ヘブル人への手紙

2013年10月27日 (日)

弱さは思いやりに。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(へブル5:2)

小さい時に親から離され育った人が、ある日イエスの愛を知り、神を信じた。
育つ過程で、危険な道はなるべく避け、自分で自分を守り、危険を感じ取ると逃げることが身についていた。
主を信じ、語られた道を歩んでいても、行き詰まると、間違いであったかと思えてきて、逃げることがしばしであった。
そうしているうちに、主の愛が見えなくなってしまった。
ある日、主に向かって静まっていると、ふと主の臨在が伝わってきて、そのまま丸ごと委ねて歩めばよいということが理解でき、計り知れない主の愛に立ち返ったのであった。
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主がいつも私の手を取ってくださっていた。私の弱さがそのことを信じきれずに、完全なみこころから外れる道を選んでしまっていた。
私が救われる以前から持っていた問題、自分ではどうしようもなく、逃げ出すしか逃れる道はなかった問題、私の基本的な人格を形成した中での弱さを、主はご存知であった。
主は限界まで耐えてもどうしようもなくなったとき、逃げるという私が持っていた防御規制を知っておられ、長年かけて取り扱って下さった。ハレルヤ!
その防御規制は私が親との関わりの中で、身につけていたもの。
その中で受けた不必要な部分を手放せるように、長年かけて、私を扱い、作り変えて下さった。
主のことばでみこころを聞いた時に、妨げとなっていたものを無理に取るのではなく、手放せるまで、私を扱い、無理にではなく、自然に手放せるまで導いて下さった。
なんという愛だろうか。
主がともにいてくださるから、主に委ね、明日も安らかでいられる!

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2013年4月 7日 (日)

赦しは神のわざ

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル 12:2,3)

虐待を経験して育ったとある女性がキリストに出会って救いを得た。
喜びに満ちて、主に従い、仕えた。
虐待という痛み、弱さがあったからこそ、神への飢え渇きが強く、主はその姉妹の求めに応じて、その愛を表してくださり、姉妹の祈りはよくきかれた。
日々が過ぎ、つらかった経験を乗り越えて、主がどんなによくしてくださったかを証する姉妹に、「虐待した人を赦さないといけない」「かわいそうに、もう忘れなさい」という人がいた。
虐待というあまり聞きよくはない言葉を聞きたくない人たちであった。
姉妹は、すでに主に何度も扱われて、赦し、乗り越えてきたことであった。
ところが、その言葉を聞くと、「自分は許していないのだろうか。許します、許しますと祈り、乗り越えてきても、いったいいつまでつきまとうのだろうか。まだ、足りないというのだろうか。自分は、経験した事実を言うことすら、赦されないのか。」と思え、次第に、「主を信じても、あわれまれる自分は、なんとみじめな存在なんだろうか。」という感情が出てくるのであった。
姉妹は、とうとう証も祈りもできなくなってしまった。
苦しい中で、主に呼ばわり、今のありのままの気持ちを伝えた。
その中で、主は言われた。
「赦しは人間のわざではなく、十字架の力によるものだ。」と。
イエスの十字架の力…。姉妹は悟った。
人の言葉がどのように言おうと、どんな時も、十字架にかかってくださったイエスから目を離さないことだ!
イエスの十字架の贖いに思いをはせた時、姉妹に喜びが戻ってきたのであった。
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主から目を離しやすい私たち。
イエスを愛し、隣人を愛する愛も赦しも自ら出てくるものではない。
自ら作り出したものならば、いずれはがれていくことになる。
そのことを認め、今日も主を見上げ、贖いのみわざにより頼みつつ、ゆだねて、主の王道を歩んでいこう。
主は王の王、主の主である!!

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2012年12月 8日 (土)

赦しは主から下るもの

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」(ヘブル 12:5)

主の愛に堅く立つなら、自分を責める必要はないのであるが、私たちは、いつも主の愛に立っていられるほどに、完全ではない。
絶えず罪への誘惑があり、ともすると、ふらっと罪を犯してしまいやすい弱さを持っている。
ここでいうところの罪は、刑法にふれるような犯罪ではなく、神から離れることによってもたらされた罪である。
愛のない行為、自己中心、正しくない思い、無関心…
そのような私たちに、神は御自身の似姿に近づけようと、苦しみの道を歩ませられる。
苦しみの中で、罪への自責の念が起こる。身に覚えのある自責であり、払拭できないものである。
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しかし、罪は自分で処理できるようなものではないことを覚えておこう。
主の前に降参し、主の十字架での贖いは、私自身のものであったことを認め、主の赦しをいただこう。
握りしめている思いを主に差出し、主に委ねて、主とともにしっかり歩もう。
主がすべてを益に、織りなして下さる。
時が来て、すばらしい主のみわざを見るだろう。
その希望を抱きつつ、弱り果てることなく、主の愛に立ち返ろう。

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