2014年8月10日 (日)

『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」』(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社発行)

Kenzen律法主義と神の恵みとの戦いは、いつの時代にも起こっている。

「信仰」について、 わかりやすく書かれていて読みやすい本である。

「信仰」とは、「献身」とは、「みこころ」とは、「みことば」とは、「牧会」とは、の5つの項目に分けて説明されている。

「キリストが十字架上で人類の罪を贖ってくださったからです。人間の実績ではなく、キリストの十字架の功績です。ここに、人が神との交わりを回復し、また神との良い関係が保たれる唯一の根拠があります。ですから、健全な信仰を持つクリスチャンは次のように考えます。
『私が救われたのは、私が何かの善い行いをしたからではない。ただ、神の一方的な恵みにすがることによってのみ義と認められた。また、日々、神の祝福と守りの中で歩むことができるのも、私がクリスチャン生活の中で合格点を取っているからではなく、キリストを信じる信仰があるからだ。』」(17,18頁)

「サタンに対して無警戒になることは危険ですが、その一方で、サタンの存在を意識し過ぎて、必要以上に恐れることも大きな問題であり、サタンの思うつぼですなぜなら、サタンのことに神経が集中している間、神に心が向いていないからです。
聖書は、悪魔の働きが神の支配下にあることを明記しています。つまり、サタンは神の許可なしには、何もできません。確かに、神のご計画の中でクリスチャンがサタンに試みられることがあります。その場合、神の目的はクリスチャンの霊的成長であり、サタンの目的はクリスチャンを罪に陥れようと誘惑することですが、悪魔の餌食にならないための最善の対策は、神の恵みを求めることです。」(19頁)

「マインド・コントロールとは、ある人(あるいは組織)が別の人の精神を操作することを指しますが、コントロールする側の人間は自分の霊的・精神的・知的卓越性を主張したうえで(神の代弁者、神の油注がれた器)、絶対的服従を要求します。そこで、相手の主張を受け入れた場合、人はだんだんと相手に依存するようになり、さらに思考停止になり、ロボット的存在と化してしまいます。言うまでもなく、人がこのような状態に陥ることは、カルトの指導者にとっては好都合です。自分の野望達成のために、人をこき使うことができるからです。」(24頁)

「カルト化した宗教団体において、『自分を捨てる』とは、自分の思考力や判断力を捨てて無条件に指導者に服従すること、自分の夢や思いや主張や好みを押し殺して徹底的に指導者に仕えることを意味します。言うまでもなく、日ごろ、自分のことを無価値な人間だと思い込んでいる人にとっては、それはさほど難しいことではないでしょうが、神の喜ばれる健全な奉仕生活は、出発点が違います。『私は神から賜物を与えられている貴重な存在だ』という認識に立つのでなければ、奉仕は長続きしないのです。」(34頁)

また、心に浮かんだ思いがみこころかどうかチェックする助けとなる「みこころを確認するためのステップ」が6つ書かれていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月 9日 (水)

「霊の戦い―虚構と真実」(ウィリアム・ウッド/パスカル・ズィーヴィー著 いのちのことば社発行)

Reitatakai 教えの行き過ぎを防ぎ、一致を保つために、必要な事柄が書かれていた。

「私たち人間は弱い者です。知らないうちに様々な偶像を作ってしまいます。神よりも富に頼ったり、神のみこころよりも名誉を求めたり、神よりもこの世を愛したりするようになってしまいます。偶像を持っていては、本当の幸せも得られないし、神のみこころを行うこともできません。そこで主は、私たちに試練を与え、軌道修正をさせてくださいます。苦しい時に、私たちは自分の人生の優先順位を考え直します。
『主よ、あなたこそ、私のすべてです。あなたのみこころこそ、私にとっては最善です』という信仰の基本に戻るのです。ここに神の目的があるわけですが、霊的戦いにこだわり過ぎると、主の計画を見失うばかりか、場合によってはその計画に反対することになります。
思うようにいかないことがあると、へりくだってそのことを主に委ねるのではなく、邪魔するサタンを縛る。このことにどんな目的があるのか、私の学ぶべきことは何かと考えるのではなく、『必ず私の信じたとおりになるはずだ』と宣言する。こうなると、私たちのクリスチャン生活の焦点がズレていると言わざるを得ません。一番大事なのは、私たちのプランの実現ではなく、みこころの実現です。そして、そのみこころの中で、特に神が望んでおられることは、私たちがいよいよイエスさまの御姿に似た者となることなのです。」(35頁)

