ヨハネの福音書

2013年10月17日 (木)

風は思いのままに吹く

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ 3:8)

心砕かれ、100%捧げる決意をする者をわたしは用いる。
わたしの吹かせる風に身を任せて、自由に従う者をわたしは求めている。
あなたは何かを持っていると思ってはならない。
あなたが持っているものでわたしが与えなかったものはないからだ。
あなたがもっているものをわたしに差し出しなさい。
そうすれば、わたしはいく倍にも祝福し、あなたを満たそう。
風の流れをとどめたり、流れを変えようとしたりしないように注意しなさい。
汚れた水が少しでも残っているならば、いくら聖い水を注いでも、ピュアな水に
はならない。
古い考えや自我を捨て去りなさい。
そしてわたしがあなたを作り変えようとするがままに、委ねなさい。
大いなる祝福があなたを待ち受けている。
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聖霊さまは、聞き従ってくるものを、喜んで満たして下さる。
聖霊さまに触れられて、私達にも喜びが満ちる。
その喜びによって、神さまに従おうと思い、神さまに少しでもお返ししたいと思っ
て、捧げる心が起こる。
まず、神がある。神の愛が先にある。
主に委ねて、歩んでいこう。喜びがあふれ満ちる!

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2012年3月14日 (水)

耐える力の源

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」(ヨハネ 16:13)

イエスは、自分が去った後、イエスの名によって遣わされる助け主なる聖霊について、弟子たちに教えられた。また、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」と、主を信じる道がたやすい道ではないことを教えられた。主の道が、歩きやすく、きらびやかな道だと思っていると、困難がやってきた時に、投げ出してしまうであろう。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」と、主は配慮をもって、言って行かれた。もっともっと教えたかっただろうが、話を聞くための耐える力がないと言われた。聞く力がないのならば、実際に起こった時は、もっと耐えられない。しかし、真理の御霊が来ると、すべての真理に導き入れると、助け主なる聖霊を送って下さることを約束された。

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人間は、見たことがないものや経験したことがないものについて、ぼんやりとしか知ることはできない。神についても同じである。いつも間にか、全然違った神を自分の頭で作り出してしまう。私たちが、神を知るには、神の側からの啓示がないと、できない。そのような人間、神は、ご自身を現そうと尽くされる。日々、聖霊が助けて下さることは、なんという恵みであり、力であろうか。聖霊が与えて下さる力は、がまん大会のようながまんの力ではない。主にある喜びが伴うものである。日々、聖霊の力をいただいて、歩んで行こう。

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2012年3月13日 (火)

主の道を伝えることとは

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)

イエスは私たちに、新しい戒を与えられた。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。しかし、これは、新しいものではなく、初めから神が意図されていたことであった。モーセによって与えられた律法は、「○○しなさい。」「××してはならない。」という命令調になってはいるが、これはすべて愛に基づくものであった。聖書に矛盾に聞こえるようなことが書かれてあるのは、そのためである。神を愛し、人を愛する愛によって、守っていくものであった。伝道することは、主の命令であるが、愛に基づかなければ、むなしく終わる。その伝道で一人の人が救われたとして、愛のない言動によって、多くの人をつまずかせるならば、どうなるだろうか。

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主を信じる者の互いの間に愛があるならば、それによって、すべての人が主なるキリストを認め、多くを語らなくても、その神の存在を知りたいと思うことだろう。キリスト者の間に真実の愛の一致がありますように。

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2012年3月10日 (土)

たとえ何もなくても養って下さるお方

「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」(ヨハネ 6:6)

十二弟子が村々に宣教し病人を癒す働きをした報告を受けたイエスは、十二弟子を連れて、ガリラヤ湖の向こう岸のベツサイダという寂しく小さな町に、ひそかに退かれた。ところが、イエスが多くの病人を癒す奇蹟を見た多くの群衆が、彼らの出て行くのを見て、方々の町々から徒歩で駆けつけ、イエスご一行よりも先についた。舟から上がられたイエスは、群衆を見て、深くあわれみ、いろいろ教えを説かれた。群衆の数は男だけでも五千人だった。この群衆を見て、イエスはピリポに、こう言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」これは、ピリポをためそうとして言われたのであった。

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イエスは、何をピリポに期待されてためされたのだろうか。弟子たちは、カナの婚礼で水がぶどう酒に変わる奇蹟を見ていた。パンの買える店を探してほしかったわけではない。「神にとって不可能なことは一つもありません。」と天使に言われ、「おことば通りになるように。」と言ったマリヤの信仰のように、主に期待し、「主よ、あなたに不可能はありません。荒野で民がやしなわれたように、神は、何もないところからでも、私たちを養うことがおできになります。」という信仰を期待されたのである。ピリポの答えは現実的であった。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」二百デナリとは、二百日分の賃金であり、少なく見積もっても百五十万円以上の金額である。そのような答えを受け、イエスは、5つのパンと2匹の魚で五千人以上を満腹させるという奇蹟を行われたのであった。主に不可能はない。どのような時でも主に期待して歩もう。

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2012年3月 9日 (金)

祈りが聞かれる秘訣

「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」(ヨハネ 9:31)

