2021年1月 5日 (火)

信仰の父アブラムの無理のない信仰

「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女が、あなたの妻であることを、告げなかったのか」(創世記12:18)

カナンの地に入ったアブラムは、激しいききんに会い、そのききんを避けるために、エジプトに下った。
「あなたの子孫に、この地を与える」と言われた神を信じていたが、ききんを前に委ねて行動した。
その頃のエジプト人の行動を聞き及んでいただろうアブラムは、エジプト人は美しいサライを見て、自分の妻だと知ると、自分を殺すだろうと恐れた。
それで、サライに、自分の妹だと言うようにと、人間的な知恵を使った。
そうすれば自分は生き延びられると思ってのことだった。
幼い信仰の時のアブラムの姿だ。無理なく自然に神に従っている。

結果、サライはパロの宮廷に召し入れられた。サライが気にならなかったわけではないだろうが、他に方法がないように思っていた。
パロは、サライのゆえにアブラムを特別待遇とし、沢山の羊、牛、ろば、奴隷、らくだを与えた。
サライが妻だということは隠していてもいつかわかる時がくるかもしれないことである。
主は、アブラムを守るため、パロとその家をひどい災害に遭わせられた。

この神の介入によって、パロも真実を知り、アブラムを妻サライとすべての所有物とともに送り出したのであった。
アブラムは、ききんのためにエジプトに下ったことにより、かえって祝福を受け、非常に富み、カナンに戻ったのであった。

信仰の父アブラハムの初期の頃である。特別なことはしていない。
ただ、主を信じ、主に委ねて行動している。
エジプトに下る前と後に、アブラムは信仰により祭壇を築き礼拝をもしている。

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信仰は、特別なことを要求されるわけではない。
ただ、いつも主を信じ、自分を偽らず、自然体で主に向かうことである。
サライを妹だと言ったことを嘘だ、罪だとするなら、それを全くとがめず、かえってパロを痛めつけられた理由がたたず、聖書の恵みがわからなくなり、律法的な宗教の世界に陥る。
神は幼い信仰や人間の弱さを知っておられ、配慮されるお方である。
もちろん、人を欺き、傷つけるための偽り、偽証などは、十戒でも禁じられている立派な罪であるが、主は心を見られる。
無理せずに、主に聞き従おう。
信仰を育ててくださるのは神だ。信仰の父と呼ばれるアブラムの信仰に学び、ありのまま主に従おう。
わざわいのような時にも、主が豊かに祝福してくださる。

 

 

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2020年11月18日 (水)

同調心理について

 1994年5月 日比谷公会堂で行なわれた「東京福音クルセード」という福音派の聖会にピーターワグナーとシンディ・ジェイコブスが来日し、超教派の聖会が開かれた。あれから30年弱が経過し、「レストレーション(後の雨運動)、第三の波」「リバイバル運動」「吟味なき霊的現象の歓迎」「オカルト的な霊的現象」「使徒職の回復」「新使徒運動」を歓迎する教会の中で、カルト化が見られるようになっていき、珍しくないほどにカルト化のことばが聞かれるようになった。そのような運動の中で、「悪霊の追い出し」を強調し、「霊の戦い」を重要視し、「土地の聖め」が必要だという教えが起こり、「オリーブ油等での聖め」をする信者たちが起こり、「四隅に杭を打っての祈り」や「戦いの天使ミカエルを呼び出す祈り」をする人たちも出てきて、中には、病人や弱っている人への暴力的な悪霊追い出しをしたり、素手で体内から悪霊をつかみだすというパフォーマンスをする牧師・伝道師を語る人たちも見られるようになっていった。

 世界の国民性を語るジョークというものを聞いたことがあるだろうか。沈没する豪華客船から客を海に飛び込ませるために、船長が放つ言葉として、国民性をよく現わしているジョークである。アメリカ人はヒーローになりたがる性質、日本人は周囲の皆に合わせる性質などをジョークにしているのだが、日本人の多くには、「皆さん、そうしてますよ。」と言われると、安心してしまうような性質がある。これは悪いことではなく、和を大事にし、協調性を美徳とする性質でもある。また、いろいろ外国の文化を取り入れ、うまく日本流に融合させ、独自の文化に定着させていくような面にも表れている。それはそれで、よいところである。が、周囲に合わせるという性質が、聖書の福音となると話は別である。

