サムエル記

2011年12月 3日 (土)

心を広げて下さる主

「主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」(Ⅱサムエル 22:20)

ダビデは、自分を殺そうとするサウルの手から逃れるため、逃亡生活を送った。王や王に組する者たちが敵となって、ダビデを追っていた。そのような苦しみの中、主が心の支えだった。主との交わりがダビデの希望だった。父エッサイのところで羊の番をしていた時、預言者サムエルがやってきて、主の油を注がれた時から、主を友として歩んできたダビデであった。寂しい荒野の逃亡生活で、心が苦しくなると、主に呼び求めた。主はいつもその叫びに応じてくださり、狭く囚われている心を解き放って下さった。ダビデの行いが、主への愛から出ていたからであった。主はその心を見て取り、ご自身の喜びとしてくださっていた。

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問題を見つめていると、問題ばかりが心を占め、がんじがらめになってしまう。そのような時は、ダビデのように、主を見上げ、心から呼ばわろう。主は、心の地境を広げて下さる。恐れも、許せない思いも、主の前に持って行こう。すべてをご存知の主は、私たちの心を解き放ってくださる。

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2011年12月 2日 (金)

誤った熱心

「そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。――ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。――」(Ⅱサムエル 21:2)

3年間ききんが続いたため、ダビデが主にみこころを伺ったところ、「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」と主は仰せられた。サウルの誤った神への熱心が、民を窮地に陥れたことは、過去にもあった。ペリシテとの戦いの最中に、「サウルが敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる」と誓いを立てたことがあった。その時は、息子のヨナタンが民を空腹から救い、誓いを破ったヨナタンを民がとりなし、救ったのであった。死んでも効力を発するサウルの誤った熱心による被害。ダビデが、ギブオン人たちの願いを聞いたところ、自分たちを滅ぼそうとした者の子ども7人を引き渡すことであったため、ダビデはその願いを聞き入れた。

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サウルの神(の民)への熱心による行動が、神の国に害を及ぼすこととなった。サウルは神への熱心だと思っていただろうが、それは誤りであった。実は、自分のためであり、そのために、律法を科して、それを信仰だと思っていたのである。神への熱心から出た行動には、神の愛がある。また罪への痛み、悲しみが根底にある。誤った熱心に向かうことがないように、絶えず、神の愛に満たされていこう。その愛が周囲に流れていく。

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2011年12月 1日 (木)

伝えきれなかった愛情

「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」(Ⅱサムエル 18:33)

アブシャロムに会おうとせずに冷たいかのように思われたダビデであったが、謀反を企て、敵となった我が子の身を案じ、死んだと聞くや、悲しみに打ちひしがれた。ダビデがアブシャロムに暖かく接することができなかったのは、敵意ではなく、自分の犯した罪の重さを感じていたからであった。アブシャロムの行為の中に、ウリヤの妻のことでの姦淫、殺人、そしてその時にナタンに告げられた刈取り(「あなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす…」(12:11))の成就を見ていたのであった。アブシャロムは、孤独を感じていたが、ダビデのアブシャロムへの愛情は確かなものであったのである。この愛情をアブシャロムが生きている間に伝えていれば…と思ったりもするが、ダビデもまた罪人のひとりであり、自らの罪の刈取りの前に、ただただ打ちひしがれるしかなかったのである。

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人の愛情の現し方には、わかりにくいものがある。自分の思うままに愛してくれないと、人は「愛がない」と思いがちである。そして、孤独を感じ、負のスパイラルに落ち込んでいく。相手の自分への態度というものは、さまざまな要因が絡んでいて、必ずしも、自分に原因があるものではない。相手側の状態によるものかもしれない。相手の態度に依存せず、相手に神の愛を現して行こう。

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2011年11月30日 (水)

律法か愛か

「ヨアブはテコアに人をやって、そこからひとりの知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。『あなたは喪に服している者を装い、…王のもとに行き、王にこのように話してくれまいか。』こうしてヨアブは彼女の口にことばを授けた。」(Ⅱサムエル 14:3,4)

