」(使徒 2:13)とあるように、陶酔しているような状況が見られたのは、聖書に書かれていることじゃ。その時の状況で「他国のことば」で理解できる人がいたのは、神の配慮のしるしであった。聖霊に満たされた全員がわけのわからない言葉で、陶酔していたら、それこそ、初めから不要な分裂を招いたのではないかな。
「炎のような分かれた舌が現われて・・・」というのは、制御できない舌というのを思い出す現象じゃ。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)。 「異言」のギリシャ原語は、Grgrw (舌)である。制御できない舌を持つのが人間で、何をどう祈ったらよいのかもわからない時にも、舌をゆだねて、ぐじゃぐじゃした思いを神に向け祈ると、不思議に神を身近に感じることができる、聖書の聖い「異言」はそのような面を持つ賜物じゃ。神を身近に感じ、陶酔していくこともありうるだろう。陶酔していても、トリップしているわけではなく、意識はきちんとしているのであり、人をつまずかせないように賜物を管理するのは、各自の責任である。Ⅰコリント 14:2でパウロも、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」と言っているじゃろう?
ただ、ひけらかすように祈ったり、聖い者になったかのようにふるまうのは、認識が違っていると言える。神からの体験は、聖さとはまた別の神の目的がある現象じゃ。
これは異言ではないのじゃが、神の霊が下っての満たしという面では同じということで例に挙げるが、サウルは、神の霊が下り、高揚して預言を語り王となった(Ⅰサムエル 10:10-13)のだが、ダビデを殺そうと追っかけて行った先でも、神の霊が臨み、預言をしながら歩いてサムエルのところに行き、一昼夜の間、サムエルの前で預言し、裸のまま倒れていた(Ⅰサムエル 19:23,24)とあるのじゃ。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とあるが、体験なしに信じることができるならば、それはそれで、幸いなことじゃ。そして、体験したなら、その管理は受けた側に責任が発生することを覚え、神への恐れを失うことなく、神と人を愛し、神とともに賜物を用いて仕えていこうではないか!

うるは、いろいろ考えてしまって、疑いも起こるので、体験していなかったならば、信じ続けることができたかどうか・・・、主がご自身を現わしてくださったので、聖書が事実だと知ったのです。体験がなかったら、聖書を読んでも、いい話だったなで、いろいろあった時にしぼんでいたかもしれません。主はその人に応じた導かれ方をなさるのだなと思うと、感謝がわきます💛

 

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【参考】異言についての考察1~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.5.4)

 

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2020年9月 4日 (金)

目の梁~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

 B教会でのクリスマスを前に、ハンドベルの練習をしていた時のことなんですけれど、テーブルに乗って遊んでいる男の子をクリスチャンである母親のAさんが注意せず、遊ばせていました。
Aさんは、自分の息子について日頃、「かわいくて、叱ることなんてできないわ」と言っておられました。テーブルの上で遊ばせている光景を見て、一緒に練習していた求道者のBさんが怪訝そうな顔をしてたのが目に入りました。Bさんはしつけにはきちんとされている方でした。
「小さな子のこと、そんな顔をして、さばかなくてもいいじゃない。」そう思った瞬間、目に異物感を感じました。
急に目にまつげが入ったような感覚を覚え、洗面所に行ってみると、まつげのようなものが入っているのが見えました。取ろうとしましたがなかなか取れず、痛さに耐えられず、すぐに家に帰りました。
帰宅し、苦労して引っ張って取ってみると、ずるずると30cmほどのうるの髪の毛が出てきたのです。どうやって入り、どこにどう入っていたのかわからない不思議な体験でした。この特異な体験に、主に目を向けると、「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」(ルカ 6:41,42)のみことばとともに、うるの思いが目のはりだと知らされたのでした。Bさんは、子どものしつけにおいて、正しく感じていただけでした。「さばかなくてもいいじゃない。」と言いつつ人をさばいていたのは、Bさんではなく、私情をはさんで、お世話になっているというフィルターで甘く見ていたうるのほうだったのでした。
このようなことを通じて、正しくさばき治めることは、人間関係において大切なことでもあるということ、視点によって見え方はいろいろ変わるということを主からの実地教育で学べました。

・・・(しみじみうなずいている)