 「使徒職」への認識の差によって「油注ぎによる絶対的な権威」というものが教えられ、神への軽視による「個人的な口当たりの良い預言」を神からのものとし、「オカルト的な要素による悪霊との戦いでの勝利」をも信じることで、一般社会では「ハラスメント」としか言いようのない言動を、時には自己流のみことば解釈を用いてまでも正当化していくことが見られるようになり、正統と呼ばれていた教会の内部に融合されていくことによって※1、居場所をなくしていく信者たちが出てきた。
※1 もちろん、融和しない教会もあったが、それはそれで意図せずに閉鎖的になり、少しでも関係した者にとっては落ち着けず足を運べなくなる。

 キリストの愛とかけ離れた異質な教えが教会の内部に浸透してしまい、罪を正当化していくことを繰り返していくと、結果として「罪に麻痺していく」ことになる。社会組織の中でのハラスメントは、加害者と被害者双方への配慮と心理的な対応を要する難しい問題であるが、キリスト教のカルト化にみられるハラスメントには、そこに、「神」という絶対的な権威が絡むので、より難しくなっている。キリスト教のカルト化には、神の愛に反し、聖書基準ではなく指導者の気分による「悔い改めのない罪の赦し、罪の容認」が必ず存在している。結果、聖書の言わんとしている神の愛がわからないまま、信徒は指導者依存になっていく。

Triangle 左の図は、米国の組織犯罪研究者ドナルド・R・クレッシ―教授が提唱した不正の仕組みに関する理論を一般化した「不正のトライアングル」をカルト化への移行時の例に当てはめた図である。
この理論では、不正の共通の背景として、下記の3つの条件が存在するとされている。
 ① 不正を犯す動機の存在(不正を働こうとする動機があること)
 ② 倫理観の欠如および不正の正当化(不正を犯す気があること、不正を正当化する理由があること)
 ③ 不正を犯す機会があること(対策が不十分で不正を犯すことが可能な状態にあること)

そのため、「動機」「正当化」「機会」この3つの条件を満たさないように、事前に予防するためのリスク管理と早期に発見できるようなリスクへの対応を整備・運用することが組織としての不正対応の基本となる。

 リスクというものは、意識していないと見えないものである。見ようとしなければ見えないのである。結果が出た後では、被害も大きくなる。結果として表れる前に対策を取り、予防するためには、意識をもってリスクに対するアンテナを広げ、必要な感性を高めていく必要がある。何がリスクであるかを知り、リスクに対する感度(センシティビティ)を高めることである。

 逆に、リスク感度が低くなる要因が「同調」と「服従」であると言われている。「同調」とは、根拠がはっきりしていないのに、周囲の人や集団の意見や態度に合わせ、同じ行動を取ろうとする心の動きである。初めは違っていると思っていても同調していくうちに、その人の中では本当になっていってしまう。←麻痺 もう一つの要因「服従」とは圧力のもとで、不本意ながらも相手の指示に従ってしまう心の動きである。服従していくうちに、何も考えなくなって、従うことが定着してしまい、ついには、社会悪であっても従うようになっていく。

 日本人の美徳である国民性が、裏目に出ることのないよう、キリスト教においても、神任せではない人間側にできる責任としてのリスク管理を心掛けるシステム作りが必要である。

 

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2020年10月21日 (水)

聖書の訳について

聖書には、さまざまな訳がある。日本語だけを見ても、協会が訳したもの、個人が訳したもの、いろいろ出版されている。
聖書の原典は、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はコイネーギリシャ語で書かれている。
原語が母国語のように理解できるのが一番であるが、原語はある程度は学べるだろうが、残念なことに一般人には読むこともできない言葉である。
聖書を用意しようとするなら、教会での聖書の読み合わせのために、属した教会で使用している訳を使うのが一番だろう。教会に行っていないならば、一般書店に売っていて、現代の言葉で書かれた読みやすいものならば、問題はないだろう。但し、一部の団体だけで使っているような訳もあるので(例えば異端の訳)注意が必要である。