ちょうど、ヨブのことを考えていた時に、下記の表記を読み、うなずきました。

「試練を通して清められたヨブは、ただ神を愛し、神に頼り、自分の身を神に委ねる者となりました。つまり、富や名誉に対する執着心、あるいは関心がなくなったのです。与えられれば感謝なことだし、与えられなくても感謝なことだ。このような信仰をもって、人生の新たなスタートを切ったわけですが、ここまで徹底的に神に扱われて、整えられた人は、どんなに富や地位が与えられても、大丈夫です。神から目を離す心配がないからです。一方、まだ富や名誉を愛したり、求めたりする思いが残っている人に対しては、主はヨブと同じような祝福を注ぐことはできません。危ないからです。その人のためにならないばかりか、悲劇を生み出してしまいます。
 結局、ヨブはサタンの訴えが嘘であったことを証明しました。御利益があるから、神に仕えていたのではありません。自分の創造者であるから、主権者であるから、良いお方であるから、そのみこころに従ったのです。サタンは、人がこのような信仰に至らないように働きます。そうです。これが最大の霊的戦いです。そして私たちはキリストの権威をもって、この戦いに臨み、サタンに立ち向かうのです。」(38頁)

行き過ぎて神から目を離してしまわないように、主イエスとともに歩んでいきましょう。

| | コメント (0)

2014年4月 4日 (金)

「教会がカルト化するとき」(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社発行)

Cult

最近、カルトって、どういうものを言うのかという質問を受けます。
リバイバルを願うならば、この問題に向き合って、知恵をいただきつつ治めていく必要があると、ずっと思っています。
この本にわかりやすいチェックリストが掲載されていました。
自己吟味して、予防に役立ててください。

「カルト」と「カルト化」の違いと注意

「カルトとは、人間社会に破壊的な結果をもたらす集団のことを言います。ですから、あるグループがカルトであるかどうかを判断するときに、どれだけの具体的な被害が出ているかを見極めることがポイントです。はっきり『カルトだ』と判断できる教会は、ごくわずかだと思われます。しかし、『カルト化している』と言わざるを得ない教会の数は、はたしてどうでしょうか。『カルト化している』とは、すなわち、カルト的体質や特徴を持っているとか、カルトと同じような手法を用いているとか、カルト的傾向が見られる、という意味です。

一つの宗教団体がカルトなのかどうか、あるいは、カルト化しているかどうかの判断は、ちょうど医者が患者を診察して、病気の診断を下すときと同じくらい、複雑で、難しい作業です。さまざまな情報を総合的に見る必要があります。ですから、本来なら、それはカルト問題の専門家の手にゆだねられるべきことだと考えますが、読者の参考のために、幾つかの基本的なガイドラインを記しておきます。簡単な説明の後、さらに細かいチェックリストがあり、家庭医学書のような役割を果たすと思います。しかし、このチェックリストに基づいて、『私の教会はカルトだ』とか、『カルト化している』と自分で判断して、軽率に『カルト呼ばわり』をしないように、読者の方々にくれぐれもご注意をいただきたいと思います。必ず専門家に相談されるようにお願いいたします。」(68-69頁)

| | コメント (0)

2014年2月21日 (金)

「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)

Syuha

知りたかった答えがここに書かれていました。惑わしから守られるために、クリスチャン必読の本です。

全部を紹介したいくらいですが、ここでは、“落ち穂”が実を結ぶために、特に知っておく必要があることを抜粋しました。

【この本が書かれた経緯

「神が語られたのではない「ことば」によって人生をだめにされた人たちの話や、実際に自分が出会ったそういう人たちのことを思い起こしました。そしてついに、主が私を信頼して託されたこのメッセージを伝えないわけにはいかないと、私の心が定まりました。

