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2018年11月

2018年11月19日 (月)

『さばく力-争いの仲裁-』Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節

『さばく力-争いの仲裁-』 Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節(新改訳聖書使用)

罪の容認

 党派、不道徳、訴訟、偶像にささげられた肉、主の晩餐の濫用、偽使徒、結婚の諸問題、集会における無秩序な行為、教会における婦人の位置、復活に関する異端・・・、交通の要所であったコリントの町は、いろいろな人種が入り混じっていたために、教会内にもいろいろな問題が起こっていた。商業貿易の中心であったコリントは、邪悪かつ不道徳な町として有名であり、コリントという語が、堕落と同義語にさえなっているほどの不品行の町であったらしい。性的にも放縦に暮らしていたコリント人たちは、このような土壌、環境のもと、救われた後もこの習慣をきっぱり断ち切ることができない者が教会内部にもいた。教会の中で、継母を妻にしたという不品行の罪がパウロの耳に届いた(Ⅰコリント 5:1)。父がすでになくなっていようが、父とはすでに離婚していようが、どんないいわけをしたとしても、父の妻と関係を持つことは、律法ではっきりと禁じられている(レビ 18:7,8)悔い改め、方向転換するべき罪であった。コリント教会のクリスチャンは、このような罪が教会内にはびこっていても、なお、誇り高ぶっていた。教会の中では、個人の罪は、一個人の罪にとどまらない。周囲は、クリスチャンの罪として見る。キリストのからだの罪となり、「クリスチャンがあのようなことをしている。」と主の敵に大いに侮りの心を抱かせることになるのである。ダビデが、ウリヤの妻と不品行の罪を犯し、その罪を認めたとき、ナタンは言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(Ⅰサムエル 12:13,14)キリスト者の罪の容認は、キリストを侮らせることになるのである。

 教会の中で、罪が発覚したときの正常な反応は、痛みと悲しみである。パウロが、「そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。」(Ⅰコリント 5:2)と言っている「悲しむ」の原語は、死者への追悼をあらわすことばである。罪に対するいいかげんな態度は危険なものである。罪に慣れ親しんでしまうからである。そのうちに、罪がわからなくなる。麻痺してしまうのである。罪悪感があるうちは、まだ、立ち返るチャンスがある。罪に対する唯一の安全保障は、罪を見てショックを受けることであると、バークレーは言っている。これがなくなってしまうと、罪がわからなくなり、容認していくことになるのである。愕然として、みずから傷つき痛むべきものである。キリストを十字架にかけた人類すべての罪、これにショックを受けることなしに、キリストを知ることもできないし、よって、救いもない。パウロは、「私のほうでは、…そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。…私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント 5:3-5)パウロは、このように罪から離れられない者を、主の権威を用いて、教会の交わりから断ち、世に戻したのである。これは、パウロの愛から出ていた。除名することによって、罪の重大さを悟り、新生するためであった。罪の予防と治療のためである。このようにさばいたパウロが、むしろ、罪を黙認し、見逃していたコリントの兄弟たちを「高慢」(Ⅰコリント 5:2,6)と呼んでいることに注目したい。神を知らない者にとっては(神を無視するなら)、「主イエスの御名によってすでにさばきました。」と言いきれるほうが、高慢に聞こえ、「他人の罪を扱うなんて、おまえは、何者なのか。」と反論されそうである。主イエスが、屋根からつり降ろされた中風の男を「あなたの罪は赦された」と言っていやされた時、「律法学者、パリサイ人たちは、『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」(ルカ 5:21)と言った。どっちが高慢であるか、いうまでもなく明白である。パウロがここで言っているさばきは、そもそも「さばく」と取るのが間違いなのであって、神の国を「治める」ということである。

 コリント教会は、黙認すべきではない事実、罪は見逃して、戦うべきではない罪でもない問題については、教会以外の権威に訴えてでも争うというふうに、与えられた治めるという機能を用いずにいた。神よりも自分の感情によって処理していた。この高慢というパン種は粉のかたまり全体をふくらませる。パン種というのは、前回パンを焼いたときから保存しておいた、発酵した練粉のことである。ユダヤ人は発酵を腐敗と同一視していた。パン種は腐敗させ堕落させる影響のことである。わずかなパン種が全体を腐らせるということである。