 主の実地教育は、これが2回目でした。1度目は、A教会にいるとき、口を閉ざされたという経験をしたことがあります。みことばを使って、みこころだからやるべきだとよく言ってくるクリスチャンの友人Cさんがいて、それを受け入れて行動すると、言い出しっぺのCさんはいろいろ理由をつけていなくなって、うるにはちょっとした問題が残るということが度々ありました。大好きな友人ではあったけれども、そういうことがあると、同じ経験と思いを持つクリスチャンの 友人Dさんと、ついつぶやき合ったりしていました。つぶやきはよくないという気持ちはあったのですが、 Dさんと一緒にいると、ついその話題になってしまっていました。
そんなある日の祈りの中、主の十字架が鮮やかにせまった時があり、言葉の罪に焦点が当たり、うるの罪がイエス様を十字架につけたのだと悔い改めに導かれ、十字架が自分のものとなったという経験をしました。十字架の場面にいて、当時の権力者たちに聞かれたならば、「イエスさまは、自分が神の子だと言っていたよ。」と事実かもしれないが、悪気なく不利なことを言いかねない自分に気づかされました。
そういう十字架体験をし、Dさんと電車で待ち合わせをした時のことでした。直前にあった出来事から、また、つぶやきになりそうに思えたので、電車が見えた時に、「主よ、Cさんについての話になりそうです。主が好まれない話題はしたくないです。どうか、この口を閉ざしてください。」と祈りました。電車に乗って、Dさんに会って挨拶しようとすると、声が全く出なくなっていたのです(電車に乗る前までは普通に出ていた)。声が出ないという見ようによってはさばきのようにも思われそうな状況ですが、心には喜びが湧き上がっていました。
後にも先にも、風邪をひいても声が出なくなるという経験は、この時だけです。主が祈りを聞かれ、罪から引き上げるための実地教育をなしてくださった!という喜びが大きく、教会に着き、十字架の恵みとそれゆえに声が出ないことをA牧師夫人に伝えると、理解できないというような否定が返ってきました。ともあれ、心は喜びに満ちていて、声も帰宅した頃には出るようになっていました。

「主はその愛するご自身の子を訓練される」(ヘブル 12:7,8意訳)とあるからのぉ。不思議なことをなさるお方じゃなぁ・・・。

そうそう!「声が出ない」「髪の毛が目から出てくる」という歓迎したくない状況の中で、不思議に喜びが湧きあがりうれしかったのは、罪ある身をそのまま愛してくださっている!ということだったんですね。
このような訓練を通じて、主はうるに「罪」というものを教えてくださいました。

 

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2020年9月 3日 (木)

主からの預言~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

初めてB教会の家庭集会に集った日、B1牧師の口を通じて、神がいかに安息を大切にしておられるかが聖書の旧約・新約を通じて語られました。主の安息の中で、私たちはみこころを行なうことができるのだということを、求道者の方々にもわかりやすく解き明かされていました。その説き明かしに、心を耕かされ、性質の違う羊が集っていても、誰も自分自身を主張することなく、群れが主にあって一つとなっていました。特に、うるにとっては、一番つらい時期に、まるでその場にいて見ていたかのように、刺さった言葉をそっと抜いて手当てするようなみことばの解き明かしがなされ、主イエスのもとに来て、安らぎを得たような心地がしました。

新約聖書の教会の中の「預言者」は、原語の意味するところは、「聖霊によって動かされる説教者、講解者」「聖霊によって満たされ、説教や教えによって神のみ旨とご計画を解き明かすように霊感を受けた者」である。
確かに、使徒の働きには、アガボという預言者が「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。」(使徒 21:11)と個人的なことを預言しているのだが、これは、主イエスが信仰ゆえに多くの苦しみを経て、私たちに信仰の模範を残されたことや、パウロが「この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』」(使徒 14:22)と弟子たちを教えていた聖書の言葉と合致する内容であり、確かに実現しているのである。

預言については、A教会で「預言」と言って語られた預言と、B教会で「預言」という言葉は全く使われずに語られた解き明かし、どちらも体験したので、よく理解できます。この期間に、B1牧師を通じて学んだことは、生涯忘れられない宝となっています。この期間に学んだ内容だけではなく、うるは、聖書をどのように読み解くかという一番大切なことをB1牧師の教えを通して、教わりました。心に流れてくるみことばについて、B1牧師は「(聖霊の)水は高いところから低いところに流れる」とよく言われていたことを覚えています。

「みだりに主の御名をとなえてはならない」(出エジプト 20:7)は十戒にある基本的な戒めじゃ。よく吟味できるよう、神を知ることが大事ということじゃな・・・。ふぉっふぉっふぉっ

 

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【参考】預言について(2020.6.15)
    新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

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2020年8月18日 (火)

