雅歌

2015年7月22日 (水)

『キリストの花嫁 11』雅歌 8:5-14

 10回にわたって講解してきた雅歌であるが、とうとうというか、やっとというか、今回が、最後の項目となる。花嫁は、どうなるのか。壮大な小説を見ているようである。花嫁は、試練の苦しみを抜け、動かぬ平安をいただき、後に続いてくる者たちのために、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)と言っていた。この4節の終わりには、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花婿と花嫁は、祈りの部屋へ行き、親密な交わりを持ち、時が経っていった。

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『愛する者に寄りかかって-すべてに高く-』雅歌 8:5-14(新改訳聖書使用)
花婿の権威を帯びた花嫁

 「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌 8:5)これを花婿のことばとする人もいるが、訳によっては、男性が女性に語りかけているように訳されていたり(シリヤ語訳)、女性の語りかけのように訳されていたり(マソラ本文〔6世紀から10世紀に、伝統的な聖書本文を正確に残そうとマソラ学者によって印などをつけてまとめられた聖書〕)するようだ。雅歌は、誰が誰に言ったことばといった説明書きがあるわけではないので、誰が誰に言ったのかは、注意深く内容を照らしていかないと、わからなくなり、そのため、いろいろな見解が出てくる。3章6節では、婚礼の行列を見て、「荒野から上って来るあの美しい人はだれ。」と人々が賛嘆の声を上げているのを見てきた。ことばの意味を考えても、それと同じような周囲のことばである。ところで、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6,8:3)と花嫁は、二度、雅歌の中で言っていた。初めからずっと、変わっていない花嫁の花婿への願いであった。花嫁は、花婿の平安、安息の左の腕を枕にし、力強い右の手で抱かれ、守られることをずっと願っていた。今、花嫁は、ずっと願っていたように、寄りかかりながら、荒野から現われた(上ってきた)のである。寄りかかりながら、と言ったが、その寄りかかりは、「私は何もできないから、守ってね。」と相手に責任を置くような甘えからの依存ではなく、花婿の愛という支配の中、花婿と歩調を合わせながら、ともに同労者として歩んでいくというような、寄りかかりである。それでは、助け合いではないかとなるのだが、「助け合い」とならないで、「寄りかかり」となるのは、相手が完全である花婿だからである。花婿である主イエスは、完全なるお方である。人間は、一人一人、不完全であり、個人でする働きには、限界がある。その人の性質、特質、特長によってなすべき働きは、それぞれ異なる。異なるからこそ、同じ志を持つ者が、多く集まれば集まるほどに(一致が欠かせないが)、完全ではない相手の弱さをカバーし合え、完全な働きとなっていくのである。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ 12:4,5)ここで、花嫁は、完全である花婿に、寄りかかりながら、花嫁として、地上で自分のなすべき働きをしていくのである。厳しい試練の荒野から、花婿に寄りかかって、出てきた花嫁は、キリスト者として、みごとな成長を遂げていた。

花嫁の成長

 「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」(雅歌 8:5)2章で、花嫁は、花婿を「林の木の中のりんごの木」(雅歌 2:3)にたとえた。赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木は、花婿の象徴であり、りんごの実(雅歌 2:3,5, 7:8)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような、主がそのご性質から私たちに与えてくださるものであった。2章3節で、「私はその(りんごの木)陰にすわりたいと切に望」んだ花嫁の願いが、いつの間にか、ここにきて、かなっている。というか、すわるどころか、すっかりくつろいで(安息して)、花婿が目をさまさせるまで、ぐっすり寝ていたわけである。りんごの木の下は、「あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」と、花婿は言っている。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ 8:26)産みの苦しみというべきとりなしをもって、絶えず働いておられる聖霊さまは、罪の世を歩んでいる私たちを救うために、また、救われた後も、主にふさわしいものとなるために、私たちに「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」といったりんごの実を与えてくださる母である。花嫁は、孤独だと思っていたわけだが、母が、花婿にふさわしい花嫁として整えるという目的をもって、りんごの木の下で、ずっと花嫁のために、産みの苦しみをしていたのである。花嫁は、孤独を感じていたときでも、ずっと、母の愛のとりなしの祈りの中にいたのである。

献身への思い

 「私を封印のようにあなたの心臓(ヘブル原語のleb〔心〕)の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(雅歌 8:6)と、りんごの実を十分に味わった花嫁は願う。古くから、石や金属などにさまざまな模様や像を刻み、印章にして、封印として使われていた。この封印はひもを通し、胸の辺りに掛かるように首からかけていたり、または、右の手に指輪にしてつけていたりした。封印は、所有を表わす鍵の役割を果たすものであった。今の割印をイメージしていただければ、わかりやすい。ここで見られるのは、花嫁の献身の願いである。成長した花嫁は、花婿の心の上にしっかりとつけられ、また、腕の上にしっかりとつけられ、歩むことを強く願っている。腕はヘブル原語では「腕,肩,力,腕力,(政治・軍事的)力」である。花婿の力を帯びて、出て行こうとする花嫁。

 「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌 8:6)神であられる主は、ねたむほど強く愛されるお方であることが、聖書のあちらこちらで、描かれている。「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト 20:5)「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(申命記 4:24)「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」(ヨエル 2:18)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(ゼカリヤ 1:14)などである。十字架の死という究極の愛、この死のように強い愛は、愛するものを奪う敵に対しては、よみ(抵抗し、拒むことのできない絶対的なもの)のように激しくねたむものでもある。それは、焼き尽くすすさまじい炎のように、激しいものである。不義に対しては、激しい炎をもって、対処する愛。この神の愛(アガペーの愛)を、花嫁は本当の意味で、理屈ではなく体験により、知ったのである。この愛があるなら、恐れるものなどない。この愛の中にとどまった花嫁は、この愛を受けたから、献身を表明したのである。

 続けて、花嫁が知った愛の力が述べられている。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌 8:7)すさまじい炎のような勢いをもった愛。大水も洪水も、その炎を消したり、流したりできない。カルメル山で、バアルの預言者たちと対決したエリヤがもたらした神の火に見られる愛である。リバイバルの炎である。神とバアル、どっちつかずによろめいていたなまぬるい民たちの前で、エリヤとバアル預言者は、それぞれ祭壇を築いた。火をもって答える神が、真の神であると。バアル預言者たちが、まず先に、バアルの名を呼んで、祭壇のあたりを躍り回った。朝から真昼まで呼んだり、踊ったりしていたが、何も起こらない。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」というエリヤに、自分たちの愚かさを悟ろうとも、間違いに気付こうともせず、バアル預言者たちは、さらに、大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることをした。ささげ物をささげる時(夕のささげ物で、普通午後3時頃からささげられる)まで、騒ぎ立て、頑張っていたが、当然の結果ではあるが、無駄であった。次に、エリヤが、壊れていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りにみぞまで掘り、全焼のいけにえの一頭の雄牛とたきぎに、たっぷりと(三度とある、三は完全数)水を注ぎ、みぞを流れるほどに、水を満たした。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と言うやいなや、天から主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った(Ⅰ列王記 18:18-39)。主の炎が、エリヤを通じて、リバイバルを起こしたのである。同じように、花婿の愛を流す管となった花嫁から注ぎ出される大水にも洪水にもびくともしないすさまじい炎のような愛は(花嫁自らの愛であったなら、大水どころか、小雨でも、しおしおになりやすい頼りない火であるかもしれないが、火の基は、花婿なのである)、リバイバルをもたらす愛となるのである。

 「もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌 8:7)かつては、花婿に寵愛されていても、母の子らに愛されたい、エルサレムの娘たちや夜回りたちや城壁を守る者たちに親切にされたい(愛されたい)と、孤独を感じていた花嫁であったが、今や、愛という性質を体験的に知った。愛は、得よう得よう、欲しい欲しいと、がむしゃらにそのための努力をすればするほどに、そして、たとえ、自分の財産をすっからかんになるまでに、ことごとく与えるほどにまで、頑張っても(そのような頑張りは、自我である、私たちのなすべき努力は、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ 1:5-7)である。)、ただのさげすみしか得られないものであるのだと。愛は、得ようと努力するものではなく、一方的に与えるものであり、花嫁が、花婿の大きな愛に気付き、以前よりも花婿を愛するようになったと同じように、花婿を模範として与え続けていれば、愛を持っているものならば、必ず、自分が花婿に応答したように、その愛に応答してくるものなのだと、知ったのである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花嫁が献身を表明して、更に時が経っていったようである。

私たちの妹へ

 「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。」(雅歌 8:8)時間が過ぎて、花婿と花嫁の働きによって、妹ができた。「私たちの妹」とあるが、花嫁の献身の結果、救われてくる人は、花婿と花嫁の妹である。救われたての若い妹。まだ愛(乳房で象徴)も知らないような幼い妹。彼女が、花嫁として召される日には、「彼女のために何をしてあげよう。」と配慮する花婿。「もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。」(雅歌 8:9)もし、彼女が、城壁のように妥協なく堂々と救いという土台の上に立つゆるぎない者であったなら、その上に、銀(贖い)の胸壁(ヘブル原語の「野営,駐屯,石壁,宮殿,石段,狭間胸壁」)を建てようと、贖いというゆるぎない敵からの守りを置くことを約束する花婿。「もし、城壁だったら、」という条件があることに注意したい。救われた後、ぐらぐら歩んでも敵からの守りはOKとは言っていない。「彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。」(雅歌 8:9)もし、妹が、戸(ヘブル原語の「戸,戸口,門」)のように、出入りの多い門のように、スカスカ何でも通すような者であったなら、杉の板で囲もう(ヘブル原語の「敵意を示す、包囲する、作る、制限する、抑制する」)と言う花婿。杉は、聖めの象徴である。杉の板は、聖めの板である。聖めという柵で包囲し、制限を設けようと言っている。

 「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(雅歌 8:10)花嫁のことばである。今の花嫁は、城壁のように、妥協なく堂々と立つゆるぎない者となっている。また、花嫁の内には、やぐらのように、高くそびえ立つ愛が形成されている。花婿による銀の胸壁と、杉の板によって、つまり、花婿の配慮ある愛の守りによって、花婿の目に、平安をもたらす者のような(花婿に喜ばれているような)、今の自分になったのだという証しのことばである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。妹ができて、また、時が経っていった。

すべての者の中で高く上げられた花嫁

 ここからの3節は、花婿でも花嫁でもない、第3者のことばのようである。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。」(雅歌 8:11)バアル・ハモンの位置は、不明とされている。バアル(ヘブル原語の「主、夫、所有者」)、ハモン(ヘブル原語の「群集、豊かさ、富」)で、バアル・ハモンは、「群集の主」という意味がある。ソロモン(花婿)には、「群集の主」という所にぶどう畑があった(大勢の信者があった)。「彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。」(雅歌 8:11)花婿は、その群れを、「守る者、管理する者」に任せ、その者たちは、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。「おのおのその収穫によって」とあるが、「銀千枚」と決められている。銀は聖書では、贖いの代価として支払うものである。千は、10(十全)×10×10(三次元すべて完全)で、また、千年王国の千年の統治に見られるように、平和の象徴である。完全な平和。花婿なる夫から、花嫁なる妻を預かった者が、花嫁なる妻を夫に返す時に、銀千枚支払った例が、創世記にある。アブラハムはその生涯で、サラを、二度、妹であると偽った。二度目、ゲラルでのこと、王アビメレクは、サラをアブラハムの妹だと思い、召し入れたわけだが、夢の中で、神にとどめられた。アビメレクは、サラをアブラハムに返したとき、アブラハムではなく、サラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」(創世記 20:16)銀千枚は、夫アブラハムからサラを預かった(実際は、だまされてであったが)アビメレクが、サラを夫のもとに返すときに、平和のうちに、サラを、すべてのものから守り、すべて、正しいとされるために、夫アブラハムに支払われたものであった。こう説明していても、ややこしいのだが、ぶどう畑を任せられた者(花婿から花嫁〔ここでいう花嫁は、今までずっと見てきた花嫁ではなく、後に続いてきた花嫁なる信者(妹)たちである〕なる信者を預けられた者)が、花婿に納める銀千枚は、預かっている花嫁なる信者のために支払われるものなのである。何のためにか。花嫁なる信者がすべてのものから守られ、すべて、正しいとされるために、である。完全な平和を保つためにである。自分のもとにいる花嫁なる信者は、自分のものではなく、花婿のものであることの表明でもある。花婿のものであることの自覚がないなら、花嫁はどのように扱われるかわからない。

 「私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。」(雅歌 8:12)ぶどう畑を任された者のことばである。花婿に、銀千枚は、先程と同じ花嫁なる信者のための代価である。「その実を守る者には銀二百枚。」実を守る者への報酬。この二百枚は、銀千枚と合わせて、千二百枚となる。十二は、統治に関する数。実を守る者へ、報酬として、御国の一部の統治が任されることの型であろうか。二はまた一致の数でもある。統治は、一致をもってなされなければならない。

 「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。」(雅歌 8:13)12節の後半からは、ソロモン(花婿)に向かって呼びかけている。庭園の中に住んでいる仲間(ヘブル原語のchaber「〔1)団結した 2)共同者,友,礼拝者 3)仲間〕」)たちは、花婿のことばに耳を傾け、指示を待っている。指示を聞かせてくれるように言っている。

 雅歌の最後は、花嫁のことばで締めくくられる。「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 8:14)「私の愛する花婿よ、急いで来てください。ぶどう園の管理者たちが、あなたの声を聞きたいと、指示を待っていますよ、急いでください。よいかおりをただよわせている山々の上にいるさっそうと雄々しいかもしかや若い(雄)鹿のように速やかに駆けつけてください。」花嫁は、管理者や実を守る者など、ぶどう園で働く者たち、また、礼拝者など庭に住む仲間たちよりも、高い位置に上げられ、花婿といつもともにいて、その者たちの間に立って、とりなす者となっていた。

 後半部分は、とりわけ難解な箇所であった。しかし、こうして、後半4節(11節から14節)を見ていくと、天の様子がかいま見えるような箇所であった。雅歌に出てきた人物は、花婿に対して、花嫁、エルサレムの娘たち(おとめら)、花嫁と同じ母の子であるが花嫁ではない者、町を行き巡る夜回りたち、イスラエルの勇士たち、王妃たち、そばめたち、ぶどう畑を守る者たち、実を守る者たち、庭に住む仲間たちである。重複しているものがあるかもしれないが、すべての者が、花嫁ではないことが、雅歌で明らかにされている。たとえで、奥義が語られる理由は、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」ない人たちがいて、その人たちが、「悔い改めて赦されることのないため。」である(マルコ 4:12)と、主イエスは言われた。雅歌は、御名のために、迫害などの苦しい中におかれ続けているクリスチャンたちに、多くの慰めを与え続けている愛にあふれた書簡である。

落ち穂の会提供

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2015年7月 4日 (土)

『キリストの花嫁 10』雅歌 7:10-8:4

間が空いてしまったが、雅歌の続きを見る。前回までで、「花嫁のことばは、良いぶどう酒のようであり、花婿の愛に対して、なめらかに流れ、眠った者のくちびるをもその愛で満たす」と花婿が、語ったところまでを見た。花婿の愛によって、花婿だけをまっすぐに見るよう成長を遂げ、目覚めた花嫁。

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『ヘンナ樹の花の中で-動かぬ平安-』雅歌 7:10-8:4(新改訳聖書使用)

花婿からの賛辞への花嫁の応答

 花婿の自分へのあふれんばかりの愛を知り、花嫁は答える。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)もう以前のように、壁を作ったり、自分の殻にこもったりして、花婿を拒否したりはしない。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)この広く、長く、高く、深い人知を越えた花婿の愛を、花嫁は知ったのである。知ったからこそ、花嫁は、心の底から、自分のすべてをゆだねたいと思い、このように言えたのである。「私は、私の愛する方のもの。」と。2章16節では、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」6章3節では、順序が変わって、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と、自我が砕かれ、成長していた花嫁、今度は、「私の愛する方は私のもの」がなくなっている。3段階の成長が見られる。花嫁は、「私の愛する方は私のもの」という自我の主張をしなくてもよいほどに「あの方は私を恋い慕う。」と、花婿に愛されていることを、知ったのである。

動かぬ平安

 かつては、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:10)、また、「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。」(雅歌 5:2)という花婿からのことばに答えなかった花嫁であったが、花婿の人知を越えた愛を知った花嫁は、今度は、自分のほうから花婿に、誘いかける。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。」(雅歌 7:11)花嫁の心には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)というみこころに積極的に従う準備ができたのである。「野」ヘブル原語では土地,畑,野。「野に出て行って、・・・」は、“Let us go・・・”<英欽定訳(New King James Version Bible)>である。花嫁は、「私たちは、世の中に出て行って、「ヘンナ樹」(平安)の花が咲誇る中で、「夜」(暗闇)を過ごしましょう。」と言っている。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇 23:4)に見られる平安である。どのような中にあっても動かない平安は、成長した花嫁なる信仰者のもつしるしである。使徒の働き6,7章の殉教者ステパノは、自分を殺そうとする多くの敵たちの前でも、「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(使徒 6:15)と、動かない平安の中にいた。また、ペテロが、妻たちに勧めているのは、サラのような平安であった。「あなたがたの飾りは、〔念入りに〕髪を編み<結び>、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、〔単なる〕外面の飾りでなく、穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない<色あせることのない>魅力を持つ、内的な飾り<心の〔奥深く〕隠れた人の持つ美しさ>でなければなりません。これは〔その霊は〕<不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で>神のみ前にきわめて価値の高いものです。」(Ⅰペテロ 3:3,4<詳訳>)