聖書でいうところの罪人は、すべての人である。行為に移すかどうかは別として、罪の根となる思いに心当たりがないという人は、一人もいないだろう。そうしたら、すべての人が絶望的ではないか、と言いたくなるところである。しかし、神は、そのような私たちの罪を赦し、義と変えてくださる道を備えてくださっている。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリストを信じ、義とされた私たちが、神を敬い、みこころを歩むならば、祈りは聞かれるのである。

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私たちを愛してくださっている神は、絶えず、私たちの願いを聞いてくださっている。ならば、なぜ、祈りが聞かれないのだろうか。神を敬っているか、みこころを行なっているか、祈りで心を探っていただこう。神を敬い、みこころを行って、それでもなお聞かれないなら、時が満ちていないのである。神は、私たちの成長を待たれる。神に委ねて、今日も歩んでいこう。

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2012年3月 8日 (木)

神による絆

「イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」(ヨハネ 8:42)

イエスは、イエスの話を聞いて信じたユダヤ人に話された。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と。神が私たちの幸せのために与えて下さった律法を人間は、いつのまにか、「○○しなければならない。○○するべきだ。」という肉の規則にすり替えていた。しかも、いろいろな規則を追加して、それが神のみこころであるかのように教えていた。その教えは、人を束縛し、窮屈にし、喜びを奪い、神への認識をもすり替えていた。そのような教えの行く先は、結局、罪であり、自分の思いにしがみつく頑なさ(罪の奴隷)である。イエスは、「神から出たものは、わたしを愛するはずである。」と言われた。神から出た者は、イエスの語る神の愛、愛が具現化したイエスを愛するようになっているのである。

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神の愛にとどまりつづけると、自然に、神を愛する者たちは、引き寄せられるように集められていく。その絆は、神の愛によるものであり、強く、誰も切ることができないものである。しかし、肉によって生まれた人間は、弱く、神の愛から目を離しがちである。その隙をつくかのように、関係が壊れ、崩すような事柄が起こっていく。イラっとしたとき、ムカっときた時は、イエスを思い出そう。ねたみ、そしり、あざけりを超え、神の愛にとどまり続けた主が、いつもともにいてくださることを。

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2012年1月12日 (木)

人の心は移ろいやすい

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ 2:24,25)

多くの人たちがイエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じたが、イエスはそのようなことで一喜一憂されなかった。すべての人の性質を知っておられたイエスは、人の評判や支持により立っておられなかったのである。

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人間の態度と言うものは、その時々の状況や雰囲気で、変わりやすいものである。原罪を持つ人間が頼りにならないということを知っておられるゆえに、ご自分を任せることをなされなかったのである。「あの人がああしたから、私がこうなったのだ。」「他の人たちが助けてくれないから、できない」と人に自分を任せることをせず、神を見上げ、自分の足で、イエスさまについて行こう。

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2011年10月19日 (水)

捨て身の者を見捨てられないお方

「すると、彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この全土をあなたがたに与え、その地の住民のすべてをあなたがたの前から滅ぼしてしまうようにと、お命じになったことを、このあなたのしもべどもは、はっきり知らされたのです。・・・私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」」(ヨシュア 9:24,25)
ギブオンの民は、主を恐れ、聖絶されないようにと一計を案じた。カナンの住民ではなく遠くからやってきた民のように装い、ヨシュアらイスラエル人をだまし、生かしてくださるよう誓いを取り付けたのであった。聖書には、ヨシュアらが「主の指示をあおがなかった。」とある。ヨシュアは、誓った通りに、ギブオンの民を救った。カナン入植中の大事な局面である。出会う民について、主に伺っていれば、だまされたという汚点は残らなかったであろう。主に伺っていれば、主はへりくだりをもって主のもとにやってきたギブオンの民を、やはり助けられただろう。ギブオンの民はサウルの時代に至るまで、イスラエルとともにいた。そればかりか、サウル王がギブオン人を殺したことで、主はその罪を問われたのであった。

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主はへりくだって、みもとにやってくる者を拒まれないお方である。「あなたのお気に召すように、お目にかなうように」と自分を明け渡したギブオン人のように、自分で握りしめているものを明け渡し、主にゆだねよう。主が祝福してくださる!

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2009年4月 8日 (水)

信じるということ

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書 20:27)

信じることと信じようとすることは異なる。
信じようとすることはがんばりを要する。
信じることは、ゆだねきっている状態である。
キリストの福音があまりにもすばらしく、キリストを信じたいと思い、決心に導かれる。
決心し、クリスチャンになった後、競争化社会に生きている私たちは、とかくこの世の基準でがんばってしまう。
みことばにあるからと、がんばって奉仕し、がんばって聖書を読み、祈ることすらがんばってしまう。
そうしているうちに、疲れ果て、神の愛も恵みも遠い世界に思えてくる…。

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愛によって語られたみことばを律法によって全うしようとしてはいないだろうか?
疲れた時、また、人と比較して平安を失っている時、思い出そう。
キリストは、私が罪人であったときから変わらぬ愛で、私を愛し、救ってくださったのだと。
がんばれない自分も、何もできない自分も、そのまま受け入れられている。
そう思い出したなら、す~っと肩の力が抜けて、自然体でいられる。
今日も、ゆだねることのできるお方に信頼して、歩んでいこう。

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