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2015年4月

2015年4月20日 (月)

『キリストの花嫁 8』雅歌 6:4-13

 雅歌も後半に入ってきたので、今までの部分をまとめてみる。母の子らが花嫁に向かっていきりたったところから、始まった孤独の試練(雅歌 1:6)の中、愛に病んでいく花嫁。それを花婿にぶつけても、いやされなかった(雅歌 1:7)。そのような中、今まで、二度、花婿の臨在が感じられなくなり(雅歌 3:1, 5:6)、だんだん、花婿の存在の大切さを知り、花婿以外のことにとらわれなくなっていった(雅歌 5:8)。そして、そんな花嫁と花婿との他にはないほどの愛の絆を知ったエルサレムの娘たちが、花婿を知りたいと、花嫁のもとに、やってきた(雅歌 6:1)。やっと、他のとらわれていたことから抜け出し、花婿だけに、目を留めることができた花嫁は、最初から告げられていたのに見えていなかった花婿の居場所に気づいたのであった(雅歌 6:3)。この3節の後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿の深い愛に気付き、愛の病から立ち上がり、エルサレムの娘たちに、証を始めた花嫁。そうして、しばらくが過ぎた。

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『二つの陣営の舞のように-信仰覚醒-』雅歌 6:4-13(新改訳聖書使用)

花婿から花嫁への賛辞

 「謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言 15:33)とあるが、一段とへりくだった花嫁のもとに、花婿が現われ、言った。エルサレムの娘たちの面前で、花嫁に栄誉を与えるためにである。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)花婿からのことばである。花婿のことばは、いつも変わらない。状況や時間経過によって、変わることなく、いつも、「わが愛する者よ。」と花嫁を呼ばれる(雅歌 1:9, 1:15, 2:2, 2:10, 2:13, 4:1, 4:7, 5:2, 6:4)「あなたはティルツァのように美しく、」ティルツアとは何ぞや???となるのだが、ティルツアというのは、町の名で、サマリヤの東に14㎞ほどにあるマナセの領土内にあり、その言葉の意味「快適、快さ、喜び、香り、受け入れることのできること、疑いのないこと、非常に幸福なこと、立派で一律な建物」のように、心地よいさまを表わしている。近寄りがたい美しさではなく、心地よい美しさを表現しているのである。「エルサレムのように愛らしい。」エルサレムは、ダビデとソロモンが築いた美しく整えられた小さな町であり、神の民が愛する町であった。エルサレムは聖なる町であり、その存在自体が、誉れであり、喜びでもあった。その町は、賛美と礼拝がささげられ、良いかおりの香といけにえのなだめの香りを立ち上らせている場所でもあった。「だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」美しく、愛らしくはあったが、愛玩動物のように、ただにこにこ心地よく、愛くるしいというだけではなかった。あなどれない強さを備えていた。守備力と、悪に対しては、総攻撃ができるほどの恐ろしい力を備えていた。

 「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私をひきつける。あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 6:5)花嫁の鳩のように素直で識別力にたけていた目(雅歌 1:15, 4:1)、打ちたたかれても、花婿を捜すのをあきらめずに、追ってくる目、その熱心な一途な目が、花婿が花嫁のためにそっけなくしようと思ってもできなくなってしまうほどに、ひきつけるのであった。「あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」全く同じことばを、4章1節で花婿は語った。このことばで、花婿は、花嫁の頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであることを表わしていた。花婿の語彙が乏しくて同じことばを繰り返しているわけではない。必要のないことばを言っているわけでもない。花婿の権威の前に、さらにへりくだった花嫁への賛辞である。

 「あなたの歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 6:6)これも、4章2節で花婿が語ったのと一言一句違わない全く同じことばである。花嫁に拒絶されても(雅歌5:3,4)、変わらない花婿の愛である。堅い食べ物であっても良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与え、みことばの食事をふるまい、霊の子供を産む花嫁。