もともとの原語は、奥が深い豊かな意味を持つこともあり、一つの訳だけでなく、比較して理解を深めるのがよい。
かつて行った教会では、戦前から受け継がれてきた文語訳を使用していて、これが一番だと言われていて、厳粛な気持ちになり、味わい深い響きではあったが、現代人や若者には意味が伝わりにくく、古典文学のようだった。
それでも、教会に合わせて文語訳に変えたほうが良いのか悩み祈った時、「聖書の訳でどれが一番だとか競うのは、愚かなことである。一番というならば、ヘブル語とコイネーギリシャ語で読まなければいけなくなる。それでは読めないし、頑張って読めたとしても意味が分からないだろう。スッと心に入り、神を知ることが一番大事である。」と心に響く言葉があった。人が言うことに合わせて変えたほうがよいかという悩みは消えたのであった。
そのため、「現存の聖書では訳がよくないので、聖霊や天使から新しい訳の聖書を作れという啓示があった」と言われて大金を集めているというようなことを聞くと、惑わしの言葉に聞こえてくる。
いくつかの訳が補い合っているので、現存の聖書で理解するのに十分である。
なによりも大切なことは、聖書の神をゆがめずによく知ることである。

 

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2020年10月19日 (月)

霊の戦いについて

「霊の戦い」と聞くと、カルト化教会を通った人にとっては、それだけで拒否反応が起こるほどに、カルト化しやすい分野である。
それは、「霊の戦い」を強調する、悪い霊に打ち勝てる自分を誇示する人たちの結ぶ実によるものである。

聖書は、始まりの創世記からサタンが出現し、そこから完成のクライマックスの黙示録に至るまで、霊(信仰)の戦いが描かれている。
キリストも使徒たちも、病に命じ、異なる霊に叱りつけ立ち去らせている。「サタンよ、出ていけ!」「病よ、いやされよ!」「嵐よ、静まれ!」と命じることは聖書に書かれている行動なのである(マタイ4:10, マルコ1:25, 3:15, 5:8, 6:7, ルカ4:35, 8:29, 使徒16:18など)(マタイ 8:3, マルコ 9:25, ルカ 5:13)(ルカ 8:24-25)。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ 16:17,18)」
ともある。
では、どうしてキリスト教界内でも意見が分かれる問題となっているのか。

・霊の存在を信じない不信者にとっては、奇異に見える行為である。
・目に見えないことなので、本当に命じたことによるものなのかという証明ができない(たとえ、そのとおりのことが起こったとしてもいろいろな理由付けで否定できる信仰の世界の出来事である)。
   偶然だろう、思い込みだろう、人によるトリックだ・・・等
・命じている人たちのふるまい方
   自分がなした功績のようにふるまう、言動がキリストと同等になったかのように自分に権威付けしてしまう、他のクリスチャンとの差別化がある・・・等
・必要を見分けることなく、何でもかんでも命じてしまう。「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20:7)(しっかりとした聖書教育がなされずに実践している。)
   病人には誰にでも、自分に対して否定的な意見は悪霊の仕業にしてしまう・・・等
・キリストなる神よりも悪霊、サタンに目が行ってしまうことになる。

危ないからやめてしまうというのも、聖書的解決ではない。

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人をつまずかせないよう注意を払い、心の高慢に陥らないよう、キリストを見上げて、信仰の戦いをしていこう。神から出たか他から出た行為かは、誰の目にもはっきりとわかる時が来る。神を恐れつつ、神が導く人に仕えていこう。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」(マタイ 15:13,14)

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。・・・」(マルコ 9:38-42)

 

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2020年10月15日 (木)

消えたい思い

救いを求めて神のもとに来たはずなのに、クリスチャンになってうつ病になるという現象をみる。
心療内科や病院に行ったなら、「宗教をやめれば治るんだけどね」と言われたことがあると聞く。
なぜ、神の愛を説くキリスト教会でそのようなことが起こるのだろうか。

