2011年10月16日 (日)

神は不変なるお方

「神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」(申命記 32:17,18)

聖書のいう罪は、私たち人間を含むすべてのものを造られた神を忘れ、他の神々を神とすることである。すべての罪はそこから始まる。すべてをお造りになった神は、全知全能であり、その真理は動くことがない。また、人間の都合や願望によって作り出されたわけでもない、全存在をご自身におかれる。

----------------------

弱っている時、苦しい時、人間は目に見える確かなものに頼りたくなる。目に見える神々は、頼りがいがあるように思える。しかし、それらは不動なる真理の神ではないと聖書は教える。目に見えなくとも、今も生きて働いておられる神に、頼り従って行こう。

|

2011年10月15日 (土)

神は見捨てない

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記 31:6)

モーセがこの世を去ろうとする前に、民に語ったことばである。40年間、神のもと、モーセは民を率いてきた。エジプトを出たときから民は、事あるごとにぶつぶつと不平不満をつぶやき、モーセはとりなし続けた。民が主を捨て、子牛の像を造って祭り上げ、その後についていこうとしたこともあったのだが、主は見捨てず、民を訓練された。今後も、主を捨てることがあった時はわざわいが身にふりかかることが警告されているが、同時に、わざわいの中であっても、主に立ち返り、心を尽くして主に聞き従うなら、再び祝福すると語られている。わざわいの中であっても、主は、ともにおられるのである。

----------------------

苦難の中においては、とかく先が見えず、神に見捨てられたかのように思えてくる。そんな時、「どうせ私なんて…」というささやきに同意してしまうと、負のスパイラルに捉えられてしまう。どうせ私なんて何をしてもダメだ、どうせ私は好かれない、どうせ私がしても喜ばれない… これは、自我からくる卑下である。そのような思いが浮かんできた時は、主のことばを思い出そう。「あなたはわたしの宝の民だ。雄々しくあれ。強くあれ。わたしはあなたとともにいて、決してあなたを見捨てない。」心を尽くして主を呼び求めるなら、主は必ず、あなたの声に応え、心に平安を与えてくださるお方だ。その時、なすべき必要がある場合は、そのことも教えて下さるから、信頼することを選び、主を呼び求めよう。

|

2011年10月13日 (木)

神の律法

「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。」(申命記 24:16)

律法には、いろいろこと細かな規定が書かれている。これは、「~しなければならない。」とあるからと盲目的に従うことを求めておられるわけではない。このみことばだけ見ると、「罪があったら、殺しは許されるのかぁ」となるところである。が、十戒の「殺してはならない。」(出エジプト 20:13)を無視してはならない。10月2日(日)の「みことばの矛盾?」で書いたように、聖書には矛盾のように書かれている場合が多々ある。神をよく知り、その愛に立つことが大切である。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざまでもがあるように、憎さのあまり、それにつながる者までも憎んでしまうのが人間の生まれながらの罪の性質である。殺しを許容されているわけではなく、その性質をよくご存知の神さまが出した規制の命令である。

----------------------------------
神は恐れあがめられるべきお方である。しかし、その前に、「神は愛である」という大前提があることを忘れてはならない。「殺してはならない」と言われる神が、御子を私たちの贖いのために、殺させ給うたのである。それほどまでに、私たちを愛し、神の子としてくださったのである。罪から離れ、神の愛を信じ、大胆に主に近づいて歩んでいこう。

|

2011年10月12日 (水)

死刑?どこが神の愛?

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、・・・町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」(申命記 21:18-21)

神は愛である。しかし、この個所に書かれていることは、どうだろう。両親の言うことを聞かなかったら死刑?どこが愛か、と思うところだろう。しかし、この律法を知っている両親が、愛する子を連れ、町の長老たちのところへ行く時は、もうどうしようもなく手に負えない状態である。両親が心を尽くして子を訓練し助言を与えても、かたくなで、逆らい、悪にそまった状態である。死を前に子が悔い改めることに最後の望みをかけて行くのである。神は愛であるが、罪については厳しいまでに裁かれる。神は愛であると同時に義なるお方である。そうであるからこそ、私たちの罪を贖うために、主イエスが来られたのである。罪は人や自分を傷つける。放置すると、罪ははてしなく、周囲に広がっていく。その罪を除こうとされることもまた、神の愛である。

----------------------------------
何をしてもいいよ、と甘やかすことが主の愛ではない。甘やかし放置するなら、それが当たり前のこととなり、自分中心に物事を考える習慣がついていくだろう。この律法が与えられている社会で育つ子は、両親の言うことを聞くという従順を学びながら育つ。それは、神への従順につながるものである。民は、この教えを聞き、神への恐れを持ちつつ、従順の大切さを学んでいく。

|

2011年10月11日 (火)

試みの目的

「その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」(申命記 13:4)

信仰生活を送っていく上で、いろいろな助言やアドバイスを受けることがある。主の教えは、私たちを平安に導く。その平安の道とは、主への愛に立つ道である。みことばをよく読み、主が私たちに何を望んでおられるかを知ろう。主は心をご覧になられる。