和解と謝罪~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

当時、うるは、日本と韓国の歴史というものをほとんど知らなかったのですが、教会のメッセージで、戦争という状況下において、日本人が朝鮮に対して(当時のクリスチャンも加担して)なした(なさなかった)こと、韓国は多くの人たちがキリストを信じていること(ソウルでは1割になる)、謝罪の必要性と和解についてを聞いていました。
それから20年以上経ち、多方面からの情報を見るにつけ、そんなに単純なものでも一方的なものでもなかったことを知り、この時の「謝罪」という思いは、自分の思いだったのかと顧みたりしますが、そう思って動かなければ経験できなかった貴重な出来事が多々あるので、どういうことだったのだろうと時々不思議に思います。

神は、人の思いを超えられたお方じゃ。そして、全知全能の神は、いろいろなことを用いて、神を愛する者にとってはすべてを益としてくださるお方でもある。(「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
うるちゃんの「謝罪」という思いが、仮に人間的な思いだったとしても、そこから始まった旅がそのことによって自分も周囲も主にあって祝福されたのなら、決して否定することはない。
人が、心に深い感銘を受け、神の言葉だと信じた個人的な内容を、その状況もその人のことも全く知らない他の人間が判断するのは難しい。その人の後の歩みでできてくる実が、どこから来た言葉だったかを証明していくだろう。そして、時に、それは長い年月が経たなければ見えてこないこともある。
自分が何を語られたかということより、語られる神を見ていくこと、愛する神から目を離さないことが大事なことじゃ。

この旅を初めとして、それから、今まで和解というものの本質を学んできました。外面的なものではなく、奥の深さを。今も学びは継続中です。

神との和解を成し遂げてくださったキリストが模範じゃな。和解は受け取るも受け取らないも、選択は自由で、謝罪の心と赦す心、双方があって初めて成り立つことじゃ。キリストの赦しは、すべての人のためにあるが、悲しいことにすべての人が赦されるわけではない。十字架の奥義は深い・・・。

 

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2020年7月23日 (木)

預言の訓練?~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

預言の訓練というのは、とても不思議でした。神が主権を持たれ、語られるものだと思っていたからです。
聖書的根拠として、訓練の前に次のようなメッセージが語られていました。(当時のメモより)
「彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(Ⅰサムエル 19:20)→預言者のサムエルが監督者となって、ラマで預言者を集め(預言者の一団)、「預言者学校」を開いていた。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ 2:20)→預言してもらうと土台ができる。
「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ 4:14)→賜物を受けた後はヘルプが必要。
どうしたら、主の声を聞けるか?実践していくことである。なぜならば、羊は羊飼いの声を聞ける、だから誰でも主の声を聞ける。
そして、預言を受けたら、預言をもって霊歴戦いに行かなくてはならない。←「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」(Ⅰテモテ 1:18)

「神の声をききたい」という思いもいろいろあり、「神ご自身を知りたい」という神への渇望から思う人もいるだろうし、「神の声を聞き、一儲けしたい」というむさぼりが根底に隠れていても自分すらも気づかずに「神の声をききたい」と 思う人もいるだろう。
吟味も罪の取り扱いも悔い改めもなく、ただ神の声を聞こうということを始めるならば、そこには、混乱が待ち受けているだろう。聖書は、読み方や取り上げ方次第で、どのような教え方もできる書物だから、神をよく知ることが大切なことじゃ。神の愛をよく知ることじゃ。┐(´д`)┌ 

当時を改めて思い出し、当時からこの教えが長年かけてキリスト教界内に拡大していった様子に、語る側も聞く側も、双方、神をよく知り、キリストの律法(神を愛し、隣人を愛する)を全うしていかなくてはならないと、痛感しています。

 

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2020年7月17日 (金)

楽しい教会~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

A教会での交わりは、すごく楽しく、刺激があるものでした。100名以上の信徒がいるそこそこ大きい教会だったこともあり、孤立しがちな育児の時期でしたが、寂しいと思うことはなく、充実していました。だからこそ、居場所を失うことは、とても苦しいものでした。数年間は、12月19日が来るたびに、フラッシュバックのように、落ち込むことがありました。

「教会の交わりはすごく楽しく、熱くなる」カルト的な組織や異端と呼ばれている組織にいる方の口からも同じことをよく聞くのじゃが、それらは、主にあって大事なことではなく、むしろ、他の否定的なものを押し込めてしまい、内部に悪いことがあっても離れなくなる要因になっていく。
人をコントロールしようとすると、人は意識的に、または無意識的にも、飴と鞭を使い分けることがある。初めのうちは、教会や牧師に権威付けをし、依存させる性質を持たせるため、愛を降り注ぐ(「ラブ・シャワー」という)ことは、マインド・コントロールの手法でよく言われていることじゃ。その行為が、愛から出ているのか、別の目的から出ているのか、本当の愛というものは、そんなに簡単にはわからないものじゃ。主イエスが、十字架にかかられるまで、人間は、神の愛がわからなかったのだよ。

