詩篇

2018年11月14日 (水)

とこしえのいのちの祝福『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節

『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節(新改訳聖書使用)

心の風邪であるうつ病

 今月半ば(2012年1月)に、「今日的うつ病の問題」というセミナーに出席した。 そのセミナーで教授が言われたことには、今日、うつ病で病院にかかっている人は、100万人くらいいるとのことだ。 それは130人に一人という割合であり、日本の人口の1%近い割合である。 これは、受診した人数なので、実際のうつ病患者は、もっと多く、人口の3%と言われる研究者もいるそうだ。 また自殺者がここ13年間連続して3万人を超えていて、そのうちの60%はうつ病によるものと考えられているそうだ。 これは交通事故死の4、5倍だそうであるが、どの世代に多いかというと、昔は20代前半に多かったのが、最近は50代に多いという傾向があるということである。 震災から8か月、心病む人は、更に増えていくと思われる。うつ病は早期の対応で防げるもので、また「心の風邪」と言われ、必ず治るものであるが、こじらせることで死に至ることもあるそうである。

 今日の詩篇の箇所は、表題に「ダビデによる」とあるが、これはダビデを記念するという意味の「ダビデのための」とも訳せる語が使われていて、捕囚帰還後の時代の作という見解もあり、必ずしも作者がダビデとは限らないと言われている。 とはいえ、作者が誰であっても、兄弟姉妹が一つになって、共に住む喜びを詩っているものである。今日の主題となる1節のことば、口語訳では、「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) とある。ただ義務的に一緒にいるのではなく、仲睦まじく平和に一緒にいる一致を語っている。

4枚の絵

 日本の人たちがキリストの愛を知って救われることを祈る中で、私はカウンセリングに導かれました。 日本の人たちがキリストの愛を知るために必要なものはキリストによる愛の一致だということを長年の試練の中で学んでのことです。 この3月に私は神学校を卒業しますが、神学校に入る前の7年間は、小岩栄光キリスト教会のブランチとして、教会に行けない人たちとともに、日野の地区で落ち穂の会という礼拝を持っていました。 それぞれ全く異なる3つの正統と言われている教会を主に導かれて通り抜けた末に、与えられたビジョンに従ってのことでした。 このビジョンについて、今まで私に与えられてきた幻が4枚の絵で残されています。 1枚1枚は、それぞれその時に応じて、与えられたものです。(著作権があるので、サイトでは紹介できません)

 救われてすぐ(1994年)、礼拝を守るためにある試練が起こりました。 その時の所属教会の牧師先生に相談しようとしたところ、「君は、そのようなことで悩んでいるのかね。世界にはもっと大変なことで悩んでいる人が多くいるんだよ。そのような悩みは5年もすれば忘れているよ。」という一言が返ってきました。 その時、私は、こう思ったのです。「カウンセリングは賜物なんだ。教会にはカウンセリングの賜物を持った人が必要なんだ。」(幼い信仰ゆえの間違いです。) こう思った私は、祈りに覚え、賜物を持った誰かを送って下さるように祈り出しました。 また、この頃、カトリック信者の義理の姉から「プロテスタントは分裂分派や異端が多い」と言われていたので、マルチンルター以来、分裂分派を繰り返していることへのとりなしと一致への祈りを始めました。 3年弱が過ぎた時、夫の実家の近くの教会(アッセンブリー教会)で見た絵が妙に心に焼き付いて離れない、ということがあり、譲ってもらいました。 崖から落ちてけがをして歩けなくなった羊を、救おうと手を差しのべている羊飼いの絵でした(1枚目)。その直後、とあることで、1つ目の教会を出されたのです。