 ある時、教会で祈っていた時、神の御前に、悲しみを注ぎだした後、目の前が黄色に染まった幻を見た。ぼんやりした黄色の中にいて、それが花畑かどこかの中かわからなかったのだが、なんともいえない平安が注ぎ込まれた。「ああ、平安~。」という感じでひたっていたのだが、何のことか、何で黄色なのか、ずっと不思議であった。この11節のみことばを見たとき、ああ、このことだと、直感したので、ヘンナ樹の花を調べてみた。白色の小花が房状になっている潅木ということで、見たものは、この花ではなかった。ヘンナの葉は、黄色、黄褐色、黄土色の染料、顔料に使われる。日本でも、ヘナというトリートメント入り髪染めでおなじみである。このヘンナの染料である赤みがかった黄色、平安の色で染めてくださった現われであった。何かあっても、この時の平安を思い起こすなら、平安に包まれるのである。

 「一緒に、世の中に出て行って、平安の中で、暗闇の中を過ごしましょう」と申し出る花嫁。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿とともに、平安の中で、野で夜を過ごし、時が経っていった。

愛から出た奉仕

 「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。」(雅歌 7:12)苦とも思わず、喜んで、花婿と一緒に世に出て行こうとする花嫁の姿。花嫁にとって、福音の働きは、労働ではなく、愛の自然の行為であることが、わかる。ここに、労働をうかがわせることばは、使われていない。いやいや先延ばしに、日も高くなってからとか、日が傾きかけてから、重い腰を上げて行くのではなく、朝早くから、ともに、出て行くことを待ちわびているのである。花嫁は、おいしいぶどうの実の収穫が予測されるぶどう畑に行き、何をしようとしているのか。3つのことが書かれている。

 ①ぶどうの木が芽を出したかどうかを見て、愛を花婿にささげる 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ 15:4,5)と言われているこのぶどうの木から出た芽、芽吹いたばかりの、信じたばかりの信仰の赤ちゃんが生まれたかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ②花がさいたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ぶどうの花は、褐色の小さな米粒くらいのものが、房状に密生する。目立たないが花が一面に咲いているときには、「ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌 2:13)とあるように、ほのかな香りがするそうだ。決してきれいとは言えない花であるが、おいしい実をつけるのには欠かせない地味で目立たない花、目立たないが、ほのかにイエスのかおりを放っている若い信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ③ざくろの花が咲いたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ざくろ(愛)の花は、赤く鮮やかな花である。多くの愛の実をつけるための花、成長している信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」とあるが、そのようなお世話は、花嫁の花婿への愛のあかしなのである。

抑えられないほどの花嫁の花婿への愛

 「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌 7:13)「恋なすび」というのは、ナス科の春に梅の実くらいの実をつける植物である。青いときには、毒性が強くて食べられないが、黄色く熟すと良い香りを放ち、おいしくなるそうだ。が、麻酔性と下す作用があるという。麻酔作用と、根を抜いた時に、人間の股のような形のあるところから、地中海沿岸の国々では、催淫作用のあるあやしげな植物としていろいろいわれてきたようで、最近まで、催淫作用が信じられていた。ギリシアでは、根をぶどう酒につけたものは、恋を誘発する効き目があると思われ、ラブ・アップルと呼ばれ、不妊の女性に子供が授かるとさえ信じていた。(新聖書植物図鑑<教文館>参照)

 「恋なすびは、かおりを放ち、」恋なすびは、熟れてよいかおりを放っている。花婿への新たな愛が起こされた。「私たちの門(ヘブル原語では戸,門,入口)のそばには」それは、奥にきて、やっと起こった愛ではなく、花婿との関係の入口からあった愛であった。花婿と花嫁の関係は、愛から始まったものであった。今、新たな愛が起こされ、というか、妨げとなるような甘えのような不必要な思いは除かれ、愛が深められ、古くからはぐくんできた愛とともに、すべて、最上の愛をたくわえてきた花嫁。花嫁の愛は、不完全ながらも、その時々で、精一杯の最上のものであった。花嫁の花婿への愛は、なくならず、増える一方である。

 「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに」(雅歌 8:1)花嫁の自制の様子が見てとれる。自制は御霊の実の一つである。花婿に愛されているということで、周りの人々から、一方的で理不尽な怒りをかい(雅歌2:6)、そのために苦しみを通った花嫁は、愛の表現を自制することを学んだ。花嫁としての地位と愛の表わし方によっては、周囲から、さげすみやねたみをかいかねない。信仰を守る過程で、人々からさげすみやねたみを受けることが必要なときもあるが、受けることに甘んじなければいけないときというのは、そのことによって、神が栄光を受けられるときである。不必要なさげすみは、人々をつまずかせないためにも、避けなければならない。「ああ、」とため息まじりに、花嫁は言う。外で(働きの最中)、花婿を見出したときに、とびついて口づけしたくなるほどの愛を表わしたい衝動にとらわれても、やみくもに実行してしまえば、周りにいる人々をしらけさせ、さげすまれるだけである。自分にゆだねられた働きも進まなくなってしまう。実際に、そうしたことによって、花嫁は、打たれ、傷つけられ、かぶり物をはぎ取られた経験をしているのである(雅歌 5:7)。そのような経験を経て、自制する知恵がついた。しかし、「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」同じ聖霊なる母をもつ信者である兄弟姉妹に対してであったなら、いくら、外で、兄弟愛を表わしても、さげすみは受けないで、かえって、感謝されたり、ほめられたりするであろう。

 抑えきれないほどの愛で、花嫁は言う。「私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。」(雅歌 8:2)花婿を「私を育てた私の母の家」聖霊の住まいである花嫁の祈りの個室に連れていき、香料を混ぜたぶどう酒とざくろの果汁を花婿にふるまいたいと願う花嫁。「香料(単数)を混ぜたぶどう酒」「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Ⅱコリント 2:15-17)花嫁の持つ「いのちから出ていのちに至らせるかぐわしいキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる交わり。花嫁の持つかおりは、調和のとれない混ぜ物ではないため、ぶどう酒と調和がとれていて、花婿を喜ばせる、おいしいカクテルとなっているのである。「ざくろの果汁」御霊の実の中でも最上のもの、愛。その愛から取れる果汁、搾り取る汁とは、とりなしのことである。誰にも邪魔されず、花婿への愛を思う存分に表現できる祈りの部屋で、花嫁は、花嫁の持つ「いのちに至らせるキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる親密な交わりをし、花嫁の愛から取れた果汁であるとりなしの祈りをささげたいのである。

 「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 8:3)2章6節でも言われたこのことば。その時、「左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)などのみことばから、右の手は、力、救いとして表わされている。」と述べた。傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られたいという願いをもって、語ったことばであった。今度は、全く同じことばであり、愛を求めることばでもあるが、前回と異なり、花嫁は、平安の中で、願っている。平安の中での、満ち足りた安らかな愛の表現としての願いである。

後に続く者たちのために

 2章7節や3章5節に続き、3度目の花嫁のことば。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)前々回や前回と異なり、「かもしかや野の雌鹿をさして」ということばが、なくなっている。2章7節では、傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、花婿からの愛の表現を願った後、言ったことばであった。3章5節では、一度、花婿を拒絶して、去られ、捜しまわって、見つけ出した後、言ったことばであった。「かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。」と、神に誓ってというふうに力を込めていた花嫁は、その後、再び、花婿を拒絶し、捜しまわり、夜回りたちに打ちたたかれ、「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌5:8)と弱々しく懇願していた。そのような経験をして後、花婿の変わらぬ深い愛を確認した後のことばである。「かもしかや野の雌鹿をさして」とわざわざ力を入れて言わなくても、花婿が与えた聞き従わせる権威を身にまとっている花嫁からのお願いなのである。今回の「あなたがたに誓っていただきます。」は、力をこめたわけではなく、権威からのことばである。ヘンナ樹、平安の中にいてゆるがされることのない花嫁は、自分のためにではなく、後に続く私たちのような者たちのために、誓わせているのである。

 雅歌に3度言われている「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」愛を揺り起こしたり、かき立てたりしようとする言動は、苦しみ弱っている信仰者を、よけいに苦しめ弱らせることになるのだと、知ってほしい。では、「愛を揺り起こし、かき立てる」という言動とは、具体的にどういうことか、ということになるが、「夢が破れても(生ける水の川発行)」に、そのことについてのわかりやすい例があった。要約してみる。

 「愛する人を失い、大きな痛手を負った男性がいて、とても無気力になり、『私は、頑張るのがいやになりました。』と言った。彼の友人たちは心配して、支えになればと、いろいろ努力した。悲しみの処理のし方の本を送った人、愛を伝える手紙を送った人、自分たちが主から励まされたという聖句を添えた人、一緒に祈ったり、ゴルフに行った人・・・。彼ら友人たちが、短い挨拶の後、きまって尋ねることは、『このごろどうですか。』ということであった。何度も繰り返される度に、どんどん嫌な気分は強くなっていった。彼には、友人たちが聞きたがっている答えがわかっていたからである。『大変だが、大丈夫。何とかうまくいっています。』これは、癒されていない彼の真意ではなく、友人たちを安心させるための答えであった。とうとう最後に、彼は、こう答えた。『ええ、まだ本当に大変です。彼女がいなくて、とても寂しいです。どうしたらいいのか、時々、悩みます。でも、もうそんなに落ち込まずに、社交的になって、しなければいけないことを始めるつもりです。いい方向に向かっていると思ってください。心配してくれて、ありがとう。』この最後のことばは、効果があり、友人たちは、ホッとして笑いながら言った。『それを聞いて本当にうれしいよ。ま、皆で祈ってきたんだから驚かないけどね。』この会話から3つのことに気が付いた。

 ①彼の友人たちは、自分たちの祈りが、彼が神のみこころを歩み続けることを願うよりも、誰かを元気にすることと関わっていると思い込んでいた。

 ②その思い込みには、『もし聖霊さまが彼に働かれたなら、苦しみから抜け、本当に元気になるはずだ』という考え方と、『神の道を歩むことと、すばらしい気分ですごすことは、同義語である』という考え方が含まれている。

 ③彼の友人たちは、悲しんでいる人の魂から距離を置いていた。意図的にそうした訳ではないが、苦しんでいる人とは一緒にいたくないということを暗黙のうちに相手に知らせている。事態を改善した人とだけ一緒にいたいのである。 彼は、友人たちに、励まされるどころか、さらなる絶望と深いわびしさの中に追いやられ、激しい孤独の中へと押し流されていくのを感じた。『私は、もう頑張るのがいやになりました。つい昨日、友人二人が私のことを話しているのを聞いた。一人が、彼はどうしているだろう、と言うと、もう一人が、頑張っているよ、と答えていたので、私は悲鳴を上げたい気持ちになった。』私たちは、人生で、ひどい打撃を受けたとき、誰かに、ありのままの自分を受け入れ、立ち直るまで、ただそばにいてほしいと願う。しかし、その人が求めている理想の姿を演じてまで、一緒にいてほしいとは思わない。良い気分にしてほしい訳でもない。自然の愛からではなく、そのような努力をされると、悩みを深めるプレッシャーとなってしまうのである。ただ、単に愛からお互いに仕え合うことが、どうしてそんなに難しいのだろうか。」

 苦しみの中にある人に、「早く苦しみから抜けろ」と、「苦しみに浸っていないで、イエスの愛を見よ」と、「イエスを愛せ」と、そのような思いから、あれこれ余計なお世話をすることも同様である。自分にもされた経験、した経験が思い浮かぶような、身につまされる話である。祈ってあげることも含まれる(わからないところでその人のために祈ることとは異なる)。苦しんでいる人は、間違っているところは、愛によって助言を与えてほしいと思うが、苦しいという思いについては、苦しんでいる自分のまま、ただ、つらかったねと、抱きしめ、つらい思いを理解し、共感してほしいだけなのである。その人のために祈ることも、みことばの助言をすることも、「元気?」と尋ねることも、一緒にゴルフに行くことも、してはいけないわけではなく、その心が大切なのである。本当に、相手の祝福を求める真実の愛からの行為であるなら、何をしても、相手を突き落とすようなことにはならないのである。愛から、愛からといっても完璧な愛など、神以外だれも持ち合わせていない。自分の持っている以上の愛が必要な事柄なら、直接には、何もせず、何も言わず、ただ、わからないところで、祈っているだけのほうが、賢明である。祈っているうちに、神が、なすべき愛を与えてくださる。愛の押し売りは、避けねばならない。花嫁は、そのことをよく、知っていたから、こう言ったのである。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。

落ち穂の会提供

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2015年5月10日 (日)

『キリストの花嫁 9』雅歌 7:1-9

前回は、成長した花嫁が元気になり、周囲にも影響を与えていく様子を見た。花嫁の花婿への愛を見て、エルサレムの娘たちの心に、花婿への飢え渇きが起こり、信仰が覚醒された。神への恐れ、花嫁への恐れ、神への救いの求め、エルサレムの娘の心に起きたこの3つの思いを、二つの陣営の舞という表現で、明確化された花婿。今回は、その後の場面である。

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『良いぶどう酒-眠っている者たちの目覚め-』雅歌 7:1-9(新改訳聖書使用)

花婿から花嫁への賛辞

 再び、花婿の花嫁への賛辞がある。「高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ」(雅歌 7:1)花嫁自身が知らないうちに、民の高貴な人の車に乗せられていた花嫁(雅歌 6:12)を、花婿は、「高貴な人の娘よ。」と敬意を払って呼んだ。花嫁の足は裸足ではなく、サンダルをはいたきれいな足であった。足のサンダルをぬぐことは、悲しみの表現の動作のひとつである(Ⅱサムエル 15:30, エゼキエル 24:17,23)。試練を通り抜け、苦しんでいた花嫁は、もう悲しんではいなかった。足は、きれいに洗われ、美しかった。過越しの夜、イエスさまが、弟子たちの足を洗われたことを思い出すが、洗われた足は、罪からの聖めを表わす。「水浴した者は全身きよい」とも言われている(ヨハネ 13:10)。苦しみをぬけ、高く引き上げられた花嫁は、罪からも聖められ、喜びに満ちていた。花嫁のはいているサンダル、「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。」(エゼキエル 16:8-14)ここに、神がはかせてくださった花嫁のはきもののことが書かれている。じゅごんの皮のはきもの、主題からの学び「幕屋(幕)」に書かれているが、「じゅごんの皮は、あざらしやいるかのかたい皮であったと考えられている。その皮は、粗末ながらも耐久性と保護能力にすぐれていた。またその皮は、耐久性と保護能力にすぐれてはいるが、見栄えのしないものであった。栄光の神であられるのに、罪人である人となって来られたキリストのへりくだりを表す。」ということを見た。このへりくだりを、からだの一番低いところにあり、歩みを支配する足にまとっているのである。また、これは、エペソ人への手紙で、信者がつける武具、「平和の福音の備え」とも呼ばれているものであった。「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ 6:15)へりくだりがないと、平和は作れない。罪から聖められ、喜びに満ち、へりくだりを一番低いところにつけた花嫁の美しさに、花婿は、感動しているのである。

 「あなたの丸みを帯びたももは、名人の手で作られた飾りのようだ。」(雅歌 7:1)ヘブル原語の「もも」は、「もも,腰,わき腹,基部」であり、歩みをコントロールする部分である。とげとげしていない丸みを帯びたもも、脚線美が語られる。そのももは、名人の手で作られた飾り(ヘブル原語では装飾品、宝石類)のようであると言われている。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ 2:10)陶器師であり、名人であるキリストは、花嫁のために、完璧な歩みを備えていてくださるのである。その歩みは、険しく見えたとしても、御手にすっぽりと守られ歩むもっともまろやかな最善の道であり、振り返ってみると、その歩みは、他の者たちの目からみても、みごとな装飾品、宝石を生み出すわざであったということが、明らかになっていく。