本書には、実際に起こった出来事が含まれています。それは、実話を通して学ぶことで、本物と偽物とを見分ける目を養えると思ったからです。」(26頁)

【惑わしのタイプ】

【成功への願いの危険】

【真の預言者に訓練中はない】

【偽預言者が反抗心を助長する】

【イエスの権威に真っ向から逆らう善が存在する】

【反抗的な預言者?】

【今日にも適用されるイゼベルのはたらき】

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。…」ヨハネの黙示録 2:18-19

この教会には、クリスチャンとしての働きと愛に溢れていました。人々は積極的に奉仕をし、その忍耐と信仰は本物でした。…

ここで主はご自分を、燃える炎のような目を持った存在として描かれています。これは、どんなに暗闇やベールに包まれたものであっても、物事の本質を見抜くずば抜けた能力を表しています。…しかしイエスは、この教会が行っていたすばらしい働きを通り越して、その奥に存在する危険な問題点を指摘されたのです。主は次のように警告されました。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 ヨハネの黙示録 2:20

私はすぐに、イゼベルという名前に目を留めました。いつものように、列王記第一を開けて、イスラエルの王アハブの妻、女王イゼベルに関する記録を読み始めました。…しかし、その時私が聖書のページをめくっていると、御霊が、「ジョン。なぜ私がこの教会[テアテラにある教会について語ったメッセージを学ぶのに、女王イゼベルの記録を開けようとするのか]と語られるのが聞こえました。

そこで私は立ち止って、ふと考えました。「そうするべきだからではないか。また、みんながそうしているからではないか。この霊がどのように働くのかを学ぶ手段といえば、あの女王イゼベルについて学ぶことによるのではないか」と。

すると、主は再び、「ジョン。もしイエスの義理の父であるヨセフについて学びたかったら、創世記に記してあるヤコブの息子のヨセフについて学ぶか」と尋ねられました。

私は混乱して、ただ「いいえ」と答えました。

それから主は、次のように言われました。「創世記のヨセフと新約聖書のヨセフには、名前が同じで、同じユダヤ人であるという以外は、なんら共通点は存在しない。同様に、列王記の第一と第二に記されているイゼベルとヨハネの黙示録に記されているイゼベルは、何の関係もない。テアテラの教会にいるこの女の働きについて、あなたが知りたいと願っていることのすべては、ヨハネの黙示録の中に記されている。旧約聖書に出てくるもう一人のイゼベルは、この問題を不透明にし、混乱させるだけだ」と。」(174-176頁)

【サタンによる惑わしの深さ】

【自称預言者、それとも神に任命された預言者?】

【砕かれること―主の働きに就くために通らなければならない道】

【イゼベルの棘】

【講壇以外の場所ではたらくイゼベル】

【賜物と権威は別】

【神の権威の下から引き離される危険】

【羊の皮を着た狼】

【実は霊によって見分けられる】

【偽預言者の動機】

【実によって見分ける】

【偽預言者の標的】

「自分を孤立させると、大牧者なるイエスの導きも、イエスからの保護も受けられなくなります。キリストのからだという避難所にいなければ、簡単に敵の餌食になってしまうのです。パウロが熱心に、長老たちに対して、このことを警告したのを思い出してください。

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。 使徒の働き 20:29-30

最も簡単に群れから孤立させることができるのは、弱く、若く、傷ついた者たちです。このような人たちが一番、偽りの預言に惑わされやすいのです。若い信者は、まだ未熟で神のみことばをよく知らないため、簡単に群れから引き離されるのです。…イエスはペテロに、主の小羊と羊の両方を養い、面倒を見、あるいは保護するようにと命ぜられました(ヨハネ 21:15-16)。これが、真の牧者としての責任です。…

