2013年10月21日 (月)

主のみこころを知る

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイの福音書 6:7)

ある時、祈りについて、主が語られた。
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人が祈る時、あまりにも多くのことばを並べたて、それで満足してしまう。
わたしの言うことばを聞こうとしない。
自分の要求や自分の思いを告げて、わたしの語ろうとすることばを聞こうとしない。
主が交わりたいと願っていても、わたしの方を向かない。わたしはそれが悲しい。
心を閉ざさず、また、わたしがどんなにあなたに教えたいと願っているかを知って欲しい。

わたしが語ることばが聞こえないのは、雑念を捨てず、自分の考えを捨てないからです。
そのことがわかるだけでも祈りが違ってきます。
すべてを支配しているのは、主です。
祈る事柄も、主が導かれます。

否定的な思いは捨てなさい。今、捨てるのです。
それをしないと、あなたを用いたくとも用いることができません。

わたしがあなたをどんなに愛しているか、あなたは知らないでしょう。
あなたが想像できないほどに、あなたを愛しているのです。
信じて下さい。これを信じることができず、疑いに負けてしまわないようにして下さい。
人々がどのように誤解しても、あなたとともにわたしがいることを忘れないで下さい。
遠慮は何も生み出しません。悔しさと惨めな心が残ります。
したいことは、伝えなさい。したくないことも同じです。
ハイはハイ、いいえはいいえです。それ以上のことは悪いことです。
疑問を聞くのも、時によっては、必要なことです。

そうやって、互いに補い合って、キリストの律法を全うしなさい。
人は不完全です。人の助けも、交わりも必要です。
それがキリストの体の健康な状態です。

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2013年4月14日 (日)

花の装い以上に

Tutuji「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6:30)

もはや、国民病となっている鬱の病。
自殺死する人が交通事故死の6.5倍にもなっているという。
誰しも、悩み苦しみの渦中にある時には、その問題ばかりが思いを占め、心が捕らわれて行ってしまうものだ。
その問題がどんなに大きくても、全知全能の神に解決できないものではないことを覚えておこう。
自分の生立ちや環境等、変えることができない問題を抱えているかもしれない。
神がいるとしたら、何と不公平なのかと思えてしまうかもしれない。
しかし、聖書は言っている。「神にはえこひいきなどはない」(ローマ 2:11)と。
この世の中は、永遠ではない。永遠に比べると一瞬の時である。
また、神は、どんなことをも有益なことに変えられるお方である。
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ツツジの写真をクリックして拡大して見ると、おしべが宝石のように輝いているのが、見えるだろう。
この花一つ一つの装い以上に、私たちを祝福してくださる神がおられる。
咲き誇る花のように、私たちも輝こう。

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2013年4月10日 (水)

神に依存しよう。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

人とうまく関わることができず、一人で悩んではいないだろうか。
上手に助け合って、自立した歩みができるならば、神をも必要ではなくなってくる。
誰か特定の人に依存し、もたれかかれば、楽かもしれない。
しかし、人間は不完全であり、限界がある。
占いは、自分で決められないことへの一種の依存である。
自分で決められないという人への依存というのは、主導権を相手に渡すということであり、神の望んでおられることではない。
主導を取ってくださるのは主なる神である。
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自分の足でしっかりと神に立ち、主とともに歩み出そう。
ゆっくりでいい。確かな歩みを、主に導いていただこう。
主の道には、平安がいつもある。
一歩、一歩、踏み固めて歩んだ道は、たやすく崩れ去ることはない。
祈りをもって、確かなものを築き上げていこう。主がともにおられる。

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2009年2月26日 (木)

人を赦すには

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ 6:14,15)

心をふさいでいる事柄があるだろうか?
その時、いつも浮かんでくる人物がいるだろうか?
良かれと思ってしたことで、思わぬ応答が返ってくることがある。
また、何もなく平穏に日々を送っている中で、だれかを通して突然起こったことかもしれない。
そのような時、人の心は傷を受けてしまう。そして、相手のことをあれこれと考える。
なぜ、こんな展開になったのだろう。
なんでこのようなことが起こったのだろう。
考えているうちに、心がそのことに囚われていってしまう。
自分は、赦せない心を抱えているのではないかと悶々と悩みの中に陥る。
そのような時は、主に触れていただくチャンスである。
心を主に向け、呼ばわってみよう。
そして、相手によって当惑している正直な気持ちを、そのまま神に伝えるのである。
主はそのような素直な思いを、とがめずに聞いてくださる。
神との語らいの中、思い当たる非があったならば、主の御前に「ごめんなさい。」と申し上げればよい。
なすべきことは、その時、教えてくださる。

思い当たる非がないならば、怒りもくやしさも悲しさもみじめさもすべて主の御前に置くとよい。
「こんなことで、自分は傷など受けていない、相手に嫌な思いを抱くような者ではない。」と強がり、考えまいとふるまうなら、キリストの愛から遠ざかっていってしまうだろう。
愛の反対語は、無関心である。
健全な感情と向き合い、主と語り合っていくならば、赦しは必ずやってくる。
そして、「和睦するのに時がある。」(伝道者 3:8)と相手との和睦の時も、双方が整えられたちょうどよい時に与えられるだろう。
負の感情に蓋をしてしまうなら、時にかなった神の和睦のみわざも知りえないのである。
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主の祈りを教えてくださった後、主イエスは、弟子たちに人を赦すことについて教えられた。
人を赦さないなら、神に赦していただけない…。赦さなければならない。
そのように考え出すと、悪に対して怒ることもいけないことのように思えてきてしまいがちである。
みことばにふれる時、キリストが伝えようとされた意味と愛にとどまることができますように。

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