 「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯。」(雅歌 7:2)ほぞとは、ヘブル原語の「へそ、へその緒」であり、からだの中心にあり、母親から、栄養を取り入れたところである。肉や野菜が不足しているパレスチナにおいては、パンとぶどう酒は、食事の中心であった。普通、泥酔を避けるため、ぶどう酒1か2に対して、水3の割合で混ぜ合わせて、薄めて飲んだ。混ぜ合わせたぶどう酒とは、聖書に1度しか出てこないことば(ヘブル原語のメゼグ)が使われていて、辞書によると、“mixed wine、meaning to mingle (water with wine) ”とある。そのように、飲みやすく調合されたぶどう酒である。人々を潤し養う、尽きることのないぶどう酒があふれている丸い杯に例えられたほぞとは、母なるご聖霊から尽きることのない混ぜ合わせたぶどう酒による栄養をいただき、満たされている花嫁の描写である。「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。」(雅歌 7:2)腹は、子供を宿すところである。ゆりの花は、へりくだり、小麦は、収穫を表わす。花嫁のへりくだりは、やがて多くの収穫を産む。多くの霊の子孫をみごもっている花嫁の描写。

 「あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、二頭の子鹿。」(雅歌 7:3)4章5節でも、花嫁は、「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」と言われていた。乳房、赤ん坊にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴であった。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。花嫁のバランスがとれた二つの乳房は、片寄ることのない愛のバランス、平和の一致の愛を描写している。

 「あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)4章4節でも、「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。」と言われていた。首、すなわちうなじは、意志を表わしていた。1章10節では、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志であった。4章4節では、兵器庫のために建てられたダビデ(ヘブル語の「ダビデ」=「愛されている者」)のやぐらに例えられていた。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志であり、花嫁の成長が見られた。そして、この7章4節では、象牙のやぐらに例えられている。象は、自分の通り道にある障害物を、ほとんど何でも押しつぶしたり、壊したりする力を持ち、ふだんはおとなしいが、怒ると、その象牙で、攻撃するような力をも備えている。更に、成長した花嫁の首は、ここで、攻撃と防御の力を示す象牙に例えられている。

 「あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」(雅歌 7:4)1章15節で、花婿は、「あなたの目は鳩のようだ。」と、花嫁の素直で優しい目をたたえていた。4章1節で、「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」と成長した花嫁に対し、へりくだりが加えられている。そして、5章12節では、「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)と、真っ白で、汚れがなく、満たされて、ゆっくり落ち着いている、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目が描写されていた。今、花嫁の目は、「バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」と言われている。こう見ただけでは、私たちには、何のことか、さっぱりわからない。「バテ・ラビムの門」「ヘシュボンの池」という材料を、どう料理するかによって、みことばの味わいが異なってくるだろう。「バテ・ラビム」は、聖書において、ここだけに見られる語であり、ヘシュボンの城門のひとつの名前であり、「群衆の娘」という意味をもつ。ヘシュボンは、交通の要所にある大きな町であり、「知性」という意味をもつ。池というのは、魚を囲うためにほられ、水をたたえているものである。池を掘るときには、土を掘って、水を蓄え続けておけるように、石をひく。必要のない泥、石は除かれ、整えられる。「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(Ⅰペテロ 1:5-9)花嫁の目は、不純物を除かれ、近視眼でも、盲目でもなく、自分が罪人であったことを忘れず、信仰に徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛で整えられた池であった。ヘシュボンの池だと思われる巨大な水槽の廃墟が残っているそうであるが、この池は、大きな池であった。主イエスが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ 4:19)と、弟子たちに言われたように、花嫁もまた、人間を取る猟師となっていて、多くの魚をとる準備ができていた。池は、だれもいないひっそりとしたところにあるわけではなく、「バテ・ラビム」(群集の娘)の門のほとりにあるのである。花嫁は、そのほとりで、どうやって、魚をとるかというと、目、池で表わされているように、涙、とりなしの祈りの涙で、である。池に蓄えられる水は、花嫁の涙であった。聖霊によって、祈りに導かれ、産みの苦しみを通して、流されるとりなしの涙。愛とあわれみに満ちた涙である。この涙は、愚かで、下品な嘆きとは異なり、ヘシュボン=知性の涙でもあった。この涙が多く蓄えられれば、蓄えられるほどに、この池には、魚が大漁にあふれかえるのである。

 「あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)鼻は、嗅覚をもつ器官であるように、悪臭とよいかおり、きよいものときよくないもの、罪と義をかぎわける分別の象徴である。鼻が、酸素を吸い込み、いのちをもたらすように、それは、生きるための分別である。ダマスコは、古くから発展していた商業的にも軍事的にも重要なシリヤの首都であり、"silent is the sackcloth weaver(沈黙は、荒布の織工)"という意味である。このダマスコの方向から、イスラエルの敵が頻繁に攻めてきた。諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れのかおりを運ぶダマスコ。レバノン(聖め)のやぐら、聖くそびえたっているやぐらに例えられている花嫁の鼻は、ダマスコのほうからくる何を見張っているかというと、攻めてくる敵もあるかもしれないが、ここでは、むしろ、レバノン(聖め)と対比して、諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れへのいざないである。

 「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(雅歌 7:5)花嫁の頭はカルメル山のようにそびえていた。「カルメル」は、ヘブル原語の「畑、庭、果樹園、新穀、ぶどう園、公園、生産する、豊富な、実り豊かな」である。髪の色は、王の色の紫色である。知識、知恵、統治の力を表わす頭(かしら、head、上部、top)は、実り豊かな王国となっていた。「乱れたふさふさした髪」をヘブル原語でみると、「はち・こね鉢,くぼみ,ふさふさした髪」となっている。欄外をみると、直訳として、「水ぶねの」となっている。「水ぶね」を辞書で見ると、「飲み水を運ぶ船、水をためておく大きな△箱(おけ)、魚を生かしておく水槽、難破して浸水した船」とある。水を蓄えている水ぶねの髪、5章2節で、花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」と言っていた。教えやことばをたくさん携えているようすの描写であった。花嫁の髪もまた、このしずくをたくさん蓄えたふさふさとした髪となっていたのである。王である花婿は、この花嫁の髪のとりことなった。

花嫁の美しさへの感動

 喜びに満ちた聖く美しい足、みごとな飾りをなす歩み、尽きることのないいのちの糧であるぶどう酒、多くの収穫をみごもった腹、バランスの取れた平和の一致を保つ愛、攻撃と防御の意志、大漁となるだろうとりなし、世の誘惑に打ち勝つ聖さへの分別、豊かな実の王国を打ち立て、教えやことばを携えもつ髪を持つまでに成長した花嫁を、改めて、感動をこめて、花婿は言った。「ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。」(雅歌 7:6)花嫁の成長、愛であるキリストの似姿へと近づく花嫁は、花婿にとって、慰めに満ちた存在であった。そして、その姿は、とても美しく、いやみでない快い喜びをもたらす美しさであった。

 「あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」(雅歌 7:7)信者の目的として、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」(エペソ 4:13)とある。成長した花嫁の身たけは、まっすぐにそびえ立つなつめやしの木に例えられている。直立して高く立つ姿から、なつめやしは、正直さを表わす。「なつめやし」のギリシャ語「フェイニクス」は、不死鳥を意味し、やしの葉を広げた形を不死鳥になぞらえている。イエスのエルサレム入城の時、人々がホサナと叫びながら手にしていたのは、なつめやしの枝であった。なつめやしは、勝利の象徴でもある。3節で、ふたごのかもしか、二頭の子鹿に例えられていた花嫁の乳房、愛や愛情の象徴である乳房について、今度は、ぶどうのふさのようであると、述べる花婿。花嫁のバランスのとれた愛は、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができるように成長していた。

 「私は言った。『なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。』」(雅歌 7:8)花婿は言た。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。」と。枝をつかむの「つかむ」は、ヘブル原語では「捕らえる,支える,所有する」である。花婿は、花嫁とともにいて、花嫁の中に宿り、花嫁を支え、所有し、心の王座を占めることを望まれているのである。成長した花嫁には、イエスは、喜んでともに住んでくださるのである。「あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。」これからも、花嫁の愛が、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができることを、花嫁の息(吐くかおり)が、りんごのかおりのようであることを、花婿は望んでおられる。2章で出てきたりんご(雅歌2:3,5)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物であった。花嫁の吐息が、これら主の性質をかもし出すものとなるように、ということである。

眠った者を起こす花嫁の愛

 さらに続けて、花婿は言われる。「あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」(雅歌 7:9)花嫁の口から流れ出ることばは、良いぶどう酒のようだ、と。人々を潤し満足させる良質のぶどう酒。それは、花婿イエスに対してなめらかに流れるものであった。イエスの愛をなめらかに流す管となりきっている口。花嫁のことばにより流されたイエスの愛は、何らかの理由で、信仰の眠ってしまった人々(二つの陣営の舞のエルサレムの娘もそうであった)、救いを待ち望んでいる人々をも、目覚めさせ、イエスの愛に立ち返らせ、その者たちの口にもその愛を満たす力をもたらすものなのである。エゼキエルの預言のしるしとして、死人の骨に満ちていた白骨の谷間で、骨と骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、息が入り、生き返って、立ち上がったように(エゼキエル 37:1-10)、また、病で死んだラザロが、4日後、腐っていたような状態から生き返ったように、また、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ 5:11-16)とあるように、花嫁のことばは、眠っているどころか、そのような死んだ人々をも、生き返らせることができるのである。信仰が死んでしまう死因は、いろいろある。外部からのバイ菌(惑わしの教え)による病であったか、内からの変化(罪)による病であったか、敵との戦いに負けたか、また、不慮の事故(思いがけない災難)であったかもしれない。しかし、イエスの愛は、生き返らせるだけの力があり、その力を流すのは、主のことばを流す花嫁なのである。

 なかなか、進まなかった雅歌であったが、ちょうどよい時に、開いてくださる神の愛をつくづく感じ、偉大なる神に、感謝します。

落ち穂の会提供

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2015年4月20日 (月)

『キリストの花嫁 8』雅歌 6:4-13

 雅歌も後半に入ってきたので、今までの部分をまとめてみる。母の子らが花嫁に向かっていきりたったところから、始まった孤独の試練(雅歌 1:6)の中、愛に病んでいく花嫁。それを花婿にぶつけても、いやされなかった(雅歌 1:7)。そのような中、今まで、二度、花婿の臨在が感じられなくなり(雅歌 3:1, 5:6)、だんだん、花婿の存在の大切さを知り、花婿以外のことにとらわれなくなっていった(雅歌 5:8)。そして、そんな花嫁と花婿との他にはないほどの愛の絆を知ったエルサレムの娘たちが、花婿を知りたいと、花嫁のもとに、やってきた(雅歌 6:1)。やっと、他のとらわれていたことから抜け出し、花婿だけに、目を留めることができた花嫁は、最初から告げられていたのに見えていなかった花婿の居場所に気づいたのであった(雅歌 6:3)。この3節の後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿の深い愛に気付き、愛の病から立ち上がり、エルサレムの娘たちに、証を始めた花嫁。そうして、しばらくが過ぎた。

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『二つの陣営の舞のように-信仰覚醒-』雅歌 6:4-13(新改訳聖書使用)

花婿から花嫁への賛辞

 「謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言 15:33)とあるが、一段とへりくだった花嫁のもとに、花婿が現われ、言った。エルサレムの娘たちの面前で、花嫁に栄誉を与えるためにである。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)花婿からのことばである。花婿のことばは、いつも変わらない。状況や時間経過によって、変わることなく、いつも、「わが愛する者よ。」と花嫁を呼ばれる(雅歌 1:9, 1:15, 2:2, 2:10, 2:13, 4:1, 4:7, 5:2, 6:4)「あなたはティルツァのように美しく、」ティルツアとは何ぞや???となるのだが、ティルツアというのは、町の名で、サマリヤの東に14㎞ほどにあるマナセの領土内にあり、その言葉の意味「快適、快さ、喜び、香り、受け入れることのできること、疑いのないこと、非常に幸福なこと、立派で一律な建物」のように、心地よいさまを表わしている。近寄りがたい美しさではなく、心地よい美しさを表現しているのである。「エルサレムのように愛らしい。」エルサレムは、ダビデとソロモンが築いた美しく整えられた小さな町であり、神の民が愛する町であった。エルサレムは聖なる町であり、その存在自体が、誉れであり、喜びでもあった。その町は、賛美と礼拝がささげられ、良いかおりの香といけにえのなだめの香りを立ち上らせている場所でもあった。「だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」美しく、愛らしくはあったが、愛玩動物のように、ただにこにこ心地よく、愛くるしいというだけではなかった。あなどれない強さを備えていた。守備力と、悪に対しては、総攻撃ができるほどの恐ろしい力を備えていた。

 「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私をひきつける。あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 6:5)花嫁の鳩のように素直で識別力にたけていた目(雅歌 1:15, 4:1)、打ちたたかれても、花婿を捜すのをあきらめずに、追ってくる目、その熱心な一途な目が、花婿が花嫁のためにそっけなくしようと思ってもできなくなってしまうほどに、ひきつけるのであった。「あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」全く同じことばを、4章1節で花婿は語った。このことばで、花婿は、花嫁の頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであることを表わしていた。花婿の語彙が乏しくて同じことばを繰り返しているわけではない。必要のないことばを言っているわけでもない。花婿の権威の前に、さらにへりくだった花嫁への賛辞である。

 「あなたの歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 6:6)これも、4章2節で花婿が語ったのと一言一句違わない全く同じことばである。花嫁に拒絶されても(雅歌5:3,4)、変わらない花婿の愛である。堅い食べ物であっても良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与え、みことばの食事をふるまい、霊の子供を産む花嫁。

 「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 6:7)これも、4章3節で花婿が語ったことばである。へりくだった愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、この愛で結ばれた完全といえる知識と口であった。この6章の賛辞では、4章の賛辞と似通ってはいるが、目と髪と歯と頬にのみ、ふれている。花婿のことばは途中で変わったりしない、そして、その都度の必要を語られるのである。4章は、孤独の試練の中、花婿への愛に目覚めた花嫁への、婚礼の儀の後の賛辞であった。すべてへの賛辞、「素直でへりくだりの中の識別力のある目。花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさを表わす髪。成長し、みことばによって、霊の子を産み出す歯。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。へりくだった愛で結ばれた完全といえる知識と口。愛のために戦う備えができている意志、不要な戦いはせず、守りも万全であり、祈りの勇士たちに守られている首。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛を持つ乳房。」が述べられていた。6章で、ことばは減っていても、賛辞が減ったわけではない。試練を抜けた花嫁に対し、ここでは、へりくだり、従順、みことばの解釈の成長が特に上げられているのである。このことばで、変わらぬ花婿の愛を確認し、花嫁は平安に満たされたことだろう。

 「王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。」(雅歌 6:8)ソロモンは、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいた(Ⅰ列王 11:3)。そのことを言っているのだろうと解すると、ああ、聖書では、女性を何人囲ってもいいんだとなるし(そんなわけはない、夫婦は一体である。)、花嫁は女性問題に巻き込まれ悲惨であるし、花嫁の存在もかすんでしまうし、だいたい数が違っている。聖書の数は意味を持つため、何らかの意味がある。これは、霊で解釈しなければいけない。小羊の婚宴にはさまざまなグループがいるだろう。信じて救われた者は、キリストの花嫁になるのであるが、この箇所には、そばめや、おとめたちが存在している。雅歌は、天に挙げられてからのことを語っているわけではない。地上での花嫁の状態が述べられている。そう考えると、そばめというのは、救われて、結婚関係を味わったにもかかわらず、法的な妻ではない者のことである。しかし、花婿との関係で見るなら、それなりの位置にいるわけである。神のみこころと一つになった関係を持っても、信仰をなんとか保ちながら、脇にそれていきがちなクリスチャンや、信じていても、神の愛まっしぐらとはいかず、それなりに自分と神を区別しているクリスチャンは数多くいる。それが、そばめであり、結婚の年齢に達しない求道者、それがおとめたちということである。満ちた信仰の王妃(花嫁、妻)は、六十人、六十は、六(人を表わす数)×十(十全、欠けたところのない完全)である。そばめは、八十人、二×二×二(縦も横も高さも二(一致の数)×十(十全、欠けたところのない完全)で、神の一致をくずさなかった人(保っていた人)である。そして、数知れないおとめたち。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」(黙示録 6:9)

 「汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた。」(雅歌 6:9)多くの王妃、そばめ、おとめたちはいるが、花婿にとっての汚れなき鳩、花嫁はただひとりであり、えり抜きの女性なのである。キリストの花嫁がたったひとりであると言っているわけではない。これほど、かけがえがない存在であるということである。黙示録 21:2 に、信者たちの群れによって形成された新エルサレムなる教会が天からおりてくる情景が描かれている。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録 21:2)この花嫁のように整えられた信者の群れは、ひとつである。花嫁は、聖霊である母が愛するひとり子である。神のみことばによって、子供を産まれるのは、ご聖霊である。エルサレムの娘たちの目にも、もはや、花嫁の花婿への愛による服従ぶりは、非のうちどころがないくらいに、明らかであった。エルサレムの娘たちも王妃たちもそばめたちも、口々に、花嫁を幸いだと言ってほめた。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。エルサレムの娘たちや王妃、そばめたちの目に、花嫁が際立ち始め、時が経った。