息子アブシャロムが妹タマルの復讐のために息子アムノンを殺したことで、ダビデはアブシャロムをよく思わず(「敵意をいだき」と書かれている)、放置していた。ダビデの側近ヨアブが、そのことを憂え、知恵のある女を呼び寄せ、言葉を与え、王のもとに遣わした。かつて、ナタンが王に例えをもって、罪を指摘したように、例えを用いて話した。王は、ヨアブの差し金だと気付いたが、願いを聞き入れ、遠くゲシュルの地に逃れていたアブシャロムをエルサレムに連れてこさせた。しかし、ダビデはアブシャロムを家に引きこもらせ、会おうとはしなかった。側にいながら、会おうとはしない父に、アブシャロムは、業を煮やした。そして、王に会せよと、ヨアブの畑に火をつけてヨアブを呼び寄せて、王との面会を実現させた。この後、アブシャロムは、王に謀反を企て、ダビデを一時的に失脚させたのであった。

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よかれと思ってしたヨアブの行動は、ダビデの心を無視したものであった。「こうあるべき」という律法がヨアブの中にはあった。預言者の言葉をまねてみたとて、神の愛から出た言葉とは全然異なるものとなる。ダビデ、アブシャロム、どちらをも悔い改めには向かわせず、溝を広げる結果となった。こうしたほうがよいと思った時は、それが律法から出たものか、神の愛から出たものか、今一度考えてみよう。神の時がある。

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2011年11月29日 (火)

罪の重さを知る

「その手紙にはこう書かれてあった。『ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。』」(Ⅱサムエル 11:15)

自分の命をねらっていたサウルに手をかけるのを拒んだと同じダビデの言葉とは思えない言葉である。姦淫の罪を隠すために、手を尽くしたが失敗に終わったダビデが取ったのは、夫のウリヤを他の者の手によって葬り去ることであった。事がすべて終わってから、神は預言者ナタンを遣わされ、ダビデに罪を指摘された。

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何も知らずに死んでしまったウリヤを思うと、神はえこひいきをなされているのではないか、と思えるかもしれない。そのように思えるときには、「神の世界は、死で終わるものではない」ということを覚えておきたい。キリストなる神は生きている者も死んだ者も正しくさばいてくださるお方だ。正しいさばきをなさる神は、ダビデがしっかりと自分の犯した罪の重さを知ることができるよう、事のなりゆきを黙認されていたのである。主を恐れつつ、信頼して歩んで行こう。

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2011年11月28日 (月)

回復のために

「それからダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使いをやって言わせた。『私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。』」(Ⅱサムエル 3:15)

ダビデがサウルから逃亡している間に、妻ミカルはパルティエルに与えられていた。ダビデを愛していたミカルは、サウルの娘であり、サウルから王の婿となるようにと言われて、出された王の条件をみごと果たして、妻とした女性であった。その後、多くの妻を持ったダビデであったが、ミカルは、サウルと自分をつないだ妻であった。サウルの状態が悪くならなければ、ミカルはダビデの妻であり続けたのである。ダビデは、サウルの息子でありイスラエルの王となっていたイシュ・ボシェテに命じて、そのミカルを取り返させたのである。夫となっていたパルティエルは泣きながらミカルについて来たが、帰された。

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主は、私たちが望めば、敵に破壊されたものを取り返し、回復させてくださるお方だ。主の栄光のために、私たちは、信仰によって、そのことをなさなければならない。ミカルは王の妻であった女性である。他の者の妻であり続けることは、今後の国のためにもよくないことであった。パルティエルは「神はわが逃げ場」の意味の名である。パルティエルは犠牲を払ったが、パルティエルの逃げ場であった神ご自身が慰めを与えたことだろう。神の国と神の栄光を第一として歩もう。心配となる他のことは、神が治めて下さる。

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2011年11月26日 (土)

災難も祝福に

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(Ⅰサムエル 30:6)

ダビデの留守中に、町がアマレク人によって攻撃され火で焼き払われ、残っていた女子供をみな、連れ去られていた。ペリシテの王アキシュのところで、アマレク人を襲ってはアキシュにバレないように皆殺しにし、偽っていたツケが回ってきたかのような状態である。誰も殺されていなかったことは、幸いなことであった。この災難に今までついてきていた民がみなダビデを打ち殺そうと言い出した。仕えていたサウルによっていのちをねらわれ訓練されていたダビデは、殺そうとする民をあわれみ、神を見上げ奮い立ち、無事、略奪者の手からみなを救い出したのであった。しかも、多くの分捕り物もいっしょに…。

