2020年5月14日 (木)

様々なメッセンジャーについて~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

この教会では、国内外からいろいろな教師が招かれていました。時には、偶然とは思えないような内面で不思議なことが起こり、心身が癒される経験もしました。
が、この後、使徒とか預言とかを強調する流れとなっていき、聖書のみことばと違うことを言っていると思うことが増え、今後の教会の動きに影響を与えていったのですが、このような状態の教会で受けた恵みは、どう捉えたらよいのでしょうか?
とかく「伝道」に主体を置いている教会では、様々な外部のメッセンジャーを呼ぶことが多い傾向にあるようじゃ。
面識のない他のメッセンジャーに頼らず、地道に地域に仕えている教会も存在するが、そういったところは、大きく宣伝していないためか、野に咲く花のようによく見ないと目立たないようじゃ。
多様なメッセンジャーからの話を聞けることは、モチベーションを高める刺激となり、活性化につながるというよい面がある。しかしじゃ、それが本来の聖書に即した内容から逸脱していなければの話である。
へりくだった心で神に真剣に祈って受け、信仰の助けになったならば、どこで受けたとしても、恵みとして受け取ればよい。
神は、どのような場所においても、どのような人を用いても、みこころを成し遂げられるお方じゃ。民数記22章28節ではロバの口を開かれ、Ⅰサムエル28章14-19節ではサウルの要請に応じた霊媒師を通してサムエルを送って真実を告げ、使徒の働きではパウロのいるところどこででも、たとえそれが牢獄であっても、ご自身を現わす奇跡を行なわれたのじゃ。
重要なのは、受けとった側がどのような心で、どのような信仰で願い求め、主がどのように答えてくださったか。それは聖書に合致している神か、ということじゃろう。
どこでとか誰からとかというのではなく、自分側の吟味が大切ということですね。

 

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2020年5月12日 (火)

伝道について

「伝道することとは,人々がキリスト・イエスによって神に信頼を置くように,また彼らの救い主として彼を受け入れるように,そして,彼の教会の交わりにおいて彼らの王として彼に仕えるように,聖霊の力によってキリスト・イエスを提示することである」(新キリスト教辞典より)

 異端で知られているとある団体では、聖書を引用して、2人ペアで各家庭を訪問して、その団体特有の聖書勉強会につなげている。

2人組というのは、マルコ6章7節、ルカ10章1節で、イエスさまが12弟子を世に遣わすときに用いられたスタイルである。
それを言葉通りに忠実に実行しているわけである。
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:9-12)とあるように、ふたりというのは知恵でもある。

但し、そのやり方を実行することによって、イエス・キリストが伝えられれば、である。 

みことばにあるから、聖書のことばを伝えているから、と同じことをただ真似しても、心の内が異なっていたなら、キリスト・イエスは伝わらない。 みことばは、律法の掟ではない。恵みとしてとらえた時に、神なるキリストが輝きを放つ。

「私は100人以上の人を救った。あなたは何人救った?」と聞かれたことがある。その人は、もともとコミュニケーション能力にたけている方だった。間違ってはいけない。神は、ロバの口を用いても(民数記2:28)、みこころをなされる方である。人が救われるのは、ご聖霊の働きであり、私たちはなすべきことをするだけである。
そして、どれだけ多くの人を救ったとしても、「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)ともみことばにあるが、重要なのは、後にどのような実が残るかである。

 人によって得意不得意は異なる。不得意なやり方を強要されるお方ではない。友なるキリストを紹介したい、伝えたいという思いをもって、自分に合ったスタイルで機会を用いて伝えればよいのである。
やり方によっては、キリスト・イエスではなく、伝道している自分を伝えていて、さらに、時代にそぐわないやり方次第では、伝道の妨げにもなりうるのである。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)とあるように、一番の伝道は「愛」であり、「愛」がなければ、本来のキリストは伝わらず、妨げにすらなってしまうのである。

キリストなる神を正しく知り、主の愛に立って、機会を用いて伝えていこう。祈りつつ種をまけば、ご聖霊が働いてくださる時が来る!

