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2018年3月

2018年3月26日 (月)

敵に向き合う知恵「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書20章より~

『敵に向き合う知恵-イエスに立ち向かう律法学者たち-』ルカの福音書20章1~47節(新改訳聖書使用)

福音を語るイエス

 ろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエスは、毎日昼は宮で教え、福音を宣べ伝えておられ、夜はエルサレムから東に「安息日の道のりほどの距離」(使徒 1:12、おおよそ1Km)にあるオリーブ山に戻って過ごされていた(21:37)。イエスが語られた福音とは何か。イエスが語られた福音=よい知らせは、神の国が近づいた、神は正しくさばかれる、悔い改めて神に立ち返れ、信仰をもって神に従いなさい、そうすれば救われるとイエスは民に語っておられた。その現れが、いやしであり、奇蹟であり、イエスが示す神の愛によって弱り果てていた人々は神を愛する力をいただいた。ローマの圧政、パリサイ人や律法学者たちの律法的な教えは、民を潤すことはなく、飢え渇いていた民たちはみな朝早く起きて、イエスの教えを聞こうと宮にいるイエスのもとに集まってきた(21:38)

イエスに立ち向かう指導者階級

 教えを聞いた民の心がイエスに向いていくので、宮での立場も危うくなってきた祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに立ち向かっていく。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(20:2)何とおそまつな質問だろうか。イエスの並ならぬ権威を認めているのである。「誰の許しを得てやっているのですか」でも「なぜこのようなことをしているのですか」でもない。そのような質問のほうがまともである。祭司長、律法学者、長老たちは、神の権威は感じていたのである(神だからあたりまえであるが)。イエスが「神の権威」と答えれば、神に対する冒涜罪で死罪にできたのである。それを言わせたいがための質問である。「もう我慢がならぬ」という感じで徒党を組んで立ち向かおうとやってきたのである。

向き合うイエス

 そのような質問にもかかわらず、主イエスは無視して相手にしないわけでもなく、がつんと言い負かすわけでもなく、立ち向かってきた相手に、知恵のある言葉で答えられている。考える余地を与え、拍子抜けさせるように導こうとされているかのように言っている。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(20:3-4)質問をかわして話をはぐらかしているわけではない。バプテスマのヨハネは、イエスを証言してこの世を去っている(ヨハネ 3:26では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたが証言なさったあの方」とヨハネに言っていて、ヨハネは「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。」(ヨハネ 3:28)「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言っている)。天からと答えたなら、イエスはそれ以上の人物だと認めないと矛盾が生じる。人からと答えると、民衆を敵に回す。民の上に立つことを好む彼らにそれはできない。祭司長らは「どこからか知りません。」(20:7)と答えている。民衆を教える立場の者たちであるのにかかわらず「知りません。」とおそまつな答えとなったのであった。

ぶどう園と農夫のたとえ

 イエスはこの後、ぶどう園と農夫のたとえを話された。またもや主人が何か(今回はぶどう園)を預け旅に出るという話である。旅先から収穫の分け前をもらうために主人が順に3人のしもべを送るが、農夫たちは袋叩きにしてひどいめにあわせ、傷を負わせて送り返す。どうしたものかと思案した主人は、愛するあととり息子を送れば、敬意を払ってくれるに違いないと遣わしたが(3度(3は神の完全数)送ったしもべにひどい仕打ちをされても、信じる愛がそこにある)、農夫たちは議論した結果、あととりを殺してしまえば財産はこっちのものだと殺してしまった。どうしてそのような発想になるのか、主人への愛もなければ、感謝も敬意もない。十分な収穫があっただろうに(主人が分け前を要求できる収穫があった)、もっともっとと元々自分の物でもないものにもかかわらず、欲に支配された結果である。息子を殺された主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園はほかの人たちに与えた、という話である。聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません。」(20:16)と言ったが、同じ話を聞いていた律法学者、祭司長たちは、「イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)とある。悔い改めの機会は、いつも目の前に置かれていた。しかし、いつも神を説いていた彼らは神の権威を見ても、神を認めず、つまり、神の存在を信じていなかったのである。

エスカレートしていく計画

 イエスと議論しても勝てず、捕えようとしても、民衆を恐れてできない。機会をねらっていた律法学者、祭司長たちは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った(20:20)。しかし、イエスはそのたくらみを見抜いておられ(20:23)、またもや知恵で返され、間者は、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、イエスの答えに驚嘆して黙ってしまうしかなかった(20:26)

 間者が黙ってしまったためか、サドカイ人が復活についての質問を投げかけ、イエスはきっちり教えられている。その答えは、律法学者に「先生。りっぱなお答えです。」(20:39)と言わしめるほどであった(「先生」と言いながらも上目線であるが)。律法学者たちは「もうそれ以上何も質問する勇気がなくなった」(20:40)とある。

 そこで、今度はイエスが、質問をされた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っているのに・・・」(20:41-44)ご自身のことを言われているのだが、答えを求めているのではない。人知を超えている事柄ゆえに、神の不思議に目を向けさせ、考える余地を与えられている。

 民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに律法学者たちに気をつけるよう、言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(20:46-47)

落ち穂の会

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2018年3月18日 (日)

小さな事にも忠実だったから「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書19章より~

『小さな事にも忠実だったから-ミナのたとえ-』ルカの福音書19章1~27節(新改訳聖書使用)

ザアカイの救い

 神のご計画があるゆえに、エルサレムに向かっていたイエスは、手前のエリコの町に入られた。エリコに近づく道ばたでは、盲人がいやされる奇蹟が起こっていた。19章は、取税人ザアカイの救い(1-10)、ミナのたとえ(11-27)、主に用いられたろばの子(28-35)、エルサレムに近づき喜んで賛美する弟子たちとエルサレムを思い涙する主イエス(36-44)、宮をきよめて毎日宮で教えられるイエス(45-48)という構成で書かれている。