消えたいという思いはどこからきたか?
自分のいる場所から存在を消したい、消えてしまいたい、居場所がない、そういう様々な思いがあり、なぜそういう思いになったかは、人それぞれで、掘り下げて耳を傾けなければ本質はわからない。
いずれにしても、消えたいということは、その人にとって「その場からいなくなりたい」と思ってしまう要因が何かしらあるのだろう。
教会を訪れる人は、生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち、そういった要因によって培われてきたものを抱えて、主のもとにくるわけである。
それらは、クリスチャンになったからといって、変わるわけではない。キリストを知って、「生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち・・・」も主の計画があったことを知って、有益なものに変えられるのが理想である。
「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語り続けてくださっている主を知り、消えたい思いはなくなっていく。
ところが、互いの間に神の愛があるはずの主の集いの中で、福音は正しくても、偏見や疑いがあるとしたら、人前ではいくら言葉にしてなくとも、目は口ほどに物をいうというように、思いは伝わってしまうことだろう。
そうならないためにも、主の教会には、偽りのない交わり、キリストの愛を中心にしたコミュニケーションは欠かせない。
あなたを知りたいと思うことなしにキリストの愛の実践はない。言葉での確認、互いのコミュニケーションは大切である。

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否定的な思いは時に苦しみを招くが、それが自己防衛本能からくる思いだと気付いたならば、本能を与えてくださり、気付かせてくださった神に感謝しよう。気付きから、見えてくるものがある。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28) と言われたキリストは、私たちに安息を与え、平安と喜びで満たしてくださるお方である。あなたの仕えているキリストはどのキリストだろうか? 人の姿をとってこの世に来られるほどに私たちを愛してくださっているキリストか? 奴隷のように支配するキリストか? 聖書の神を正しく知っていこう。

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2020年9月 8日 (火)

異言についての考察2~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

B教会のB主任牧師が異言を異常と思えるほどに嫌っているのには、理由があることが最近になってわかりました。
先代のB0牧師は、日本のキリスト教界の重鎮の弟子の一人でしたが、そのB0牧師のメッセージ集を読む機会があり、Ⅰコリント14章からの異言についてのメッセージが記載されているのが目に留まりました。
どこの団体(教会)かを特定することが目的ではないため、引用を記すことができないことが残念ですが、大筋では大変すばらしいメッセージが書かれていましたが、異言については、こればかりは体験しないと理解できないもののため、聞く人にも何を言っているのかはっきりとわかる言葉でなければいけない、分かる言葉でないならば教会では黙さないといけないという内容が書かれていました。そして、実際の2つのケースが書かれていました。
一つは、奉仕に行った先の地方の教会の隣の店の上階で異言派の集会が開かれていて、不統一に大きな声を出して夢中になっているのが外まで聞こえ、気違いの集まりだった、という自身が見た内容でした。
もう1つは、D教会(偶然にも後にうるが行った教会)に行ったという人から聞いた話でした。異言を求めてD教会に行ったその人は、どうしても異言を語れなかったところ、そこにいた一人の朝鮮の人が、朝鮮語で祈り始めた、するとその教会の先生が「あっ異言を語り出した、聖霊のバプテスマを受けたのです」と言った、それでインチキだと言ってD教会を退いたというので、このようなところもあるのだと知っておいてほしいという内容で、人づてに聞いたのか、インチキだと言って出てきた人に聞いたのか、どのような人に聞いたのかは、書籍には書かれていませんでした。
この異常な体験談が語り継がれ、不要な恐れを代々にわたって抱かせ、力で封じるか、ないものとして扱うかしか対応しきれなかったのだと思いました。

   