うーん、考えさせられますね。

キリストというお方は、本当の愛を求めている人には、人や組織から拒絶されたとしても、自ら探し出して、導いてくださるお方じゃ。イエスに癒された生まれつきの盲人だった人が、ユダヤ人たちから追い出された時に、見つけ出してくださったように(ヨハネ9:35)
そして、よい牧者は、信徒が何を求めているか、よく見て聴き取って、必要なお世話をするものじゃ。牧者というのは、「牧する」者じゃからな。また、よい牧者は信徒が平安に、自分の足で主イエスと共に歩めるように、キリストなる神のことを教え、神なるイエスを指し示し、その道に導き世話をする。そうでない牧者は、自分につけ、自分に依存させるように(不自由なもの)、導く。
「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)とあるとおりじゃ。
だからこそ、信徒は、牧師について愛をもってよく祈り、聖書と聖書の神をよく知り、見極め、相手が誰であってもキリストの愛に立った適切な行動をすることが大切なんじゃ。

ちょっとしたズレをそのままにしていると、だんだん大きくなって、いつか爆発する、そんな感じでした。主の栄光にならないような我慢はするもんじゃないですね!

カルト化というのは、指導者だけで成り立つものではなく、盲目的に信じる信徒と両者があって、できあがるものなんじゃ。双方が、しっかりと神にあって、悔い改め、方向転換することなしには、治まらない問題じゃ。

・・・はい、そのとおりですぅ

 

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2020年7月 8日 (水)

クリスマスについての考察~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

A教会ではクリスマスの日を祝わず、毎日がクリスマスだと教えられていました。しかし、クリスチャンなのにクリスマスに何もしないのは妙だということで、ある時から伝道集会をすることになったと記憶しています。牧師夫人にクリスマスを祝わない理由を尋ねると、「クリスマスはこの世の霊がもっとも働く」と答えられたことを覚えています。また、マンツーマンで教えていた宣教師の教え(クリスマスについての本を出版してもいました)によると思うのですが、下記の理由が語られていました。
・クリスマスはマリアとマリアに抱かれた赤子のイエスがクローズアップされ、力のない神という印象を与える。
・キリストの降誕は、実際12月25日とは異なる時期であった。間違った日に誕生を祝うのはおかしい。
・クリスマスの日は、異教の祭りの日であった。

クリスマスは、神の恵みを覚えて、家庭でお祝いしていました。

クリスマスは、古代ローマで太陽神ミトラスを祝う祭りの日だったということで、異議があるようだが、義なる太陽、まことの光であるイエス・キリストが密教の神から勝ち取った日だという見方もできる。
また、「神であられるのに、神の姿を捨てることができないとは考えないで、自分を無にして、しもべの姿をとって人間と同じ姿になられ、自分を低くして(へりくだって)、実に十字架の死にまでも従順に従われたのです」(ピリピ 2:6,7、新改訳、文語訳、詳訳参照)とある自分を無にした究極の姿が「赤子」という形であったのじゃ。実は、この無力こそが、神の力を流す管となる秘訣だったのじゃ。キリストは信じる者の模範となられた。クリスチャンは神の誕生日として祝っているように見えるが、それは、ただの誕生記念日ではないということじゃ。
今となっては、聖書に記されていず実際の期日を特定できない(神の計画のうち)この定着している記念の日をうやむやにしてしまう働きが、聖書の神から出たとは、考えにくいのだがのぉ。

聖書は深いですね。もっと聖書を深く知りたいと思いました。

 

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2020年6月30日 (火)

キリスト教は弱々しい? ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

「『私は罪人であり、さげすまれ非難中傷されるに値する者』それがイエス・キリストに従う者の道」とい言葉に反論する人々がいます。彼らは、「王の王、主の主であるキリストを信じて救われた時、神の子となったので、弱々しい卑下するような考えはふさわしくない。」「罪も信じた時に赦されたのだから、いつまでも罪人意識は必要ない。」と主張します。そのような人たちは、「私には罪がない」と言っています。