 

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2020年5月11日 (月)

愛と束縛 ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

「教会に置いてある書籍以外は、あまり読んではいけない」と言われた時、不自由さを感じ、もやもやしました。指示された本棚にはそんなに多くの本はなく、何故だろうと思いました。
また、引っ越して庭がなくなったため、トールペイントで作った子供型の花台を誰かにもらってもらおうと申し出たら、「これは偶像だから置けない」と言われ、「え~?キャラクター化した子供を板に描いてくり抜いただけの置物も『偶像』なの??」とびっくりしました。
読む本を規制することは、異端などマインドコントロールにもつながる手法にもみられるのだが、まだよく理解していない信徒を守りたいという愛情によっても出てくるだろうなぁ。それがどういったことに起因して発せられた言葉なのかは、互いによくコミュニケーションをとって、また聖書のみことばに照らし、消化つつ、キリストの交わりを守っていく必要があるじゃろう。
また、どのような物でも、偶像かどうか判断するには、背景や作った側の思いをよく聞いて判断すべきことじゃろう。
いずれにしても、つまずかせることはよいことではないのう。まず、相手を知りたい(愛したい)というコミュニケーションが大切じゃ。
何故かということを聞ける交わりを作って、互いに信じあえる関係作りが大切ですね。

 

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2020年5月 4日 (月)

異言についての考察1

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

初めて聞く言葉だった「異言」について、聖書に書かれていることを聞いただけなのに、いろいろ否定的な言葉が返ってきたのは、なぜなのでしょうか?
「異言」については、いろいろな立場や神学的な見解があり、注意が必要な項目となっているなぁ。それは、思いつくだけじゃが、下記のような要因が考えられる。
 ・「異言」の現象が傍観者からは奇異に見える
 ・体験に依存して未経験者を見下して暴走してしまう人たちの存在
 ・霊的な現象のため、理解できない人たちの存在はあって当然なのだが、その人たちへの配慮がなされないことがある
 ・霊的に見える現象がすべて神からとは限らないため
神からの体験は喜びの出来事なのに、その中で注意が必要というのは、不自由じゃないですか?
「配慮しなければならない」と掟(律法)として実行しようとすると、不自由なことじゃが、お互いに愛に根差して行動するならば、必ず、真理への一致に到達できる恵みの事柄なのじゃ。
お互いにキリストの愛に根差して行動するならば、物理的には離れたとしても分裂し続けていることなく一枚岩の教会となるじゃろう。
そうなんですね! キリストの中での成長に応じて、愛することを学ばされます。
「異言」については、またの機会に詳しく。

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2020年4月 3日 (金)

信仰告白について ~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

既に、家でトラクトに書いてあった通りに、イエス様を受け入れ信じる祈りをしていたのですが、教会の婦人会に行った時に話した後、そこにいた方たちが手を置いて祈ってくださいました。
牧師夫人に「私の後について言葉の通りに祈るように」と言われ、再び信じますという告白の祈りをしました。
牧師夫人が「今日、あなたはこの場でイエス・キリストを受け入れました。・・・」というようなことを言われたときに、既に信じていたつもりだったので、少し違うような気がしましたが、喜びのほうが強かったこともあり、まあいいかと思いました。
この場合、信じた日は、家で受け入れた日でしょうか? 牧師夫人が言われた教会で告白した日でしょうか?
このケースの場合、もちろん、家で受け入れた日じゃ。真剣に祈り受け入れた日であり、キリストと共に生きる決意をし、祈った日だからなぁ。
家で信じて受け入れた日でいいのですね。実は、疑問があって、後に尋ねてみたことがあって、その時に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)を根拠に「公に口で告白して救われる」のだと言われ、そんなものかなと流したことがありました。
ローマ人への手紙のこの個所の前後をよく理解していれば、適用の間違いがわかるだろう。この個所は、「神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ 10:3)神の民であったイスラエルに対して弟子たちを教えるために語られている言葉である。注意して読んでいけば、「信じる人はみな義と認められる」(ローマ 10:4)ということを教えるために語られた言葉だとわかるじゃろう。
「公に」と付け加えているが、教会の権威に縛ることにつながっていくので、注意が必要じゃな。だいいち、口で告白できない人も世の中にはいるのだから、文字通りではなく、聖書全体と神を知り神が意図する意味を判別することが大切な個所じゃな。
律法に生きるか、信仰に生きるかということは、キリストが戦われた最大の事柄じゃな、ふぉっふぉっふぉっ。
ありがとうございました!

