2013年10月 3日 (木)

悔い改めと赦し

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ17:3)

悔い改めれば赦しなさい、というのは、つまずきへの記事の後、「戒めなさい」
の後に言われている
相手にいけないことをしたということを伝えることが、まず、必要である。
それが「戒めなさい。」ということである。
言っても突っぱねるとしたら、そういう相手には、今は何をしても無駄である。
赦しという神の恵みも無駄にしかねない。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりま
せん。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
(マタイ7:6)
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赦しはキリストの教えの中心となるものだが、それも律法ではなく神の愛に基づいた教えである。
神の愛から離れないように、心を見張りなさい。
あなたを神から離そうとしているものがいる。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける
獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
(1ペテロ5:8)
神にしっかりと結びついていなさい。
そうすれば、どんな敵も呪いも、あなたを害することはない。
心が騒ぐときは、主のもとにありのまま進みでよう。
赦しはすでに神によって備えられている。
まず、自分が既に許されていることを知ろう。
主は、あなたがたの思い煩いいっさいを、引き受けてくださるお方だ!

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2012年12月24日 (月)

クリスマスを祝おう

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ 2:11)

クリスマスは、キリストの生誕を祝う日である。
ところが、このクリスマスを否定する意見が、クリスチャンの中でも見られることがある。
聞いた理由はこうである。
 ・キリストが生まれた日は12/25のように寒い冬ではなく、日にちが異なるから。
 ・12/25はもともと太陽神を礼拝していたケルト人の祭りを生誕の祝日としたから。
 ・クリスマスによく見られるマリアに抱かれた赤子のイエスの姿が、力強い神のイメージを薄れさせてしまうから。
 ・クリスマスは、最も世の霊が働いているから。 などなど…
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全知全能の神であられるのに、私たち人類を罪の束縛から贖うために、無力な人(しかも赤子の姿)となって、この世に来られたキリストを、12/25を定めて、世界中が喜び祝うクリスマスに、神の栄光が豊かにありますように。
アーメン。

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2012年10月13日 (土)

なすべきことをしただけです。

「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:10)

人のために尽くしているにもかかわらず、うまくいかないと感じている人がいた。
みこころを行なったにもかかわらず、うまくいかないのは、相手に原因があると思っていた。
そういうことを繰り返すうちに、何もする気持ちがなくなっていった。
無力感に襲われ、主の前に静まった時、相手に対して不満を抱えている自分の姿が見えた。
人のせいにして歩めば楽である。
自分を見つめなくてすむからだ。
しかしそこには成長がない。
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誰が見てくれなくても、人は受け取ってくれなかったとしても、あなたの善行・動機は、主が知って下さっている。
主に伺いつつ、みこころの中を歩んで行こう。
時が来て、豊かな実がなっていく。

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2011年11月15日 (火)

ヘロデの喜び

「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」(ルカ 23:8)

ヘロデはイエスを喜んだが、この喜びは主ご自身を喜ぶ喜びとは違っていた。ずっと会いたいと思っていた思いも愛情とは違っていた。うわさに聞くイエスを、自分も見たいという興味本位であった。つまり、あくまでも自分中心であり、主に救われたい、罪深い自分の心を変えていただきたいという心は持ち合わせてはいなかった。奇蹟が見られるなら、何でも良かったのである。イエスは、そのようなヘロデの質問に何も答えられなかった。

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自分中心で主に近づいても、主は答えて下さらない。主の答えをいただくためには、主に明け渡す心が必要である。自分自身の思いを十字架につけ、主のみこころに従いたいという意志が大切である。(決意が大切なのであって、実際にみこころを行わせて下さるのは主の助けによる) 主ご自身を喜んで行こう。

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2011年11月14日 (月)

誘惑に打ち勝とう。

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。」(ルカ 22:3)

イスカリオテ・ユダは、いつもイエスのそばで弟子として過ごしていたにもかかわらず、サタンに入られた。サタンの誘惑に心を開いてしまったのである。もしかしたら、サタンは、このように正義をちらつかせて語ったのかもしれない。「このままイエスに従っていても、メシアの王国は来ないぞ。王国を作るために、行動を起こせばよいだろう。イエスを敵に売れば、イエスは圧倒的な奇跡の力をもって、統治を始めざるを得なくなるよ」と。とにもかくにも、ユダは誘惑にのってしまったのである。

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サタンは、私たちを誘惑によって取り込み、罪へと引き込んでいく。それはイエスがそばにいても、誘惑に心を開いてしまえば、同じである。誘惑に打ち勝つためには、イエスという方をよく知り、自分の心がどのように思えても、イエスに従い続ける決意を日々新たにし、祈りの中交わりを保っていくことである。もうダメだ、と思えても、自分ではなく、主を見上げて、乗り越えていこう。突き抜けた時、主の愛の新たな面を発見することだろう。

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2011年11月13日 (日)