 「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 6:7)これも、4章3節で花婿が語ったことばである。へりくだった愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、この愛で結ばれた完全といえる知識と口であった。この6章の賛辞では、4章の賛辞と似通ってはいるが、目と髪と歯と頬にのみ、ふれている。花婿のことばは途中で変わったりしない、そして、その都度の必要を語られるのである。4章は、孤独の試練の中、花婿への愛に目覚めた花嫁への、婚礼の儀の後の賛辞であった。すべてへの賛辞、「素直でへりくだりの中の識別力のある目。花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさを表わす髪。成長し、みことばによって、霊の子を産み出す歯。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。へりくだった愛で結ばれた完全といえる知識と口。愛のために戦う備えができている意志、不要な戦いはせず、守りも万全であり、祈りの勇士たちに守られている首。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛を持つ乳房。」が述べられていた。6章で、ことばは減っていても、賛辞が減ったわけではない。試練を抜けた花嫁に対し、ここでは、へりくだり、従順、みことばの解釈の成長が特に上げられているのである。このことばで、変わらぬ花婿の愛を確認し、花嫁は平安に満たされたことだろう。

 「王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。」(雅歌 6:8)ソロモンは、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいた(Ⅰ列王 11:3)。そのことを言っているのだろうと解すると、ああ、聖書では、女性を何人囲ってもいいんだとなるし(そんなわけはない、夫婦は一体である。)、花嫁は女性問題に巻き込まれ悲惨であるし、花嫁の存在もかすんでしまうし、だいたい数が違っている。聖書の数は意味を持つため、何らかの意味がある。これは、霊で解釈しなければいけない。小羊の婚宴にはさまざまなグループがいるだろう。信じて救われた者は、キリストの花嫁になるのであるが、この箇所には、そばめや、おとめたちが存在している。雅歌は、天に挙げられてからのことを語っているわけではない。地上での花嫁の状態が述べられている。そう考えると、そばめというのは、救われて、結婚関係を味わったにもかかわらず、法的な妻ではない者のことである。しかし、花婿との関係で見るなら、それなりの位置にいるわけである。神のみこころと一つになった関係を持っても、信仰をなんとか保ちながら、脇にそれていきがちなクリスチャンや、信じていても、神の愛まっしぐらとはいかず、それなりに自分と神を区別しているクリスチャンは数多くいる。それが、そばめであり、結婚の年齢に達しない求道者、それがおとめたちということである。満ちた信仰の王妃(花嫁、妻)は、六十人、六十は、六(人を表わす数)×十(十全、欠けたところのない完全)である。そばめは、八十人、二×二×二(縦も横も高さも二(一致の数)×十(十全、欠けたところのない完全)で、神の一致をくずさなかった人(保っていた人)である。そして、数知れないおとめたち。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」(黙示録 6:9)

 「汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた。」(雅歌 6:9)多くの王妃、そばめ、おとめたちはいるが、花婿にとっての汚れなき鳩、花嫁はただひとりであり、えり抜きの女性なのである。キリストの花嫁がたったひとりであると言っているわけではない。これほど、かけがえがない存在であるということである。黙示録 21:2 に、信者たちの群れによって形成された新エルサレムなる教会が天からおりてくる情景が描かれている。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録 21:2)この花嫁のように整えられた信者の群れは、ひとつである。花嫁は、聖霊である母が愛するひとり子である。神のみことばによって、子供を産まれるのは、ご聖霊である。エルサレムの娘たちの目にも、もはや、花嫁の花婿への愛による服従ぶりは、非のうちどころがないくらいに、明らかであった。エルサレムの娘たちも王妃たちもそばめたちも、口々に、花嫁を幸いだと言ってほめた。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。エルサレムの娘たちや王妃、そばめたちの目に、花嫁が際立ち始め、時が経った。