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2020年4月 2日 (木)

体験からの信仰

体験から入った信仰であっても、みことばだけで信じた信仰だったとしても、イエス・キリストを神として信じたならば、そこに優劣はない。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とイエスがトマスに言われているが、体験なしで信じれらるのは、すごい事だと思う。

が、体験しないと信じることができない弱さがある人間に、キリストはご自身を現わしてくださるお方でもある。
祈りがきかれた、霊的な不思議な体験をした、癒しを受けた・・・
体験は、信仰を強め、確信を持たせてくれるが、キリストでなくても、体験はできる。
人間的な思い込み、妄想ということもありうる。

それが、キリストかどうかという判別は、聖書に照らしてどうか、どのような実を結んでいるかに尽きる。
明らかにキリストとは違う実を結んでいるならば、それがどのように不思議なことであったとしても、その時その人の心が高揚していたとしても、イエス・キリストという名を使っていたとしても、聖書に現わされている神「イエス・キリスト」ではない。
が、オカルト的なものを見るあまりに、奇跡・癒し・不思議だからという理由ですべてを否定することもまた間違いであり、分裂の原因となる。
見分けるには、聖書の神を知ることである。知らずしては、異なる道に進んでしまう。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ 24:4,5)

あなたが経験した体験が、キリストの愛に立ち、キリストの似姿に通じる実を結ぶものでありますように! 

 

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2020年3月 5日 (木)

カルト化は社会問題

ハラスメントやいじめは、被害者にとっては心に刻み込まれる出来事ですが、人の心がよくわかっていない加害者によっては、記憶の彼方に葬り去り覚えてもいない出来事になっていることがあります。
これは些細な出来事だったから、というわけではありません。

いくら対話しても気付こうとしない加害者に対しては、社会的な対応をしつつ、被害者が出来ることは、これ以上の被害を受けないためにも法の裁きと神のさばきに委ねることです。
聖書が語る神は、公正に悪をさばかれるお方です。
神のさばきは、すべての人が神(神は愛である)を知るようになるという目的を持ったものです。
委ねようとしても、行き場のない苦しみがあるかもしれません。
そのことも、神はご存知です。
神だと思って違う方向を見ている被害者に対しては、神はあらゆる事を通して気付くのを待たれます。
初めに植え付けられた神知識は、誤っていても気づかないこともあり、一人では整理し切ることはできません。
完全な人はいないからです。
必ず主観が入ります。
独りよがりのまま、もしくは他の偏った知識で突っ走る事は、新たなカルトに向かうことになり、かつての被害者が、気付かないまま加害者になったり、異端的な違う宗教を産み出したりということだってあり得る行為です。

ここにカルト化対応の複雑さがあります。
誤ったアプローチによっては、カルト対策をしていたつもりで、拡散に協力していたということになりかねないということも絡んできます。

社会では、ようやく犯罪被害者支援が浸透してきましたが、キリスト教カルト化の被害者視点に立った支援はまだまだという状態です。
宗教という閉ざされた中だけでは、解決しない社会問題です。
弱っている時にやってくる「オレ神詐欺」は、すぐ隣にある問題です。

「オレ神詐欺」への正しい認識を持ち、被害を受けた人の置かれた苦しみを理解し、誰しもが安心して頼れる開かれたキリスト教会が増えることを願っています。

 

 

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2019年3月15日 (金)

理不尽さへの怒りがある時は

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ 18:7)

ひとりのやもめが、ある裁判官のとかろにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていたとある。
やもめは、立場が弱かった。そのやもめが、たよった相手は、「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であった。
そのような裁判官であっても、あきらめずにやってくるやもめのために、裁判をしてやることにしたのであった。
「うるさくてしかたがないから」という理由からであったが、「許せ」ととりあわなかったり、軽くあしらったりしたわけではなく、法律によって裁くことにしたのである。

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寂しい思いを抱いていて、理不尽な出来事の中、傷の中で怒りを抱え込み、閉じこもっていないか?
私たち罪人の怒りを身に受け、十字架にかかって救いの道を開いてくださった主は、裁判官とは比較にならないお方である。
その主があなたを愛し、共にいてくださっているのだ。
怒りを隠し、悟っているかのように心を冷めさせ、封じ込め、心身を病ませてはいないだろうか。
人の罪は自他に傷を与える。罪の取り扱いは、決して軽いものではない。
神の法律によって裁かれる。
神の法律は、「神である主を愛し、隣人を愛する」に集約される法である。
原罪を持つ私たち人間は、自らの罪にも気づかないものである。
人の言動に怒りを覚えた時は、怒りを隠したり、逆に爆発させたり、適切ではない方法で他に向けたりすることを止め、主の前に持ち出そう。

