歴代誌

2013年5月20日 (月)

環境にも神のみこころがある!

「彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。」(Ⅱ歴代誌 36:13)

エルサレムの滅亡が間近に迫っていた。
この頃は、アッシリアに変わってバビロニアが勢力をふるっていた。
主はバビロニアを、神の民を矯正するための道具として用いられたのである。
かたくなで反逆を重ねている神の民。
神に立ち返らせるためには、放置してはおけないところまで、悪化していた。
へりくだりと従順を学ぶために、バビロニアの王を遣わされたのだが、ユダ最後の王ゼデキヤは、これにも反逆したのであった。
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神の民であっても、同じような苦しみの中を通る。
しかし、その状況の中、主である神に信頼するならば、苦しみが苦しみでなくなっていく。
国を奪われ、バビロニアに捕囚となって連れ去られるに委ねた神の民は、神に立ち返り、信仰を継承していった。
その苦しみが、自分の弱さから出たものであったとしても、そうではなくても、神に信頼しよう。
どこにいたとしても、神がともにいてくださる。

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2013年5月18日 (土)

平安の大切さ

「しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。」(Ⅱ歴代誌 35:22)

ヨシヤは、神のみこころにかなった王であったが、その死は不名誉なものであった。
BC612年にアッシリア帝国の首都ニネベは、新バビロニアとメディアの連合軍によって陥落し、3年後のBC609年には、残存勢力も滅びアッシリア帝国は完全に歴史から姿を消した。
そのアッシリアを助けるため、エジプトの王ネコが、遠征してきた。
アッシリアを助けるのを好まなかったためであろうか、ヨシヤはネコを迎え撃とうと出て行った。
ネコは使者を遣わして、「これは神から出たことなので、私とともにおられる神に逆らわずに、控えているように。さもなければ、神があなたを滅ぼされる。」と警告を与えた。
しかし、ヨシヤは変装してまでも、戦うために出ていき、射手たちの手によって、死を迎えたのであった。
39歳の若さであった。その後、22年半の間に4人の王が移り変わり、預言されていたとおり、ユダはバビロニアによって滅亡を迎えることになる。
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異教徒エジプトの王ネコが語った神の警告を、ヨシヤがきかなかったとて、責められるものではないように思える。
しかし、その警告に真実があったことは驚くばかりである。
信仰者は、どんなときにも、神に聞く姿勢が必要である。
神との交わりの中、いつも平安の中を進むことが大切である。
ヨシヤは平安のないまま(変装し)、敵に向かって進んでいった。
どんな状況の中であっても、義務ではなく、神が与えて下さる愛(平安)の中を歩んでいこう。

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2013年5月17日 (金)

神の民の一致

「王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(Ⅱ歴代誌 34:19)

マナセの孫であるヨシヤは、8歳で王となった。
ヨシヤは、主の目にかなうことを行なって、徹底的に偶像とその祭壇を打ち壊した。
主の宮を修復している時、祭司が律法の書を発見した。
今まで、開かれていなかった聖書を発見したのであった。
記されている律法のことばを聞いた時、ヨシヤは、驚愕し悔い改めを表明した。
のろいを受けて当然の偶像礼拝をしてきた神の民。
実際、記されているとおり、北イスラエルの主とは敵の手に渡されてしまっている。
主のみこころを知ったヨシヤは民にも読み聞かせ、悔い改めによる主への従順を徹底させたのである。
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聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なものである。
神を知りたいと思って、聖書を読むとき、神はみこころを語りかけられる。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭いものである。
同じみことばを読んでいても、その時々の必要に応じて、語ってくださる。
今日も、神の矯正のことばを素直に受け取り、悔い改めることができますように。
そこに神の民の一致がある。

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2013年5月16日 (木)

主は罪人を見捨てられない。

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(Ⅱ歴代誌 33:12,13)