「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)キリストを信じる者に初めて聖霊が注がれた場面じゃが、確かに「他国のことばで」とあり、いろいろな国の人がいるところで、自分の国のことばで語るのが聞けた現象じゃった。が、理解できない言葉はなかったとは記されてはいない。「人の異言や、御使いの異言」(Ⅰコリント 13:1)と聖書にあるように、人の言葉ではない異言もあるのじゃ。旧約聖書にも、ダニエルしか解き明かせなかった神からの手が書いた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(ダニエル 5:25)という言葉が記されているぞ。それゆえ、人の原語に限定するのは、おかしなことじゃ。
また、「ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。』と言ってあざける者たちもいた。」(使徒 2:13)とあるように、陶酔しているような状況が見られたのは、聖書に書かれていることじゃ。その時の状況で「他国のことば」で理解できる人がいたのは、神の配慮のしるしであった。聖霊に満たされた全員がわけのわからない言葉で、陶酔していたら、それこそ、初めから不要な分裂を招いたのではないかな。
「炎のような分かれた舌が現われて・・・」というのは、制御できない舌というのを思い出す現象じゃ。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)。 「異言」のギリシャ原語は、Grgrw (舌)である。制御できない舌を持つのが人間で、何をどう祈ったらよいのかもわからない時にも、舌をゆだねて、ぐじゃぐじゃした思いを神に向け祈ると、不思議に神を身近に感じることができる、聖書の聖い「異言」はそのような面を持つ賜物じゃ。神を身近に感じ、陶酔していくこともありうるだろう。陶酔していても、トリップしているわけではなく、意識はきちんとしているのであり、人をつまずかせないように賜物を管理するのは、各自の責任である。Ⅰコリント 14:2でパウロも、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」と言っているじゃろう?
ただ、ひけらかすように祈ったり、聖い者になったかのようにふるまうのは、認識が違っていると言える。神からの体験は、聖さとはまた別の神の目的がある現象じゃ。
これは異言ではないのじゃが、神の霊が下っての満たしという面では同じということで例に挙げるが、サウルは、神の霊が下り、高揚して預言を語り王となった(Ⅰサムエル 10:10-13)のだが、ダビデを殺そうと追っかけて行った先でも、神の霊が臨み、預言をしながら歩いてサムエルのところに行き、一昼夜の間、サムエルの前で預言し、裸のまま倒れていた(Ⅰサムエル 19:23,24)とあるのじゃ。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とあるが、体験なしに信じることができるならば、それはそれで、幸いなことじゃ。そして、体験したなら、その管理は受けた側に責任が発生することを覚え、神への恐れを失うことなく、神と人を愛し、神とともに賜物を用いて仕えていこうではないか!

うるは、いろいろ考えてしまって、疑いも起こるので、体験していなかったならば、信じ続けることができたかどうか・・・、主がご自身を現わしてくださったので、聖書が事実だと知ったのです。体験がなかったら、聖書を読んでも、いい話だったなで、いろいろあった時にしぼんでいたかもしれません。主はその人に応じた導かれ方をなさるのだなと思うと、感謝がわきます💛

 

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【参考】異言についての考察1~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.5.4)

 

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2020年9月 4日 (金)

目の梁~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

 B教会でのクリスマスを前に、ハンドベルの練習をしていた時のことなんですけれど、テーブルに乗って遊んでいる男の子をクリスチャンである母親のAさんが注意せず、遊ばせていました。
Aさんは、自分の息子について日頃、「かわいくて、叱ることなんてできないわ」と言っておられました。テーブルの上で遊ばせている光景を見て、一緒に練習していた求道者のBさんが怪訝そうな顔をしてたのが目に入りました。Bさんはしつけにはきちんとされている方でした。
「小さな子のこと、そんな顔をして、さばかなくてもいいじゃない。」そう思った瞬間、目に異物感を感じました。
急に目にまつげが入ったような感覚を覚え、洗面所に行ってみると、まつげのようなものが入っているのが見えました。取ろうとしましたがなかなか取れず、痛さに耐えられず、すぐに家に帰りました。
帰宅し、苦労して引っ張って取ってみると、ずるずると30cmほどのうるの髪の毛が出てきたのです。どうやって入り、どこにどう入っていたのかわからない不思議な体験でした。この特異な体験に、主に目を向けると、「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」(ルカ 6:41,42)のみことばとともに、うるの思いが目のはりだと知らされたのでした。Bさんは、子どものしつけにおいて、正しく感じていただけでした。「さばかなくてもいいじゃない。」と言いつつ人をさばいていたのは、Bさんではなく、私情をはさんで、お世話になっているというフィルターで甘く見ていたうるのほうだったのでした。
このようなことを通じて、正しくさばき治めることは、人間関係において大切なことでもあるということ、視点によって見え方はいろいろ変わるということを主からの実地教育で学べました。

・・・(しみじみうなずいている)