例え、激しい怒りを主にぶつけることになったとしても、十字架にかかられ、罪を受け止め、救いの道を開いてくださり、今も生きておられる主イエスは、その怒りを受け止め、正しく導いてくださる。

聖書は、私たちに道を示している。
主を頼る私たちに、主は必ず応え、今は理不尽に思えるような事柄をも正しく裁いてくださる。
人にはできないことを、主はなされる。
他からきた罪により、寂しく理不尽な怒りを抱えている時、あわれみ深い主の存在に気付けますように。

 

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2019年2月18日 (月)

哀歌

今週の礼拝は、哀歌の最終章でした。5章と短い書で、聖書の中でももっとも暗く、好んで読もうとならない詩のように思うかもしれません。
5週に渡り読み説くと、根深い人間の罪とそのかたくなな性質、神の義なる正しさ、信じる者への変わらない愛と希望がみてとれます。
時代が変わって環境が変わっても、人間の罪は変わらず、歴史は繰り返されているように感じられました。

世が移ろっても、神は不変だと思わされる書でした。

暗い書の中に輝く不変なる神の光、神を愛し信じる者たちへの希望、哀歌は暗い時代への励ましの書です。

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2018年11月19日 (月)

『さばく力-争いの仲裁-』Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節

『さばく力-争いの仲裁-』 Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節(新改訳聖書使用)

罪の容認

 党派、不道徳、訴訟、偶像にささげられた肉、主の晩餐の濫用、偽使徒、結婚の諸問題、集会における無秩序な行為、教会における婦人の位置、復活に関する異端・・・、交通の要所であったコリントの町は、いろいろな人種が入り混じっていたために、教会内にもいろいろな問題が起こっていた。商業貿易の中心であったコリントは、邪悪かつ不道徳な町として有名であり、コリントという語が、堕落と同義語にさえなっているほどの不品行の町であったらしい。性的にも放縦に暮らしていたコリント人たちは、このような土壌、環境のもと、救われた後もこの習慣をきっぱり断ち切ることができない者が教会内部にもいた。教会の中で、継母を妻にしたという不品行の罪がパウロの耳に届いた(Ⅰコリント 5:1)。父がすでになくなっていようが、父とはすでに離婚していようが、どんないいわけをしたとしても、父の妻と関係を持つことは、律法ではっきりと禁じられている(レビ 18:7,8)悔い改め、方向転換するべき罪であった。コリント教会のクリスチャンは、このような罪が教会内にはびこっていても、なお、誇り高ぶっていた。教会の中では、個人の罪は、一個人の罪にとどまらない。周囲は、クリスチャンの罪として見る。キリストのからだの罪となり、「クリスチャンがあのようなことをしている。」と主の敵に大いに侮りの心を抱かせることになるのである。ダビデが、ウリヤの妻と不品行の罪を犯し、その罪を認めたとき、ナタンは言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(Ⅰサムエル 12:13,14)キリスト者の罪の容認は、キリストを侮らせることになるのである。

 教会の中で、罪が発覚したときの正常な反応は、痛みと悲しみである。パウロが、「そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。」(Ⅰコリント 5:2)と言っている「悲しむ」の原語は、死者への追悼をあらわすことばである。罪に対するいいかげんな態度は危険なものである。罪に慣れ親しんでしまうからである。そのうちに、罪がわからなくなる。麻痺してしまうのである。罪悪感があるうちは、まだ、立ち返るチャンスがある。罪に対する唯一の安全保障は、罪を見てショックを受けることであると、バークレーは言っている。これがなくなってしまうと、罪がわからなくなり、容認していくことになるのである。愕然として、みずから傷つき痛むべきものである。キリストを十字架にかけた人類すべての罪、これにショックを受けることなしに、キリストを知ることもできないし、よって、救いもない。パウロは、「私のほうでは、…そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。…私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント 5:3-5)パウロは、このように罪から離れられない者を、主の権威を用いて、教会の交わりから断ち、世に戻したのである。これは、パウロの愛から出ていた。除名することによって、罪の重大さを悟り、新生するためであった。罪の予防と治療のためである。このようにさばいたパウロが、むしろ、罪を黙認し、見逃していたコリントの兄弟たちを「高慢」(Ⅰコリント 5:2,6)と呼んでいることに注目したい。神を知らない者にとっては(神を無視するなら)、「主イエスの御名によってすでにさばきました。」と言いきれるほうが、高慢に聞こえ、「他人の罪を扱うなんて、おまえは、何者なのか。」と反論されそうである。主イエスが、屋根からつり降ろされた中風の男を「あなたの罪は赦された」と言っていやされた時、「律法学者、パリサイ人たちは、『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」(ルカ 5:21)と言った。どっちが高慢であるか、いうまでもなく明白である。パウロがここで言っているさばきは、そもそも「さばく」と取るのが間違いなのであって、神の国を「治める」ということである。