罪の取り扱い

 パウロは、以前、コリントの教会に不品行な者とつきあうなと書き送っていた(Ⅰコリント 5:9)ところ、コリントの兄弟姉妹は、それを、教会外部に当てはめてしまったいたようだ。これを外部に実行するなら、未信者に恵みを知らせるどころか、さばくようなこと(断罪、高慢)になっただろう。コリントのような不品行のはびこる町では、教会は孤立化してしまうことになる。パウロが、真に意味するところは、「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということで」(Ⅰコリント 5:11)であった。この思いは、先に述べたように、罪を犯している兄弟を悔い改めに導くため、主を侮らせないためであった。

 続けて、パウロは述べる。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)教会外部の人たちの罪は、神を知らないでしていることゆえ、その人たちにしなければならないことは、福音を伝えることであって、さばくことではない。神のみが人の心を知っておられる。未信者については、神にさばきをゆだねなければならない。教会内の人については、互いに訓戒し合うという責任がある。神を知っている者同士としてできる特権である。もちろん、兄弟愛に基づいて、柔和に、である。断罪する心しかないなら、問題であるが。愛の心が問題なのである。神が明らかに罪であると断言しているにもかかわらず、悔い改めない兄弟のそのような罪を見過ごすことこそ、高慢なことである。罪を指摘されていい気分になる者はいない。神よりも自分の立場を重視しているからである。そうであるからこそ、パウロは、内部の人たちをさばきなさいと言っているのである。日本人にとっては、苦手とするところである。しかし、愛があるなら、死をもたらす罪(「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23))を見過ごしにできるはずはないのである。罪の指摘と言ったが、悔い改めない者に対してであって、いつでも、どこでも、誰にでも、ということではない。

治めることの大切さ

 パウロは続ける。「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:1,2)裁判官には六法全書がある、それ以上のものとして私たちには、聖書がある。「これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」(民数記 35:29)確かに、愛ではなく、律法的にさばくのはいけないが、善と悪を教える聖書に基づいて、正しく神の国を治めていくことは、しなければならないことなのである。これをせずして、一致できるわけがない! 不義が通っているところには(無法がまかりとおっているところには)一致など生まれるわけがない。治める者がいなかった士師の時代、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって、堕落とさばきつかさの台頭をくりかえしていた無秩序の時代を思えば、いかに治めることが大切か理解できることだろう。治める者が使徒や預言者と並ぶ務めの賜物として、あげられているのは、それだけ重要だからである。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Ⅰコリント 12:28)「さばく力」それは、主からくる賜物なのである。

 だれひとりとして、問題の解決にかかわろうとしない状態をパウロは、嘆き叱責する。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)また、次のようにも言っている。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(Ⅰコリント 6:9,10)クリスチャンの罪は、過去から未来にわたって、赦されているから、大丈夫などとパウロは言ってはいないのである。このことは、キリスト者であるコリントの人に言われたことであることを重視しなければならない。「神の国に入れない」と言っているのである。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)キリストの律法、神への愛と人への愛、を全うするために、互いの重荷を負い合い、正していくことが神の国には必要なのである。「傷つくほうが悪い。」というメッセージを幾人かの口から聞いたことがある。神の国は、弱肉強食の世界ではない。傷ついたほうにも問題がある場合もあるのかもしれないが、相手があってのこと、どっちもどっち、重要なことはその心、愛である。たとえ、傷つくほうが悪いとしても、「傷つくほうが悪い。」と言っているところに、行きたがる人がいるであろうか。

