2013年10月18日 (金)

教会の境界線?

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒 17:26)

ある教会指導者が、教会員が他の教会に時々行き交わるのを不快に思っていた。
このことを祈り、自分の気持ちをありのままに主に告げた。
その時、冒頭に上げたみことばが目に留まった。
神は、人それぞれをその教会に置かれたのだから、他の教会に行くのは間違って
いる、そう思い、みことばを出して、その教会員を責めた。
その教会員は、その教会を去っていった。
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みことばには、愛がある。
誤った心で聞くと、誤った解釈に陥ってしまう。
そして、それが正しいと思い込んでしまう。
この後に続くみことばには、「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」とある。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない。
教会という地域教会の枠があるのは、その中で、ひとりひとりが神を見出し、神との直結した関係を結ぶためである。
それが神の意図した教会の姿である。
牧師はそのためのお世話をする(牧する)役割が与えられている。
それが機能して初めて、教会は神の愛を流す教会となる。
キリストの愛によって、互いに愛し合い、神の栄光を現していこう。

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2013年9月30日 (月)

いつでも平安!!

「彼らは、『あなたは気が狂っているのだ』と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、『それは彼の御使いだ』と言っていた。」(使徒 12:15)

ペテロは殺されるために牢につながれていた。
ヘロデは、すでに教会のある人々を苦しめるために、迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟のヤコブを剣で殺していた。
2本の鎖につながれていたペテロは、なんと御使いの光で照らされても起きることもなく、御使いに脇腹を叩かれ起こされるまで、2人の兵士の間で寝入っていた。
ヘロデがペテロを引きずり出そうとしていた前夜、御使いかペテロを救い出しにやれって来た時、ペテロは現実の事と思わず、幻だと思った
ペテロはどこにいても、平安であった。
牢につながれていても、それは変わらなかった。
それは主が助けてくださるからという理由付きの平安ではなかった。
死に打ち勝たれた神なるキリストから目を離さないでいたのである。
かつては湖の上で、イエスから目を外し、波を見た時、沈んでしまったペテロであったが。
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死をも恐れない信仰。それは自分で決心し頑張ってなせるものではない。
イエスさまとの日々の偽りのない交わりの中で、培われたものである。
そのようなペテロには、救い出された後も、自分を殺そうとしたヘロデに対する負の感情は見られない。
いつも、死に打ち勝たれたイエスを見上げて歩もう。
永遠の世界がそこにある!

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2013年8月28日 (水)

伝道の精神

「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」(使徒 10:28)

Sさんのもとに、毎週訪ねてくる2人組の人たちがいた。正統な教会からは、いわゆる異端と呼ばれている人たちだった。
Sさんも他の人がしているように初めから相手にせずに、丁重に断っていた。
ある日、入信したてのように見えるおばあさんがベテランの女性とともに、訪ねてきた。
「必要ないので…」とドアを閉めた途端、「あのおばあさんは、今が本当の福音を聞く唯一のチャンスだったかもしれない。」という追いかけたくなるほどの思いがやってきた。
実際、そのおばあさんは、何も知らないで話しをしているうちに、異端の信仰に至ったのであった。
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何も知らないままに、聖書を知りたいという思いから、異端に入信する人もいる。
そのような人を敬遠していては、神の愛に生きることはできない。
神は罪人の私たちを愛し、十字架にかかり、その尊い血潮を流して下さった。
地上の偏見や価値観を捨て、真理への愛を指し示しつつ、人に接していこう。
そこに神の国が到来する。

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2012年9月 8日 (土)

主とともにある苦しみは宝

「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。」(使徒 14:20)

パウロとバルナバがイコニオムという町(現在のトルコにあった町)の会堂で
話をすると、大勢の人が信仰に入った。
そのことをおもしろく思っていない人々は、ユダヤ人の指導者たちと手を組んで
使徒たちを石打ち(みんなで大きな石を投げつけて死に至らせる死刑)にしようとした。
それを知ったパウロたちは、少し南の町のルステラとデルベの方に行き、宣教を続けた。
ルステラに行くと、生まれながらの足なえの人が、パウロの話に耳を傾けていた。
パウロは、彼にいやされる信仰があるのを見て、彼を癒した。
このことで、群衆が彼らを神のように扱った。
そこに、ユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにして
町の外に捨て去ったのであった。
心配した弟子たちが、パウロを取り囲んでいると、パウロは息を吹き返して、
町に入り、宣教を続けた。

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人生には、良いときもあるだろうが、苦しみも多々ある。
神のみこころを行っていても、いや、行えば行うほどに、苦しみが
やってくる時がある。
神なき喜び・楽しみは、はかないが、神あっての苦しみは、天に宝を積む
苦しみである。
永遠の時の中で、死に打ち勝たれたイエスにあって、死というものは
一種の通過点に過ぎない。
だから、パウロは死をも神に委ね、みこころの中を突き進んでいったのである。
あなたの苦しみは、主の知らないものではない。
主のもとにすべてを委ね、疑いを捨て、主とともに歩んでいこう。
それこそが、しあわせに通じる道である。

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