 主の実地教育は、これが2回目でした。1度目は、A教会にいるとき、口を閉ざされたという経験をしたことがあります。みことばを使って、みこころだからやるべきだとよく言ってくるクリスチャンの友人Cさんがいて、それを受け入れて行動すると、言い出しっぺのCさんはいろいろ理由をつけていなくなって、うるにはちょっとした問題が残るということが度々ありました。大好きな友人ではあったけれども、そういうことがあると、同じ経験と思いを持つクリスチャンの 友人Dさんと、ついつぶやき合ったりしていました。つぶやきはよくないという気持ちはあったのですが、 Dさんと一緒にいると、ついその話題になってしまっていました。
そんなある日の祈りの中、主の十字架が鮮やかにせまった時があり、言葉の罪に焦点が当たり、うるの罪がイエス様を十字架につけたのだと悔い改めに導かれ、十字架が自分のものとなったという経験をしました。十字架の場面にいて、当時の権力者たちに聞かれたならば、「イエスさまは、自分が神の子だと言っていたよ。」と事実かもしれないが、悪気なく不利なことを言いかねない自分に気づかされました。
そういう十字架体験をし、Dさんと電車で待ち合わせをした時のことでした。直前にあった出来事から、また、つぶやきになりそうに思えたので、電車が見えた時に、「主よ、Cさんについての話になりそうです。主が好まれない話題はしたくないです。どうか、この口を閉ざしてください。」と祈りました。電車に乗って、Dさんに会って挨拶しようとすると、声が全く出なくなっていたのです(電車に乗る前までは普通に出ていた)。声が出ないという見ようによってはさばきのようにも思われそうな状況ですが、心には喜びが湧き上がっていました。
後にも先にも、風邪をひいても声が出なくなるという経験は、この時だけです。主が祈りを聞かれ、罪から引き上げるための実地教育をなしてくださった!という喜びが大きく、教会に着き、十字架の恵みとそれゆえに声が出ないことをA牧師夫人に伝えると、理解できないというような否定が返ってきました。ともあれ、心は喜びに満ちていて、声も帰宅した頃には出るようになっていました。

「主はその愛するご自身の子を訓練される」(ヘブル 12:7,8意訳)とあるからのぉ。不思議なことをなさるお方じゃなぁ・・・。

そうそう!「声が出ない」「髪の毛が目から出てくる」という歓迎したくない状況の中で、不思議に喜びが湧きあがりうれしかったのは、罪ある身をそのまま愛してくださっている!ということだったんですね。
このような訓練を通じて、主はうるに「罪」というものを教えてくださいました。

 

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2020年9月 3日 (木)

主からの預言~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

初めてB教会の家庭集会に集った日、B1牧師の口を通じて、神がいかに安息を大切にしておられるかが聖書の旧約・新約を通じて語られました。主の安息の中で、私たちはみこころを行なうことができるのだということを、求道者の方々にもわかりやすく解き明かされていました。その説き明かしに、心を耕かされ、性質の違う羊が集っていても、誰も自分自身を主張することなく、群れが主にあって一つとなっていました。特に、うるにとっては、一番つらい時期に、まるでその場にいて見ていたかのように、刺さった言葉をそっと抜いて手当てするようなみことばの解き明かしがなされ、主イエスのもとに来て、安らぎを得たような心地がしました。

新約聖書の教会の中の「預言者」は、原語の意味するところは、「聖霊によって動かされる説教者、講解者」「聖霊によって満たされ、説教や教えによって神のみ旨とご計画を解き明かすように霊感を受けた者」である。
確かに、使徒の働きには、アガボという預言者が「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。」(使徒 21:11)と個人的なことを預言しているのだが、これは、主イエスが信仰ゆえに多くの苦しみを経て、私たちに信仰の模範を残されたことや、パウロが「この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』」(使徒 14:22)と弟子たちを教えていた聖書の言葉と合致する内容であり、確かに実現しているのである。

預言については、A教会で「預言」と言って語られた預言と、B教会で「預言」という言葉は全く使われずに語られた解き明かし、どちらも体験したので、よく理解できます。この期間に、B1牧師を通じて学んだことは、生涯忘れられない宝となっています。この期間に学んだ内容だけではなく、うるは、聖書をどのように読み解くかという一番大切なことをB1牧師の教えを通して、教わりました。心に流れてくるみことばについて、B1牧師は「(聖霊の)水は高いところから低いところに流れる」とよく言われていたことを覚えています。