弱い羊もまた、簡単に群れから引き離されてしまいます。なぜなら、義の教えにまだ通じていないからです(ヘブル 5:13)。…

しかし、偽預言者が第一のターゲットとして狙っているのは、心に傷のある者、あるいは人につまずいた者たちなのです。彼らにとっては、そういう人たちこそ最も貴重な獲物なのです。なぜなら、人につまずいた者たちは、自らを孤立させるからです。…同様に、人につまずいた人たちも、自分の周りに城壁をめぐらせて、自分を守ろうとするのです。そういう人たちは、何千人という大きな教会の中に座っていても、孤独なのです。また、大家族の一員であっても、心は遊離しているのです。自分自身を守るためにグループから離れるのですが、そうすることにより、偽預言者の惑わしに陥りやすくなるということなど、思いも及ばないのです。」(239-241頁)

【主の御名の利用は神が最も忌み嫌われる】

【あからさまにだまされたりはしない】

【真理を愛する】

【平安が判断の基準】

【偽りの預言をどう処理するべきか】

【ことばの背後にある力を打ち破る】

【警告の必要】

| | コメント (0)

2014年1月15日 (水)

「『信仰』という名の虐待」(マインド・コントロール研究書編 いのちのことば社発行)

Sinkou
「落ち穂の会」は、17年前に主に語りかけられた「羊を奪うものの手から羊を守る」という理念に立っていますが、12年前に読んだ下記の詩は、被害者の心をよく表し、心を打ちます。

----------
小さな羊

羊たちをかばうようにして、緑の丘にたたずむ羊飼いがいる。
その丘から彼の叫ぶ声がこだまする。
「だれがわたしのために行くだろうか。」
「ここに一匹の羊、私がいます。私を遣わしてください。」
どこに、そしてなぜ行くのかわからずに、ただその“小さな羊”は死の谷へと向かった。

死の谷には、あの羊飼いの鳴き声が響き渡る。
彼の涙の滴が“小さな羊”のほほを流れる。
その谷にはたくさんの羊たちの行進が続く。
行く先が死の底だと知りもせずに……
自信たっぷりに、さも満たされているかのように。
しかし、そこには羊飼いなるお方はいない。

谷底で主の栄光を探し求めた。谷底で恵みを与えてくださいと叫んだ。
でもそこで得たものは、数え切れないほどの涙の粒、したたる血、
ムチで打たれた傷と、踏みつけられた痛みのみ……
そこでの掛け声は“もっと早く、もっと熱心に、もっと一生懸命に”
“小さな羊”も声にせきたてられ走り始める。もっと早く、もっと熱心に……
そしてそこで出会ったのは、“立派な指導者”といわれる大きな羊。
鼻高々に“小さな羊”を呼ぶ。「わたしに従いなさい」と。
蹴られ、踏み付けられ
「従順」という言葉のみが谷底では拍手を受ける。

“小さな羊”はその真っ直中でひたすら走る。
疲れ果てた“小さな羊”がやっとの思いで目を上げる。
緑の丘にたたずむ羊飼いの姿がはるか彼方に見える。
さみしそうに、死の谷を見下ろしている。
静かにこだまする羊飼いの声。
「もどっておいで。わたしのもとへもどっておいで。
わたしは良い羊飼い。わたしのもとで休みなさい。」
でも、谷底の羊たちは耳を傾けることなく
ひたすら走る。もっと早く、もっと熱心に。

ついに、“小さな羊”は立ち止まった。流れに反して、そこに立ち止まった。
何十頭もの羊たちに踏み付けられ、蹴飛ばされ……
大きな羊がさらに声をはり上げて叫ぶ。
「信仰!信仰!信仰!もっと早く、もっと熱心に!
我々は緑の牧場をつくりあげるのだから!」
“小さな羊”は血まみれになって、あの緑の丘を見上げる。
「私の助けはどこからくるのだろうか……」
あの丘の上にたたずんでいたはずのあの羊飼いが、
谷底で倒れている血だらけの“小さな羊”のすぐそばにいた。
両手を広げて静かに抱き上げる。

他の羊たちは振り向きもせず走り続ける。
ため息ひとつつく暇もなく、少しの疑いを持つことも許されず……
大きな羊は両手をあげて、かれらをせきたてる。

羊飼いのもとで“小さな羊”は涙する。
羊飼いは彼の血でそまった傷口をそっと拭いながら、やさしく語る。
“わたしの愛する羊よ。よく耐えた。わたしのもとで休みなさい”と。
そして新しい毛皮を着せてくださる。
“小さな羊”は魂の底から叫ぶ。
「主は私の羊飼い。私には乏しいことはない」……
聖なる、聖なる、聖なるかな。万軍の主。全地は主の栄光で満ちる。
(p86-p90)