 「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」(雅歌 6:10)暁(明け方)の光、闇を照らしていくこうごうしい光に覆われ、花嫁はいつしか自分では気づかないうちに、他の人々より高い位置に上げられて、見おろす形になっていた。月のようにほんわりとまわりを照らす美しさを持ち、太陽のように周りを明るく元気にするような他にはない輝きを放ち、旗を掲げた軍勢のように悪に立ち向かうための防御力も攻撃力も兼ね備えている花嫁。周囲の人たちは、今までそのような人に出会ったことはなく、「それは、どなたなの?」と問いかけている。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。再び、時が経った。

解放された花嫁の役割

 「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。」(雅歌 6:11)花婿に会えた花嫁は、くるみの木の庭へ下って行った。「くるみ」には、「与える、分ける、分かち合う」という意味があるそうだ。くるみを割ると実が入っている部屋が分かれているのがわかる。苦しみから解放された花嫁は、へりくだって、他の人たちに、花婿から来る恵みを進んで分かち合うために、くるみの木の庭へ下っていったのである。分かち合う心にもいろいろあるが、花嫁は、自分があがめられるために上っていったのではなく、へりくだった思いから下っていったのである。ヘブル原語の「谷」は、「流れ,ワジ,川,渓谷,急流,激流」である。激しい流れのほとりに、または、低く険しい渓谷に新しいいのちは芽吹いていないか、将来実をつけそうなぶどうの木が芽を出してはいないか、愛のざくろの花は咲いているかを見ようと、花嫁は下っていった。ただ、ああ芽が出たなとぼんやりながめて見ているだけのためではない。花婿の愛を分かち合い、芽吹いたばかりの幼い芽を、励ますためにである。

 「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)花嫁自身、知らないうちに、花嫁は、民の中でも高貴な人の(戦)車に乗せられていた。ヘブル原語の「アンミー・ナーディーブ<民の高貴な人>」であるが、New King James Version Bible(英国欽定訳)などは、これを固有名詞アミナダブとして訳し、口語訳や米標準訳などは、ヘブル原語の「アンミー<わが民>」をヘブル原語の「イム<そばに>」と読み、「わが君のかたわらに(わが高貴な人のそばに)」と訳している。この節は、雅歌の中でも破損によって、読解が難解な箇所であるそうだ。いずれにしても、花嫁は、高く上げられたということである。

 「帰れ。帰れ。シュラムの女よ。帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。」(雅歌 6:13)エルサレムの娘たちは、花嫁の美しさに魅せられ、もっと見たいと興奮する。「シュラムの女」については、聖書にこの節の二回だけ出てくる語であり、平和、平安の君という意味のソロモンの女性形であり、平和、平安の姫ということである(ソロモン、シュラムは、シャローム<平和、平安>の派生語である)。エルサレムの娘たちは、花嫁を、平和の姫と呼んだのである。マザーテレサはノーベル平和賞を受賞したが、キリストの花嫁は平和を作る者でもある。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。」(雅歌 6:13)帰れ、帰れと熱望するエルサレムの娘たちに、どうしてあなたがたは、シュラムの女を見たいのかと、花婿は尋ねる。「二つの陣営の舞のように。」何のこっちゃ???と、よくわからない表現がなされている。欄外を見ると、「マハナイムの舞」となっている。マハナイム、創世記 32:2に出てくる「二つの、一対の陣営」のことである。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。ヤコブは彼らを見たとき、『ここは神の陣営だ。』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」(創世記 32:1,2)ヤコブが、故郷のカナンに帰るときの出来事である。「神の陣営」とは「神のキャンプ、または軍勢」であり、宿営している軍隊のことである。この後、ヤコブは、この神の二つの(一対の)陣営に倣ったのか、兄エサウを恐れ、自分の宿営を、守るために二つの宿営に分けた。み使いを見た神への聖なる恐れ(創世記 32:1)、エサウへの恐れ(創世記 32:7)、神の救いへの訴え(創世記 32:11)、これらをこの二つの宿営に託した。この舞である。花嫁と自分たちの違いを目の当たりにし、エルサレムの娘たちの心には、神への恐れが出てきたのである。また、花嫁を揺り起こし、かきたてたりしていたエルサレムの娘たちは(そういうことをしていなかったら、花嫁が、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5)と二度までも誓わせるようなことはしなかったであろう。)、花嫁への恐れも出てきた。そして、神への飢え渇き、救いを訴えたくなったのである。そういう思いを引き出し、明確化なされる花婿のことばである。