 「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」(雅歌 6:10)暁(明け方)の光、闇を照らしていくこうごうしい光に覆われ、花嫁はいつしか自分では気づかないうちに、他の人々より高い位置に上げられて、見おろす形になっていた。月のようにほんわりとまわりを照らす美しさを持ち、太陽のように周りを明るく元気にするような他にはない輝きを放ち、旗を掲げた軍勢のように悪に立ち向かうための防御力も攻撃力も兼ね備えている花嫁。周囲の人たちは、今までそのような人に出会ったことはなく、「それは、どなたなの?」と問いかけている。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。再び、時が経った。

解放された花嫁の役割

 「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。」(雅歌 6:11)花婿に会えた花嫁は、くるみの木の庭へ下って行った。「くるみ」には、「与える、分ける、分かち合う」という意味があるそうだ。くるみを割ると実が入っている部屋が分かれているのがわかる。苦しみから解放された花嫁は、へりくだって、他の人たちに、花婿から来る恵みを進んで分かち合うために、くるみの木の庭へ下っていったのである。分かち合う心にもいろいろあるが、花嫁は、自分があがめられるために上っていったのではなく、へりくだった思いから下っていったのである。ヘブル原語の「谷」は、「流れ,ワジ,川,渓谷,急流,激流」である。激しい流れのほとりに、または、低く険しい渓谷に新しいいのちは芽吹いていないか、将来実をつけそうなぶどうの木が芽を出してはいないか、愛のざくろの花は咲いているかを見ようと、花嫁は下っていった。ただ、ああ芽が出たなとぼんやりながめて見ているだけのためではない。花婿の愛を分かち合い、芽吹いたばかりの幼い芽を、励ますためにである。

 「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)花嫁自身、知らないうちに、花嫁は、民の中でも高貴な人の(戦)車に乗せられていた。ヘブル原語の「アンミー・ナーディーブ<民の高貴な人>」であるが、New King James Version Bible(英国欽定訳)などは、これを固有名詞アミナダブとして訳し、口語訳や米標準訳などは、ヘブル原語の「アンミー<わが民>」をヘブル原語の「イム<そばに>」と読み、「わが君のかたわらに(わが高貴な人のそばに)」と訳している。この節は、雅歌の中でも破損によって、読解が難解な箇所であるそうだ。いずれにしても、花嫁は、高く上げられたということである。

 「帰れ。帰れ。シュラムの女よ。帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。」(雅歌 6:13)エルサレムの娘たちは、花嫁の美しさに魅せられ、もっと見たいと興奮する。「シュラムの女」については、聖書にこの節の二回だけ出てくる語であり、平和、平安の君という意味のソロモンの女性形であり、平和、平安の姫ということである(ソロモン、シュラムは、シャローム<平和、平安>の派生語である)。エルサレムの娘たちは、花嫁を、平和の姫と呼んだのである。マザーテレサはノーベル平和賞を受賞したが、キリストの花嫁は平和を作る者でもある。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。」(雅歌 6:13)帰れ、帰れと熱望するエルサレムの娘たちに、どうしてあなたがたは、シュラムの女を見たいのかと、花婿は尋ねる。「二つの陣営の舞のように。」何のこっちゃ???と、よくわからない表現がなされている。欄外を見ると、「マハナイムの舞」となっている。マハナイム、創世記 32:2に出てくる「二つの、一対の陣営」のことである。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。ヤコブは彼らを見たとき、『ここは神の陣営だ。』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」(創世記 32:1,2)ヤコブが、故郷のカナンに帰るときの出来事である。「神の陣営」とは「神のキャンプ、または軍勢」であり、宿営している軍隊のことである。この後、ヤコブは、この神の二つの(一対の)陣営に倣ったのか、兄エサウを恐れ、自分の宿営を、守るために二つの宿営に分けた。み使いを見た神への聖なる恐れ(創世記 32:1)、エサウへの恐れ(創世記 32:7)、神の救いへの訴え(創世記 32:11)、これらをこの二つの宿営に託した。この舞である。花嫁と自分たちの違いを目の当たりにし、エルサレムの娘たちの心には、神への恐れが出てきたのである。また、花嫁を揺り起こし、かきたてたりしていたエルサレムの娘たちは(そういうことをしていなかったら、花嫁が、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5)と二度までも誓わせるようなことはしなかったであろう。)、花嫁への恐れも出てきた。そして、神への飢え渇き、救いを訴えたくなったのである。そういう思いを引き出し、明確化なされる花婿のことばである。

 ここで、私たちは、幼い魂の世話をする花嫁の姿、また、なまぬるい信仰を目覚めさせる役割をもつ花嫁の姿が見て取れた。花嫁自身は、何も意識していない。ただ、喜びの中、行きたい所(くるみの木の庭)へ行き、存在していただけである。その存在自体が、他への信仰覚醒の役割をなしたのである。

 雅歌は、あと2章を残すのみとなったが、花嫁はどのような成長を遂げていくのか、楽しみである。

落ち穂の会提供

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2015年4月12日 (日)

『キリストの花嫁 7』雅歌 5:10-6:3

『ゆりの花の間で-へりくだり-』雅歌 5:10-6:3(新改訳聖書使用)

万人よりすぐれている花婿

 前回の雅歌5章9節まででは、再び花婿が去り、エルサレムの娘たちに愛に病んでいると伝えてくれるよう誓いを願う花嫁に、花婿の何がほかの愛人よりすぐれているのかとエルサレムの娘たちが尋ねたところまでを見てきた。9節で2度繰り返されている「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」「ほかの愛人」(雅歌 5:9)とあるが、花嫁に愛する人が数人いて、「花婿以外の愛人」がいるということではなくて、「他の人の愛する人」という意味で、他の人が愛する人を愛する愛にまさる花嫁の強い愛を見て、他の人の愛する人より花婿の一体何がすぐれているのかと尋ねているのである(ややこしくなりましたが…)。エルサレムの娘たちは、花嫁が花婿について、こんなにも心動かされ、他の何も手につかないほど心が占められ、はらはら動揺し、興奮している理由がわからなかったのである。花嫁の愛する方は他の愛する人より何がすぐれているのか、このように尋ねられた花嫁は、花婿について語る。「私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、」(雅歌 5:10)「わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人にぬきんで、」<口語訳>“My beloved is white and ruddy(血色のよい),Chief among ten thousand.”<New King James Version Bible(英国欽定訳)>まず、花婿の色、全体像について語る花嫁。白く輝いて、かつ赤いとはどういうことか。「主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(詩篇 18:13)主なる神は、雹、氷の粒の冷たい厳しさ=聖なる義と赤く燃え盛る火の炎の激しく熱い愛を合わせ持つ特別な輝きを放っておられる、万人よりも比較にならないほどにすぐれた特別な、王の王、主の主なるお方である。

 「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く、」(雅歌 5:11)花嫁は、花婿の頭から足までの身丈について述べる。頭(かしら、head、上部、top)は神の性質を現す純金であった。「なつめやしの枝」は、高いなつめやしの木の上のほうで、枝が垂れているように、髪の毛がふさふさとうねっていることを表現している。その髪は、烏(カラス)のように黒い。烏(カラス)は、腐敗物の掃除をする鳥(とり)である。罪なる腐敗した性質を取り除くために、イエスはこの世に来られ、十字架にかかってくださったのである。神性の純金の頭を覆っているのは、烏(カラス)のような黒い髪であった。神性の純金の頭に至りたいと思うなら、この黒髪をかきわけなければいけない。神であられるのに、赤子の姿をとって烏(カラス)となられたへりくだりのイエスさまの前に、へりくだりをもってひざまずき、黒髪をかき分けなければ(十字架のイエスを通らなければ)、神を知ることは不可能である。烏(カラス)のような黒髪で覆われているのだから・・・。

 烏(カラス)といえば、ケリテ川のほとりに身を隠したエリヤに、朝と夕にパンと肉を運んだ烏(カラス)が思い浮かぶ(Ⅰ列王 17:6)。烏(カラス)は、律法では忌むべきものとして、汚れた生き物となっている。「また、鳥(とり)のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、・・・、烏(カラス)の類全部、・・・」(レビ 11:13,15)その汚れた生き物から肉とパンをもらうのは、エリヤにとってへりくだりの信仰を要することであった。エリヤは、神のみこころの前にへりくだったのである。このへりくだりの学びの後、今度はやもめの家の粉と油がエリヤを養った。当時のやもめというのは身分が低かったが、この神の預言者は、王の食卓からではなく、やもめ女の粉と油で養われたのである(Ⅰ列王 17:16)。この後、エリヤは、えにしだの木の下で天使が運んだパンによって養われた(Ⅰ列王 19:6)。死を願っていたエリヤは、この天使のパンに力づけられ、四十日四十夜かけて、ホレブ山へ行ったのである。へりくだったエリヤを神が高めてくださったのである。

 雅歌に戻る。「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)目、白目は乳で洗われたように真っ白で、汚れがない。また、その目は活動を終えて、水の流れのほとりに休んでじっとしている鳩のようであるという。「休み」は、口語訳では「落ち着いている」で、指輪の台座にしっくりとはめ込まれた宝石のようによくおさまっている様子を言っている。「池」は十分、充満の意味がある。十分に水をたたえた池のほとりで、休んでいる鳩。その目は、攻撃的ではなく、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目である。

 頭、髪、目と下ってきて、次は頬とくちびるである。「その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。」(雅歌 5:13)雅歌1章10節で、頬は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は意志に関係すると述べた。意志を表わしている頬、この頬が、良いかおりを放つ香料の花壇のようだと言っている。花婿の愛情にあふれた頬(意志)は、人の心をこの良いかおりに惹きつけて、彼自身を慕い求めて、切望させる香料の花壇のようなものなのである。またくちびるは、へりくだりの没薬の液をしたたらせるやはりへりくだりのゆりの花に例えられている。彼のくちびるは、没薬とゆりという二重のへりくだりによって表わされているように、自己主張などの傲慢さは微塵も見られず、ただ父なる神を証しているくちびるである。

 次は、腕とからだの描写である。「その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。」(雅歌 5:14)「タルシシュの宝石」は、緑柱石である(出エジプト 28:20、39:13など緑柱石と訳されている原語はこの箇所と同じ語「タルシシュ」である)。その原語には、精錬する、裁く、テストする、試みる、調査するという意味がある。腕は、神聖な手、金(神性)の棒(円筒、杖)。まことに、主のみ腕は、私たちを支える杖である。また、このみ腕は、陶器師の腕である。土の器を壊し、練り直され、尊い器へと変えて下さる腕である。ときには、悩みの炉にて試みにあわせ、純化してくださる腕である。緑柱石がはめ込まれているとは、精錬し、試みる腕であるということである。自分の手をダイヤモンドなどの宝石で飾った王は、他にも多くいるが、このような力強い金の棒の腕は他にはない。「からだ」はヘブル原語では「腹、内臓、はらわた、内部の器官、腸」であり、花婿の最も内なる部分を示す。サファイヤは階段(上昇)を表わす。象牙は、攻撃力と守備力を表わす。ある本によると、ヘブル原語の「象牙」には、歯のように鋭い、最前列、繰り返し教え込む、説き伏せる、研ぐという意味もあるそうだ。花婿の最も内側の部分は、刺し通したり、説き伏せたり、教え込んで、引き上げ、徳を高める強さをもった象牙の、破壊的強さではなく、美しい細工でできていたのである。

 次は、足である。「その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌 5:15)花婿の足は、純金の台座に据えられた、強くて堂々とした大理石の柱のようであった。大理石とは、固く頑丈な不動の物資である。純金、神性という土台の上にまっすぐにそびえ立っている柱、上、神に向かってまっすぐに立っている不動な柱である。この足は、神のみこころからそれない歩みをなしているのである。次に花婿の全体の容貌を述べる花嫁。容貌はレバノンのようにきよさ、清潔さを全体にたたえている。また高さ、強さにまさる杉のようにまっすぐに荘厳さを持っていてすばらしい。

 最後に花嫁は、最も親密な花婿の口について述べる。ことばなる主イエスの中核である。「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌 5:16)「ことば」ヘブル原語の「口、上あご、味、歯ぐき」である。彼の口、ことばは、甘く私たちをうっとりと酔わせ、また、いのちを与えるぶどう酒である。証し終えた花嫁は、「あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」と締めくくった。

 嘲笑と聞いてみたいという思いとが入り混じっていたかのように、「何がすぐれているのですか。」と言っていたエルサレムの娘たちは、この花婿への証を聞いて、心を打たれた。「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。」(雅歌6:1)と捜索の協力を申し出たのである。花嫁の証を通し、花婿の圧倒的な愛を知ったエルサレムの娘たちは、自分たちも花婿を知りたいと思ったのである。人間の夫婦の描写だとしたら、花婿の愛を勝ち取ろうとライバルの炎がメラメラと燃え上がるようなとんでもない話となっていくところであるが、これは、霊においての話である。今やエルサレムの娘たちの内に、花婿を知りたいという飢え渇きが与えられた。居場所を一番知っているのは、花嫁であることにも、エルサレムの娘たちは気づいている。試練が激しく、イエスの愛が見えなくなり、私たちは、ときどき、花婿がいなくなってしまったように感じることがある。しかし、他の人々に証を始めるとすぐに、そう遠くに行っていないことに気がつく。

 「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集めるために。」(雅歌 6:2)「あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。」というエルサレムの娘たちのことばに、花嫁は答える。先ほどは、自分も花婿の居場所がわからずに、捜しまわっていたのだが、花婿を語るうちに、花婿の居場所が見えてきたのである。同時に、自分にへりくだりがなかったことに気づかされた花嫁、「私の愛する方は、自分の庭、(良いかおりに満ちた)香料の花壇へ下って行かれました。主のみこころに不平不満をもって答える私を置いて、私がみこころを悟るように、自分にふさわしい庭に下って行かれたのです。庭の中で群れを飼い、(へりくだりの)ゆりの花を集めるために。」

 「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 6:3)花嫁は、花婿の居場所をはっきりと確信したのである。同時に、自分にへりくだりがなかったために、花婿と離れ離れになったことも気づいた花嫁。砕かれた花嫁は、婚約期間から成長したことがわかる。婚約中は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 2:16)と言っていたのである。順序が変わった。まず、私は私の愛する方のもの、が先立つ。これが、自分のためでもあり、こうすることが、私の愛する方は私のものと、主のものを共有することのできる道であることを、自己主張を捨て、へりくだりを学んだのである。以前も、花婿がゆりの花の間で群れを飼っていることは知っていた。しかし、ことば上で知っていたにすぎなかった。花嫁は、この後、二度、花婿の居場所を懸命に捜しているのである。今や体験的に、ゆりの花、へりくだることを学んだ花嫁は、はっきりと知ったのであった。

 花婿が望んだ位置にまできた花嫁に、花婿は優しく語りかける。エルサレムの娘たちの前で・・・。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)主は、このように、証を確かなものとするために、力と栄光をもって、現われてくださるお方である。主のみ前でへりくだる花嫁を、主ご自身が高く上げてくださるのである。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ 4:10)とヤコブが言うとおりである。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)と後に花嫁は、高くされた。花嫁となったために、兄弟からしいたげられ、行き場を失い、群れのかたわらで、子やぎを飼うように命じられた花嫁。その待遇が気に入らず、不平不満をもって、花婿に接していた花嫁であった。花婿が離れるという二度の経験が彼女をへりくだらせ、自我が砕かれた。夜回りたちに打ち傷つけられても、私は愛に病んでいると伝えてくださいというのが、精一杯の花嫁を、花婿は高く上げてくださったのである。誤解され、一時的にみじめな状態に置かれても、へりくだることを学ぶなら、主ご自身が高くしてくださるのである。へりくだることを学ぶとは、苦難をじっと状況が変わるのをただ待つということではない。花嫁にとってのへりくだりを学ぶということは、殻から出て、プライドを捨てて、花婿を捜しに出たことであった。花嫁やエリヤが特別高慢だったから、へりくだりを学ばなければいけなかったのではない。むしろ、他の人よりも、へりくだっていたといえる。人類に罪が入ったアダム以来、人間の従来もつ性質が、神のへりくだりに反するのであり、神に近づけば近づくほど、その性質を変えられる必要が出てくるのである。神から遠ければ、自己中心的な自我をもっていようが、神も気づくまで、そのまま素通りしてくださるだろうが・・・。次回は、この花婿のことば、6章4節からを見ていく。

落ち穂の会提供

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2015年4月 5日 (日)

『キリストの花嫁 6』雅歌 5:1-9

 前回、花婿は花嫁を、気高く危険なきよめ、契約、引きこもりの山々であるレバノン、アマナ、セニル、ヘルモンから降りて、安全で平和なへりくだりの没薬の山、信仰の乳香の丘へ招いていた。花嫁がどんなにうるわしく、最上の実を産み出すかを述べた花婿に応え、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」とそれらの風が花嫁の産み出したよいかおりを漂わせてくれ、花婿が、庭で最上の実を食べることを願った花嫁であった。北風はきよめ、南風は成長といのちの象徴であった。