------------
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

| | コメント (0)

2013年6月 1日 (土)

「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」(古川愛哲著 講談社発行)

Edoこの本を読んで江戸時キリシタンのイメージががらりと変わった。
キリスト者の罪がいかに重大なことになっていくかということも考えさせられた。
「慶長元年(1596)、土佐の浦戸にスペインのサンフェリペ号が難破、漂着した。その積荷に大量の硝石などの火薬類があり、それを浦戸を領地とする長曽我部氏が没収をした。海岸への漂着物はその土地の者が奪うという慣習法は鎌倉時代からのものである。それを知らないサンフェリペ号の船長は、在京のフランシスコ会士を通じて秀吉に積み荷の返還を懇願したので、秀吉は奉行の増田長盛を浦戸まで派遣した。増田長盛は浦戸でサンフェリペ号の航海士から事情を徴収したが、日本の慣習を泥棒呼ばわりされたのだろう。そのうち押し問答となってしまった。しかも、怒った航海士が威嚇するつもりで『スペインは世界の征服者』であると脅し文句を吐いた。すると増田長盛は尋ねた。『征服する前に宣教師を送るのであろう』『そうだ。フィリピンもヌエバ・イスパーニャ(新スペイン=メキシコ)も宣教師を送り込んでから征服した』と勢いにまかせて航海士は答えた。カトリック教会のために弁護しておくが、これは教養不足の航海士による事実無根の言葉である。…とはいえ増田長盛はいわれたままに秀吉に報告した。『スペイン人は征服者であり、まず宣教師を入れて、それから征服する』激怒した秀吉は再度『伴天連追放令』を出して、京、大坂のフランシスコ会の宣教師と信者26名を捕らえて、京の一条戻橋で片耳を削ぎ、大坂、堺を引き回したあげく、長崎に送り焚刑に処した。世にいう『26聖人殉教事件』である。このときも、フランシスコ会の修道士と信者だけを捕縛させる命令だったが、間違えてイエズス会のセミナリオ出身のパウロ三木、ディエゴ喜斎、殉教直前に念願のイエズス会入りが許された19歳のヨハネ五島など3人も捕らえられた。奉行の石田三成に対して処置方のうかがいが出たが無責任にも、『判断はまかせる』と三成は答えたので、秀吉に馴染みの深いイエズス会士まで犠牲となった。」(P81-83)

「家康は京・大坂など西国の布教にはイエズス会に朱印状を出し、関東の布教にはフランシスコ会を選んだ。…この頃、関東には多くのキリシタンが『約束の地』を求めて、西国から流れ込んだ。これをスペインでは日本でのキリスト教解禁と見たようで、慶長7年(1602)の6月からは、スペイン系のドミニコ会とアウグスチノ会の修道士15名が大挙して来日した。…スペインの無敵艦隊は英国のドレーク提督に敗れて、スペインは敗戦国となった。敗戦国は賠償金と戦費の返済に苦しみ、大国としての勢力を失う。…敗戦国となり賠償金に苦しむスペインなどのカトリック諸派の来日は。不況をめぐる軋轢を生むことになる。その背景には戦勝国英国などプロテスタント(新教)諸国の台頭もあった。ヨーロッパでのカトリック(旧教)諸国とプロテスタント(新教)諸国の対立は、日本にもキリスト教受容をめぐって影を落としたのである。布教をめぐる軋轢は徳川家康にとって歓迎すべき事態ではない。そして間もなく、宣教師たちは驚くべき情報に接することになる。同年の9月、家康はスペインのマニラ総督に書簡を送り、大略次のように宣言するのだ。『外国船が暴風雨のために寄港しても積み荷は没収しないし、積み荷の売買・取り引きも、その土地も自由であり、外国人は日本のどこにでも住める。ただし、外国の法(キリスト教)を持ち込み、広めることは固く禁止する』」(P94,95)