 コリント教会は、黙認すべきではない事実、罪は見逃して、戦うべきではない罪でもない問題については、教会以外の権威に訴えてでも争うというふうに、与えられた治めるという機能を用いずにいた。神よりも自分の感情によって処理していた。この高慢というパン種は粉のかたまり全体をふくらませる。パン種というのは、前回パンを焼いたときから保存しておいた、発酵した練粉のことである。ユダヤ人は発酵を腐敗と同一視していた。パン種は腐敗させ堕落させる影響のことである。わずかなパン種が全体を腐らせるということである。

罪の取り扱い

 パウロは、以前、コリントの教会に不品行な者とつきあうなと書き送っていた(Ⅰコリント 5:9)ところ、コリントの兄弟姉妹は、それを、教会外部に当てはめてしまったいたようだ。これを外部に実行するなら、未信者に恵みを知らせるどころか、さばくようなこと(断罪、高慢)になっただろう。コリントのような不品行のはびこる町では、教会は孤立化してしまうことになる。パウロが、真に意味するところは、「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということで」(Ⅰコリント 5:11)であった。この思いは、先に述べたように、罪を犯している兄弟を悔い改めに導くため、主を侮らせないためであった。

 続けて、パウロは述べる。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)教会外部の人たちの罪は、神を知らないでしていることゆえ、その人たちにしなければならないことは、福音を伝えることであって、さばくことではない。神のみが人の心を知っておられる。未信者については、神にさばきをゆだねなければならない。教会内の人については、互いに訓戒し合うという責任がある。神を知っている者同士としてできる特権である。もちろん、兄弟愛に基づいて、柔和に、である。断罪する心しかないなら、問題であるが。愛の心が問題なのである。神が明らかに罪であると断言しているにもかかわらず、悔い改めない兄弟のそのような罪を見過ごすことこそ、高慢なことである。罪を指摘されていい気分になる者はいない。神よりも自分の立場を重視しているからである。そうであるからこそ、パウロは、内部の人たちをさばきなさいと言っているのである。日本人にとっては、苦手とするところである。しかし、愛があるなら、死をもたらす罪(「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23))を見過ごしにできるはずはないのである。罪の指摘と言ったが、悔い改めない者に対してであって、いつでも、どこでも、誰にでも、ということではない。

治めることの大切さ

 パウロは続ける。「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:1,2)裁判官には六法全書がある、それ以上のものとして私たちには、聖書がある。「これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」(民数記 35:29)確かに、愛ではなく、律法的にさばくのはいけないが、善と悪を教える聖書に基づいて、正しく神の国を治めていくことは、しなければならないことなのである。これをせずして、一致できるわけがない! 不義が通っているところには(無法がまかりとおっているところには)一致など生まれるわけがない。治める者がいなかった士師の時代、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって、堕落とさばきつかさの台頭をくりかえしていた無秩序の時代を思えば、いかに治めることが大切か理解できることだろう。治める者が使徒や預言者と並ぶ務めの賜物として、あげられているのは、それだけ重要だからである。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Ⅰコリント 12:28)「さばく力」それは、主からくる賜物なのである。

