2013年10月23日 (水)

何とかして幾人でも

「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 1:22)

パウロの救霊は、自分を捨てて、すべての人に応対できるよう、へりくだりの中でなされた。
しかし、福音を語る姿勢は、きっぱりとしたもので、混ぜ物はなく明確に伝えたのである。
それは、神であられるのに、人の姿をとって、私たち罪人のところに来て下さったキリストに通じるものであり、神の心から出たものであった。
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愛の現れ方は個人個人、異なっている。
優しく柔和に接することは詐欺師にもできるものだ。
しかし、主の愛はそのようなものではなく、不動のものである。
ダメなことはダメとはっきりいうことだ。
コントロールすることなく相手の意思を尊重し、待つことができるものだ。
神の名を利用して、人を自分につけようと根回しすれば、その人をわたしに誘導することはたやすいことである。
その救われた人たちが本当に神であるわたしを必要としているならば、わたしがその人を導く。
導くのは、神であるわたしがする。心配はいらない。
人が自我で救霊の働きをしていたとしても、それを用いてもわたしは救いに導きたい。
だから、救霊の働きをしている者が、たとえ自我の矯正を拒んでいたとしてもそのままにしているのだ。
そうしても、何とかして幾人かでも救いたいのだ。
矯正を拒んでいた者がわたしにとどまり続けるなら、いずれ、必ず自我を手放す時が来る。
あなたがたは、そのことにつまずくのではなく、救われた人たちが、つまずきを覚えた時に、正しく導けるよう適度な正しい距離を保ちつつ関わっていなさい。

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2013年10月 8日 (火)

殻を打ち破る作業

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント 10:13)

ここで、パウロは、キリストを信じているクリスチャンに向かっての注意を語っ
ている。
同じ御霊の食べ物を食べ、同じ御霊の飲み物を飲んだにもかかわらず、荒野の試
練で、つぶやき、偶像礼拝に陥って、滅ぼされた先祖の例をあげて…。
これらのことが起こったのは、私たちへの教訓のためであったとある。また、
私たちが悪をむさぼることのないためだとある。
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私達は、苦しみの試練にあうと、これぐらい許されると、自ら脱出の道を作ろう
とする。
神にあって私達が通る試練には、意味がある。
親鳥が卵から雛がかえる時、殻を破るのを手伝わないのは、雛が死ぬことがない
よう、力をつけさせるためだ。そうやって、雛は強くなっていく。
殻を破るのは、生まれてくる雛にとっては、とても苦しい作業だ。
雛にはわからない。「助けてくれればいいのに。」と。
一つ一つが殻を打ち破る作業。強め、主の似姿に変えられるための試練。
殻の中に留まっていることは、心地よいかもしれないが、滅びへの道だ。
神とともに歩むとは、肉を取り扱われ続けるということである。
私達が殻を破るのを見守っておられる主が、共におられる。

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2013年9月24日 (火)

人のパワーと神の力は異なるもの

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント 1:18)

プラスのパワーをもらえるところに、人は群がる。
自己啓発やカウンセリングのセミナーが、人気を博している。
それもある程度は、解放を得られるだろう。
しかし、時が経つにつれて、パワーがなくなり、リバウンドすることになる。
応急処置にはなるが、根本的な部分は、なおも解消されずに、深い部分に眠って
いる。
神の力は、人の目には、一見愚かに見える。
自分を捨て、高ぶりを捨て、へりくだって神のもとに来なければ、知ることので
きない道である。
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十字架上で、主イエスは言われた。「主よ。彼らをお許しください。彼らは、何
をしているのか自分でわからないのです。」と。
強そうに見える人に、頼りたい思いが人間にはある。
私たちは、皆、「何をしているのか自分でわからない」神から的を外してしまう
罪の性質を持って、この世に生まれている。
力がなくなった時には、「何をしているのか自分でわからない者です。どうすれ
ばよいか教えてください。」と、まず神の前に聞いていこう。
その時、神の力が、注がれる!!