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『愛の病-へりくだりの学び―』雅歌 5:1-9(新改訳聖書使用)

交わりを喜ばれる花婿

 「私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。」(雅歌 5:1)“my garden, my myrrh, my spice, my honeycomb, my honey, my wine, my milk” <New King James Version Bible(英国欽定訳)> 私の庭、私の没薬、私の香料、私の蜜の巣、私の蜂蜜、私のぶどう酒、私の乳、私の、私の・・・、花嫁の閉じられた庭は、花婿の所有であった。花婿がそれを設け、木々を植え、育て、水をやったものであった。花嫁が自分で守ろうと固く閉ざしていなくとも、花婿が守りの垣を設けて、守ってくださるものであった。花婿の庭といっても、「私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)と花嫁が開放してこそ、入れる庭であった。花婿は、花嫁の心に形成された庭に入り、まず、へりくだりの没薬と他のさまざまなよい香りの香料を集められる。何よりもへりくだりを重視される花婿。庭で、花婿は、蜜がたくさん蓄えられている蜜の巣(蜜の巣からは蜜蝋が取れ、神殿をともす光ともなっていた。)と蜜(蜜はみことばで、みことばは光である。)を食べ、すなわち、みことばによる豊かな交わりをし、ぶどう酒と乳を楽しまれる。イエスの血潮、贖いによる交わり、みことばの養いといった主にある交わりを楽しまれるのである。「友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。」(雅歌 5:1)友や愛する人たちに、共に花嫁との関係を祝うように花婿は言う。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。庭で、友と交わりを楽しむ花婿。愛に病みつつも、もてなそうとする花嫁。時が経った。

 「私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。」(雅歌 5:2)花嫁のことばである。花嫁は、「眠っていたが、心は目覚めていた」とある。「心がさめていた」の原語は、「目覚める、覚醒する、奮い立つ」という語であって、冷えているということではない。心は、花婿への思い、愛でいっぱいであったのだが、行動、実行するような元気のない状態である。以前、2章では、花嫁が作った壁の外で呼びかけていた花婿が描かれていたが、今度は、壁ではなく、戸をたたき呼びかけている。きちんと出入り口がある花婿が設けた守りの囲いの戸である。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。」(雅歌 5:2)と呼びかける花婿。汚れのない従順な鳩と・・・。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」(雅歌 5:2)聖書で、露は、天からの恵み、主の教えとして描かれる。出エジプト時、天からのマナは露とともに降った。「夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」(民数記 11:9)「天の賜物の露」(申命記 33:13)モーセは死ぬ前に、民に言った。「私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。」(申命記 32:2)花婿は、教えやことばを分かち合おうとたくさん携えて、眠っている状態の花嫁のもとへ、やってきたのである。花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」このように言いながら、戸をたたいている。

心を閉ざす花嫁

 「私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。」(雅歌 5:3)心は愛でいっぱいである花嫁は、花婿の戸をたたく音に反応はするのだが、起きて戸を開けるのをいやがっている。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉(雅歌 4:12)であった花嫁は、花婿の客や友人たちに、庭を開くことをいやがっていたのだが、今度は、花婿のためにも戸を自ら開けるのをいやがっていたのである。私たちが、自分の心、自分の庭の戸を主のみこころに従って他の人々に仕えることから逃げるとき、神に対して、花婿なるキリストの個人的な訪れに対してさえも、戸を閉ざしていくことになっていくのである。この花嫁の言い訳は、どうとでもなる言い訳である。着物はまた着ればよいのだし、足も再び洗えばよいのである。「どうしてまた」の原語は、強いことば、間投詞「どうしてまた、ああ!」が使われている。着物、「わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。」(エゼキエル 16:10)神である主が、花婿なる女性に着せた義の着物である。義を行なうことに疲れているのか、着物をぬいでいる。また、世を歩いて汚れがついてしまった足も、洗ってきれいになっているのである。母の子らにしいたげられた痛みによる花嫁の心は、もとのようないちずな純粋さはなかなか戻らない。花婿の携えてきた尊く優しい露、しずくを分かち合うには、花嫁側に、それを受け取る意志と力が必要なのである。

 「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。」(雅歌 5:4)応答のない花嫁に、花婿は、手を戸の穴に差し入れた。手は「強さ、権力」という意味もある。この庭の所有権は、花婿にあり、花婿はかしらでもある。花嫁は、花婿のこの行動によって動かされ、起き上がった。初めから起きていれば、次にくるような遠回りの苦しみを通らなくてもすむものを、つまらない意地で、花嫁は、再び花婿を見失い、苦しみにあうことになる。

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

花嫁の覚醒

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

 「私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。」(雅歌 5:6)花嫁が、戸を開け、ふたりは抱き合ってめでたしめでたし・・・、となればよいのだが、そうはならなかった。花婿は、背を向けて去って行ったのである。戸を開けてくれることをあきらめたのではない。花婿が開けようと思えば、開けられた戸である。戒めのためでもない。見限って捨てたわけでもない。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13:5)と言われ、愛である性質の花婿の愛は変わらないはずである。とすれば、背を向けて去った行為も花嫁への愛によるものである。このままめでたし、めでたしとなったところで、今のままの花嫁では、このことを繰り返す。これを許すことは、花嫁のためにもならず、愛ではない。人に仕え、人を教え、救いに導く働きをなすように願われている花嫁なのである。花嫁には、そのように成長してほしい。花婿は、花婿の客のためなら、洗ったばかりであっても、矯正されてではなく、喜んで足を汚し、喜んで起きるようになることを花嫁に望んでおられたのである。花嫁の悪い態度は、改められなければ、花嫁の成長はなく、花婿も近づけないのである。「母の子らが私に向かっていきりたった(雅歌 1:6)から、私は愛に病んでいる(雅歌 2:5)。だから、私はこの囲まれた守りの中で、何もせずに、ただ花婿であるあなたを愛し続ける。」ではいけないのである。花嫁は、敵をも愛し、敵にも仕えることを学ぶ必要があった。戸を開けなかったのを悔いるだけでは、不十分であり、更なる愛、犠牲を払っても愛する至高の愛を学ぶ必要があったのである。今までの花嫁も、多少の犠牲愛は持っていただろう。しかし、自分がの傷つかない、害になるほどの損害を受けない程度の犠牲であった。犠牲がひどくなると、文句が出る程度の犠牲であった。母の子らにぶどう畑の見張りをさせられると、立てなくなる程度のものであった。主の言われる愛は、敵を愛し、その敵のためにいのちを捨てるほどの愛である。いのちを捨てるという場面に遭遇したこともなかった花嫁にとっては、この愛の差もあまりわかってはいなかったのではないか。「私は、花婿のために、孤独なのよ(花婿のせいで、孤独なのよ)・・・。少しくらい甘えたっていいじゃない。」花嫁であろうが、苦しみが続くと、こうなっていくのが、完全ではない人間の姿である。花婿は、花嫁に、そのことを学んでほしかったのである。「あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」(雅歌 5:6)3章で、花嫁は、自分の作った壁のため、いなくなった花婿を捜したことがあった。同じように、花婿を捜しに行く花嫁。あのときは、花婿は、そば近くで、見守っていてくれたようだ。今度も呼べば出てきてくれるかも・・・。花嫁は呼んでみる。しかし、応えはなかった。中に入れなかったために、いなくなったという状況は同じでも、前の時と同じやり方では通用しないのが信仰の世界。その時々で、取り扱いは違う。すでに学んだ同じことを学ぶ必要はない。

 「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」(雅歌 5:7)3章と同じである(雅歌3:3)。しかし、今度は、「彼らは私を打ち、傷つけました。」(雅歌 5:7)とある。以前、夜回りたちは、花婿を見つけることができなかった。というか、見つけてあげる気もなかったのかもしれない。3章には、その辺のことは省いてあり、何も書かれていない。花嫁は、夜回りたちに、「花婿を見ませんでしたか。」と尋ねて、その後、さっさとすぐに、しかも夜回りたちを通り過ぎてすぐに(夜回りたちの目前であったかもしれない)、自分で、花婿を見つけて、婚礼の儀をしているのである。町の巡回者としてのプライド、町のことは自分たちがよく知っているというプライドはずたずたである。しかし、3章で、花嫁といっしょに探すこともできた彼らが、花婿の捜索の手助けをしなかったのは、そのことを仕事にしているだけに、十分に職務怠慢なことであった。巡回者が捜索の協力をしないということだけでも、十分な悪であるのだが、今度は、「またか、うるさい奴だ。」と花嫁を打ち、傷つけ、花婿捜しの妨害さえしたのである。「彼らは私を打ち、傷つけました。」の「打つ」のヘブル原語は、「強く打つ、殺す、なぐる、追い出す」という意味がある。「傷つけられる」のヘブル原語は、「身が裂かれる」という意味がある。夜回りたちは、今度は、前回と違い、花嫁に尋ねられたわけでもなく(前回の経験からか、力にならないとわかっていてか、花嫁は、尋ねていない)、自分たちから、花嫁を見つけ、近寄り、怒り、憎み、打ちたたき、身を裂くほどに傷つけ、追い出したのである。「城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」(雅歌 5:7)「城壁を守る者たち」は、「町を行き巡る夜回りたち」と同じように、群れの城壁を見張る者、つまり宗教的な指導者、監督たちといったところであろうか。この者たちの中に、キリストの愛に基づいていない人がいて、彼らは、花嫁のかぶり物をはぎ取ったのである。花嫁のかぶり物とは、「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)とあるように、救いのかぶとである。もちろん、実際に救いをはぎ取られて、なくなったというわけではない。そのようなことは、人にはできない。ヘブル原語の「打つ」に「追い出す」という意味があることにふれたが、除名のような状態によって「贖われた者、救われた者」としての自尊心をはぎ取ったということである。花嫁は、このような苦しみを通らされ、徹底的にへりくだらされたのである。

花嫁の成長

 「エルサレムの娘たち。誓ってください。」(雅歌 5:8)前2回、花嫁が、エルサレムの娘たちに誓わせた誓いは、「エルサレムの娘たち。私は、・・・あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7,3:5)であった。今度は、「誓ってください。」と言っている。へりくだらされた花嫁のことばである。「あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌 5:8)「私は、花婿に愛されているのよ。」というにおいをぷんぷんさせていた花嫁が(愛されているのは真実だろうが、他人にとってはいやみかもしれない)、「愛を求めている、と伝えてほしい。」とエルサレムの娘たちに頼んでいるのである。花嫁は、自分よりも立場の低い人々に、自分のためのとりなしを頼んでいるのである。「私は愛に病んでいます。すぐに開けるべきであった戸を開けませんでしたが、私はあなたを愛しています。私はこのような状態では生きていけない。喜んで足も汚します。喜んで仕えます。私は、あなたがいないと生きていけません。」花嫁にとっては、夜回りたちからの悪よりも、花婿がいなくなったことのほうが苦しいことであった。自分も決して正しい者ではない。自分も、花婿を中に入れないで(閉め出して)いたのだ。夜回りのしたことを主張するよりも、花嫁の目には、愛しか、目にはいらなくなっていた。自分のなしたことのすべての責任をとれる人間はいない。ただ主の愛にすがるだけである。愛から出るうそは、愛のない本当のことよりもまさるのである。愛に目覚め、正しくないことをした兄弟たちを訴えていた花嫁は、実感したことだろう。姦淫罪で連れてこられた女性に、イエスさまは、「罪を犯したことのない者から、石を投げよ。」と言われた(ルカ 8:7)。年取った者から順に、その場を離れ、だれもいなくなった、とある(ルカ 8:9)。これは、罪を責められた者が、正当防衛するために使うみことばではない。罪を責めてはいけないという教えでもなく(裁いてはいけないが)、罪よりも愛が大事だという教えである。ここでのイエスさまは、うそをついてかばったわけではないが、この女性が姦淫罪を犯していたことは事実である。姦淫罪を犯したという罪の事実よりも愛が大きいのである。

 「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(雅歌 5:9)エルサレムの娘たちの答えである。彼女たちは、信じ、救いを得ている信者であったが、花婿の何がそんなにすぐれているのかを、悟ってはいなかった。エルサレムの娘たちは、花嫁が、女の中でも最も美しいこと、自分たちが持っていない何かを持っていることを見て、「女の中で最も美しい人よ。」と敬意を払っているのである。キリストの花嫁は、ご自身の妻を、ご自身の目だけではなく、エルサレムの娘たちの目にも、本当に美しい者として、整えてくださるのである。しかし、エルサレムの娘たちは、花婿のすぐれていること、王の王、主の主であることをほとんど知らなかった。「花嫁のような美しい女性には、あなたの愛する方の代わりなんて、いくらでもいるでしょうに。なぜ、そんなに、悲しくつらいのですか?」エルサレムの娘たちにとっては、花嫁の花婿への熱心さが不思議に映っている。これほど美しい人が、たったひとりの花婿しか、しかも見栄えの悪いような(「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ 53:2,3)と、十字架で死なれたお方である)花婿しか求めないとは、そこには、何か隠されたものがあるのに違いない。ひどい目にあったにもかかわらず、そのこともどうでもよくなるくらいに、愛の病にかかり、熱心にたったひとりの花婿の愛を求める花嫁の姿に、人々は、やがて、詰め掛けるようになる。それほどまでに愛される花婿とは、どのような人なのかと、花嫁を見て、知りたくなってくるのである。

 花嫁にとって、すべては、益になるのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)

 苦難にあったら、次の3つのことによって、後がぜんぜん違うものとなる。① 苦難をどうするか、どう乗り越えるか。② どのような幻、ビジョンを描くか。③ 誰と働くか。例えば、花嫁の苦難の場合、どうすれば、ベストであるか。  ① 孤独という苦難を妥協せず、花婿にたよりきってのりきる。② 花婿とともに働き、遂には、兄弟たちも一致へ。③ 花婿を愛する人々(花婿の愛について知りたいと聞きにくる人々)

 祝福を祈ります。

落ち穂の会提供

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2015年3月30日 (月)

『キリストの花嫁 5』雅歌 4:8-16

 前回は、婚礼の様子と花嫁の美しさを見てきた。成長した花嫁は、すべてが美しく汚れがなかった。7節の後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿が、没薬の山、乳香の丘へ行って、場面は変わる。続きを見よう。

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『北風と南風-きよめといのちの恵み―』雅歌 4:8-16(新改訳聖書使用)

花婿の招き

 「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。」(雅歌 4:8)花婿は、花嫁を招く。遠いところに先へ先へと行って待たれるのではなく、「私といっしょに」とともに歩んでくださるのである。レバノンは、ヘブル原語のlbn「白」の派生語であり、レバノン杉と同様、きよめの象徴である。自我が砕かれきよめられた花嫁は、そこから主とともに歩み出すことを求められている。アマナは、レバノン山脈の東方側(アンティ・レバノン山脈)の峰の一つで、ヘブル原語の「堅い契約、職務、建てること、支えること、忠実であること」を意味することばである。結婚の契約を通して、子孫を建て上げる豊かな実りの契約ということである。セニルは、ヘルモン山の呼称であり、とがったとか、頂上という意味がある。アマナとセニルとヘルモンは、ヘルモン山の3つある頂の名である。ヘルモンは、霧で有名であり、ヘブル原語の「引きこもる」という意味がある。ヘルモン山からの霧は周りの地域を潤し、豊かな実りによる祝福を産み出した。「没薬の山、乳香の丘」(雅歌 4:6)と更なるへりくだりと信仰の高みに行くには、今いる山を降りて越えてこなければ、頂にとどまっている限りにおいては、行くことができないのである。きよめのレバノン山脈を越え、高くそびえるセニルの頂を越え、霧のヘルモンの頂を越え、安全で平和なへりくだりの山への招きである。レバノン、アマナ、セニル、ヘルモンにいる花嫁は、常に危険を伴っていたのである。そこは、ライオンやひょうが棲息し、洞窟があるところであった。常に戦いを意識している必要があった。そこを越え、「没薬の山、乳香の丘に行こう。」と花婿は言われる。

 「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。」(雅歌 4:9)花婿は、「私の妹」と花嫁を呼んでいる。確かに、キリストは、私たちの初穂であり兄であるお方である。イエスの心を奪うもの、引きつけてやませないものとは何か? 花嫁のただ一度のまなざしと、花嫁の首飾りのただ一つの宝石で、とある。花嫁の見た花嫁の目は、顔おおいのうしろで鳩のよう、つまり、素直で、識別力にたけ、しかもへりくだりの中の目であった(雅歌 4:1)。花嫁の首飾りの宝石は、宝石の首飾りは、“chains of gold”「金の鎖」であり、金は神性、鎖はつながれるということから、主に明け渡された意志であった(雅歌1:10)主をとりこにしたのは、花嫁の素直で賢くへりくだったただ一度のまなざしと、主に明け渡されたただひとつの意志であった。これらは、花婿の御前に尊く、価値あるものである。