 今までの個所で、パウロは「さばけ」と言っているが、他のところでは、パウロは、さばくことをとがめているし(ローマ 2:1-6, 8:1, 14:4, 8:33)、自分をさばくことすらしないと言っている(Ⅰコリント 4:3)。主イエスだって、さばいてはいけないと言って、自分の梁をそっちのけにして、他人のちりを除こうとする行為を指摘している(マタイ 7:1, ルカ 6:37)。さばけと言ったり、さばくなと言ったり、聖書はどっちを言っているのか、となるところである。神の国は、愛の国である。このときはこうすること、と単純にマニュアル化して決められるような単純なものではない。その心が、動機が、神への熱心でもなく、愛でもなく、ただ非難し、他人をさげすむような高慢であったなら、してはならないことである。

 この罪の扱い方について、他の個所も見てみよう。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ 18:15-18)クリスチャンには、罪の赦しの権威までもが与えられている。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 17:3)詳訳聖書で見ると、「気をつけなさい。<いつも自分で注意していなさい<互いに見張っていなさい>。もしあなたの兄弟が罪を犯し<的をはずし>たならば、彼にまじめに話し<彼を戒め>、悔い改めたならば<罪を犯したことを悔いていたら>、赦しなさい。である。罪の自覚も悔い改めもないのに、赦すようなことは、神はなさらない。罪を知らない者の何を赦すのか、赦しの必要を感じていない人の何を赦すのか、キリスト教は、ひとりよがりに慢心する宗教ではない。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(Ⅱコリント 13:5)キリストが内在するなら、キリストを十字架にかけた罪に対して、いいかげんにしておくことができないはずである。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言 27:6)まだまだ、あるが、要するに、愛という動機が大切であるということである。

実例

 実際、神の人が、罪をどのように扱ったかを、旧約新約それぞれ見てみよう。旧約では、先程も少し触れたが、ダビデ王が、ウリヤの妻バテ・シェバと不品行の罪を犯し、罪をごまかすために、夫のウリヤを戦地で死ぬように計った例を見る。ウリヤが死に、ダビデは、バテ・シェバを妻とし、バテ・シェバは男の子を生んだ。主の預言者ナタンを通じて、罪とさばきが言い渡され、ダビデは、悔い改めた(Ⅱサムエル12章)。ダビデが罪を犯してから、子供が生まれ、病死するまで一年以上はたっていることになる。また、このナタンが言ったもうひとつの罪の刈り取りともいえる三男アブシャロムの謀反は、さらに数年、数十年の後のことである。このように、神の国に深くかかわる罪をナタンが、王であるダビデに、喜んで告げたはずがない。王の心次第では、殺されかねないのである。罪に対する痛み、悲しみ、神や神の民に対する愛ゆえに、できたことである。

 新約では、バプテスマのヨハネを見てみよう。ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻としていたことをヨハネが「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と告げた(マルコ 6:18)。自分の兄弟の妻をめとることは、兄弟をはずかしめる忌まわしい行為であって律法で禁じられていた(レビ 20:21)。ヨハネは、捕えられ、牢につながれ、祝宴の余興として、首をはねられ殺された。罪を侮る者にとっては、ヨハネの死は、ばかばかしく見えるのだろうか。「のこのこ言わなくてもよいことを王に言いに行き、牢屋に入れられ、証しにならない死に方をした」とでも言うのだろうか。主イエスは、獄中のヨハネを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ 11:11)「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ 11:14)と言い表した。

 パウロは、罪を扱わない教会について、言ったのである。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:2)「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)

 教会の一致のためには、さばく力、仲裁による問題解決、治める賜物をも求める必要がある。

落ち穂の会

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2018年11月14日 (水)

とこしえのいのちの祝福『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節

『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節(新改訳聖書使用)

心の風邪であるうつ病

 今月半ば(2012年1月)に、「今日的うつ病の問題」というセミナーに出席した。 そのセミナーで教授が言われたことには、今日、うつ病で病院にかかっている人は、100万人くらいいるとのことだ。 それは130人に一人という割合であり、日本の人口の1%近い割合である。 これは、受診した人数なので、実際のうつ病患者は、もっと多く、人口の3%と言われる研究者もいるそうだ。 また自殺者がここ13年間連続して3万人を超えていて、そのうちの60%はうつ病によるものと考えられているそうだ。 これは交通事故死の4、5倍だそうであるが、どの世代に多いかというと、昔は20代前半に多かったのが、最近は50代に多いという傾向があるということである。 震災から8か月、心病む人は、更に増えていくと思われる。うつ病は早期の対応で防げるもので、また「心の風邪」と言われ、必ず治るものであるが、こじらせることで死に至ることもあるそうである。