「家康は宣教師を一人も殺していない。豊臣家を滅ぼした大坂の夏・冬の陣にイエズス会宣教師は大坂城に籠城したが殺すことはなく追放である。これが権現様の祖法だった。」(P96,97)

「家康はイエズス会を信頼し、最後まで迷ったように思える。寺社勢力への配慮、キリシタンの真面目さへの共感と信頼、それゆえにある豊臣太閤恩顧のキリシタン大名、武士への不安。家康団のなかのキリシタンをめぐる対立。ポルトガル、スペイン、オランダ、英国との関係……。それは貿易への誘惑と布教による不安のあいだでの揺れである。そして、ここに決定的な決断をさせる事件が発生する。マカオで御朱印船主の大名、有馬晴信の家臣が現地人に殺されるという事件が起きた。家康は事情を知ろうとするものの、マカオの責任者は事件の説明に来日しない。家康は御朱印船を愚弄するものと受け取り、有馬晴信にポルトガル船の奪取を命じた。この家康の命令は慶長14年(1609)12月、有馬晴信が、長崎奉行の長谷川藤広、代官の村山等安と連携して、ポルトガル船グラッサ号を捕獲した事件へとつながった。グラッサ号の船長は抵抗して、火薬庫に火を放ち自沈した。このグラッサ号自沈事件は、2年後、家康のキリシタンへの信頼を瓦解させた。家康の側近の岡本大八と有馬晴信のあいだに詐欺と賄賂事件があったことが発覚し、有馬晴信による長崎奉行殺害計画までもが露呈したのだ。家康にとって衝撃的だったのは、岡本と有馬がともにキリシタンだったことである。篤行で知られるキリシタン武士が、賄賂や詐欺をしたあげく奉行の殺害を計画していたのだ。事ここに至って家康も決断せざるを得ない。」(P98,99)

「家康はキリシタンの命を奪うことまではしない。すべて追放であり、原主水も岩槻の親戚、粟飯原氏の下に潜伏したが、そこまで家康は探索させなかった。原主水が江戸で宣教をして焚刑に処せられたのは、三代将軍家光の時代である。」(P100)

「ところで、どのくらいのキリシタンが江戸時代にはいたのだろうか。それについて、今日まで記録で伝わるものもある。岡山藩池田家と熊本藩細川家のもので、寛永15年(1638)から4、50年を経た元禄期のものを見ると、当時、両国のキリシタンの存命者は976名である。これを全国平均としたうえで、仏教学者の圭室文雄氏が試算している。…その結果は、幕末のキリシタンは129万人という驚異的なものとなる。また『切支丹宗門の迫害と潜伏』などで知られる、宗教学者の姉崎正治博士が作成した図を見ると、どこの地域でも、江戸時代には身近にキリシタンがいたことがわかる。」(P152)

「河童が今日のように頭に皿を載せる姿になったのは江戸時代である。しかも頭のお皿に水を掛けるというのは、どことなく洗礼を連想させる。」(P156)

| | コメント (0)

2013年4月11日 (木)

「あなたが燃え尽きてしまう前に」(ウェイン・コデイロ著 ニューホープ東京リソース発行)

Moetsuki「すべての牧師とクリスチャンリーダーたちに伝えたいこと」と表記されている燃え尽き症候群になることを予防するための対処法が書かれた本である。
とある教会に行った時に、目に留まった本であり、さっそく購入して読んでみた。
読み終わった感想は、燃え尽きそうなっている牧師とクリスチャンリーダーたちにとっては、脱出する方法を教えてくれる良い本であると思った。
これを実践しているのが、複数の牧師やクリスチャンリーダーがいて、キリストの愛で支え合ったチームとして機能している教会ならば、とても良いのだが、間違った使い方をするならば、信徒としては、つまずくだろうなぁと感じた。

牧師とクリスチャンリーダーたちの鬱への予防の第一歩としては、とても良い本であり、助けとなった。
心に留まった8つの箇所を抜粋する。

①「…ストレスはバーンアウトにつながり、バーンアウトには巨大化した鬱が伴います。…忙しくしていれば自分が役に立っている、必要とされているという感覚が得られるのですが、それには到底払いきれないような代償が伴います。言ってみれば、未来の精神の安定を借金のカタにして今の達成感を買っているようなものです。」(65頁)
★ 現在の自分の存在感をどこに置いているかをチェックしよう。