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2012年12月 9日 (日)

神の制約

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Ⅱコリント 6:12)

神を信じ、従いたいと思い、聖書を読んだ時、いろいろな命令が飛び込んでくる。
神の命令を守ろうと必死でがんばり、人にもそれを求めていくと、次第に喜びがなくなっていく。
神が望んでおられることは、何であるかをよく考えよう。
神は愛である。神は規則的に従うことを望んではおられない。
ただ規則的に従うのは、ロボットである。
律法は「神と人との愛に集約される」と主イエスは言われた。
神は神と人への愛から命令を守ることを望んでおられる。
愛から出ているため、それは喜びであり、苦にならない。
人に押し付けることもない。そこには、ただ愛が見られるだけだ。
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まず、神というお方を正しく知ろう。
神がどんなに私たちを愛して下さっているかを。
神の愛の内にとどまり、その自由を満喫しよう。
従わずにはいられない神の愛がそこにある。

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2012年8月31日 (金)

神により頼もう。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を
頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

パウロは、死を意識するほどの苦しみの中を幾度となく、通り抜けた。
死に直面する度、小さな自分、土くれにすぎないはかない自分を実感したことだろう。
弱さの中で、主に呼ばわり、幾度となく助けられたことだろう。
死を意識する中で、パウロは、自分の思いを捨て、主に明け渡すことを学んでいった。
その経験に基づくパウロの言葉は、苦しみの中にある多くの兄弟姉妹の慰めとなり、励ましとなった。

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苦しみを知らない者にとって、他人の苦しみは理解できない。
傷ついたことがない者にとって、他人の傷・弱さは理解できない。
「自分は傷ついたことがない強い心の持ち主だ」という人は、強いようだが、実はもろい強さである。自分を知らない強さである。
かすり傷を含め、肉体に傷ついたことがないと言える人がいないように、心に傷を受けない人などいないのである。
主は、愛する私たちのために、涙を流された。
愛すれば愛するほどに、期待すれば期待するほどに、意に反する行為は、傷を与える。
傷つきながらも、その傷を自分にではなく、神に向け、神により頼むところに勝利がある。
神は、弱さの中に働かれる。弱いということは、実は最強なのである。
神が味方だからである。
傷も苦しみも主の前に差出し、明日も神により頼みつつ、信頼とともに生き抜いていこう。

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2008年6月26日 (木)

その忍耐は主の栄光のものか?

「あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。」(Ⅱコリント 12:19,20)

ひどい腰痛に1年近く、悩まされた姉妹がいた。
とある出来事により、ストレスを受け、その後、しばらくして腰痛になったものであった。
病院へ行き、痛み止めを飲んでも効かず、整体にかかっても治らなかった。
ある時、頭痛の緊張をとくための薬を飲んだところ、腰痛までもよくなったことがあった。
心から来ているのかと思い、腰痛が発している心の声に耳を傾けてみた。
「がんばってつながってないと、切り捨てられる…」腰痛はそう言っていた。

ある日、派遣先の職場の上司の女性から、「つらかったら休んで大丈夫ですからね。」と、優しく言われた。
その一言で、姉妹の目から涙があふれた。
姉妹には、チームで頑張った結果、体のいい言葉だけで認めてもらえず、放置され続け、精根尽き果て、チームが分裂したというつらい過去があり、それを忘れようと、次の職場で必死で頑張っていたのであった。
「私は上に立つ人から、こう接してほしかった。」 この一言を押し殺して、ためていた結果、腰痛になっていたのである。

どうにかなっている時にはわからず、病んで動けなくなった時に、見えてくる真実…。
腰痛になった経験で、姉妹は、すべてにおいて我慢することが決してよいことではなく、感情をうまく表すこともまた大切であることを知ったのであった。

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聖書は忍耐の徳を幾度となく語っている。
しかし、忍耐にも種類がある。何でも忍耐すればよいというものではない。
時には、叱りつけたり、Noということも必要である。
その忍耐は、主の栄光が現われる忍耐であろうか?
耐えるべき事か、そうではない事か、祈り考えてみよう。
蛇のように聡く、鳩のように素直になり、元気に主を証ししていこう。

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