 ここで、私たちは、幼い魂の世話をする花嫁の姿、また、なまぬるい信仰を目覚めさせる役割をもつ花嫁の姿が見て取れた。花嫁自身は、何も意識していない。ただ、喜びの中、行きたい所(くるみの木の庭)へ行き、存在していただけである。その存在自体が、他への信仰覚醒の役割をなしたのである。

 雅歌は、あと2章を残すのみとなったが、花嫁はどのような成長を遂げていくのか、楽しみである。

落ち穂の会提供

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2015年4月12日 (日)

『キリストの花嫁 7』雅歌 5:10-6:3

『ゆりの花の間で-へりくだり-』雅歌 5:10-6:3(新改訳聖書使用)

万人よりすぐれている花婿

 前回の雅歌5章9節まででは、再び花婿が去り、エルサレムの娘たちに愛に病んでいると伝えてくれるよう誓いを願う花嫁に、花婿の何がほかの愛人よりすぐれているのかとエルサレムの娘たちが尋ねたところまでを見てきた。9節で2度繰り返されている「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」「ほかの愛人」(雅歌 5:9)とあるが、花嫁に愛する人が数人いて、「花婿以外の愛人」がいるということではなくて、「他の人の愛する人」という意味で、他の人が愛する人を愛する愛にまさる花嫁の強い愛を見て、他の人の愛する人より花婿の一体何がすぐれているのかと尋ねているのである(ややこしくなりましたが…)。エルサレムの娘たちは、花嫁が花婿について、こんなにも心動かされ、他の何も手につかないほど心が占められ、はらはら動揺し、興奮している理由がわからなかったのである。花嫁の愛する方は他の愛する人より何がすぐれているのか、このように尋ねられた花嫁は、花婿について語る。「私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、」(雅歌 5:10)「わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人にぬきんで、」<口語訳>“My beloved is white and ruddy(血色のよい),Chief among ten thousand.”<New King James Version Bible(英国欽定訳)>まず、花婿の色、全体像について語る花嫁。白く輝いて、かつ赤いとはどういうことか。「主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(詩篇 18:13)主なる神は、雹、氷の粒の冷たい厳しさ=聖なる義と赤く燃え盛る火の炎の激しく熱い愛を合わせ持つ特別な輝きを放っておられる、万人よりも比較にならないほどにすぐれた特別な、王の王、主の主なるお方である。

 「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く、」(雅歌 5:11)花嫁は、花婿の頭から足までの身丈について述べる。頭(かしら、head、上部、top)は神の性質を現す純金であった。「なつめやしの枝」は、高いなつめやしの木の上のほうで、枝が垂れているように、髪の毛がふさふさとうねっていることを表現している。その髪は、烏(カラス)のように黒い。烏(カラス)は、腐敗物の掃除をする鳥(とり)である。罪なる腐敗した性質を取り除くために、イエスはこの世に来られ、十字架にかかってくださったのである。神性の純金の頭を覆っているのは、烏(カラス)のような黒い髪であった。神性の純金の頭に至りたいと思うなら、この黒髪をかきわけなければいけない。神であられるのに、赤子の姿をとって烏(カラス)となられたへりくだりのイエスさまの前に、へりくだりをもってひざまずき、黒髪をかき分けなければ(十字架のイエスを通らなければ)、神を知ることは不可能である。烏(カラス)のような黒髪で覆われているのだから・・・。