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信仰者にとって、災難は、災難で終わらない。悲惨な状態も、主と共にあり、行動するならば、前にも増す祝福へとつながる。信仰から出たことは、主が祝福してくださる。恐れずに主に聞きながら、突き進んで行こう。

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2011年11月25日 (金)

最後の機会

「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。『霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。』」(Ⅰサムエル 28:8)

ペリシテ人の軍隊がやってきた時、サウルは恐れ、主に伺おうとしたが、答えてもらえなかった。それで、かつて自分の手によって霊媒や口寄せを追い出していたにもかかわらず、霊媒に頼って、死んだサムエルを呼び出そうとした。それほど、サムエルを頼っていたのである。霊媒女の前にサムエルが現れ、サウルの死を告げた。この後、サウルは、ペリシテとの戦いに敗れ、自害して死ぬ。

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いつも主の御名を用いていながらも、サウルの歩みは主に見捨てられた平安のないものであり、最期も悲惨なものとなった。一方、ダビデは、敵陣に身を寄せながらも、祝福を受け、守られていた。同じ神の民であり、神の名を呼びながら、この差はどこから来たのか。ダビデは自分の前に主をおき、主に従う心を持っていた。一方、サウルは選びに慢心し、神の前に自分をおき、従う前に自分の意志があり、自分の意志ならば、罪も罪とせず歩んだ。これが決定的な差を生み出した。霊媒という主に受け入れられない方法を用いていたにもかかわらず、サムエルがサウルの求めに応じて現れたのは、主の許しがあってのことである。神の憐れみである。神は、悲惨な死を前に、サウルが悔い改めることを望んでおられただろう。サウルは、最期まで悔い改めを拒み、王としては立派ではあったが、不本意な死を遂げることとなった。心に浮かんだなら、他がどうであっても、悔い改める機会を逃さず、今、悔い改めよう。

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2011年11月24日 (木)

認めることの重要性

「サウルは言った。『主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。」(Ⅰサムエル 23:21)

サウルの関心は、いつまでも自分のことだけであった。サウルに媚を売り、ダビデの居場所を知らせに来たジフ人たちに、サウルが言ったことばである。この前の章では、家来たちに「だれも私のことを思って心を痛めない。」と言って、祭司たちの虐殺を引き起こしている。ダビデを殺すための会話の中で言われた「主の祝福」、サウルの信仰はどうなっているのだろうか、と思わされるところである。サウルの信仰は自分自身であった。神の上に常に自分がいた。神の栄光のために仕える信仰ではなく、自分の栄光のために神を利用する信仰である。サウルの頭の中では、私のことを思ってくれたら祝福を、そうでなかったら呪いを、自分より目立つ者やその者に加担する者には死を、という考えが成り立っている。

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主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われた。「自分を捨てる」とは、自分の感情を置いて、みことばに明け渡すことである。サウルはダビデの活躍がねたましかった。自分の中でねたみが起こった時、その感情を否定せずに認め、主の前に持っていくことが大事である。「私はダビデをねたんでいます。主よ、この感情を聖めて下さい。私もあなたのために活躍したいです。ダビデに劣らないくらいに私をも祝福してください。」サウルが、主の前にへりくだり、こう祈れたら、事態は変わっていたかもしれないのである。主の御前にへりくだろう!

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2011年11月22日 (火)

聖霊体験

「サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。」(Ⅰサムエル 19:23)

自分を殺そうと付け狙うサウルから逃れるために、預言者サムエルのもと(ナヨテ)に身を寄せたダビデであったが、サウルは執拗に追っかけた。預言者をも恐れないサウルの行動。サウルが送った使者たちに、神の霊が臨み、預言した、ということを三度繰り返した後、サウル自身が出向いた。サウルにもまた、神の霊が臨み、預言しながら歩いて、ナヨテに着き、サムエルの前で預言して、一昼夜、裸で倒れていたのであった。

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サウルに神の霊が臨み、預言し、一昼夜倒れていたのは、サウルが聖かったからとか、神の力が与えられたとかというわけではなかった。神の力で、恍惚状態に陥らせ、ダビデを捉えることを阻むためであった。この神による体験は、サウルを改心させなかった。この後、サウルは、そのためなら息子ヨナタンを殺してもいいと思うほどにダビデへの殺意に満ちていく。聖霊に満たされた体験は、あなたをへりくだらせているだろうか。改心へと導いているだろうか。体験は、聖さの証しとはならないことを覚えておこう。

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