「みだりに主の御名をとなえてはならない」(出エジプト 20:7)は十戒にある基本的な戒めじゃ。よく吟味できるよう、神を知ることが大事ということじゃな・・・。ふぉっふぉっふぉっ

 

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【参考】預言について(2020.6.15)
    新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

 

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2020年8月18日 (火)

和解と謝罪~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

当時、うるは、日本と韓国の歴史というものをほとんど知らなかったのですが、教会のメッセージで、戦争という状況下において、日本人が朝鮮に対して(当時のクリスチャンも加担して)なした(なさなかった)こと、韓国は多くの人たちがキリストを信じていること(ソウルでは1割になる)、謝罪の必要性と和解についてを聞いていました。
それから20年以上経ち、多方面からの情報を見るにつけ、そんなに単純なものでも一方的なものでもなかったことを知り、この時の「謝罪」という思いは、自分の思いだったのかと顧みたりしますが、そう思って動かなければ経験できなかった貴重な出来事が多々あるので、どういうことだったのだろうと時々不思議に思います。

神は、人の思いを超えられたお方じゃ。そして、全知全能の神は、いろいろなことを用いて、神を愛する者にとってはすべてを益としてくださるお方でもある。(「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
うるちゃんの「謝罪」という思いが、仮に人間的な思いだったとしても、そこから始まった旅がそのことによって自分も周囲も主にあって祝福されたのなら、決して否定することはない。
人が、心に深い感銘を受け、神の言葉だと信じた個人的な内容を、その状況もその人のことも全く知らない他の人間が判断するのは難しい。その人の後の歩みでできてくる実が、どこから来た言葉だったかを証明していくだろう。そして、時に、それは長い年月が経たなければ見えてこないこともある。
自分が何を語られたかということより、語られる神を見ていくこと、愛する神から目を離さないことが大事なことじゃ。

この旅を初めとして、それから、今まで和解というものの本質を学んできました。外面的なものではなく、奥の深さを。今も学びは継続中です。

神との和解を成し遂げてくださったキリストが模範じゃな。和解は受け取るも受け取らないも、選択は自由で、謝罪の心と赦す心、双方があって初めて成り立つことじゃ。キリストの赦しは、すべての人のためにあるが、悲しいことにすべての人が赦されるわけではない。十字架の奥義は深い・・・。

 

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2020年7月23日 (木)

預言の訓練?~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   

預言の訓練というのは、とても不思議でした。神が主権を持たれ、語られるものだと思っていたからです。
聖書的根拠として、訓練の前に次のようなメッセージが語られていました。(当時のメモより)
「彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(Ⅰサムエル 19:20)→預言者のサムエルが監督者となって、ラマで預言者を集め(預言者の一団)、「預言者学校」を開いていた。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ 2:20)→預言してもらうと土台ができる。
「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ 4:14)→賜物を受けた後はヘルプが必要。
どうしたら、主の声を聞けるか?実践していくことである。なぜならば、羊は羊飼いの声を聞ける、だから誰でも主の声を聞ける。
そして、預言を受けたら、預言をもって霊歴戦いに行かなくてはならない。←「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」(Ⅰテモテ 1:18)

「神の声をききたい」という思いもいろいろあり、「神ご自身を知りたい」という神への渇望から思う人もいるだろうし、「神の声を聞き、一儲けしたい」というむさぼりが根底に隠れていても自分すらも気づかずに「神の声をききたい」と 思う人もいるだろう。
吟味も罪の取り扱いも悔い改めもなく、ただ神の声を聞こうということを始めるならば、そこには、混乱が待ち受けているだろう。聖書は、読み方や取り上げ方次第で、どのような教え方もできる書物だから、神をよく知ることが大切なことじゃ。神の愛をよく知ることじゃ。┐(´д`)┌ 

当時を改めて思い出し、当時からこの教えが長年かけてキリスト教界内に拡大していった様子に、語る側も聞く側も、双方、神をよく知り、キリストの律法(神を愛し、隣人を愛する)を全うしていかなくてはならないと、痛感しています。

 

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