 烏(カラス)といえば、ケリテ川のほとりに身を隠したエリヤに、朝と夕にパンと肉を運んだ烏(カラス)が思い浮かぶ(Ⅰ列王 17:6)。烏(カラス)は、律法では忌むべきものとして、汚れた生き物となっている。「また、鳥(とり)のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、・・・、烏(カラス)の類全部、・・・」(レビ 11:13,15)その汚れた生き物から肉とパンをもらうのは、エリヤにとってへりくだりの信仰を要することであった。エリヤは、神のみこころの前にへりくだったのである。このへりくだりの学びの後、今度はやもめの家の粉と油がエリヤを養った。当時のやもめというのは身分が低かったが、この神の預言者は、王の食卓からではなく、やもめ女の粉と油で養われたのである(Ⅰ列王 17:16)。この後、エリヤは、えにしだの木の下で天使が運んだパンによって養われた(Ⅰ列王 19:6)。死を願っていたエリヤは、この天使のパンに力づけられ、四十日四十夜かけて、ホレブ山へ行ったのである。へりくだったエリヤを神が高めてくださったのである。

 雅歌に戻る。「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)目、白目は乳で洗われたように真っ白で、汚れがない。また、その目は活動を終えて、水の流れのほとりに休んでじっとしている鳩のようであるという。「休み」は、口語訳では「落ち着いている」で、指輪の台座にしっくりとはめ込まれた宝石のようによくおさまっている様子を言っている。「池」は十分、充満の意味がある。十分に水をたたえた池のほとりで、休んでいる鳩。その目は、攻撃的ではなく、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目である。

 頭、髪、目と下ってきて、次は頬とくちびるである。「その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。」(雅歌 5:13)雅歌1章10節で、頬は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は意志に関係すると述べた。意志を表わしている頬、この頬が、良いかおりを放つ香料の花壇のようだと言っている。花婿の愛情にあふれた頬(意志)は、人の心をこの良いかおりに惹きつけて、彼自身を慕い求めて、切望させる香料の花壇のようなものなのである。またくちびるは、へりくだりの没薬の液をしたたらせるやはりへりくだりのゆりの花に例えられている。彼のくちびるは、没薬とゆりという二重のへりくだりによって表わされているように、自己主張などの傲慢さは微塵も見られず、ただ父なる神を証しているくちびるである。

 次は、腕とからだの描写である。「その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。」(雅歌 5:14)「タルシシュの宝石」は、緑柱石である(出エジプト 28:20、39:13など緑柱石と訳されている原語はこの箇所と同じ語「タルシシュ」である)。その原語には、精錬する、裁く、テストする、試みる、調査するという意味がある。腕は、神聖な手、金(神性)の棒(円筒、杖)。まことに、主のみ腕は、私たちを支える杖である。また、このみ腕は、陶器師の腕である。土の器を壊し、練り直され、尊い器へと変えて下さる腕である。ときには、悩みの炉にて試みにあわせ、純化してくださる腕である。緑柱石がはめ込まれているとは、精錬し、試みる腕であるということである。自分の手をダイヤモンドなどの宝石で飾った王は、他にも多くいるが、このような力強い金の棒の腕は他にはない。「からだ」はヘブル原語では「腹、内臓、はらわた、内部の器官、腸」であり、花婿の最も内なる部分を示す。サファイヤは階段(上昇)を表わす。象牙は、攻撃力と守備力を表わす。ある本によると、ヘブル原語の「象牙」には、歯のように鋭い、最前列、繰り返し教え込む、説き伏せる、研ぐという意味もあるそうだ。花婿の最も内側の部分は、刺し通したり、説き伏せたり、教え込んで、引き上げ、徳を高める強さをもった象牙の、破壊的強さではなく、美しい細工でできていたのである。