----------------------------------
試みの時、逃げたくなることや放り出したくなることもあるだろう。その時は、その試みは主の御手の内で起こったことであることを思い出そう。一人ではない。主がともにいてくださるのだ。それが、自分の罪や弱さから出た試練であっても、である。主はあなたをとがめるためにではなく、あなたの主への愛を知りたいと思っておられるのだ。主を愛し、よりそっていこう。

|

2011年10月 8日 (土)

祝福の道

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」(申命記 11:27,28)

ヨルダン川を渡った後、民は、ゲリジム山とエバル山に立ち、それぞれ祝福とのろいの宣言の誓いを確認する。それぞれの山は、シェケムの町をはさみ、北と南に位置している。この山を見る度に、民はこの祝福とのろいの契約を思い出すだろう。神の命令とは、私たちへの愛から出たみおしえである。神は、何も教えずに、のろいをもたらしはしなかった。祝福の道とのろいの道をわかりやすく教えて、民の自由意思にまかせたのであった。神を愛し、従うことを望みつつ…。

----------------------------------
神の思いを知ったなら、従う道を選びたくなるだろう。祝福の道は、神を知ることから始まる。祝福の道が目の前にある。

|

2011年10月 7日 (金)

苦しみは幸せの通過点

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(申命記 8:2)

奴隷であったエジプトから数々の奇蹟をもって贖い出されたにもかかわらず、民はちょっと不安になると、ぶつぶつ不平不満を言った。その不信の罪のため、四十日で着くような荒野の道程を四十年の間をかけることとなった。人の親がその子を立派な大人にする目的をもって訓練するように、主は民を守りながら、訓練された。事実、主は、蛇やさそりといった危険な生物から民を守り、のどが渇いたと言えば水を与え、お腹がすいたと言えばマナを降らせ、肉が食べたいと言えばうずらを向かわせてくださったのである。その愛に応えて、信仰によって従ってくるようにと、訓練の中で内なる信仰を引出すことが、主の目的であったのである。この後に、こう言い換えられている。「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と。苦しみは「滅ぼすため」ではなく、「しあわせにするため」のものと言われている。

----------------------------------
今、試練の中で苦しんでいるならば、主を離してはいけない。「しあわせにするため」という目的があるのだということを信じよう。そして、祈りつつ、耐える力をいただいていこう。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」(ヤコブ 5:13)苦しみを抜けた時に、以前より成長した自分が、喜び笑っている。

|

2011年10月 6日 (木)

覆いがある幸せ

「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。」(申命記 5:32)

モーセは、十戒をはじめとする律法を民に語り、こう告げた。このことばは、神を知ると知らないとでは、感じ方が大きく異なるものである。神を容赦なく裁く恐ろしい人だと思えば、狭い綱のような所を、必死になって渡っていかなければいけないような命令を出しているように、感じるだろう。しかし、これは、私たちのために、いのちをも捨てられるほど、愛してくださっている神のことばである。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇 91:4)と言われる主のことばである。「おおいの中から右にも左にもそれてはならないよ」と言われているが、主のおおいは広いのである。そのおおいの中で、私たちは自由に歩むことができるのである。

----------------------------------
おおいがないところでは、自分で危険を察知する必要がある。痛い目にも合うかもしれない。自由なようでいて、何と不自由な世界だろうか。主のおおいの中、真の自由を楽しもう。

|

2011年10月 5日 (水)

遠回りしないために

「すると、あなたがたは私に答えて言った。『私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。』そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。」(申命記 1:41)

主の約束の地であるカナンに入る時に、「主があなたがたのために戦われるから行け」と言われたにもかかわらず、民は耳を貸さずに不平をつぶやいた。そのため、「主に従い通したヨシュアとカレブだけがその地に入る」と主なる神は告げられた。今日上げたみことばは、それを聞いた民が言った言葉である。こうなる前は、確かに主は「上って戦え」と命じられた。悪いことになると、「罪を犯した。言われたことをします。」、これは信仰でも悔い改めでもない。状況が悪くなったから言っているに過ぎない。ここでは、「向こう見ず」と言われている。状況は既に変わってしまっているのである。「主が先だって進んでおられる」と「主の怒りをかっている」とでは、全く異なるのである。そのような民に向かって、主は黙って滅ぼすことはなさらず、「上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。」と語られた。これは冷たいように聞こえるかもしれないが、主の愛から出た言葉である。この言葉にも民は従わず、打ち負かされることとなる。この後、主は、民が泣いても聞き入れなかった。これから民は、長い年月をかけて、信仰による従順というものを教わる必要がある。

----------------------------------

「上れ」と言ったり、「上るな」と言ったり…、言葉は正反対だが、主がみこころを変えられているのではない。主のみこころは一つ、「信仰によって上れ」である。民の信仰が主のみこころについていけず、信仰が育つまで主は待たれた。自分の目にはどのように見えたとしても、主に聞くことが一番である。遠回りのもとである疑い、恐れを退けて、一日一日を歩んで行こう。

|