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2015年7月 4日 (土)

『キリストの花嫁 10』雅歌 7:10-8:4

間が空いてしまったが、雅歌の続きを見る。前回までで、「花嫁のことばは、良いぶどう酒のようであり、花婿の愛に対して、なめらかに流れ、眠った者のくちびるをもその愛で満たす」と花婿が、語ったところまでを見た。花婿の愛によって、花婿だけをまっすぐに見るよう成長を遂げ、目覚めた花嫁。

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『ヘンナ樹の花の中で-動かぬ平安-』雅歌 7:10-8:4(新改訳聖書使用)

花婿からの賛辞への花嫁の応答

 花婿の自分へのあふれんばかりの愛を知り、花嫁は答える。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)もう以前のように、壁を作ったり、自分の殻にこもったりして、花婿を拒否したりはしない。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)この広く、長く、高く、深い人知を越えた花婿の愛を、花嫁は知ったのである。知ったからこそ、花嫁は、心の底から、自分のすべてをゆだねたいと思い、このように言えたのである。「私は、私の愛する方のもの。」と。2章16節では、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」6章3節では、順序が変わって、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と、自我が砕かれ、成長していた花嫁、今度は、「私の愛する方は私のもの」がなくなっている。3段階の成長が見られる。花嫁は、「私の愛する方は私のもの」という自我の主張をしなくてもよいほどに「あの方は私を恋い慕う。」と、花婿に愛されていることを、知ったのである。

動かぬ平安

 かつては、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:10)、また、「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。」(雅歌 5:2)という花婿からのことばに答えなかった花嫁であったが、花婿の人知を越えた愛を知った花嫁は、今度は、自分のほうから花婿に、誘いかける。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。」(雅歌 7:11)花嫁の心には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)というみこころに積極的に従う準備ができたのである。「野」ヘブル原語では土地,畑,野。「野に出て行って、・・・」は、“Let us go・・・”<英欽定訳(New King James Version Bible)>である。花嫁は、「私たちは、世の中に出て行って、「ヘンナ樹」(平安)の花が咲誇る中で、「夜」(暗闇)を過ごしましょう。」と言っている。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇 23:4)に見られる平安である。どのような中にあっても動かない平安は、成長した花嫁なる信仰者のもつしるしである。使徒の働き6,7章の殉教者ステパノは、自分を殺そうとする多くの敵たちの前でも、「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(使徒 6:15)と、動かない平安の中にいた。また、ペテロが、妻たちに勧めているのは、サラのような平安であった。「あなたがたの飾りは、〔念入りに〕髪を編み<結び>、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、〔単なる〕外面の飾りでなく、穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない<色あせることのない>魅力を持つ、内的な飾り<心の〔奥深く〕隠れた人の持つ美しさ>でなければなりません。これは〔その霊は〕<不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で>神のみ前にきわめて価値の高いものです。」(Ⅰペテロ 3:3,4<詳訳>)

 ある時、教会で祈っていた時、神の御前に、悲しみを注ぎだした後、目の前が黄色に染まった幻を見た。ぼんやりした黄色の中にいて、それが花畑かどこかの中かわからなかったのだが、なんともいえない平安が注ぎ込まれた。「ああ、平安~。」という感じでひたっていたのだが、何のことか、何で黄色なのか、ずっと不思議であった。この11節のみことばを見たとき、ああ、このことだと、直感したので、ヘンナ樹の花を調べてみた。白色の小花が房状になっている潅木ということで、見たものは、この花ではなかった。ヘンナの葉は、黄色、黄褐色、黄土色の染料、顔料に使われる。日本でも、ヘナというトリートメント入り髪染めでおなじみである。このヘンナの染料である赤みがかった黄色、平安の色で染めてくださった現われであった。何かあっても、この時の平安を思い起こすなら、平安に包まれるのである。

 「一緒に、世の中に出て行って、平安の中で、暗闇の中を過ごしましょう」と申し出る花嫁。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿とともに、平安の中で、野で夜を過ごし、時が経っていった。