 次は、足である。「その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌 5:15)花婿の足は、純金の台座に据えられた、強くて堂々とした大理石の柱のようであった。大理石とは、固く頑丈な不動の物資である。純金、神性という土台の上にまっすぐにそびえ立っている柱、上、神に向かってまっすぐに立っている不動な柱である。この足は、神のみこころからそれない歩みをなしているのである。次に花婿の全体の容貌を述べる花嫁。容貌はレバノンのようにきよさ、清潔さを全体にたたえている。また高さ、強さにまさる杉のようにまっすぐに荘厳さを持っていてすばらしい。

 最後に花嫁は、最も親密な花婿の口について述べる。ことばなる主イエスの中核である。「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌 5:16)「ことば」ヘブル原語の「口、上あご、味、歯ぐき」である。彼の口、ことばは、甘く私たちをうっとりと酔わせ、また、いのちを与えるぶどう酒である。証し終えた花嫁は、「あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」と締めくくった。

 嘲笑と聞いてみたいという思いとが入り混じっていたかのように、「何がすぐれているのですか。」と言っていたエルサレムの娘たちは、この花婿への証を聞いて、心を打たれた。「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。」(雅歌6:1)と捜索の協力を申し出たのである。花嫁の証を通し、花婿の圧倒的な愛を知ったエルサレムの娘たちは、自分たちも花婿を知りたいと思ったのである。人間の夫婦の描写だとしたら、花婿の愛を勝ち取ろうとライバルの炎がメラメラと燃え上がるようなとんでもない話となっていくところであるが、これは、霊においての話である。今やエルサレムの娘たちの内に、花婿を知りたいという飢え渇きが与えられた。居場所を一番知っているのは、花嫁であることにも、エルサレムの娘たちは気づいている。試練が激しく、イエスの愛が見えなくなり、私たちは、ときどき、花婿がいなくなってしまったように感じることがある。しかし、他の人々に証を始めるとすぐに、そう遠くに行っていないことに気がつく。

 「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集めるために。」(雅歌 6:2)「あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。」というエルサレムの娘たちのことばに、花嫁は答える。先ほどは、自分も花婿の居場所がわからずに、捜しまわっていたのだが、花婿を語るうちに、花婿の居場所が見えてきたのである。同時に、自分にへりくだりがなかったことに気づかされた花嫁、「私の愛する方は、自分の庭、(良いかおりに満ちた)香料の花壇へ下って行かれました。主のみこころに不平不満をもって答える私を置いて、私がみこころを悟るように、自分にふさわしい庭に下って行かれたのです。庭の中で群れを飼い、(へりくだりの)ゆりの花を集めるために。」

 「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 6:3)花嫁は、花婿の居場所をはっきりと確信したのである。同時に、自分にへりくだりがなかったために、花婿と離れ離れになったことも気づいた花嫁。砕かれた花嫁は、婚約期間から成長したことがわかる。婚約中は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 2:16)と言っていたのである。順序が変わった。まず、私は私の愛する方のもの、が先立つ。これが、自分のためでもあり、こうすることが、私の愛する方は私のものと、主のものを共有することのできる道であることを、自己主張を捨て、へりくだりを学んだのである。以前も、花婿がゆりの花の間で群れを飼っていることは知っていた。しかし、ことば上で知っていたにすぎなかった。花嫁は、この後、二度、花婿の居場所を懸命に捜しているのである。今や体験的に、ゆりの花、へりくだることを学んだ花嫁は、はっきりと知ったのであった。