 今日の詩篇の箇所は、表題に「ダビデによる」とあるが、これはダビデを記念するという意味の「ダビデのための」とも訳せる語が使われていて、捕囚帰還後の時代の作という見解もあり、必ずしも作者がダビデとは限らないと言われている。 とはいえ、作者が誰であっても、兄弟姉妹が一つになって、共に住む喜びを詩っているものである。今日の主題となる1節のことば、口語訳では、「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) とある。ただ義務的に一緒にいるのではなく、仲睦まじく平和に一緒にいる一致を語っている。

4枚の絵

 日本の人たちがキリストの愛を知って救われることを祈る中で、私はカウンセリングに導かれました。 日本の人たちがキリストの愛を知るために必要なものはキリストによる愛の一致だということを長年の試練の中で学んでのことです。 この3月に私は神学校を卒業しますが、神学校に入る前の7年間は、小岩栄光キリスト教会のブランチとして、教会に行けない人たちとともに、日野の地区で落ち穂の会という礼拝を持っていました。 それぞれ全く異なる3つの正統と言われている教会を主に導かれて通り抜けた末に、与えられたビジョンに従ってのことでした。 このビジョンについて、今まで私に与えられてきた幻が4枚の絵で残されています。 1枚1枚は、それぞれその時に応じて、与えられたものです。(著作権があるので、サイトでは紹介できません)

 救われてすぐ(1994年)、礼拝を守るためにある試練が起こりました。 その時の所属教会の牧師先生に相談しようとしたところ、「君は、そのようなことで悩んでいるのかね。世界にはもっと大変なことで悩んでいる人が多くいるんだよ。そのような悩みは5年もすれば忘れているよ。」という一言が返ってきました。 その時、私は、こう思ったのです。「カウンセリングは賜物なんだ。教会にはカウンセリングの賜物を持った人が必要なんだ。」(幼い信仰ゆえの間違いです。) こう思った私は、祈りに覚え、賜物を持った誰かを送って下さるように祈り出しました。 また、この頃、カトリック信者の義理の姉から「プロテスタントは分裂分派や異端が多い」と言われていたので、マルチンルター以来、分裂分派を繰り返していることへのとりなしと一致への祈りを始めました。 3年弱が過ぎた時、夫の実家の近くの教会(アッセンブリー教会)で見た絵が妙に心に焼き付いて離れない、ということがあり、譲ってもらいました。 崖から落ちてけがをして歩けなくなった羊を、救おうと手を差しのべている羊飼いの絵でした(1枚目)。その直後、とあることで、1つ目の教会を出されたのです。

 2つ目の教会の初めての礼拝で目を閉じて「キリストには変えられません」を賛美している時のこと、 「大きな傷から血を流している羊が、イエスさまの足元に来て受け入れられる」光景がすっと現れ、消えていきました(2枚目)。 この時、この幻が教会から譲り受けた1枚目の絵とリンクし、大きな慰めを得ました。 メッセージや交わりですっかり癒され、1年半ほど過ごした頃、ある姉妹が私と祈った時に異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことで、教会にいられなくなってしまいました。  この姉妹を教会につなげようと行った3つ目の教会は、伝道熱心な韓国の長老派系の先生の教会でした。 訪問伝道をしていると、外国の気さくな先生だったためか、牧師の訪問が珍しかったからか、わりと戸を開けて話を聞いてくれたんですね。 意外だったことに、狭い町の中、過去に教会に行ったことがあると言う方が結構いたんです。そこでは1年弱過ごしました。