 だれひとりとして、問題の解決にかかわろうとしない状態をパウロは、嘆き叱責する。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)また、次のようにも言っている。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(Ⅰコリント 6:9,10)クリスチャンの罪は、過去から未来にわたって、赦されているから、大丈夫などとパウロは言ってはいないのである。このことは、キリスト者であるコリントの人に言われたことであることを重視しなければならない。「神の国に入れない」と言っているのである。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)キリストの律法、神への愛と人への愛、を全うするために、互いの重荷を負い合い、正していくことが神の国には必要なのである。「傷つくほうが悪い。」というメッセージを幾人かの口から聞いたことがある。神の国は、弱肉強食の世界ではない。傷ついたほうにも問題がある場合もあるのかもしれないが、相手があってのこと、どっちもどっち、重要なことはその心、愛である。たとえ、傷つくほうが悪いとしても、「傷つくほうが悪い。」と言っているところに、行きたがる人がいるであろうか。

 今までの個所で、パウロは「さばけ」と言っているが、他のところでは、パウロは、さばくことをとがめているし(ローマ 2:1-6, 8:1, 14:4, 8:33)、自分をさばくことすらしないと言っている(Ⅰコリント 4:3)。主イエスだって、さばいてはいけないと言って、自分の梁をそっちのけにして、他人のちりを除こうとする行為を指摘している(マタイ 7:1, ルカ 6:37)。さばけと言ったり、さばくなと言ったり、聖書はどっちを言っているのか、となるところである。神の国は、愛の国である。このときはこうすること、と単純にマニュアル化して決められるような単純なものではない。その心が、動機が、神への熱心でもなく、愛でもなく、ただ非難し、他人をさげすむような高慢であったなら、してはならないことである。

 この罪の扱い方について、他の個所も見てみよう。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ 18:15-18)クリスチャンには、罪の赦しの権威までもが与えられている。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 17:3)詳訳聖書で見ると、「気をつけなさい。<いつも自分で注意していなさい<互いに見張っていなさい>。もしあなたの兄弟が罪を犯し<的をはずし>たならば、彼にまじめに話し<彼を戒め>、悔い改めたならば<罪を犯したことを悔いていたら>、赦しなさい。である。罪の自覚も悔い改めもないのに、赦すようなことは、神はなさらない。罪を知らない者の何を赦すのか、赦しの必要を感じていない人の何を赦すのか、キリスト教は、ひとりよがりに慢心する宗教ではない。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(Ⅱコリント 13:5)キリストが内在するなら、キリストを十字架にかけた罪に対して、いいかげんにしておくことができないはずである。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言 27:6)まだまだ、あるが、要するに、愛という動機が大切であるということである。

実例

 実際、神の人が、罪をどのように扱ったかを、旧約新約それぞれ見てみよう。旧約では、先程も少し触れたが、ダビデ王が、ウリヤの妻バテ・シェバと不品行の罪を犯し、罪をごまかすために、夫のウリヤを戦地で死ぬように計った例を見る。ウリヤが死に、ダビデは、バテ・シェバを妻とし、バテ・シェバは男の子を生んだ。主の預言者ナタンを通じて、罪とさばきが言い渡され、ダビデは、悔い改めた(Ⅱサムエル12章)。ダビデが罪を犯してから、子供が生まれ、病死するまで一年以上はたっていることになる。また、このナタンが言ったもうひとつの罪の刈り取りともいえる三男アブシャロムの謀反は、さらに数年、数十年の後のことである。このように、神の国に深くかかわる罪をナタンが、王であるダビデに、喜んで告げたはずがない。王の心次第では、殺されかねないのである。罪に対する痛み、悲しみ、神や神の民に対する愛ゆえに、できたことである。

 新約では、バプテスマのヨハネを見てみよう。ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻としていたことをヨハネが「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と告げた(マルコ 6:18)。自分の兄弟の妻をめとることは、兄弟をはずかしめる忌まわしい行為であって律法で禁じられていた(レビ 20:21)。ヨハネは、捕えられ、牢につながれ、祝宴の余興として、首をはねられ殺された。罪を侮る者にとっては、ヨハネの死は、ばかばかしく見えるのだろうか。「のこのこ言わなくてもよいことを王に言いに行き、牢屋に入れられ、証しにならない死に方をした」とでも言うのだろうか。主イエスは、獄中のヨハネを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ 11:11)「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ 11:14)と言い表した。

 パウロは、罪を扱わない教会について、言ったのである。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:2)「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)

 教会の一致のためには、さばく力、仲裁による問題解決、治める賜物をも求める必要がある。

 

 

 

落ち穂の会

 

 

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