ヒゼキヤの息子マナセは、父の信仰に倣わず、異邦の民のならわしをまねて、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を再築し、異邦の神々を拝み、これらに仕えた。
そして、主の宮の庭にまで、偶像の祭壇を持ち込んだ。
そればかりか、自分の子供たちに火の中をくぐらせるという異教の悪習慣を実行し、卜占やまじない、呪術に霊媒、口寄せといったオカルトにまではまり込み、主の怒りを引き起こしたのである。
そのようなマナセに、主は預言者を遣わして警告を与えられたのだが、マナセは聞こうとしなかった。
そのため、マナセはアッシリヤによって鉤で捕えられ、青銅の足かせにつながれ、バビロンに引いて行かれた。
この苦しみの中で、マナセはへりくだって祈った。主はマナセを解放し、マナセは主に立ち返った。
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主を捨て去って、どんな罪にまみれてしまったとしても、主はご自身の民を決して見捨てられはしない。
絶えず、主に立ち返るよう、手を差しのべておられる。
罪の中、苦しみを通るかもしれない。
「ごめんなさい。」と御前にへりくだる心が大切である。
御前にへりくだった時、主の大きな愛を知る。
その愛によって、私たちは、罪から離れることができるのである。
神の民であることは、何と幸いなことだろうか。

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2013年5月15日 (水)

試練は心を見るため

「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」(Ⅱ歴代誌 32:31)

奇跡的にアッシリヤの王の手から、救われたヒゼキヤのもとに、多くの人々が主への贈り物を携えてやってきた。
このうわさが広まり、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。
ヒゼキヤは、主に栄光を帰することをせず、かえって心を高ぶらせた。
そのころ、バビロンの王がヒゼキヤのもとに使者を遣わした。
ヒゼキヤは、その使者に、家の中や宝物倉の物をすべて見せびらかした。
神は、ヒゼキヤの心にあることを知るために、なすがままにされた。
結果、ヒゼキヤが見せびらかした財宝がバビロンに持ち去られ、子供たちも捕虜として連れ去られる日が来ることが、預言者イザヤの口から伝えられたのであった。
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試みは「心見」に通じるそうである。
自分の祈りを通して、神の偉大な証しが成った後は、要注意である。
その証しを自分のものと思い違いをせず、神に帰そう。
高ぶりは破滅への道である。
神の沈黙は、試されている時である。
心を見ておられる神がおられることを、いつも忘れずに歩んでいこう。

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2013年5月14日 (火)

神に立ち返ろう

「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(Ⅱ歴代誌 30:9)

ヒゼキヤの治世の第6年に、北イスラエル王国の首都サマリヤはアッシリアにより陥落した。
宮きよめの宗教改革をなしたヒゼキヤは、全イスラエルとユダに、主に立ち返り、過越のいけにえを捧げるよう呼びかけた。
このようにヒゼキヤは、既にアッシリヤ捕囚という憂き目にあったイスラエルの民へ、神への招きの言葉を伝えたのであった。
「神に立ち返れ。そうすれば、主はアッシリアの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来て下さる。主に対して不信の罪を犯した兄弟たちのようになってはならない。あなたがたが見たとおり、主は彼らを恐怖に渡された。主に立ち返り、主に仕えなさい。あなたがたが主に立ち返るなら、あなた方の兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来る。」
この言葉を物笑いにし、あざけった者もいたが、この言葉を真に受けとめ、心を一つにしてやって来た者たちもいた。
信仰に立ったユダの民、この後、エルサレムを攻めに来たアッシリアの手から、主は民を守られた。
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神である主は、情け深く、あわれみ深い方。神は愛である。
人は、すべてが好調であるなら、神を必要とはしない。
うまくいかないこと、苦しい出来事を通して、神はご自身を現される。
こうして、私たちは高ぶりから守られるのである。
主につまずきそうな時こそ、主に立ち返る道を選ぼう。
主は、ご自身を呼び求める者から、御顔をそむけるようなことは決してなさらないお方なのだから。

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2013年4月 3日 (水)

神よ、どうしてですか。

「その時、アハズ王はアッシリヤの王たちに人を遣わして、助けを求めた。」(Ⅱ歴代誌 28:16)

ユダのアハズ王は、主の目にかなうことを行なわず、異教のバアルの偶像を造り、異邦の民の忌むべきならわしをまねた。
自らの子供たちをも、偶像礼拝のために、火の中をくぐらせることもした。
その結果、主の怒りがユダに臨み、同朋のイスラエルの手に渡されることとなった。
同朋イスラエルが攻めてきて、ユダの勇士たちを殺し、女・子供たちをとりこにし、分捕りものを首都サマリヤに持ち帰った時、主は預言者を遣わし、イスラエルの行き過ぎた行為をとがめられ、とりこを帰すように言われたのであった。
分捕りものを持たせたとりこが帰された「その時」、アハズは、敵のアッシリアに助けを求めたのであった。
しかし、アッシリアは、アハズの力とはならず、アハズは主に対して不信の罪を増し加えていった。
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何かわざわいが起こった時、神はひどい方だと思うことがあるかもしれない。
しかし、真実はそうではない。
神は愛である。そのことは、揺るぐことのない真実である。
滅びに向かう人間を、何とかご自身に立ち返らせようとする神の愛の御手によるムチである。
問題は、私たち人間の罪にある。
主は、ご自身の民を、必ず守られる。私たちの思いをはるかに超えた主の方法で守られる。
不信の罪の行く先は、永遠の滅び・死・苦しみである。
私たちは、迷いやすい羊である。主の前にへりくだろう。
苦しい中、神がわからなくなった時は、「わからない、わかるように教えてください」と、ありのままを伝えよう。
主は、いと小さきものたちの祈りに耳を傾けて下さるお方である。
主を信頼して、生き抜いていこう。