②「リアン・ペインの『The Healing Presence(癒しの存在)』という本は私にとって良い本でした。この本では、内省による罪、つまり自分を悪く見るばかりで、神さまを見ないこと、また神様の目で自分を見ないことの罪について語られています。」(83頁)
★ 神様は私たちを 「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ 43:4)という目で見てくださっていることを忘れないようにしよう。

「私たちは他人の行動の目に付く点や、例えば職場のリーダーの欠点を見つけた時、それをあたかも自分の責任であるかのように気にしがちです。…心配するに足る正当な理由はあるかもしれませんが、しかし、それはあなた個人の責任範囲ではありません。」(90頁)
★ 自分と他との正常な境界線を明確にしつつ、力量に応じて関わっていくことが必要。

③「1996年、コカコーラ社の元社長であるブライアン・ダイソン氏はジョージア工科大学の卒業式で祝辞を述べ、人生で大切なものをボールに例えて説明しました。
 人生は5つのボールをジャグリングしているようなものです。それぞれのボールが何を表すかは一人一人で違いますが、例えば、仕事、家族、健康、友人、精神としましょう。あなたはそのすべてを空中で操っています。すぐに分かってくることですが、仕事のボールはゴムでできていて、落としてもまた跳ね返ってきます。しかしその他の4つ、つまり家族、健康、友人、そして精神のボールはガラス製です。一度落としてしまえば傷がつき、ヒビが入り、ひどい時には割れてしまって、二度と元の姿には戻りません。」(93,94頁)
★ 重みがある名言だと思う。

④「自分の存在の核のところで癒やしや休息を得るためには、自分の人生において最も重要な5%のことが何であるかを識別し、知っておく必要があります。…私たちがしていることの85%は、誰にでもできることです。…10%のことは、訓練を受けた人であれば、遂行できます。…しかし残りの5%のことは、私以外の人には絶対にできません。…どんなにお金を払っても、代わりがきくものではないのです。また、残りの95%が意味のあるものになるかどうかもこの5%にかかっています。これこそ私が見分け、生活の中心に置かなくてはならないものでした。」(94,95頁)
★ 自分にとっての5%が何であるかを、正しく判断できますように。

⑤「マタイの福音書6章22~23節にはこうあります。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」…イエス様が目の話で伝えたかったのは。人生の出来事をどう受け取るかでした。否定的に受け取ると、精神的にも身体的にもマイナスの影響を受けてしまいます。鬱になることは別に罪ではありません。しかし、神様や人々、状況などを間違った方法でねじくれて見る時、罪にとらわれてしまうことはあります。私たちが問題を見るその目そのものが問題であることも多いのです。偏った見方しかできなければ、チャンスは恐怖に、招待は恐喝にしか見えません。」(129,130頁)
★ 「チャンスは恐怖に、招待は恐喝にしか見えない…」確かに。私たちが傷によって、曲がった見方をすることがないよう、聖霊さまがいつも気付きを与えてくださいますように。

⑥「鬱の嵐の中では、どこに向かっていいのか全く分かりません。そんな時には、振り出しに戻ります。神様は最初にどんな召しを与えられましたか?それはあなたの人生を通してずっと流れているテーマで、人生の公約数のようなものです。レポート用紙に書き出してみてください。…それを目標にして歩めば、生きる理由がもう一度見えてきます。そして、希望も戻ってくるでしょう。」(131頁)
★ 行き詰った時には、こうすればよいのか。単純明快なことだった。

⑦「何か大切なものをなくしてしまったら、もしかしたら始めからやり直さなくてはならないかもしれません。しかし、もう一度最初の召しに立ち返ってください。残りの方向性は、きっとそこで示されるでしょう。」(134頁)
★ あせらずに、時間をかけて主とともに取り戻すことが、一番の近道であり、成功への道だということかぁ。