人か神か

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(ルカ 20:46,47)
律法学者たちは、神についての専門家であった。神というお方を見ず、与えられた知識によって、人の上に立っていることを自負していた。偉そうにふるまうことがステータスとなっていた。皆にうやうやしく接されることが好きであった。祈りについても、人にすごいと思われたくて、人前で長い祈りをしていた。イエスは、こういう人たちは人一倍きびいしい罰を受けるのだと言われた。

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神について、教えるということは、高ぶりに陥りやすいものである。神ご自身から目を離し、自分が主体となってしまうと、上述のような状態になってしまい、誤った神観を伝えてしまう。「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ 3:1) 神について教えるということは、身を引き締め、自分を吟味しつつ、なさなければならない働きである。神は愛である。愛のない教えは神からのものではない。そのような教えについていかないこともまた、大切なことである。

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2011年11月 9日 (水)

兄弟への赦し

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 17:3,4)

つまずきについて語られた後、イエスが言われたことばである。罪は人を傷つけ、つまずきを起こす。兄弟が罪を犯したら、まず、戒めよと語られている。そういうことはいけないよ、と告げることは大切なことである。裁くのではなく、事実を告げるのである。人に指摘されて初めて、自分のしたことを客観的に見れることもある。次に、赦すように言われている。「悔い改めれば」とあるように、兄弟の場合、罪の自覚が必要である。戒めても、罪を認めようとしないならば、赦しを宣言することは、彼のためにはならない。悔い改めようともしない兄弟に、赦したいと思っても、どうして赦しを宣言することができようか。赦しを必要としていない人に、赦しますと言うことは、自己満足の行為である。彼の将来的な悔い改めの機会を奪うことにもなりかねない。

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「赦し」と一言でいうが、「赦し」の世界は奥深い。主の取り扱いなしには、なし得ない。赦したかどうかということは、自分自身にもわかりにくいことである。「赦した」と言っていて、心のどこかでくすぶっていることもある。赦しは、行為となって現れてくるものである。常に、「赦したい」という心をもって、主にゆだねていこう。主の赦しは、兄弟の罪のために被害を受け続けている中でも、無理して赦さないといけない世界ではない。神は、悔い改めのない者を赦すお方ではない。いつでも赦しを用意して、悔い改めることを待っておられる方である。主に似た者となって輝き続けよう。

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2011年11月 8日 (火)

死を超えられた方イエス

「イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』」(ルカ 13:2,3)

悪いことが続くと、何かのたたりのように考える人がいる。この世においては、いいことばかりが続くことは決してない。誰でも一度は必ず死ぬ。それは災害であっても、事件や事故であっても、病気であっても、早かれ遅かれ、携挙の時が来ない限り、必ず死ぬ。イエス・キリストは死に打ち勝たれた神である。死ぬも生きるもキリストの内にあれば、永遠の中の一つの出来事に過ぎない。イエスは言われた。「悔い改めないなら、みな同じように滅ぶ」と。心を善いほうに変え、過去の罪を憎んで心底から行いを改めなければ、みな永遠の滅びをむかえる、ということである。これはこの個所で、2度繰り返し言われている大切なことである。

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キリストは、ご自身の愛をあますところなく、教えて行かれた。主を信じる者が、心入れ替え、従って来れるように…。主の愛を知り、罪に抵抗する力をいただき、主に従って行こう!

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2011年11月 7日 (月)

信頼を学ぼう。

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」(ルカ 12:29,30)

神は私たちの必要をすべて知っておられる。食べ物も、着る物も…。まして信仰生活をおくるうえで、必要なものは何かということもすべてご存じである。よい指導者、頼りになる友、通いやすい教会…etc 信仰をおくる上で、孤独な状態を通らされる時がある。頼りになるものすべてを失ったかのように見えることがある。そのような時、主に語られずして、いろいろ動き回るなら、本当に大切なものが何かということがわからなくなってしまうことだろう。

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何もなかったように思えたとしても、天にはすべての用意が整っている。私たちのために用意されているものである。必要でないものを祈っているのならば、神はそのことを教えてくださる。必要がまだ手元に届いていないというのは、神がいじわるしているのでも、ケチっているわけでもない。神の時があるということである。信頼を学ぶ過程である。神が私たちをどれだけ愛しておられるか、十字架の主を見上げ、主を信頼し続けていこう。

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2011年11月 6日 (日)

対人関係での平安を守られる主

「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」(ルカ 10:6)

ある主婦が、引っ越した社宅内で周囲になじめずに、困惑していた。仲良くなりたいと努めて話しかけても相手にされず、挨拶しても返されないことがあった。特に一人の人に悩まされていた。友人のクリスチャンに相談すると、「その人のために祝福を祈るといいよ。祝福に値する人ならば、相手が変わるし、値しないような人ならば、祈った祝福は自分に返ってくるから。」と教えてもらった。言われたように祈ってみると、会うとにらみつけられているような状態だったその人が、笑顔で挨拶してくれるようになったそうだ。その主婦は、その体験によって興味を持ち、キリストなる神を信じた。

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神は、対する相手がどのような者であっても、いつも、祈る者の平安を守って下さるお方である。恐れずに、祈りつつ、主を証ししていこう。

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