 3つの教会を出された私は、気付くと深く祈れなくなっていました。 この頃、2つ目の教会から信仰を共に歩んで来た友人がそばにいて、祈れない中、ともに支え合っていました。 ある時、主に心を注ぎ、祈っていたところ、私にみことばが、友人に幻が与えられました。 主は、小さな洞窟の中で小さなランプの暖かな炎が暗やみを照らしている光景(3枚目)を見せると同時に、「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」(伝道者 9:8)と、祈りの炎を絶やさないよう言われたのです。 また、この後、帰宅して祈っていると、2人同時に同じみことばが与えられました。 「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、 ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。 万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ 37:30-32) こうして通常の教会の交わりから絶たれた人のために、「落ち着ける教会が見つかるまで」という条件の下で、家庭を開き、礼拝を始めました。 当時学んでいたカウンセリングスクールに来ていた人の紹介で、吉山先生のサポートが得られることになりました。 何人かの人たちが礼拝に集い、マンションで開いた「ごすぺるの会」にも近所の人が集まり、友人の家族も救われていったのですが、通ってきた状況ゆえに、教会から離れての牧師不在の礼拝には、 安心感がなく、6年が過ぎた頃には、限界が来てました。その頃、友人が、この3枚目の幻には「もう一面の光景が見えていた」と違うパターンのものを描きました。 祈りの炎を斜め前方の角度から、見たもので、砂のような土が炎を守るように、覆いかぶさろうとしている絵でした(4枚目)。 よく見ると、ぱっくりと蛇の口になって火を呑み込もうとしているように見えました。この絵をいただいた後、私にはこれが気味悪く思えてきて、返してしまいました。 返した翌日、心に響く声がありました。「祈りの炎を消そうと呑み込もうとするものは、あなたは今まで戦っていたものではないか。気味が悪くて当然だろう。」 私はこの時、主が描かせた絵だということを知り、友人を信じきれなかった自分にも気付きました。 友人に謝罪した時は、もう遅く、関係は悪化していきました。この絵により、神の子同士の関係を崩し、一致を妨げようとしているものが存在し、教会が本来の力を出せないでいることも知りました。

 友人とのメールのやりとりがあったある日、職場でメールを見た時のこと、頭が締め付けられるように痛み、 「こうやって、人は心がおかしくなっていくのかぁ。牧師先生は、このような重圧に耐えて牧会しておられるのだなぁ」と思った時、3つの教会でのことが理解できたのです。 そして、支え合う(特定ではなく)多くの兄弟姉妹の必要、教会の必要を改めて悟ったのです。 友人を誰かに託さないと、共倒れになる!と思った私は礼拝を閉めました。 放心した状態で、年末断食聖会に臨み、これからどうしたらよいかと、今までなぜこのような道を通らなければいけなかったのかと、主に尋ねた時のこと、最終日に「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記 6:14) というみことばが臨み、再献身の心が与えられました。そして、教会に行けなくなった人たちとの「安心感を与えるためのネットワーク作り」の基礎を作るために、押し出されるように、神学校に入りました。 しかし、7年間心を注ぎ、はぐくんできた礼拝を閉めざるを得なくなったことが、私の心に大きく影響を及ぼしていたのです。 入学して1カ月経った頃のこと、腰に痛みを覚えました。数年前にも椎間板ヘルニアにより、2,3回の腰痛を経験していたので、今回も1週間ほどで治るだろうと思ったのですが、この腰痛は1年間続きました。 時には、トイレにもはいずって行かなければいけないほどでした。また、礼拝を閉める時の頭痛も時々、起こっていました。 頭痛のほうは、いろいろな検査の結果、目の疲れなどから来る緊張性頭痛と言われていました。どのような痛み止めの薬も治療も効かなかった腰痛が、ある時、緊張性頭痛の薬を飲むと痛みがなくなったのです。 その薬は、筋肉の緊張を解くために処方された抗不安薬でした。 心から来ているのか?と思い、カウンセリングではフォーカシングといって、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向けるやり方があり、 気付きを与えてくれる手法があるのですが、痛みに心を傾けてみました。すると、ひどく痛む中で、「このような体の痛みより、心が痛い…。」と痛みがこう伝えてきたのです。 この腰痛は、それから自分自身の感情をケアしつつ、決められた2回の教会派遣を全うし終えた時に、完全に癒されました。