 エリコの町に、ザアカイという取税人のかしらで金持ちがいた。多くの人々が押し寄せる中、背が低い彼は、イエスを一目見たいと、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。取税人というのは、ローマから税金を取り立てるよう委託された人である。当時のユダヤはローマの属国だったため、ローマに税を納めていた。取税人は、ユダヤ人でありながら異邦人のために働いている人とみなされ、また、規定以上の税額を徴収することによって私腹を肥やしていたため、同胞のユダヤ人から嫌われ、罪人とみなされていた。ザアカイはそのような取税人のかしら(元締め)であった。

 さて、前章で、イエスは、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(18:24-25)と言われたが、これは、「律法の戒めはみな、小さい時から守っている」と自負していた役人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(18:22)と言った際に、役人が大変な金持ちだったため、非常に悲しんだのを見て、言われた言葉であった。

 イエスの視界にザアカイが入った時、イエスのほうから声をかけられた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)思いもよらず個人的に、しかも名前を呼んで声をかけられたザアカイは、大喜びで急いで降りて来てイエスを迎えた。人々の目は、あいかわらず冷たかったが、もう気にならない。ザアカイは立ち上がり、イエスに言っている。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(19:8)このように言う金持ちのザアカイに、イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。…」(19:9)と言われた。

 前章の金持ちの役人には、「持ち物を全部売り払い…」で、できない様子に「裕福な者が神の国にはいることはむずかしい。」と言ったイエスが、「私の財産の半分を施す」と言ったザアカイには、「救いが来た」と言われたのである。何が違うのか。パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント 13:3)と言っている。主イエスが金持ちの役人に言ったのは、「財産全部を貧しい人たちに分け与える」という外面的な行為を言ったわけではない。ザアカイは半分でもOKだったが、役人が、たとえ役人が「また稼げばよいか」と財産全部を差し出したとしても、また、イエスの言葉を半分受け止めて、妥協案として「じゃあ、半分(十分ありあまるほどの財産の中、自分のために半分になっても十分だし)を分け与えます」と応じたとしても、受け入れられなかっただろう。アナニアとサッピラが受け入れられなかったように。

 役人とザアカイ、決定的に違うのは、その心根である。お金(世の楽しみや心配事)を見ているか、主イエス以外目に入らないほど神を愛しているか、である。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)これは、「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と表題がついているが、ダビデ王(金持ち)が詠んだ詩である。

 同胞人から嫌われ、罪人呼ばわりされていたザアカイは、取税人のかしらとしての地位があり、お金持ちであったが、「だまし取った」(19:8)罪意識を持っていた。イエスが多くの人がいる中、自分に目をとめ、しかも泊まる家に選んでくださった、それだけで十分だった。稼いで得た財産の半分を施し、また、だまし取った物は、四倍にして返すという贖罪を語ったザアカイの言葉は、「悔い改めます。」と言葉で言わなくても、土下座しなくても、悔い改めの心が背後に伺える言葉である。真の悔い改めは、被害を与えていれば贖罪の心が伴うものである。そのようなザアカイに、イエスは言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:9-10)罪により失われていた魂が、イエスに出会ってその愛によって救いに預かったのである。

ミナのたとえ

 この後、これらのことに耳を傾けていた人々が、神の国がすぐにでも現われるように思っていたので、イエスは、ひとつのたとえを語られている。人々は、ザアカイが救われたように人々が救われ、いやしが起こっている奇蹟を見て、エルサレムにもうすぐ行かれるイエスが、エルサレムに乗り込み、神の国を打ち建てると思っていたのである。そのような状況に、イエスは、ミナのたとえを語られた。

 身分の高い人が王位を得るために、十人のしもべにそれぞれ1ミナずつ与えて、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」(19:13)と言い残して、遠い国に旅に出る話である。マタイ25章にあるタラントのたとえと似ているが、マタイのほうは、能力に応じて異なる金額を預けていたが、今回のたとえは、みな同じ額である。1ミナは100デナリ(1デナリは1日分の賃金)、1タラントは6000デナリに相当する。タラントのたとえは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と天の御国について語られていた。ミナのたとえは、神の国はすぐに現れるものではないということ(主人がいなくない間のしもべの過ごし方)が語られている。主観によって主人を恐れて1ミナをふろしきに包んでしまっていたしもべは、「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」(19:22)「私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」(19:27)と、その人自身のことばと行動によってさばかれている。いくら「ふろしきに包む」という丁寧さを繕っていても、そういうことを要求はされていず、何にもならなかったのである。

 私たち主イエスのしもべは、等しく聖霊を預けられて、働きを委ねられている。たとえでは、主人が王位を得るために遠い国に旅立っている間、国の建設のために、忠実に商売し(どんな商売をするかはしもべに委ねられていた(15))、十ミナをもうけたしもべは十の町の支配権を与えられ、五ミナもうけたしもべは五つの町の統治権を与えられている。このたとえだけを見ると、もうけないといけないのかとなるところであるが、このたとえは金銭的な成果を言っているのではなく、忠実に仕える心を言っているわけである。与えられている聖霊とともに歩むと、主に会う時には、何かしらの実ができている(何人伝道できたか、人を救いに導いたかではない、人が救われるのは聖霊の働きであり、種を蒔くと実りは人手によらずなるものである)。聖霊を与えられて、働きを委ねられていることをかみしめて、主イエスに会う日を待ち望みつつ、歩んでいこう。

落ち穂の会

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