 「私の妹、花嫁よ。」(雅歌 4:10)と念を押すかのように、もう一度呼びかけられる。「あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(雅歌 4:10)ことを雅歌の初めに、花嫁が花婿の愛について言っている。「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。・・・。私を引き寄せてください。」(雅歌1:2-4)花嫁が、花婿を愛した初めの愛を、花嫁に思い起こさせることばである。当初の花嫁には、狂おしいほどの花婿への愛への飢え渇きがあった。孤独の試練を経、傷ついた花嫁が忘れてきた思いである。花婿の姿が見えなくなって、回復した思いであったが、完全な回復ではなかった。「あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、」十字架の贖いよりも快い、成長した愛、花嫁の愛もまた、十字架の購いでとどまってはいず、成長していたのである。「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来た花嫁。その香料は、調合され、バランスがとれた一致のあるかおりであった。その一致のあるかおりは、どんな他の香料よりまさるものであった。

 花婿は続ける。「花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)罪深さを熟知し、簡単に切れて毒づいたりしない花嫁の紅の糸のようなくちびるは、蜂蜜をしたたらせていた。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(詩篇 119:103)みことばを十分に蓄え、くちびるからしたたり落ちるように、自然にみことばがこぼれ落ちるくちびる、こぼれてもこぼれても、蓄えた蜜と乳はなくならず、舌の裏(ヘブル原語は「下」)に蓄えられているくちびる。花嫁は、蜜のように甘いみことば、乳のように赤子にも吸収できるように処理されたみことばを蓄えているのだ。「あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)花嫁が着ている着物は、レバノンのかおりのよう、つまり、雪よりも白くきよめられた義の衣である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。美しい花嫁のようすが語られた。

 「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(雅歌 4:12)初穂なるイエスさまの妹は、イエスさまの歩まれた十字架の苦難の道の後に続く者でもある。花嫁は、この苦難の試練を通り、心を閉ざしてしまう経験をしていた。人が集えるように整えられた庭、園のような広い心を持っていた。いのちの源であるみことばを流す源泉であった。そして、生ける水が湧き出す泉でもあった。いのちの躍動が見られる生き生きとした花嫁であり、人にもそれが伝えられた。それが今、汚れから守るために、純潔を保つために、庭は誰も立ち入らないように閉ざされてしまい、源、源泉はいのちを流さないように閉ざされてしまい、泉も外に流れないように封じ込められてしまっている。開けば、封印を解けば、ふたたびいのちがあふれるのであるが・・・。

 花嫁から、どんなものが産み出されるか。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:13-15)この箇所は、花嫁の産み出すものとして、ガラテヤ 5:22,23の御霊の実と対比させ、これまでも述べてきた。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)

 ①最上の実をみのらすざくろの園 ざくろは愛である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい。そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあることを先週も述べた。愛ほど、ねたみと憎しみを取り去ることのできるものはない。中東の熱くて乾燥した地域では、果汁が多く、すっぱいざくろの果実は、心をも潤したようだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。多くの愛の種を宿し、人々を潤すざくろ、花嫁は、ざくろの中でも最上の実をみのらせるざくろを産み出すことができ、しかもそれは、果樹園を形成するほどのものなのである。

 ② ヘンナ樹 ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花を付け、非常によいかおりがする花をもつ。化粧やしみを隠すため、また香水にも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。喜びは人を美しくする化粧品である。またよいかおりをただよわせる香水でもある。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10, 欄外) というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。

 ③ナルド ナルドは、おみなえし科の宿根草である。ナルドは、平安、平和に当たる。ベタニヤのマリヤが十字架を目前にしたイエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油を塗った。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになったとある(ヨハネ 12:3) 。ナルドの香料は最もかおりの長持ちする成分を構成するものとして有名であったと言われている。強い香りゆえに、続くピラトの裁判の法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで香ったことであろう。平安、平和をもたらした主の十字架のかおりである。ナルドはまた、ローマや中東で、精神安定剤としても用いられた。神の平安は一番の精神安定剤である。13節の終わりと14節の初めに、この平安の象徴ナルドが計2回述べられている。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30) と主イエスは言われた。イエスのもとに来たときに得る平安、その平安からくるたましいの安らぎ、憩い、平和。平安はこの2面がある。

 ④ サフラン 寛容、忍耐(ヘブル語の訳)に当たる。聖書には、「怒るのにおそく、恵み豊かな神」(民数 14:18)とあるが、寛容は忍耐を伴い、忍耐は寛容を伴う。めしべの柱頭が料理の風味と色(あざやかな黄色、パエリアなど)をつけるのによく用いられるが、サフランは、クロッカスによく似たあやめ科の球根植物である。複雑な薬の成分の一つにも使われ、ヒステリーの鎮静剤として用いられた。サフランの色を変える力、着色力は、多くのものの色を変える忍耐の力についての描写のようである。たとえば、ヒステリーを起こし、周囲を真っ黒に染め上げている状況下で、だれかがこの忍耐と寛容のサフラン(鎮静剤)を用いるなら、次第にヒステリーはおさまり、周囲を麗しい色に染め変えられるのである。

 ⑤ 菖蒲 親切、慈愛、善、やさしさに当たる。菖蒲は、葦のような多数の茎が集まった、切るとよいかおりがする芳香性の植物である。根茎の精油は、芳香性の健胃薬として、茎の甘い糖分は食用のシロップに、茎は音楽の演奏に用いられた。胃にやさしく、甘くやさしい、やさしく心地よい音楽・・・というところだろうか。

 ⑥ 肉桂 善意に当たる。シナモンといえばわかりやすいだろう。芳香性のある根の皮は、健胃薬になり、味や臭いの矯正薬(矯味、矯臭薬)、菓子として用いられた。まさに善意の薬である。

 ⑦ 乳香の取れるすべての木 乳香は誠実、信仰(ギリシヤ語ピスティスの訳)に当たる。乳香は、白くなるという意味の語源から来ている語である。乳香は苦味と酸味があり、きれいで安定してよいかおりのする炎を上げて長時間燃える。信仰の炎である。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。乳香はまた、薫蒸とばい菌や虫を殺すための薬として用いられた。私たちの霊を汚す菌を退治するのもまた、信仰の力である。

 ⑧ 没薬 柔和に当たる。没薬とは、ミルラという棘のある低木の樹脂を濃縮したものであり、古くから、通経薬、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。白や黄色の小さな丸薬で売られていて、強いよい匂いがあり、苦味がある薬である。麻酔薬としてよく用いられ、十字架上のイエスに、兵士たちは、没薬を混ぜた酸いぶどう酒を差し出したのは、麻酔薬としてであった。柔和、へりくだりを持つことは、麻酔薬の役割を果たす。他人が、どんなに心を傷つけるような痛いことを言ったとしても、この麻酔薬が効いているなら、大丈夫である。自分は言われて当然な罪ある者であるのだから。シムイにのろわれたダビデがそうであった。息子アブシャロムに王座を明け渡し、逃亡の身となったダビデをシムイはのろった。それに対するダビデは、「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(Ⅱサムエル 16:11,12)であった。信仰のへりくだりである。

 ⑨ アロエ 自制、節制、克己(欲望、衝動を押さえる)、寛大、に当たるやけどの特効薬、緩下剤など医者いらずの薬として用いられている。また、防腐剤としても用いられた。自制というものは、やけどを防ぎ、喜びや楽しみを持続させ、腐るのを防ぐ、医者いらずのアロエのようである。自制がきかないために、カード地獄など大やけどをした人はたくさんいる。これらの香料の中でも、花嫁の産み出す香料は、香料の最上のものすべてであった。ここまでが、御霊の対比に見る花嫁の産み出す実である。それ以外にあと3つ、産み出すものが描かれている。

 ① 庭の泉 庭園にいのちを与えるのは泉である。いのちの泉は、主を恐れることであると聖書は言っている。「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言 14:27)花嫁は、主を愛することだけでなく、主を恐れてもいた。

 ② 湧き水の井戸 生ける水の井戸(泉、穴)新鮮な生ける水が絶えず湧いている井戸に花嫁をたとえているのである。

 ③ レバノンからの流れ きよめの流れ。他人をもきよめることができる花嫁。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉であった花嫁が、開かれるとき、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ、大川になるほどの流れが産み出されるのである。以上、花嫁の産み出す十二個のものを見てきた。

花嫁の応答

 4章1節から15節までにわたった花婿のほめことばに、花嫁は応答する。いなくなった花婿を捜しまわって、しっかりとつかまえて、母の家の奥の間に連れて行って、婚礼の儀のようすが描かれ、花婿のほめことばがあり、山から降りてくるように招かれた後、最初に出てくる花嫁のことばである。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)花婿のことばに応答し、花嫁は、自分が産み出す最上の実をともに喜ぶことができるように、北風と南風なのかを見てみよう。

 ① 東風は、聖書において、主の懲らしめの風として描かれている。熱い焼けつくような風が砂漠から吹いてきたからである。ヨセフが解き明かしたパロの夢は、「東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来る」夢であった(創生記 41章)。モーセによる出エジプト時に、エジプトに下された十の災いの8番目のいなごは、東風が運んできた。「主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。」(出エジプト 10:13)紅海を分けたのは、東風であった。これは、イスラエル人を救うと同時に、エジプトをさばいた。「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」(出エジプト14:21)また、「あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。」(詩篇 48:7)ともある。

 ② 西風はどうか。先ほどのエジプトへのいなごの大群を追いやったのは、西風である。「主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。」(出エジプト14:19)西の風は、また雨をもたらす風でもあった。イエスさまは、正しいことを見分けるたとえとして言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。」(ルカ 12:54)また、エリヤが手のひらほどの雨を見たのも海の方、つまり西であった(Ⅰ列王 18:42-46)。西風は恵みの雨と祝福の象徴である。

 ③ 北風は冷たくて、寒々とした冬の突風のような風であり、(さばきも含む)きよめを象徴する。「今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。」(ヨブ 37:21,22)エリフが語った北風である。エゼキエルの召命時の神の顕現は、「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。」(エゼキエル 1:4<新共同訳>)

 ④ 南風は、新しい成長といのちの恵みをもたらす風である。

 花嫁が、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と言ったのは、花嫁の切なる願いでもあったのである。園をきよめる北風、自分も、そして周囲もきよめる北風が起きるのを待ち望む花嫁。「北風よ、吹け。」ではない。痛い目にあうことを望んでいるわけではない。起きて目覚めてくれればよい。吹くのは南風である。兄弟にいじめられた花嫁や、北朝鮮の拉致の被害者である横田めぐみさんのお母さんのように、いわれのない被害にあった人は、北風が起こってほしいと願っている。それは、その人たちを恨んだりする感情とは違い、愛から出た感情である。周囲の汚れによる被害、自分も罪ある者だが、その自分をきよきうるわしいものに目を向けていけないほどに、追い詰めた周囲の罪。自分も他人もきよめられなけらば、真の安息はないのである。きよめの後は、恵み、成長、いのちの躍動があって欲しい。母なるご聖霊、花婿なる主イエスといつもともにいて、すでに雨の恵み、祝福の中にあり、その祝福の中のつらい試練にあった花嫁には、西風は十分であったのである。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道で」(Ⅰテモテ 6:6)あり、主に喜ばれ、すべてを受ける道なのである。北風が起きて、南風が吹いてきてこそ、花嫁は、最上の実をかおらせることができるのであり、花婿もその実を楽しむことができるのである。私たち現代のクリスチャンに必要なことは、雨の恵みや祝福の西風ばかりを求めることではなく(それも必要であるが)、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と求めることである。

落ち穂の会提供

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2015年3月22日 (日)

『キリストの花嫁 4』雅歌 3:6-4:7

 最近、「キリストの花嫁」という言葉が盛んに使われているようだ。 ヨハネの黙示録19章や21章に小羊の婚礼の時と花嫁について語られているため、終末とともに語られがちだからだ。 キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。 キリストの花嫁の姿は、雅歌を読み解くと、現れてくる。

 前回は、孤独の試練を通ったため、花婿の誘いにも壁を作り、花婿を拒んでいた花嫁の自我が砕かれていく様子を見てきた。花嫁は、花婿との仲も回復され、母の家に、花嫁をみごもった人の奥の間に、つまり祈りの部屋へ、花婿をせかすように連れて行き、エルサレムの娘へ、再度、愛への干渉をしないように誓わせたところまでを見た。この5節の終わりには、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿と花嫁が、祈りの奥の間で、過ごし、時が経っていった。その続きを見ていこう。

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『煙の柱のように-婚礼の時―』雅歌 3:6-4:7(新改訳聖書使用)

婚礼の行列

 「没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。」(雅歌 3:6)ここからのことばは、誰が誰のことを言ったことばであるか、見解の分かれている箇所である。花嫁のことばであると言う人もいるが、「婚礼の日、心の喜びの日のために、」(雅歌 3:11)と婚礼の日であり、その行列のときの第三者である周囲のことば、エルサレムの住民のことばだと言える。「見て、見て、あの美しい栄誉ある座についた花嫁は、だれ?」といったところである。『キリストの花嫁 1』で見た雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の9つの実の対比によると、没薬は「柔和(へりくだり)」、乳香は「誠実(ギリシャ語のピスティス〈信仰〉」にあたる。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。「貿易商人」(ヘブル原語では「交易する、取り引きする、商人」)私たちと取り引き契約されるのは、神であられる主イエスである。ここは、「没薬(へりくだり)や乳香(信仰)、貿易商人のあらゆる香料の粉末(主イエスの持たれるあらゆるかおり、これは、砕かれたかおりであった)をかおらせて、煙の柱のように(柱のようにまっすぐに神の御前に立ち昇るような祈りを携え)、(試練の)荒野から上ってくるあの人はだれ。花嫁はだれ?」と参列している人々が、花嫁を見て、ためいきが出るほどの賛嘆の声を上げたのである。王と結婚したシンデレラを見る人々のような・・・。

 「見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。その回りには、イスラエルの勇士、六十人の勇士がいる。」(雅歌 3:7)「ソロモンの乗るみこし」となっているが、原文は、みこしの所有者、発注者を表わす表現がされているだけであるということで、花嫁が乗ったとする解釈もあるが、10節のみこしの装飾からみると、「ソロモンの乗るみこし」でよいと思われる。解釈者によって、いろいろと意見が分かれるところであり、いろいろ解釈もあると思うが、ここは、そういうふうにまとめてみた。ここの「みこし」はヘブル原語では「寝台、床、ソファー、棺代」であり、花婿が休まれている場である。  「あれがソロモンの乗るみこしよ。あのお付きの従者たちのいさましいこと。」ソロモン王の栄華は、イエスの型ともなっていて、栄光あふれたきらびやかさがある。そのきらびやかさは、「地上のどの王よりもまさっていた」(Ⅰ列王 10:23)とあり、金、銀、象牙、武器・・・と贅沢をつくしていた。そのソロモンのみこしである。さぞ豪華であろう。みこしの回りにいる六十人のイスラエルの勇士、イスラエルの勇士、つまり、主の勇士といえば、祈りの勇士、六十は六(完全数七より一つ足りない人を表わす数)×十(十戒のように神の前の人の責任、十全、欠けたところのない完全)で、神の御前で責任を果たす祈りの人たちということである。

 「彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。」(雅歌 3:8)祈りの勇士たちはみな、剣を帯びていた。御霊の剣といえば、神のことば、みことばである。「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)祈りの勇士たちは、みなみことばで武装されている戦いにたけた熟練された戦士たちであった。ふいの夜襲にも備え、おのおのが腰に剣を帯びていた。腰は、もも、腰、わき腹、基部にあたり、生殖の種を保持しているということから生殖の力を表わす。いのちを産み出すみことばを携えている練達の戦士。主の戦士たちである。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。

 「ソロモン王は、レバノンの木で自分のためにみこしを作った。」(雅歌 3:9)ソロモン王(主イエスの型)、花婿は、自分のために、みこしを作った。ここのみこし(ヘブル原語の「神輿、天蓋」)は、神の霊が座す場である。7,8節のみこしでは、安息が表現されていた。ここからは王なる尊厳である。材料はレバノン杉。レバノン杉は、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや紺色の糸とともに使われたもので、きよめをあらわす。

 「その支柱は銀、背は金、その座席は紫色の布で作った。その内側はエルサレムの娘たちによって美しく切りばめ細工がされている。」(雅歌 3:10)みこしの支えなる柱は、購いを象徴する銀、背(うしろ<口語訳>、support<New King James Version Bible(英国欽定訳)>は神性を象徴する金、座席は王を象徴する紫の糸で作られていた。この紫の王の座、ちりばめ細工こそが、ソロモンの座ということを示している。乗るのは、花嫁ではないように思われる。私たちの王なるイエスは、私たちの王という点では、購いを中心とし、神性の輝きを放ち、王の席につかれる。内側はエルサレムの娘たちによって美しい切りばめ細工がなされているというのは、神にあって隠れてなされた信者たちのいろいろな美しいわざのことである。購い、神性、王、信者たちのわざ、それらが、花婿のみこしを形成しているのである。