愛から出た奉仕

 「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。」(雅歌 7:12)苦とも思わず、喜んで、花婿と一緒に世に出て行こうとする花嫁の姿。花嫁にとって、福音の働きは、労働ではなく、愛の自然の行為であることが、わかる。ここに、労働をうかがわせることばは、使われていない。いやいや先延ばしに、日も高くなってからとか、日が傾きかけてから、重い腰を上げて行くのではなく、朝早くから、ともに、出て行くことを待ちわびているのである。花嫁は、おいしいぶどうの実の収穫が予測されるぶどう畑に行き、何をしようとしているのか。3つのことが書かれている。

 ①ぶどうの木が芽を出したかどうかを見て、愛を花婿にささげる 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ 15:4,5)と言われているこのぶどうの木から出た芽、芽吹いたばかりの、信じたばかりの信仰の赤ちゃんが生まれたかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ②花がさいたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ぶどうの花は、褐色の小さな米粒くらいのものが、房状に密生する。目立たないが花が一面に咲いているときには、「ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌 2:13)とあるように、ほのかな香りがするそうだ。決してきれいとは言えない花であるが、おいしい実をつけるのには欠かせない地味で目立たない花、目立たないが、ほのかにイエスのかおりを放っている若い信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ③ざくろの花が咲いたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ざくろ(愛)の花は、赤く鮮やかな花である。多くの愛の実をつけるための花、成長している信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」とあるが、そのようなお世話は、花嫁の花婿への愛のあかしなのである。

抑えられないほどの花嫁の花婿への愛

 「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌 7:13)「恋なすび」というのは、ナス科の春に梅の実くらいの実をつける植物である。青いときには、毒性が強くて食べられないが、黄色く熟すと良い香りを放ち、おいしくなるそうだ。が、麻酔性と下す作用があるという。麻酔作用と、根を抜いた時に、人間の股のような形のあるところから、地中海沿岸の国々では、催淫作用のあるあやしげな植物としていろいろいわれてきたようで、最近まで、催淫作用が信じられていた。ギリシアでは、根をぶどう酒につけたものは、恋を誘発する効き目があると思われ、ラブ・アップルと呼ばれ、不妊の女性に子供が授かるとさえ信じていた。(新聖書植物図鑑<教文館>参照)

 「恋なすびは、かおりを放ち、」恋なすびは、熟れてよいかおりを放っている。花婿への新たな愛が起こされた。「私たちの門(ヘブル原語では戸,門,入口)のそばには」それは、奥にきて、やっと起こった愛ではなく、花婿との関係の入口からあった愛であった。花婿と花嫁の関係は、愛から始まったものであった。今、新たな愛が起こされ、というか、妨げとなるような甘えのような不必要な思いは除かれ、愛が深められ、古くからはぐくんできた愛とともに、すべて、最上の愛をたくわえてきた花嫁。花嫁の愛は、不完全ながらも、その時々で、精一杯の最上のものであった。花嫁の花婿への愛は、なくならず、増える一方である。

 「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに」(雅歌 8:1)花嫁の自制の様子が見てとれる。自制は御霊の実の一つである。花婿に愛されているということで、周りの人々から、一方的で理不尽な怒りをかい(雅歌2:6)、そのために苦しみを通った花嫁は、愛の表現を自制することを学んだ。花嫁としての地位と愛の表わし方によっては、周囲から、さげすみやねたみをかいかねない。信仰を守る過程で、人々からさげすみやねたみを受けることが必要なときもあるが、受けることに甘んじなければいけないときというのは、そのことによって、神が栄光を受けられるときである。不必要なさげすみは、人々をつまずかせないためにも、避けなければならない。「ああ、」とため息まじりに、花嫁は言う。外で(働きの最中)、花婿を見出したときに、とびついて口づけしたくなるほどの愛を表わしたい衝動にとらわれても、やみくもに実行してしまえば、周りにいる人々をしらけさせ、さげすまれるだけである。自分にゆだねられた働きも進まなくなってしまう。実際に、そうしたことによって、花嫁は、打たれ、傷つけられ、かぶり物をはぎ取られた経験をしているのである(雅歌 5:7)。そのような経験を経て、自制する知恵がついた。しかし、「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」同じ聖霊なる母をもつ信者である兄弟姉妹に対してであったなら、いくら、外で、兄弟愛を表わしても、さげすみは受けないで、かえって、感謝されたり、ほめられたりするであろう。