 2つ目の教会の初めての礼拝で目を閉じて「キリストには変えられません」を賛美している時のこと、 「大きな傷から血を流している羊が、イエスさまの足元に来て受け入れられる」光景がすっと現れ、消えていきました(2枚目)。 この時、この幻が教会から譲り受けた1枚目の絵とリンクし、大きな慰めを得ました。 メッセージや交わりですっかり癒され、1年半ほど過ごした頃、ある姉妹が私と祈った時に異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことで、教会にいられなくなってしまいました。  この姉妹を教会につなげようと行った3つ目の教会は、伝道熱心な韓国の長老派系の先生の教会でした。 訪問伝道をしていると、外国の気さくな先生だったためか、牧師の訪問が珍しかったからか、わりと戸を開けて話を聞いてくれたんですね。 意外だったことに、狭い町の中、過去に教会に行ったことがあると言う方が結構いたんです。そこでは1年弱過ごしました。

 3つの教会を出された私は、気付くと深く祈れなくなっていました。 この頃、2つ目の教会から信仰を共に歩んで来た友人がそばにいて、祈れない中、ともに支え合っていました。 ある時、主に心を注ぎ、祈っていたところ、私にみことばが、友人に幻が与えられました。 主は、小さな洞窟の中で小さなランプの暖かな炎が暗やみを照らしている光景(3枚目)を見せると同時に、「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」(伝道者 9:8)と、祈りの炎を絶やさないよう言われたのです。 また、この後、帰宅して祈っていると、2人同時に同じみことばが与えられました。 「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、 ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。 万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ 37:30-32) こうして通常の教会の交わりから絶たれた人のために、「落ち着ける教会が見つかるまで」という条件の下で、家庭を開き、礼拝を始めました。 当時学んでいたカウンセリングスクールに来ていた人の紹介で、吉山先生のサポートが得られることになりました。 何人かの人たちが礼拝に集い、マンションで開いた「ごすぺるの会」にも近所の人が集まり、友人の家族も救われていったのですが、通ってきた状況ゆえに、教会から離れての牧師不在の礼拝には、 安心感がなく、6年が過ぎた頃には、限界が来てました。その頃、友人が、この3枚目の幻には「もう一面の光景が見えていた」と違うパターンのものを描きました。 祈りの炎を斜め前方の角度から、見たもので、砂のような土が炎を守るように、覆いかぶさろうとしている絵でした(4枚目)。 よく見ると、ぱっくりと蛇の口になって火を呑み込もうとしているように見えました。この絵をいただいた後、私にはこれが気味悪く思えてきて、返してしまいました。 返した翌日、心に響く声がありました。「祈りの炎を消そうと呑み込もうとするものは、あなたは今まで戦っていたものではないか。気味が悪くて当然だろう。」 私はこの時、主が描かせた絵だということを知り、友人を信じきれなかった自分にも気付きました。 友人に謝罪した時は、もう遅く、関係は悪化していきました。この絵により、神の子同士の関係を崩し、一致を妨げようとしているものが存在し、教会が本来の力を出せないでいることも知りました。

 友人とのメールのやりとりがあったある日、職場でメールを見た時のこと、頭が締め付けられるように痛み、 「こうやって、人は心がおかしくなっていくのかぁ。牧師先生は、このような重圧に耐えて牧会しておられるのだなぁ」と思った時、3つの教会でのことが理解できたのです。 そして、支え合う(特定ではなく)多くの兄弟姉妹の必要、教会の必要を改めて悟ったのです。 友人を誰かに託さないと、共倒れになる!と思った私は礼拝を閉めました。 放心した状態で、年末断食聖会に臨み、これからどうしたらよいかと、今までなぜこのような道を通らなければいけなかったのかと、主に尋ねた時のこと、最終日に「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記 6:14) というみことばが臨み、再献身の心が与えられました。そして、教会に行けなくなった人たちとの「安心感を与えるためのネットワーク作り」の基礎を作るために、押し出されるように、神学校に入りました。 しかし、7年間心を注ぎ、はぐくんできた礼拝を閉めざるを得なくなったことが、私の心に大きく影響を及ぼしていたのです。 入学して1カ月経った頃のこと、腰に痛みを覚えました。数年前にも椎間板ヘルニアにより、2,3回の腰痛を経験していたので、今回も1週間ほどで治るだろうと思ったのですが、この腰痛は1年間続きました。 時には、トイレにもはいずって行かなければいけないほどでした。また、礼拝を閉める時の頭痛も時々、起こっていました。 頭痛のほうは、いろいろな検査の結果、目の疲れなどから来る緊張性頭痛と言われていました。どのような痛み止めの薬も治療も効かなかった腰痛が、ある時、緊張性頭痛の薬を飲むと痛みがなくなったのです。 その薬は、筋肉の緊張を解くために処方された抗不安薬でした。 心から来ているのか?と思い、カウンセリングではフォーカシングといって、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向けるやり方があり、 気付きを与えてくれる手法があるのですが、痛みに心を傾けてみました。すると、ひどく痛む中で、「このような体の痛みより、心が痛い…。」と痛みがこう伝えてきたのです。 この腰痛は、それから自分自身の感情をケアしつつ、決められた2回の教会派遣を全うし終えた時に、完全に癒されました。