 「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。」(雅歌 3:11)あまりの荘厳さに、シオンの娘(エルサレムの別の呼び方)たちに花婿と花嫁の婚礼の儀を見に行くように勧めている箇所である。花婿は、花嫁の結婚の日を待ち望み、心の喜びとされている。その心の喜びの日のために、王である花婿は、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。「母上からかぶらせてもらった冠」母とはご聖霊であることは、今までも見てきた。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたイエスさまに、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスさまの上に来られた(マタイ 3:16)。この冠である。神であられるのに、人、しかも無力な赤子の姿をとって来られたへりくだりの主、いばらの冠をつけられて十字架にかかられた主の冠である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。婚礼から、時が経っていった。

花嫁の美しさ

 「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。」(雅歌 4:1)1章15節で、孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁に感動し、賛嘆したときのことばと同じことばが、また出てくる。今度は、自我が砕かれ、成長した花嫁の美しさに感動しているのである。「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」(雅歌 4:1)1章15節で、「あなたの目は鳩のようだ。」と言っていたのが、今度は、「顔おおいのうしろで」という修飾語がついている。試練をくぐりぬけ、自我が砕かれた花嫁は、顔おおいというへりくだりのベールをつけて出てきたのである。鳩の目は、素直だが、鋭い識別力がある。伝道鳩は、長距離を飛んだ後でも、主人の小屋を判別するのである。伝書鳩の持ち主は、空中に小さい点が突然現れ、ものすごい速さで降下してきて、正確に自分の小屋に降りてくる驚きを話している。素直で識別にたける鳩の目。「あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 4:1)今度は、髪である。女性の髪は、権威に服するしるしとしてかぶるべきものとして、Ⅰコリント 11:10 に書かれていて、服従の象徴である。その髪は、「ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう」 であると言っている。ギルアデは、家畜に適した場所であった。カナン入国の時、「ルベンとガド族は、非常に多くの家畜を持っていて、ヤゼル(ギルアデにある町)の地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、その地にとどまった。」とある(民数 32:1)。イスラエルの山羊は、普通の山羊よりも大きく、毛は黒く長く、大きな耳が垂れ下がっているシリヤ山羊と言われるものであるそうだ。漆黒の黒山羊である。ギルアデの満ち足りた環境の中で、荒野の山羊とは違い、満ち足りた平安の中、その黒山羊が号令に従順に群れをなして、花嫁のへりくだりの従順を表わすように、山腹に登るのではなく、山腹から降りてくるさまを、花嫁の長い黒髪に例えている。山羊は羊よりも賢い動物で、羊の群れを導くために先頭におかれるほどであるという。頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであった。

 「あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 4:2)次は、歯の描写である。歯とは、食べ物を噛み砕くところである。洗い場から上って来たばかりの、つまり、きれいな真っ白な歯。毛を刈られる直前の羊の群れ、つまりきれいで丈夫にはえそろっている健康な歯。この葉は、何のためか。歯がはえていない頃は、みことばの乳を飲んでいた花嫁。今や、きれいな丈夫な歯がはえそろって、「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル 5:14)とあるような堅い肉も食べられるように成長していたのであった。堅い食べ物も良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与えられるようになっていた花嫁は、そのみことばの食事で、霊の子供を産めるようになっていた。しかもふたご(ヘブル原語の「ふたごを産む、対になる」)である。子供を産むからこの羊は雌羊となっている。「ふたごを産まないものは一頭もいない(ヘブル原語の「子を産まないものはいない」)。」とあるように、成長した花嫁のみことばによる働きは、すべて、霊の子を産んでいくのである。

 「あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。」(雅歌 4:3)次に、くちびると口である。花びらではなく糸のようなくちびる、けっして美しいとは思えないが、紅の糸、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、“a strand of scarlet”となっている。紅は、緋色である。ヘブル原語の「緋色」は、ヘブル原語の「うじ(トーラート<うじ、虫(柔らかくて毛がなくて細長い、腐れの原因およびそのしるしとしての)>)」から派生した語である。うじは腐敗した物や死んだものを食べて生きる。そういった意味で、英語の scarlet(緋色)には、「罪悪を象徴する緋色」という意味もある。Strandは、より糸である。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:12)とある糸である。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。このようなくちびるは、プライドが傷ついたと、怒って毒をはいたり、つぶやいたりしない愛らしい口である。「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 4:3)次は、頬である。この頬、ヘブル原語の「頬、こめかみ」であり、額の両脇にある平らな部分で、上下の頭蓋骨のちょうつがいの役割をしている。このこめかみが、ざくろの片割れに例えられている。ぱっくりと熟れて割れ、多くの種が現われているざくろの片割れ。雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の実の9つの実の対比によるとざくろは、「愛」の象徴である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい、そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあるそうだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。1章10節で、頬は意志に関することばであると述べた。「顔おおいのうしろにあって、」とあるように、へりくだりの中の愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、「愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:14)このへりくだりの愛で結ばれた知識と口は、完全である。

 次は首である。「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾だ。」(雅歌 4:4)首、すなわちうなじは、意志を表わしている。1章10節で、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志を見た。その意志が、ここでは、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらに例えられている。 ヘブル原語の「ダビデ」=「愛されている者」である。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志、花嫁の成長が見られる。不要な戦いはせず、千の盾が掛けられていて、守りも万全である。千、10×10×10、縦も横も奥行きも10、十全、神の完全さで守られた首。盾は、防御の武器である。「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ 6:16)盾は信仰を表わす。欠けるところのない信仰によって守られた首。これらの盾は、みな勇士の丸い小盾であった。孤独だと思っていた花嫁、気がつくと、多くの信仰の勇士たちの祈りの守りによって完全に守られていた。祈りの勇士たちによる防御、角張って痛い守りではなく、丸くやさしい愛の守りである。兄弟たちにいじめられ傷つき、花婿を一時拒んでしまう経験を通り、人の弱さを知った花嫁は、多くの愛に気づく。

 「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」(雅歌 4:5)次は、乳房である。赤子にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴である。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。ゆりの花はへりくだりを表わす。へりくだりの中の平和。この二つの乳房は、バランスがとれていた。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛。

 「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」(雅歌 4:6)「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:17)と言っていた花嫁主導であるかのようなことばをも受けて、愛を返してくださる花婿の姿。暗闇、困難の時がくるまでに、没薬(へりくだり)の山、乳香(信仰)の丘に私は行っているからついておいでと主は言われる。「私は・・・行こう」であるが、強制はできないが、花嫁がついてくることを望んでおられることは、一体である夫婦となった今、明らかである。へりくだりは大きな山、信仰は丘、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ 17:20)花嫁もへりくだりがないわけではないが、信仰は丘のように、へりくだりは山のようにと、更なる成長を望んでおられるのである。

 「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌 4:7)更なるへりくだりと信仰と言ったが、花婿は、花嫁が不十分であると言ったわけではない。花嫁は安心してよいのである。花婿は、花嫁のすべてが美しく、何の汚れもないと、花嫁を安心させている。その上で、あなたは、もっともっと美しくなれる人だよと、言っているのである。花嫁を美しくさせるのは、花婿の愛である。婚礼を向かえた花嫁は、美しく成長していた。

 こうして、イエスの花嫁が整えられていく様子を見ることは、私たちに励ましを与える。花嫁も完全ではない欠陥を備えているのだが、花婿を、不完全かもしれないが精一杯の愛で愛していくうちに、花婿によって、花婿の愛によって、引き上げられ、整えられていくというさまを見ることができる。雅歌は、花婿の愛に満ちた花嫁への取り扱いを示し、私たちに励ましを与える書簡である。この後も、花嫁の苦しみは続くのだが、花婿に引き上げられ、どのようになっていくのか・・・。

落ち穂の会提供

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2015年3月16日 (月)

『キリストの花嫁 3』雅歌 2:8-3:5

 前記事では、無気力になった花嫁が、花婿に、干しぶどうの菓子による力づけとりんごによる元気づけを懇願し、エルサレムの娘たちに、干渉しないことを誓わせたところまでを見た。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。上に愛という花婿の旗じるしを翻し、子やぎを飼う花嫁が、愛に病んで、時が経っていったようである。

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『狐や小狐の退治-自我の解放―』雅歌 2:8-3:5(新改訳聖書使用)

愛のすれ違い

 花嫁の懇願に、花婿は、左の腕を枕にし、右の手で抱きしめようと、駆けつける。「愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。」(雅歌 2:8)みことばなるキリストは、みことばを携え、さっそうとすみやかに来られる。花嫁を助けようと・・・。

 「私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。」(雅歌 2:9)駆けつける姿は、さっそうと雄々しく、まさしくかもしかや若い鹿(ヘブル原語では「の子鹿」)のようである。さっそうと駆けつけた花婿は、花嫁のもとに行ったのだが、近寄ることができなかった。壁があったのだ。私たちの壁と花嫁は言っているが、この壁は共同で作ったものではなく、花婿が作って行ったものでもなく、もとからあった土台に花嫁が自分で作り上げたものであった。しかも、これは、窓を開けて入れるようなものではなく、窓にはしっかりと格子がはめ込まれているような頑固なものであった。花嫁は心に頑固な壁を持ち、花婿を遮断していた。しかし、覗いてもらえるような窓はしっかりと作っているのである。いつの間に、このような壁が・・・、花婿は、壁の後ろにじっと立って、窓から格子越しに中を伺った。「私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)と言って、花婿のかたわらの緑の牧場を理解した花嫁であっても、彼女の意志でできた自我の壁が花婿との間をはばんでいた。壁を作ってしまった花嫁に、花婿は語りかける。壁を壊すことは、花嫁でなければできないのである。壁を壊せるのは、花嫁が自分の思いやプライドを捨てる決意をし、どんな危機の困難の中であっても、花婿を信頼し、心の奥底の主導権を花婿にゆだね渡すことによる。

 「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。『わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。』」(雅歌 2:10)「さあ、そこで、防御の殻を作ってないで、殻から出ておいで。」と。「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。」(雅歌 2:11)「冷たく厳しい冬は過ぎたよ、あなたを容赦なく打った大雨も過ぎて行ったよ」と。「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」(雅歌 2:12)十字架にかかる体験、裸(自我が露わ)にされる聖別の体験はもはや終わり、暖かい春がやってきた。地は花が咲き乱れ、美しくよいにおいで満ちている。鳥のさえずる歌声もまるで喜びの賛美のようだ。鳩は平和の象徴。中でも山鳩の特徴は、生涯に一度だけ結婚し、その配偶者に忠誠を尽くす一夫一妻制であるため、愛の象徴としてよく用いられている。平和な愛の風景である。花婿の語りかけは続く。「いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:13)春、花のない無花果(実は、花がないわけではなく、実の中にたくさんの花を蔵している)は、青い実をつける。ぶどうの木は、花をつけ、よいかおりを放つ。来るべき大収穫のための花である。「愛する美しい人よ、恐れないで、立ち上がって出ておいで。大収穫が来るよ。」と花婿は呼びかける。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「出ておいで。」と呼びかけたが、花嫁の応答はなかったようである。

 さらに、花婿は呼びかける。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(雅歌 2:14)「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩」花嫁の目を鳩のようだと言った(雅歌 1:15)花婿は、ここでも花嫁を素直で温順な鳩に例えている。しかも岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩である。

 以前、集合住宅の9階に住んでいた時のある台風の夜、一羽の鳩が、我が家のベランダに非難してきた。暗い中、鳥目で見えないためか、暴風雨の中、飛び立ったら危険な状態を知っている鳩は、ひとつ場所にじっとしていた。鳩がベランダに住みつくと子作りをしてうるさく、糞害も大変であると聞いていたし、実際に卵を産まれたこともあるため、空き部屋であった隣にでも行ってとばかりに、そばにあったハンガーでつんつんしてみた。つんつんされた鳩は怖かったであろうに、じっとしていた。ハンガーがふれても知らん顔を決め込むように、こちらを見もせず、無視してじっとしていた。人間につんつんされて、怖くないわけではなかったろうに・・・。その姿を見て、いのちがけであることを知り、そのままにしておいた。少しして、少し小柄な鳩も来て、寄せ合うように一夜を過ごし、早朝に飛び立って行ったのか、起きてみると鳩の姿はなかった。ここなら安心とわかっているのか、突付く者があっても目に入れず、嵐が過ぎ去るまで、じっと嵐を見据え、微動だにしなかった鳩、恐れて飛び立ったなら、容赦ない嵐に倒れたかもしれない。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩」とは、まさしくそのような状況である。嵐の中も、必ず嵐は過ぎ去るという信仰をもって、突付く者があっても、主の守りを信じ、見向きもせず、主の守りの中で耐えている花嫁。そのような花嫁に向かって、「危険なところにいたために、頑固な壁を作っているが、私はあなたが鳩のように素直であることを知っているよ。嵐は過ぎ去った。さあ、私に、顔を見せておくれ。」と花嫁は言う。花婿が花嫁の声を聞くことを望んでいるように、主も私たちの祈りの声を望んでおられる。「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」と言った花婿のように、私たちが祈る姿は、主の御前にとても愛らしく、美しく見えている。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「声を聞かせておくれ。」と言われても、すぐに喜んで応答できないほどに病んでいる花嫁。

 「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(雅歌 2:15)「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。」は、今まで花嫁が花婿に言っていたことばなのである。「そのままにしておいたのは、無視していたわけではない。しっかり聞いていたのだ」ということを伝える花婿。イエスさまはヘロデ・アンテパスを「あの狐」(ルカ 13:32)と言ったように、狐は、キタキツネなどを連想すると、かわいいところもあるが、決してよい動物とは言えない。イソップ物語など、童話に登場する狐は、その性質をよく語っている。狐は、単独で行動し、昼間は、他の動物から奪った穴で休み、夜、行動するという。また荒れ果てた廃墟を好む。雑食性で、ねずみ、うさぎ、きじ、かえるなどの小動物や、果実、特にぶどうを好んで食べる。性質は陰険でずる賢い。花嫁は、このような狐に、悩まされ、翻弄され、またせっかくなった少しのぶどうの実を荒らされた経験もあって、花婿に訴えていたことがあったのである。「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。」花嫁の切なる訴えであった。花嫁は「花婿のためでもあるのだから、このいらだたせる狐を退治してくれてもよいではないか。」と言っていたのである。しかし、狐や小狐をとらえることは、花嫁にできる仕事なのである。花婿は、花嫁が成長するのをそっと見守り、待っていたのである。花嫁の目には、放置されているように見えたのだが…。狼や獅子を捕らえるのとは違うのである。しっしっと追い払えばよいのである。畑に入れなければよいのである。入ることを許さなければよいのである。その力を花嫁はすでに花婿によって与えられているのである。今、大収穫を予見するように、ぶどう畑は花盛りなのである。10節からのかぎ括弧は、壁の窓の格子越しの花婿のことばである。これまでの花婿と花嫁の応答には、かぎ括弧などついてはいなかった。直情的に応答していたのである。花嫁は、これをかぎ括弧をつけ、第三者的に、遠いことのように耳にしているのである。人間は、自分のしてほしい絶対的なことに固執していると、どのように麗しいことばであっても、他のことに耳を貸すことをしないものである。例えば、この花嫁は、花婿が、さっそうとかけつけ、いじめっ子から助けてくれることを望んでいたのであるが、花婿は、愛のことばを言い残して、立ち去っていった。主も、私たちが何かに固執している限り、これがみこころだといって、無理やり引きずり出したり、怒鳴っておどして連れ出すようなことはなさらない。花婿は、花嫁に、おしんのように我力でただひたすら耐えることを望んでおられるわけではなく(それもすばらしいかもしれないが、花婿と歩むためには妨げとなる)、花嫁自身の足で、立ち上がってついてくることを望んでおられるのである。

 立ち去った花婿を思い、花嫁は言う。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌 2:16)まだ、自我が捨てきれない花嫁。まず、「私の愛する方は私のもの。自分のもの。」と言っている。次に「私はあの方のもの。」ときている。こう言っていた花嫁が、後には、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」(雅歌 6:3)と砕かれていくのである。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:16,17)ゆりの花、下にうつむくようにして咲くゆりの花は、へりくだりの象徴である。自我に固執する花嫁をおいて、花婿は、へりくだりの中で、群れを飼っている。立ち去った花婿を思い、花嫁は帰ってきてくれるように言っている。が、このことばの中には、自我がつまっている。「私の愛する方よ」と呼びかけてはいるが、次のことばは、「これこれこういう時までに、あなたは帰ってきて、こうこうこのようになるように。」と言っているのである。懇願ではなく、少し高い位置から、ことばはやわらかいが命令しているのである。「花婿なら当然よ」と言わんばかりである。これこれこういう時までにとは、どういう時までかと言うと、「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、」原文では、「そよ風が吹き始め」夜のこと、「影が消え去るころ」も夜である。暗闇の時までに、ということである。「まあ、今はなんとか大丈夫だし、このままそっとしておいてほしいけど、もっと大変な暗闇の時になったら、あなたはすみやかに帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってくださいよ。」こういったところだろうか。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。時が経った。