 ところが、頭痛の方は、ずっと継続しているわけではないので、楽観視していたところ、神学校時代の4年間、事ある度に出現していました。 3年ぐらいすると、頭痛の出るタイミングがわかってきていました。 普段の生活や職場上のことでは出現しないのですが、教会の中で、一致を乱すようなトラウマになっている出来事を見た時に、起こっていました。 時々とはいえ、起こると数日続くこともあり、薬を飲むのもつらくなっていきました。 カウンセリングのセルフケアでわかったことは、この頭痛は、行き場がなくなることへの不安による怒りを訴えていたのだということでした。

一致

 教会が弱体化する原因は不一致である。 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(守り続けるように努めなさい。〈口語〉)」(エペソ 4:3)「平和の繋つなぎのうちに勤めて御霊の賜う一致を守れ」〈文語〉 とあるように、教会の一致は私たちが作り上げるものではなく、既に御霊によって存在しているものとされている。 既に存在している一致を崩そうと人間関係に働いてくる敵がいることを忘れてはならない。 ある時、1枚の絵ハガキに心が動かされた。十字架を中心に人々が輪になって楽しみ喜んでいる絵であったが、今日読んだ詩篇のみことばが書かれていた。  「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) 聖書を見ると、この様子は、2つの例えで表されている。

一致の2つの例え

 ①「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」(詩篇 133:2)大祭司は、その働きにつく時の任職の聖別のため、定められた調合法に従って作られた、聖なるそそぎの油を、頭に注がれた。大祭司は、 「胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯」(出エジプト 28:4)といった 「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジプト 28:2) を着用していた(主題からの学び:「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅰ)」「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅱ) 」 「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅲ)」参照)。 その肩には、十二部族を生まれた順に六部族ずつに分けて記名した2個のしまめのうをはめた肩当てが付けられ、その胸には、 十二部族を表した12個の異なる宝石が4行3列にはめられたさばきの胸当てが留められていた。油が「ひげに流れて」「えりにまで流れしたたる」  と上から下に流れ落ちてくる様子が2度繰り返され強調されている。兄弟たちが一つになってともに和合していることは、神の子たちに流れる天からの祝福のように、喜びに満ちたことである。

 ②もう一つの例えは、「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3) ヘルモンは、ガリラヤ湖のずっと北の方にある山脈で、聖書辞典によれば、最高峰が2800メートルを越える頂を3つ持ち、長さ32キロにも及ぶ連山であり、そびえ立つ光景は、 周囲の町々から畏怖の念を抱かせるほどであった(ネットで見た雪のヘルモン山は、日本の北アルプス、立山連峰に似た大パノラマの光景のようでした)。 この周囲の地域は乾燥地帯であり、ヘルモンの山頂は、年間を通じて雪で覆われていて、急激に冷やされた大気中の水分が、大量の重い露となって大雨に見えたほどに山を潤していた。「シオン」の語源には、「乾き切った場所」という意味がある。「山々におりる」「おりる」は、2節で2回繰り返し使われていた「流れる」と同じ語が使われている。兄弟たちが一つになってともにいることは、乾き切ったところに流れ、一帯を潤すヘルモンの露のように、 その交わりは、しなびた草木をも生き返らせるような、命の喜びに満ちたものである。

 この詩篇は「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3)「とこしえに命を与えられたからである。」〈口語〉で締めくくられている。主がシオンにとこしえに命の祝福を置かれたように、兄弟姉妹の和合・一致に主は祝福を置かれていると、言われている。 教理の正しさとか、正しい行ないも大切だが、それよりも大切なことは、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する「愛」である。 そのような愛があれば、「神は愛である」(Ⅰヨハネ 4:8,16)という聖書の神の真理に到達する時が必ず来る。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉)自分の価値観で判断しやすい私たちは、正しいお方は神だけである、という認識を忘れずに、一致を守っていきましょう。 今やうつ大国と言われるようになった日本の国に、この麗しさ、楽しさが伝わり、主にある絆によって、この国が喜びに満ち溢れますように。

落ち穂の会

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