 ところが、頭痛の方は、ずっと継続しているわけではないので、楽観視していたところ、神学校時代の4年間、事ある度に出現していました。 3年ぐらいすると、頭痛の出るタイミングがわかってきていました。 普段の生活や職場上のことでは出現しないのですが、教会の中で、一致を乱すようなトラウマになっている出来事を見た時に、起こっていました。 時々とはいえ、起こると数日続くこともあり、薬を飲むのもつらくなっていきました。 カウンセリングのセルフケアでわかったことは、この頭痛は、行き場がなくなることへの不安による怒りを訴えていたのだということでした。

一致

 教会が弱体化する原因は不一致である。 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(守り続けるように努めなさい。〈口語〉)」(エペソ 4:3)「平和の繋つなぎのうちに勤めて御霊の賜う一致を守れ」〈文語〉 とあるように、教会の一致は私たちが作り上げるものではなく、既に御霊によって存在しているものとされている。 既に存在している一致を崩そうと人間関係に働いてくる敵がいることを忘れてはならない。 ある時、1枚の絵ハガキに心が動かされた。十字架を中心に人々が輪になって楽しみ喜んでいる絵であったが、今日読んだ詩篇のみことばが書かれていた。  「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) 聖書を見ると、この様子は、2つの例えで表されている。

一致の2つの例え

 ①「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」(詩篇 133:2)大祭司は、その働きにつく時の任職の聖別のため、定められた調合法に従って作られた、聖なるそそぎの油を、頭に注がれた。大祭司は、 「胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯」(出エジプト 28:4)といった 「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジプト 28:2) を着用していた(主題からの学び:「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅰ)」「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅱ) 」 「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅲ)」参照)。 その肩には、十二部族を生まれた順に六部族ずつに分けて記名した2個のしまめのうをはめた肩当てが付けられ、その胸には、 十二部族を表した12個の異なる宝石が4行3列にはめられたさばきの胸当てが留められていた。油が「ひげに流れて」「えりにまで流れしたたる」  と上から下に流れ落ちてくる様子が2度繰り返され強調されている。兄弟たちが一つになってともに和合していることは、神の子たちに流れる天からの祝福のように、喜びに満ちたことである。

 ②もう一つの例えは、「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3) ヘルモンは、ガリラヤ湖のずっと北の方にある山脈で、聖書辞典によれば、最高峰が2800メートルを越える頂を3つ持ち、長さ32キロにも及ぶ連山であり、そびえ立つ光景は、 周囲の町々から畏怖の念を抱かせるほどであった(ネットで見た雪のヘルモン山は、日本の北アルプス、立山連峰に似た大パノラマの光景のようでした)。 この周囲の地域は乾燥地帯であり、ヘルモンの山頂は、年間を通じて雪で覆われていて、急激に冷やされた大気中の水分が、大量の重い露となって大雨に見えたほどに山を潤していた。「シオン」の語源には、「乾き切った場所」という意味がある。「山々におりる」「おりる」は、2節で2回繰り返し使われていた「流れる」と同じ語が使われている。兄弟たちが一つになってともにいることは、乾き切ったところに流れ、一帯を潤すヘルモンの露のように、 その交わりは、しなびた草木をも生き返らせるような、命の喜びに満ちたものである。