砕かれる自我

 強がったものの、時が経つとともに、花嫁はだんだん、不安になっていった。すぐに、花婿を探し回ることになる。「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:1)最初、花嫁のしたことは、捜しながらも、床につくことだった。「床について何もせず、休んでいよう。家宝は寝て待てと言うではないか。楽にして待っていれば、そのうち、時が来て、主(花婿)の方から、来てくださるに違いない。ハレルヤ。主よ、早く来てください。私は待っています。」信仰のように見えても、実は自我の中のあきらめである。寝て待つことは、ことわざであっても、聖書の真理ではない。聖書は、「求め続けよ、たたき続けよ、探し続けよ。」(マタイ 7:7参照)とある。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」と何もしていないのだから、達成感もなく、むなしさが残る結果となる。

 達成感がないことから、花嫁が次にしたことは、人ごみ、にぎやかな通りを捜し回ることであった。「『さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。』私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:2)にぎやかに働いている街中、奉仕に忙しい場所、奉仕の大通りの中、わいわいと華やいで活気づいているところで、捜し始めたのであった。括弧の中は、「私は・・・捜して来よう。」と私が主語の労働である。奉仕は、大切な事柄であるが、主の助けと祝福によってなさせてくださる恵みである。主を捜すためとか、誉れとか、自分のためにという動機でなしたところで、恵みを見出せるものではない。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」徒労に終わってしまう結果となる。主についての働きの大切さは、主とともに、主の後から、ということである。

 次に花嫁がしたことは、出会った夜回りに聞くことであった。「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。『私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。』」(雅歌 3:3)「町を行き巡る夜回りたち」群れの監督者であり、見張る者といえば、宗教的な指導者、牧師、教師たちのことである。彼らは、「どうしたの?」と花嫁を見つけて尋ねたことだろう。花嫁は、わらにもすがりたい気持ちで尋ねる。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。どこに行けば会えるのでしょうか。」と。しかし、彼らも彼女のための答えは持ってはいず、首をかしげただけであった。いよいよ、花婿に会いたい一心で、花嫁は捜し続ける。主はこのように限界になるまで、信仰をためされる。信仰を引き出し、高めるために。

 「彼らのところを通り過ぎると間もなく(ヘブル原語は「すぐに」)、私の愛している人を私は見つけました。」(雅歌 3:4)床での休息、奉仕の大通り、夜回りでは見つからないことを学んだ花嫁が、捜す場所ももはやわからず、目をやると、偶然にもというか、花婿にしてみれば、この時をずっと待っていて、見守っていたからであるのだが、すぐに花婿を見つけることができたのであった。花嫁は、私は見つけましたと、言っているが、花婿は、花嫁のいる位置をいつも知っていて、待っていたのである。この瞬間を・・・。自我を手放す瞬間を・・・。「この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。」(雅歌 3:4)花嫁は、もはや、壁を作り、「放っておいてちょうだい。私は愛に病んでいるのだから。」という態度で接したりはしなかった。花婿への愛がほとばしり、目覚めたのである。自我のプライドを捨て、壁を自ら崩したのであった。自分のほうから、しっかりとつかまえて放さず、ことばだけではなく、態度をもっても、花婿の愛に応えたのであった。「私の母」聖霊さまは、私たちにみことばの光を照らし、私たちの霊の中にみことばを宿らせ、命を与えてくださる母なるお方である。聖霊さまの奥の間は、祈りの部屋である。花嫁は、祈りの部屋の戸を開け、花婿を連れて行った。祈り(花婿との語らい)の大切さをも悟ったのである。ぶどうの実を食べる狐、それは、人ではなく、自分の思い、そこから出た行動である。きっかけは、人から来たかもしれないが、狐に心を許し、疑いや不信仰の小狐を産むのは、自分自身である。狐を追い払い、不動の信仰に立つなら、神の国は広がっていく。花嫁は、花婿の呼びかけ、みこころを無視して、自分の意志・やり方で、花婿を捜したことによって、しばらくの間、花婿と離れ離れになるという犠牲を払った。しかし、この経験によって、自我をつつき、自我にしがみつかせようとするずるがしこい狐を追い払い、小狐を産ませないすべを学んだのである。

 狐を追い払おうとする時に、やはり、他人の干渉を相手にしている余裕はない。花嫁は、エルサレムの娘たちに、再度、念を押す。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 3:5)狐は、ずるがしこく、自我を突付いてくるかもしれないが、私たちがなさなくてはならないことは、心に侵入し、聖霊の実すらも食べ尽くし、収穫の実をも成らせないようにする狐、小狐から、自分の畑を守ることである。

落ち穂の会提供

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2015年3月 9日 (月)

『キリストの花嫁 2』雅歌 1:12-2:7

 前記事では、雅歌1章11節までより、王なる花婿イエスさまの大きな愛とキリストの花嫁となる女性の初々しい愛を見てきた。王に、引き寄せられ、その深い愛を知り、奥の間から出てきた花嫁。孤独を訴える花嫁に、花婿は、銀をちりばめた金の特性の飾り輪を作ること、つまり、購いと神性、イエスの似姿で花嫁を飾ってくださることを約束した。

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『かもしかや野の雌鹿をさして-干渉の禁止―』雅歌 1:12-2:7(新改訳聖書使用)

羊飼いの愛

 王なる花婿に励ましの言葉を受けて、花嫁は言う。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」(雅歌 1:12)と。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)と言われる王が、私たちとともに、うたげの座、つまり食事の席についてくださっている間は、花嫁は、平安に満たされて、その平安、平和のかおりが周囲にも満ち溢れるのである。ナルドは、おみなえし科の宿根草で、平安の象徴である。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、・・・」(雅歌 4:13,14)と花嫁から産み出されるかおりのある実について書かれている箇所がある。この後は、「香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:14,15)と続いているのだが、かおりのある実は、ちょうど9つ(ざくろからアロエまで)である。私たちから産み出されるかおりのある実とは、何であろうか?  「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)(雅歌 4:14,15)ちょうど9つある。対比してみると、ナルドは、平安となる。ベタニヤのマリヤは、十字架を目前にした主イエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油をぬった。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになった、とある (ヨハネ 12:3)。強い香りゆえに、ピラトの法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで、香り続けたことだろう。平安、平和をもたらした主の十字架の香りである。

 次に、花嫁は、花婿を、2つのものに例える。「乳房の間に宿る没薬の袋」と「エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさ」である。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」(雅歌 1:13,14)没薬とは、ミルラという植物の樹脂であり、古くから、通経薬(月経を通じさせる薬)、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。没薬は、柔和、へりくだりを象徴する。当時の女性は、自分の体によい香りを漂わせる香水の代わりとして、におい袋を胸元につけた。花嫁にとって、よい香りを放つ柔和、へりくだりのかおりの源は、愛する花婿である。乳房の間=心の中心に宿るへりくだりは、イエスさまによる。また、エン・ゲディとは、「子やぎの泉」という意味である。そこは、死海の西岸中心にあるオアシスの地で、石灰岩の裂け目から泉が湧き出るとともに、死海水面200メートルの高さからも滝が落ちて、美しく深い泉をつくっているそうである。ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花をつけ、香りも高い。化粧やしみを隠すためや香水などにも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。美しいきれいな泉のそばの多くのおいしそうな実をつけているぶどう畑、その中にあるよい香りを放ち、喜びの種を多くならせるヘンナ樹の花房に、花婿を例えているのである。まことに、主イエスは、へりくだりのかおりの源であり、おいしい実とともに、よい香りと多くの喜びを与えてくださるお方である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。段落が変わる。

 花婿は告げる。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」(雅歌 1:15)2度繰り返されている「なんと美しいことよ。」ということばから、花嫁としての孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁への思い、感嘆ぶりが伝わってくるようだ。鳩の目は、素直で優しい。その目を花嫁に当てはめている花婿。この柔軟に主の思いを受け取る花嫁を花婿は、このように、感嘆して喜んでくださるのである。

 花嫁は返す。「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)まことに、雅歌は、比喩が多く、主を知ることなしには、理解できない、奥深く主の愛情にあふれた書簡であるとつくづく思う。「私を美しいなどとおっしゃいましたけど、美しく慕わしいのはあなたです。」と花嫁は言っているのである。「長いいす」は、休息の場を表わす。「青々としています。」は、ヘブル原語の「ra`anan(新鮮な)」である。想像していた特上のゴージャスな牧場ではないけれど、花嫁の霊の目は開かれた。こここそが、最上の求めていた安息の牧場であったと。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇 23:1,2)乏しいことがなく、安息の新鮮な牧場にいたことに、花嫁は気づいたのであった。こうして見ていくと、私たちは、王であり、羊飼いである花婿が、雅歌1章に表わされていることを知ることができる。

 「私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」(雅歌 1:17)花嫁は、ここで、花婿と花嫁の家についてふれている。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント 3:16)とパウロは言っていることをふまえ、この霊的な家について見ていく。花嫁の内には、内なる家、霊的な家が成長してきたのである。家の梁、梁は建物の内部に見られるように、内部の構造であり、壁の中や天井で支えとして使われるものである。この支えは、杉の木(レバノン杉)でできていた。杉の木とは何を意味しているのか? 民数記19章にその答えを見出せる。罪のためのきよめについての神の定めが書かれているが、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや緋色の糸とともに使われるのが、杉の木であった。霊の家は、きよめという支え、基礎の上に成り立つものであることを忘れてはならない。次に、たるきであるが、たるきは屋根を形づくるものである。糸杉は、果樹園の防風樹の生垣に用いられている木である。樹脂を含むこの木は、腐敗しにくい。聖ピエトロ大聖堂の扉は、この糸杉で作られているそうである。このような腐敗しにくく風よけに適している木で守られた家は、さぞかし安全で強いことだろう。

 比喩ばかりで、ため息が出てきそうだが、なぜ、このように、困難なたとえで、雅歌はつづられているのか。主の愛の宝庫である雅歌、イエスさま自身のことばで言うなら、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ 13:13)である。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ 13:10-15)イエスさまの愛に自らの欲で近づかないためにである。

愛のことばの交し合い

 花嫁は続ける。「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。」(雅歌 2:1)シャロンは、地中海沿岸のヨッパの町から北にカルメル山まで続いている平原のことである。エルサレムからは遠く離れている。「サフラン」は口語訳や新共同訳、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、「ばら」と訳され、文語訳は、「野花」と訳されている。赤い小さな花で、シャロン平原ならどこにでも見られるようなありふれた花である。「谷のゆりの花」も日本人は、大きなやまゆりやおにゆりを想像しやすいが、イスラエルの野にあるアネモネのような可憐な花であると思われる。ここで、花嫁は、花婿に美しいと言われても、エルサレムの洗練された娘たちに比べると、自分は、洗練されていない一輪の野花であり、谷の中にうもれるようにひっそりと咲く野花であると、けんそんに言っているのである。

 このような花嫁のことばを受けて、花婿は言う。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(雅歌 2:2)私の愛する花嫁が、エルサレムの他の娘たちの間にいることは、とげだらけのいばらの中のゆりの花のように、美しいと告げる。ゆりは、いばらのとげが当たって痛いかもしれないが、いばらの中にあって、ゆりの美しさは、花婿の目には、いっそうきわだっているのである。

 今度は、花嫁が返す。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌 2:3)聖書には、しばしば、人を木に例えて描いている。イエスさまがおいやしになった盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」(マルコ 8:24)と言った。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5)イエスさまはご自身をぶどうの木に例えた。同じ実のなる木でも花嫁は、「林の木の中のりんごの木」と言っている。他の若者たちと比較すると、実のならない他の木の中で、花婿は一際目立ち、赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木のようだと言っているのである。ぶどうは多くの木の中にあると、目立たない色の果実であるから、ここではりんごの木となっているのではないかと思う。花嫁は、そのりんごの木陰で、つまり覆われ、守られて、休むことを切に望んだ。実のないスカの木の木陰で休んだとしたら、お腹がすいても満たしてもくれず、のどが渇いても潤してももらえず、見栄えばかり立派で、飢え乾いてしまうが、多くの実をつけたりんごの木陰は、その実がのどもお腹も満たしてくれることだろう。実がなく、葉っぱばかりをつけていたいちじくの木をイエスさまがのろわれたことを思い出す。主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇 19:7-10)とあるが、主が、私たちに与えてくださる食物は、蜜よりも、蜂蜜の巣のしたたりよりも甘いのである。

 「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4)直訳すると「ぶどう酒(宴)の家に連れて行った。」である。そうして、花嫁は、喜びの宴の席に伴われて行ったのである。主がくださった食物は、私たちをどんな境遇にあっても喜びで満たしてくださるのである。「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(Ⅱコリント 7:4)とパウロが言えたのは、主によって酒宴の席に伴われたからであった。旗は、勝利を意味する。花嫁の頭上にはためいている主の勝利のしるしは、愛であった。愛が、勝利の要なのである。主の愛にとどまり続け、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主を愛すること、相互の愛である。

 愛が要であることは、花嫁も知っているのだが、先週見てきたように、兄弟たちのしいたげによって、無気力になっている花嫁は、愛する力も出てこない。そこで、花嫁は言う。ここまでの花婿の語りかけで、花嫁は、次のように言う力を得たのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)こんなに愛のことばをもらって、やっと、花嫁は、「力を得たい、元気づきたい、私は愛に病んでいる。」と言えたのであった。「干しぶどうの菓子」は、「干しぶどう」とは異なる、ケーキ状に圧縮したぶどう菓子のことである。ぶどうの実そのままよりも、圧縮しているので、多くの実を口にすることができる。シナイ修道院では、今日でも旅人を元気づけるために、この種のケーキを出しているそうだ。そのぶどうの実の食物、ぶどうの木からとれる食物、主イエスから直接いただく食物は、私たちを最も力づける食物である。「りんご」も先ほど見たように、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物である。花嫁は、無気力で、愛する力が出てこないことを「私は愛に病んでいるのです。」と表現している。「病む」は、ヘブル原語では「病気になる、病気である、悲しい、弱くなる、懇願する、自分で病気にかかる、病気にされた、疲れた、弱くされた、傷つけられる」などの意味である。

 より強い愛を求め、愛に病む花嫁は懇願する。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)同じことばが、8章3節でも言われている。左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)「あなたの右の手は義に満ちています。」(詩篇 48:10)「私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」(詩篇 138:7)他にも多くあるが、右の手は、力、救いとして表わされている。主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られることは、なんと心地よいことか。

 「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7)雅歌に3回繰り返され、念をおされていることばである。花嫁は、今度は、エルサレムの娘たちに、お願いする。「かもしかや野の雌鹿をさして、誓いを立てることを。」かもしかや野の雌鹿は、「純粋さ」を表わし、誓いの純粋さの意味であろうとある註解書には書かれている。私は、後の9節で花婿のことをかもしかや若い鹿に例えていることから、ここは、主なる花婿の象徴であると思える。誓いのゆるぎなさを表わしている。「山々をとび越え、丘々の上をはねて」(雅歌 2:8)花嫁のもとに馳せてくる花婿の性質。かもしかが駆けてくるさまは、軽やかにすばやい。主イエスの再臨をも思わせる描写、かもしかは、主イエスの象徴である。野の雌鹿は、鋭い認識力を備えている。雌なので、母として例えられるご聖霊の性質のようである。ご聖霊は、私たちの心の畑の見張りをもしてくださる敏感なお方である。花嫁は、ここで、主イエスと、エルサレムの娘たちの内にも住まわれているご聖霊にかけて誓わせているのである。誓いとは、神聖なもの、何にでも誓えばよいというものではない。「軽々しく誓ってはならない。」とあるように(マタイ 5:34-36)。しょうもないものに誓っても、仕方がない。誓いにならない。完全である神にではないと、その誓いはあてにならないものになる。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。花嫁は、花婿とのさらなる愛の関係を望んではいるのだが、それは、娘たちに揺すられたり、かき立てられたりして、無理やりに目覚めたいと思ってはいない。花婿との愛の関係は、花婿自身によって、なされるべきだからである。他人が干渉することではない。他人ができることは、見守り、応援することだけである。花婿だけが、花嫁の愛を目覚めさせることができるのである。

 主イエスの愛がわからなくなるほど、無気力になったときは、花嫁がしているように、懇願すればよいのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)と。そして、主の左の腕に枕し、右の腕でしっかりと抱いてもらうのである。ただし、その間、決して、エルサレムの娘たちによる干渉を受けないように・・・、と聖書は言う。

落ち穂の会提供

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