⑧「マイケルは言いました。「人生っていうのは、つまるところ選択なんだ。余計なものをそぎ落としていけば、どんな状況も結局は選択になる。それぞれの状況にどう反応するかは、その人が選ぶことなんだ。感謝することを選ぶか、恐れることを選ぶか、神様からの知恵を受け取ることを選ぶか、それとも怒りに目を塞がれることを選ぶか。その人がどう生きるかは、その人が選び取っていくものなんだよ」(137頁)
★ 神様が与えられた自由意思による選択、神様の道を選んでいきたいものである。

| | コメント (0)

2013年4月 4日 (木)

「天国は、ほんとうにある」(ドット・バーポ著 青志社発行)

Heaven_is_for_real 一気に読めちゃいました。

4歳の子供が語った天国の様子は、たどたどしいながらも、聖書の記述と合致したはっきりしたものだった…。
尋常ではない試練の後に下った神の恵みに、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル 10:36)を思わされました。
読んだ後には、人間ではなく、主である神の愛と栄光が印象に残りました。
帯に書かれているあらすじを紹介します。
「3歳のコルトンは、穿孔性虫垂炎にかかり、生死の境をさまよう。奇跡的に一命をとりとめたあと、彼が始めたのは、聖書の内容とあまりにも一致する天国の描写だった。幼いコルトンの口からつむぎ出される天国の話は、大人たちを驚かせ、癒し、そして学ばせるのだった…。」

|

2013年3月 1日 (金)

「キリシタン殉教の道を辿る」(田中菊太郎著 マルコーシュ・パブリケーション出版)

Kirisiten 長崎だけではなく、全国を自らの足で巡って、まとめられた当時の信仰の証しの本である。
徳川の時代に、いかに純粋かつ神への愛と兄弟愛をつらぬく信仰を持っていた信仰者たちがいたのかが、描かれている。

この本を読むと、いかに正しい信仰かではなく、愛が大切だということがよくわかる。

静岡のキリシタンである岡本大八が家康の朱印状を偽装して信仰の兄弟である有馬晴信を欺くという罪を犯したことを契機に、キリシタンへの憎悪と迫害が始まったということを知り、衿を正された。

「江戸からは多くの家臣や侍女たちも連れてきましたが、その中には何人かのキリシタンもいました。慶長16年(1611年)には駿府城下に教会も修道院もでき、270人の洗礼もうける人も出ました。ところが慶長17年(1612年)旗本の岡本大八というキリシタンが贈賄事件を起こしました。
日本で一番初めにキリシタン大名になった、有馬晴信と長崎奉行長谷川藤広は、資金を出し合って貿易のためにマカヲに商船をだしていました。その船員を殺したポルトガル人が、マードレ・デ・デウス号で長崎に来ましたので、慶長14年(1609年)12月、有馬晴信はデウス号を攻撃し、沈めてしまいました。デウス号撃沈の戦功で幕府から恩賞が貰えると思った有馬晴信は、家康の側近の本田正純の家来で、キリシタンである岡本平八にその斡旋方を頼みました。数回にわたり6千両もの大金を受け取ってしまったので、引っ込みが付かなくなった岡本平八は、家康の朱印状まで偽造して有馬晴信に渡して、その場を繕っていました。
なかなか恩賞の沙汰が有りませんので、晴信は本田正純に直接問い合わせましたので、朱印状は偽造と発覚、事が家康の朱印状の偽造ですから、家康に報告せねばならず、家康は2人ともキリシタンなのに、こんな卑劣なことをするとは何事かと怒り、晴信は切腹、大八は火炙りの刑を命じたのです。…これは決して殉教ではありません。…それまで家康はキリシタンに対しては、新式の武器を手に入れる橋渡しのためにも、宣教師を無視できませんので、比較的寛容な態度を持っていましたが、これを契機にキリシタンへの憎悪が燃え上がり、先ず自分直属の家臣から宗門(信仰)改めを行い、その結果14人の直属の家臣をキリシタン故に追報処分にしました。」(p222-224)

殉教という暗い内容を詳しく知りたいという人はあまりいないだろうが、現在忘れかけられている見倣うべき信仰者の姿がこの本の中に描かれていた。

| | コメント (0)