 抑えきれないほどの愛で、花嫁は言う。「私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。」(雅歌 8:2)花婿を「私を育てた私の母の家」聖霊の住まいである花嫁の祈りの個室に連れていき、香料を混ぜたぶどう酒とざくろの果汁を花婿にふるまいたいと願う花嫁。「香料(単数)を混ぜたぶどう酒」「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Ⅱコリント 2:15-17)花嫁の持つ「いのちから出ていのちに至らせるかぐわしいキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる交わり。花嫁の持つかおりは、調和のとれない混ぜ物ではないため、ぶどう酒と調和がとれていて、花婿を喜ばせる、おいしいカクテルとなっているのである。「ざくろの果汁」御霊の実の中でも最上のもの、愛。その愛から取れる果汁、搾り取る汁とは、とりなしのことである。誰にも邪魔されず、花婿への愛を思う存分に表現できる祈りの部屋で、花嫁は、花嫁の持つ「いのちに至らせるキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる親密な交わりをし、花嫁の愛から取れた果汁であるとりなしの祈りをささげたいのである。

 「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 8:3)2章6節でも言われたこのことば。その時、「左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)などのみことばから、右の手は、力、救いとして表わされている。」と述べた。傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られたいという願いをもって、語ったことばであった。今度は、全く同じことばであり、愛を求めることばでもあるが、前回と異なり、花嫁は、平安の中で、願っている。平安の中での、満ち足りた安らかな愛の表現としての願いである。

後に続く者たちのために

 2章7節や3章5節に続き、3度目の花嫁のことば。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)前々回や前回と異なり、「かもしかや野の雌鹿をさして」ということばが、なくなっている。2章7節では、傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、花婿からの愛の表現を願った後、言ったことばであった。3章5節では、一度、花婿を拒絶して、去られ、捜しまわって、見つけ出した後、言ったことばであった。「かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。」と、神に誓ってというふうに力を込めていた花嫁は、その後、再び、花婿を拒絶し、捜しまわり、夜回りたちに打ちたたかれ、「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌5:8)と弱々しく懇願していた。そのような経験をして後、花婿の変わらぬ深い愛を確認した後のことばである。「かもしかや野の雌鹿をさして」とわざわざ力を入れて言わなくても、花婿が与えた聞き従わせる権威を身にまとっている花嫁からのお願いなのである。今回の「あなたがたに誓っていただきます。」は、力をこめたわけではなく、権威からのことばである。ヘンナ樹、平安の中にいてゆるがされることのない花嫁は、自分のためにではなく、後に続く私たちのような者たちのために、誓わせているのである。

 雅歌に3度言われている「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」愛を揺り起こしたり、かき立てたりしようとする言動は、苦しみ弱っている信仰者を、よけいに苦しめ弱らせることになるのだと、知ってほしい。では、「愛を揺り起こし、かき立てる」という言動とは、具体的にどういうことか、ということになるが、「夢が破れても(生ける水の川発行)」に、そのことについてのわかりやすい例があった。要約してみる。