賜物を追い求め、自分が高くなって、混乱を招いているコリントの教会にパウロは、このように言っている。
「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」(Ⅰコリント 4:9-13)
「あらゆるもののかす」
とまで言っているんじゃ。また、「私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」(Ⅰコリント 4:16)とも言って、キリストの道を指し示しているのぉ・・・。これは卑下ではなく、神を知るゆえ出た行動を伴った言葉じゃ。
キリストにあって義と認められても、罪の性質がなくなったわけではない。「 私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ 1:15)と言ったパウロは、特別ではなく、罪をよく知っているゆえに心からそう言ったのじゃ。罪がわからないとしたら、神はもっとわからない。罪を知って、神の救いを受け、感謝と赦されている喜びの中にとどまっていようではないか。そうすることで、罪からも守られることになるのじゃ。

すっきりしました。


聖書がいう本当の強さは、何があっても耐え忍ぶことができる強さ、自分を無にし、主にすべてを委ね、何があっても動じない内面の強さじゃ。これは、主を信じているからこそ、できる強さじゃ。

 

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2020年6月23日 (火)

出席した聖会にて ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

この時、参加した聖会は、多くの教会が賛同して、超教派として開かれていましたが、気になることがありました。

気になることというのは?

   

この聖会の朝、主に癒されたことを確信したので、聖会中の「癒されたという方は壇のところに来てください。」という講師の招きに応じ、出ていきました。列に並んでいたところ、外国人スタッフの男性に聞かれるまま「高熱がでて、昨日肝炎だと診断されて救急車で運ばれていたのが、今朝癒されました。」と答えると、「Wow!」とすぐに壇上に上げられたのです。壇上では、講師がうるのところにやってきて、先ほどのスタッフが講師に耳打ちして説明すると、講師は興味なさそうにおでこをはじき、去っていってしまったので、うるは当惑しました(他の方には時間を割いていました)。
その後、講師は、「主イエスをほめよ」の讃美の中、会衆の人たちに手をつないで立って一緒に讃美するように言いました。講師の祈り(号令)で手をつないでいた人々がその場で次々に倒れていきました。手をつないでいたため、うるとへいわくんも意思とは関係なく引っ張られるように倒されていきました。横や後ろには、小さな子供もいましたが、引きずられるように倒され、泣き叫んでいました。
へいわくんは、「イエスさまは、小さな子供たちを大切になさる方だ」とつぶやき、この光景に違和感を覚えたようでした。
このような聖会の状況と高額な駐車場代金に多少の疲れを覚えましたが、主ご自身が癒してくださった喜びが強く、深追いはしませんでした。
が、翌年も同じ講師による聖会の開催が予定されていて、数か月前の阪神・淡路大震災を理由に講師のほうが直前に来日をキャンセルしてきたと聞いた時は、違和感が大きくなったことを覚えています。このような困窮している時こそ、イエスさまが必要なはずなのに、日本に重荷を持っているという講師がキャンセルとなるのは、違うのではないかと思いました。

いろいろなもっともらしい理由が付く場合もあるので、信じていると信じる対象をかばってしまいわからなくなっていくものだが、時が来ると、真理は明らかになっていくものじゃ。しっかりと神を知り、霊の目を磨くことじゃな。よいものはよいものとして受け取り、悪いものは反面教師としてしっかり学び、キリストの似姿に変えられていこうではないか!

 

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2020年6月22日 (月)

幼子の信仰 ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

うるは、「どちらにしましょうか、天の神様のいうとおり♪」の数え歌が、日本各地にいろいろなパターンで存在しいているように、些細などちらでもよい決められない事柄は自然に任せようというノリで、「〇〇だったらこちらへ、××だったらあちらへ」ということをしていました。聖書がわかってくるにつれ、聖書の神のことを考えて判断するので、必要がなくなったせいかしなくなりました。当時は、神を試すというより、神のみこころを知りたいという一心での行動でしたが、一部の方々には奇妙に映っていたかもしれないと思います。

「なんでもかんでも神に結びつける!これだから宗教は怖い!」と眉をひそめられた経験がある信仰者は多いだろう。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル 16:7)とあるように、神への思いが真剣であれば、神は喜んでご自身を現わしてくださり、それをさげすまれないお方じゃよ。

実際に言われたことはありませんでしたが、振り返ってみると、結構、危なっかしく見えるような歩みをしていたのかなと自分で思いますが、当の本人は神がともにいてくださるのがうれしくて楽しんでいました。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)結果よければ、すべてよしじゃ。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)とあるしな。それを踏まえた上で、聖書をよく知る成長した大人は、幼子がつまずかないように守り、正しい方向へ導く勤めを担っているのじゃな。

 

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