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2012年11月26日 (月)

教会は励ましの場

「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(ローマ 1:12)

「信仰を持っていたら、教会に行かなくても大丈夫。教会は疲れるし、組織化すると、つまずくことも多いし…。」という考えを時々、聞く。
教会とは何か。教えを聞いたり、賛美を歌ったり、祈ったりするだけのところではない。
それが目的であったなら、自分で学び、歌い、祈れば、事足りる。
教会とは、同じ信仰を持つ者同士が集い、ともに信仰を高め合う場でもある。
互いの信仰によって、ともに励ましを受け合っていく場である。
人は弱い。信仰の強者パウロであっても、「ともに励ましを受けたい」と言っている。
神だけではなく、人からの励ましもがないと、立ち行かなくなるものである。
互いに励まし合って、キリストの律法(心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。)を全うしていくのである。
そこに、神のみわざが現れる。
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人を自分よりもすぐれた者と思うなら(ピリピ2:3)、人の良いところを見出し、心からほめることが自然にできる。
神は必ず、それぞれの内に、良いものを与えてくださっている。
その部分を見て、互いに励まし合っていくなら、教会という所は、何とうるわしい場所であろうか。
まず、自分から実践していこう。
キリストの名の置かれている教会に、神の栄光が豊かにあふれるように。

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2012年11月23日 (金)

どんなときも、主に向かおう。

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。
あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。
恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。
主はあなたがたとともにいる。」(Ⅱ歴代誌 20:17)

ヨシャパテは攻めに来たおびただしい大軍を前に、主に向かって言った。
「あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちには力がありません。」と。
女性たちも子供たちも、ユダの全集団が主の前に立っていた。
その時、主は冒頭のように言われたのであった。「この戦いは神の戦いである。…」と。
サタンは、神を信じる者たちに疑いをしかけてくる。
「何か間違っているのだよ。」「主にあれば、こんなことが起こるはずないだろう。」
「神を信じるなら、自分で立ち向かっていくべきだよ。」etc.
そうやって、私たちの信仰をゆるがせ、平安を失わせ、主の栄光を失わせようとする。
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主は救いの神である。
私たちに必要なことは、動じずに信仰にしっかり立つことだ。
何が起こっても、恐れず、気落ちせず、しっかりと神を見上げることだ。
神は、獅子が我が子を千尋の谷に落として強くするように、試練を通して、ご自身の子の信仰を強め、人格を練られ、ご自身に近づけて下さる。
そこには、必ず神の愛が存在する。放置されているわけではない。愛の御手がともにある。
ヨシャパテがしたように、疑い・迷いは祈りに向け、しっかり立って歩んでいこう。

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2012年11月20日 (火)

人間関係の基本

「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。」(Ⅱ歴代誌 19:2)

アサ王の息子、ヨシャパテは、主とともに歩んだ王であり、主に従っていたゆえに、王国は確立され、富と誉れを受けた。
が、ただ一つ、イスラエルの悪王アハブと縁を結んだことが、汚点となった。
アハブと縁を結ぶことが、国際的な力となると判断してのことだったのかもしれないが、このことは、主のみこころに反することであった。
この同盟によって、ヨシャパテはアハブと一緒に戦いに行くことになり、アハブの代わりに殺されそうな目に遭ったが、主のあわれみにより、助けられたのであった。
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「朱に交われば赤くなる」と諺にもあるが、「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」(Ⅰコリント 15:33)と聖書は言っている。
互いの関係が、主に喜ばれる関係となるよう、まず、主の前に静まってみよう。
みことばは何と言っているか。その関係が肉を喜ばせたとしても、主に反しているならば、見直す必要がある。
まず、主との関係をゆるぎないものとしよう。
人間関係は、そこから始まる。

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