 この詩篇は「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3)「とこしえに命を与えられたからである。」〈口語〉で締めくくられている。主がシオンにとこしえに命の祝福を置かれたように、兄弟姉妹の和合・一致に主は祝福を置かれていると、言われている。 教理の正しさとか、正しい行ないも大切だが、それよりも大切なことは、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する「愛」である。 そのような愛があれば、「神は愛である」(Ⅰヨハネ 4:8,16)という聖書の神の真理に到達する時が必ず来る。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉)自分の価値観で判断しやすい私たちは、正しいお方は神だけである、という認識を忘れずに、一致を守っていきましょう。 今やうつ大国と言われるようになった日本の国に、この麗しさ、楽しさが伝わり、主にある絆によって、この国が喜びに満ち溢れますように。

落ち穂の会

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2013年10月20日 (日)

思い煩いは主に!

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(詩篇 94:19)

あるリーダーが、ある祈りの集会を導くことになった。
場所を用意し人々が祈るために集まった。
黙想する時間があるのだが、開いてみると、その場所は、大きな道路に面し、うるさ
いことを知った。
それでもと思って始めてみると、拡声器の声まで聞こえてきた。
失敗に終わるのではと思い、主に向かった。その時、主は語られた。
「あなたはなにを思い煩っているのか?
 どこにいてもどんな場所でもわたしはいる。
 心配せずに委ねなさい。この集まりの主はわたしである。
 否定的な思いを打ち砕く!!
 否定的なことばを語らないようにしなさい。
 この集まりを導いているのは、わたしである。あなたではない。
 わたしに任せて祈りなさい。人の評価が大事なのではない。
 大事なのは、人々がわたしを知ることである。
 わたしは欠けている人間を欠けたままで用いることができる主である。
 持っている問題が大きいほど、また、求めが強いほど、人は私を求める。
 その時、わたしは応えよう。」
このことばに安心感を得、その会は主の喜びが満ちていった。
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完全ではない欠けた私たちであるが、主はそのような私たちを用いて下さる。
自分の思いを捨てて、主を見あげた時に、主は働かれる。
その時、主の栄光が満ちる!!

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2013年8月27日 (火)

負の感情の扱い

「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇 32:3)

人生において、時に不当と思えるような扱いを受けることがある。
「なぜこのようなことをされないといけないのか。」「なんで自分ばかりが…」「もうやってられない!」…いろいろな負の感情がやってくる。
これを相手にぶつけたところで、争いや不和を招きかねない。
それで、感情を抑えることがよい人のように、嫌な思いや傷を抑えて、黙って蓋をしてしまう。
が、不安や疑問は解決されず、内心はどろどろだ。どれだけ耐えられるかの我慢大会になってしまう。
これは、神の恵みの世界ではなく、律法に生きようとする者の世界である。
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どのような状況下であっても、自分の心を見張り、湧き上がってくる負の感情(不信仰から出たことば、疑い、高ぶり…)を正当化したり、逃げたりせず、主の前に注ぎ出そう。
主は私たちの隠れ場である。主は苦しみから私たちを守り、悟りを与え、行くべき道を教えてくださり、助言を与えてくださるお方である。
主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲み、喜びで満たして下さる。
主に信頼しよう!!