 「愛する人を失い、大きな痛手を負った男性がいて、とても無気力になり、『私は、頑張るのがいやになりました。』と言った。彼の友人たちは心配して、支えになればと、いろいろ努力した。悲しみの処理のし方の本を送った人、愛を伝える手紙を送った人、自分たちが主から励まされたという聖句を添えた人、一緒に祈ったり、ゴルフに行った人・・・。彼ら友人たちが、短い挨拶の後、きまって尋ねることは、『このごろどうですか。』ということであった。何度も繰り返される度に、どんどん嫌な気分は強くなっていった。彼には、友人たちが聞きたがっている答えがわかっていたからである。『大変だが、大丈夫。何とかうまくいっています。』これは、癒されていない彼の真意ではなく、友人たちを安心させるための答えであった。とうとう最後に、彼は、こう答えた。『ええ、まだ本当に大変です。彼女がいなくて、とても寂しいです。どうしたらいいのか、時々、悩みます。でも、もうそんなに落ち込まずに、社交的になって、しなければいけないことを始めるつもりです。いい方向に向かっていると思ってください。心配してくれて、ありがとう。』この最後のことばは、効果があり、友人たちは、ホッとして笑いながら言った。『それを聞いて本当にうれしいよ。ま、皆で祈ってきたんだから驚かないけどね。』この会話から3つのことに気が付いた。

 ①彼の友人たちは、自分たちの祈りが、彼が神のみこころを歩み続けることを願うよりも、誰かを元気にすることと関わっていると思い込んでいた。

 ②その思い込みには、『もし聖霊さまが彼に働かれたなら、苦しみから抜け、本当に元気になるはずだ』という考え方と、『神の道を歩むことと、すばらしい気分ですごすことは、同義語である』という考え方が含まれている。

 ③彼の友人たちは、悲しんでいる人の魂から距離を置いていた。意図的にそうした訳ではないが、苦しんでいる人とは一緒にいたくないということを暗黙のうちに相手に知らせている。事態を改善した人とだけ一緒にいたいのである。 彼は、友人たちに、励まされるどころか、さらなる絶望と深いわびしさの中に追いやられ、激しい孤独の中へと押し流されていくのを感じた。『私は、もう頑張るのがいやになりました。つい昨日、友人二人が私のことを話しているのを聞いた。一人が、彼はどうしているだろう、と言うと、もう一人が、頑張っているよ、と答えていたので、私は悲鳴を上げたい気持ちになった。』私たちは、人生で、ひどい打撃を受けたとき、誰かに、ありのままの自分を受け入れ、立ち直るまで、ただそばにいてほしいと願う。しかし、その人が求めている理想の姿を演じてまで、一緒にいてほしいとは思わない。良い気分にしてほしい訳でもない。自然の愛からではなく、そのような努力をされると、悩みを深めるプレッシャーとなってしまうのである。ただ、単に愛からお互いに仕え合うことが、どうしてそんなに難しいのだろうか。」

 苦しみの中にある人に、「早く苦しみから抜けろ」と、「苦しみに浸っていないで、イエスの愛を見よ」と、「イエスを愛せ」と、そのような思いから、あれこれ余計なお世話をすることも同様である。自分にもされた経験、した経験が思い浮かぶような、身につまされる話である。祈ってあげることも含まれる(わからないところでその人のために祈ることとは異なる)。苦しんでいる人は、間違っているところは、愛によって助言を与えてほしいと思うが、苦しいという思いについては、苦しんでいる自分のまま、ただ、つらかったねと、抱きしめ、つらい思いを理解し、共感してほしいだけなのである。その人のために祈ることも、みことばの助言をすることも、「元気?」と尋ねることも、一緒にゴルフに行くことも、してはいけないわけではなく、その心が大切なのである。本当に、相手の祝福を求める真実の愛からの行為であるなら、何をしても、相手を突き落とすようなことにはならないのである。愛から、愛からといっても完璧な愛など、神以外だれも持ち合わせていない。自分の持っている以上の愛が必要な事柄なら、直接には、何もせず、何も言わず、ただ、わからないところで、祈っているだけのほうが、賢明である。祈っているうちに、神が、なすべき愛を与えてくださる。愛の押し売りは、避けねばならない。花嫁は、そのことをよく、知っていたから、こう言ったのである。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。

落ち穂の会提供

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