マルコの福音書

2012年9月 5日 (水)

不可能はない。

「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、
どんなことでもできるのです。』」(マルコ 9:23)

おしの霊につかれた息子の父親が、解放と癒しを求めて、イエスの弟子の
もとにやってきた。
弟子たちは、解放を試みたが、できなかった。
そこへ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に行っておられたイエスが
戻って来られた。
解放することができなかった弟子たちは、律法学者たちと議論していた。
子供の父親は、イエスに言った。「もし、おできになるのなら、助けて
ください。」と。
冒頭のみことばは、そのことばを受けてイエスが答えたことばである。

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世の常は、「これはできない。」「できることとできないことがある。」
「何か問題があってできないのだ。」と理論付けの説明を試みる。
しかし、イエスはこう言われる。「できるものなら、と言うのか。
信じる者には、どんなことでもできるのです。」
「どんなことでも」である。神に不可能はないのである。
時には、自分の足りなさが責められて、「できない」と結論付けたくなることが
あるかもしれない。
自分ではなく、「信じるなら、どんなことでもできる」と言われる神を見上げて、
信仰を働かせて、祈り続けよう。
神の時に、速やかに解決がやってくる。

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2012年8月30日 (木)

沈黙の品性

「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(マルコ 15:5)

十字架への裁判で、ののしられ、身に覚えのない訴えの中で、主イエスは沈黙された。
黙っていることは、黙認とされる。無気力や投げやりでそうされたのではない。
神に信頼し、神のご計画は何かを知っていたゆえのことであった。
ねたみによる偽証、強いものへの媚びへつらい、恐れによる黙認…、
そういった罪が渦巻く中で、主は黙認されたのである。
神には、人類の罪を赦し、贖いのみわざを成し遂げるという計画があった。
人間の罪に目を留めず、ただ神を見上げ、沈黙される主。
その姿には、ピラトも弟子も驚いた品性があった。

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自分を弁明しようとすれば、するほど、話がもつれ、ややこしくなる。
そのような時は、十字架を耐え忍ばれた、主イエスを思い出そう。
沈黙を貫かれた主イエスに倣おう。そうしたところに、神の品性がやどり、和解の道が開かれる。
明日も、不要な言葉から、私たちの口を、主が守ってくださいますように。

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2011年10月 4日 (火)

神は決して見捨てない。

「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」(マルコ 16:7)

イエスがよみがえられた後、墓の前に来たマリアとサロメに天使が語った言葉である。天使が語った命令は、お弟子たちとペテロに向けての伝言であった。「たとえ死ぬことになっても、主を否まない。」と力を込めて言い張っていたペテロであったが、主が捕まった途端、徹底して主を否定してしまった、そのペテロにである。主イエスの目の前で、三度否んだ後、十字架刑が実行され、それが主イエスとの最後であった。悔やんでも悔やみきれない、自分の弱さがつきつけられた瞬間であった。そのような自分では見たくなかった自分の弱さも、主はご存知で側においてくださっていたことを痛感した。主の愛に満ちた目が焼き付いて離れない。そのようなペテロの心をご存知の主は、名を出すことによって、ペテロへの変わらない愛を示されたのである。

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「こんな私など主に愛されはしない。」「お役にたちたいと思っても、失敗ばかりで、何の役にも立たない。」このような偽りに惑わされてはいないだろうか。私がこんなふうなのも、人間が失敗するような不完全な存在であることも、とうの昔からお見通しなのである。それでも信じて従ってきなさいと言われる主がおられるのである。

ペテロはこの後、聖霊の力によって、主の証し人として変えられていったのである。全てにおいてみこころをなされるのは、神である。主を信じ、ゆだねて歩んで行こう。

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2011年10月 3日 (月)

一番たいせつな命令

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ 12:29-31)

これは、律法学者がイエスに「一番大切な命令はどれか」と尋ねたときの解答である。どちらも大切であるが、二番目の命令は一番目なくしては実行できない命令である。また、一番目の命令は、神の私たち個人に対する愛を知る信仰なしには、実行しきれない命令である。まず、神がどれだけ私たちを愛しておられるかを知ろう。神に心を向け祈るなら、神はご自身の愛を私たちに教えて下さる。その愛を知り、私たちもまた、神を愛さずにはいられなくなり、神が愛してくださる自分自身を愛し、隣人へとその愛が流れていくのである。

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「私には愛がありません。たったの二つの命令すら全うしえない者です。神さま、私を憐れんで、愛を教えてください。」私の内には愛がない、実は、こう認めることが、神の道なのである。自分に愛があると思っていると、いつしか、「これだけ愛してあげてるのに…」という思いが潜むだろう。

毎日毎日、聖書を通じ、祈りや人間関係の中で、神の愛を見出していこう。恵みは低いところに下る。

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2011年10月 2日 (日)

みことばの矛盾?

「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」(マルコ 10:5)

パリサイ人たちがイエスをためすために、離婚は許されるかどうかと質問した。神の愛の教えを説いておられたイエスが律法に反することを言ったなら、非難しようとねらっていたのである。律法には離縁についての規定があった(申命記 24:1-)。「許される」と答えれば、神が離婚を奨励しているようで、神の愛とは異なっていく。「許されない」と答えると、律法の記述と食い違うようになってしまう。イエスは、「律法にはこう書いてある」とは答えられずに、「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」と質問された。そして、離縁とは別の個所である創世記から、神の愛によるみこころを説かれたのである。

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聖書のみことばというものは、使い方次第である。神の愛によらなければ、たやすくそれていってしまう。大切なのは、神というお方を知ることである。聖書にこう書いてある! しかし、他の個所には逆のことが書いてあるかもしれない。

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Ⅱコリント 6:12)みことばに従うことは大事なことであるが、自分を追い詰め、がんじがらめになってはいないだろうか。神は聖であり義である。また、神の愛は、広く、長く、高く、深い。行ないにすがるのではなく、神の愛により頼んで、今日も歩んで行こう。

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2011年10月 1日 (土)

和合して暮らしなさい。

「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコの福音書 9:50)

これは、イエスの名によって悪霊を追い出していた者を見たヨハネが、「仲間ではないのでやめさせた」と報告した後で、説かれたイエスの教えである。弟子たちは、イエスの名での働きは自分たち直弟子の特権であるという誇りを持っていた。他の者が悪霊を追い出していたところで、良いことをしているのである。やめさようと思った理由は何であったのか。《知らない者たちによって、イエスの名が使われている》そのことが不快であったのだ。そのような弟子たちに主は言われた。「やめさせることはない。反対しない者は、味方である」と。そして、つまずきを与えることへの注意を与えられた。

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不快な思いが起こったとき、それがどこから来ている思いであるか、よく吟味しよう。他人のよくない言動からであったとしても、それは自分から出ている思いである。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ 7:15)塩は腐敗を防ぎ、聖さを保つ。自分自身のうちに塩けを保ち、互いに和合を保って暮らしていこう!

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