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2013年7月 9日 (火)

「傷ついた道」への解決

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:24)

「傷ついた道」というのは、苦痛に導く道ということだ。悲しみの道とも言える。
この詩篇の作者は、神への恐れを持たずに神の名の権威を軽々しく用いているような人々との戦いの中にあった。
同じ神の名を用いる敵、実質の実(実体)が全く異なる神だとわかるまでは、多くの悩み、苦しみが起こる。
まともに立ち向かっては、神を知らない人たちにとっては、仲間同士の戦いに映ってしまうので、神の栄光を考えると、知恵が必要だ。
その敵から来る苦悩は深いものであり、その中にあって、信仰者は砕かれ、品性が練られていく。
作者は、そのような苦悩の中で、まず、神の大きさ、性質に思いをはせ、平安に包まれていった。
そうして初めて、神に苦悩を包み隠さず言い表し、寄りすがったのである。
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「傷ついた道」への解決の道は、主だけがお持ちである。
自分で立ち向かっては、取り返しのつかない結果に終わりかねない。
破壊と分裂が残り、主へのあざけりをもたらしかねない。
本当の敵は、その人の背後にいるサタンだからである。
主の偉大さに思いをはせよう。そして、苦悩を言い表そう。
主がその問題を取り扱って下さり、ご自身の栄光を現される。

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2011年11月 3日 (木)

寂しくなったら…

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩篇 68,5,6)

子よ、その寂しさを物や人や肉の楽しみに向かわせるのではなく、わたしに向けよ。わたしを呼ばわれ。わたしが与えるものは渇くことなく、永遠の喜びとなって、あなたを満たすことができるものである。寂しい時には、わたしを思い出せ。寂しさは神と親しむための賜物である。

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すべてを祝福してくださる神がいる。寂しさを感じた時は、神を呼び求めよう。神があなたの必要に答えて下さる!

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2009年3月 5日 (木)

主にあれば、苦しみもまた祝福

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:71)

ヨセフは何不自由ない暮らしをしていたのだが、ある日、突然ふりかかった出来事によって、エジプトに奴隷として売られた。
ヨセフにとっては、ふってわいたような災難であったが、兄たちにとって、ヨセフさえいなければ…という思いは、常に心にあったことであり、それを実行に移しただけであった。
ヨセフにとっては苦しみの始まりだったが、そこに神様の偉大な計画があったのだ。
「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ 13:27)
これは、主イエスが自分を売ろうとしているイスカリオテユダに対して言われたことばである。
ヨセフの兄たち、イスカリオテユダの罪もが神の偉大なご計画の内にあったのである。
苦しみの渦中においては、わからなかっただろうが、振り返ってみると、偉大な神のみわざが見えてくる。

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苦しみを通ってこそ開かれる恵みがある。苦しみを通らないと悟り得ない事柄がある。
キリストゆえの苦しみは大きな祝福となる。
主がいつもヨセフとともにおられたように、苦しみのただ中をともに歩んで下さっている。
産みの苦しみを主とともにのりきろう。

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2009年2月 9日 (月)

助けはどこから…?

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇 50:15)

物事には始まりがあり、終わりがある。
何かを始めて困難にぶつかることがある。
そんな時、しなければよかったのだろうか、どこかで間違ったのだろうかといろいろ考えてしまっていないだろうか。
結果、平安がなくなってくる。
聖書は言う。そういう時には主を呼び求めよ、と。主が助け出して下さる。
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主を見上げ、みことばによって歩んでも試練はやってくる。
そういうときには再び主に尋ねてみよう。主は与えまた取られる。
一度与えられたものでも場合によっては手放すよう促される。
そういう場合は過去の恵みにしがみつかず、主の言葉に従おう。
しかし、いくら祈っても何も言われない場合もある。
そういう場合は変化が現れるまで現状にとどまっていよう。
祈れない場合はまず祈れませんと申し上げ、主と語り合おう。
祈ることは律法でも宗教でもなく、交わりである。
主に従うには柔軟な態度と忍耐を要する。
主が語られたならば疑わずに大胆に従っていこう。

ただ助けられるだけではない。あなたはわたしをあがめよう、と主を仰ぎ見ずにはいられないすばらしい方法で助け出してくださるのである。

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