2013年8月27日 (火)

負の感情の扱い

「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇 32:3)

人生において、時に不当と思えるような扱いを受けることがある。
「なぜこのようなことをされないといけないのか。」「なんで自分ばかりが…」「もうやってられない!」…いろいろな負の感情がやってくる。
これを相手にぶつけたところで、争いや不和を招きかねない。
それで、感情を抑えることがよい人のように、嫌な思いや傷を抑えて、黙って蓋をしてしまう。
が、不安や疑問は解決されず、内心はどろどろだ。どれだけ耐えられるかの我慢大会になってしまう。
これは、神の恵みの世界ではなく、律法に生きようとする者の世界である。
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どのような状況下であっても、自分の心を見張り、湧き上がってくる負の感情(不信仰から出たことば、疑い、高ぶり…)を正当化したり、逃げたりせず、主の前に注ぎ出そう。
主は私たちの隠れ場である。主は苦しみから私たちを守り、悟りを与え、行くべき道を教えてくださり、助言を与えてくださるお方である。
主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲み、喜びで満たして下さる。
主に信頼しよう!!

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2013年7月 9日 (火)

「傷ついた道」への解決

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:24)

「傷ついた道」というのは、苦痛に導く道ということだ。悲しみの道とも言える。
この詩篇の作者は、神への恐れを持たずに神の名の権威を軽々しく用いているような人々との戦いの中にあった。
同じ神の名を用いる敵、実質の実(実体)が全く異なる神だとわかるまでは、多くの悩み、苦しみが起こる。
まともに立ち向かっては、神を知らない人たちにとっては、仲間同士の戦いに映ってしまうので、神の栄光を考えると、知恵が必要だ。
その敵から来る苦悩は深いものであり、その中にあって、信仰者は砕かれ、品性が練られていく。
作者は、そのような苦悩の中で、まず、神の大きさ、性質に思いをはせ、平安に包まれていった。
そうして初めて、神に苦悩を包み隠さず言い表し、寄りすがったのである。
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「傷ついた道」への解決の道は、主だけがお持ちである。
自分で立ち向かっては、取り返しのつかない結果に終わりかねない。
破壊と分裂が残り、主へのあざけりをもたらしかねない。
本当の敵は、その人の背後にいるサタンだからである。
主の偉大さに思いをはせよう。そして、苦悩を言い表そう。
主がその問題を取り扱って下さり、ご自身の栄光を現される。

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2011年11月 3日 (木)

寂しくなったら…

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩篇 68,5,6)

子よ、その寂しさを物や人や肉の楽しみに向かわせるのではなく、わたしに向けよ。わたしを呼ばわれ。わたしが与えるものは渇くことなく、永遠の喜びとなって、あなたを満たすことができるものである。寂しい時には、わたしを思い出せ。寂しさは神と親しむための賜物である。

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すべてを祝福してくださる神がいる。寂しさを感じた時は、神を呼び求めよう。神があなたの必要に答えて下さる!

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2009年3月 5日 (木)

主にあれば、苦しみもまた祝福

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:71)

ヨセフは何不自由ない暮らしをしていたのだが、ある日、突然ふりかかった出来事によって、エジプトに奴隷として売られた。
ヨセフにとっては、ふってわいたような災難であったが、兄たちにとって、ヨセフさえいなければ…という思いは、常に心にあったことであり、それを実行に移しただけであった。
ヨセフにとっては苦しみの始まりだったが、そこに神様の偉大な計画があったのだ。
「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ 13:27)
これは、主イエスが自分を売ろうとしているイスカリオテユダに対して言われたことばである。
ヨセフの兄たち、イスカリオテユダの罪もが神の偉大なご計画の内にあったのである。
苦しみの渦中においては、わからなかっただろうが、振り返ってみると、偉大な神のみわざが見えてくる。

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苦しみを通ってこそ開かれる恵みがある。苦しみを通らないと悟り得ない事柄がある。
キリストゆえの苦しみは大きな祝福となる。
主がいつもヨセフとともにおられたように、苦しみのただ中をともに歩んで下さっている。
産みの苦しみを主とともにのりきろう。

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2009年2月 9日 (月)

助けはどこから…?

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇 50:15)

物事には始まりがあり、終わりがある。
何かを始めて困難にぶつかることがある。
そんな時、しなければよかったのだろうか、どこかで間違ったのだろうかといろいろ考えてしまっていないだろうか。
結果、平安がなくなってくる。
聖書は言う。そういう時には主を呼び求めよ、と。主が助け出して下さる。
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主を見上げ、みことばによって歩んでも試練はやってくる。
そういうときには再び主に尋ねてみよう。主は与えまた取られる。
一度与えられたものでも場合によっては手放すよう促される。
そういう場合は過去の恵みにしがみつかず、主の言葉に従おう。
しかし、いくら祈っても何も言われない場合もある。
そういう場合は変化が現れるまで現状にとどまっていよう。
祈れない場合はまず祈れませんと申し上げ、主と語り合おう。
祈ることは律法でも宗教でもなく、交わりである。
主に従うには柔軟な態度と忍耐を要する。
主が語られたならば疑わずに大胆に従っていこう。

ただ助けられるだけではない。あなたはわたしをあがめよう、と主を仰ぎ見ずにはいられないすばらしい方法で助け出してくださるのである。

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