 花婿が望んだ位置にまできた花嫁に、花婿は優しく語りかける。エルサレムの娘たちの前で・・・。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)主は、このように、証を確かなものとするために、力と栄光をもって、現われてくださるお方である。主のみ前でへりくだる花嫁を、主ご自身が高く上げてくださるのである。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ 4:10)とヤコブが言うとおりである。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)と後に花嫁は、高くされた。花嫁となったために、兄弟からしいたげられ、行き場を失い、群れのかたわらで、子やぎを飼うように命じられた花嫁。その待遇が気に入らず、不平不満をもって、花婿に接していた花嫁であった。花婿が離れるという二度の経験が彼女をへりくだらせ、自我が砕かれた。夜回りたちに打ち傷つけられても、私は愛に病んでいると伝えてくださいというのが、精一杯の花嫁を、花婿は高く上げてくださったのである。誤解され、一時的にみじめな状態に置かれても、へりくだることを学ぶなら、主ご自身が高くしてくださるのである。へりくだることを学ぶとは、苦難をじっと状況が変わるのをただ待つということではない。花嫁にとってのへりくだりを学ぶということは、殻から出て、プライドを捨てて、花婿を捜しに出たことであった。花嫁やエリヤが特別高慢だったから、へりくだりを学ばなければいけなかったのではない。むしろ、他の人よりも、へりくだっていたといえる。人類に罪が入ったアダム以来、人間の従来もつ性質が、神のへりくだりに反するのであり、神に近づけば近づくほど、その性質を変えられる必要が出てくるのである。神から遠ければ、自己中心的な自我をもっていようが、神も気づくまで、そのまま素通りしてくださるだろうが・・・。次回は、この花婿のことば、6章4節からを見ていく。

落ち穂の会提供

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2015年4月 5日 (日)

『キリストの花嫁 6』雅歌 5:1-9

 前回、花婿は花嫁を、気高く危険なきよめ、契約、引きこもりの山々であるレバノン、アマナ、セニル、ヘルモンから降りて、安全で平和なへりくだりの没薬の山、信仰の乳香の丘へ招いていた。花嫁がどんなにうるわしく、最上の実を産み出すかを述べた花婿に応え、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」とそれらの風が花嫁の産み出したよいかおりを漂わせてくれ、花婿が、庭で最上の実を食べることを願った花嫁であった。北風はきよめ、南風は成長といのちの象徴であった。

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『愛の病-へりくだりの学び―』雅歌 5:1-9(新改訳聖書使用)

交わりを喜ばれる花婿

 「私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。」(雅歌 5:1)“my garden, my myrrh, my spice, my honeycomb, my honey, my wine, my milk” <New King James Version Bible(英国欽定訳)> 私の庭、私の没薬、私の香料、私の蜜の巣、私の蜂蜜、私のぶどう酒、私の乳、私の、私の・・・、花嫁の閉じられた庭は、花婿の所有であった。花婿がそれを設け、木々を植え、育て、水をやったものであった。花嫁が自分で守ろうと固く閉ざしていなくとも、花婿が守りの垣を設けて、守ってくださるものであった。花婿の庭といっても、「私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)と花嫁が開放してこそ、入れる庭であった。花婿は、花嫁の心に形成された庭に入り、まず、へりくだりの没薬と他のさまざまなよい香りの香料を集められる。何よりもへりくだりを重視される花婿。庭で、花婿は、蜜がたくさん蓄えられている蜜の巣(蜜の巣からは蜜蝋が取れ、神殿をともす光ともなっていた。)と蜜(蜜はみことばで、みことばは光である。)を食べ、すなわち、みことばによる豊かな交わりをし、ぶどう酒と乳を楽しまれる。イエスの血潮、贖いによる交わり、みことばの養いといった主にある交わりを楽しまれるのである。「友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。」(雅歌 5:1)友や愛する人たちに、共に花嫁との関係を祝うように花婿は言う。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。庭で、友と交わりを楽しむ花婿。愛に病みつつも、もてなそうとする花嫁。時が経った。

 「私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。」(雅歌 5:2)花嫁のことばである。花嫁は、「眠っていたが、心は目覚めていた」とある。「心がさめていた」の原語は、「目覚める、覚醒する、奮い立つ」という語であって、冷えているということではない。心は、花婿への思い、愛でいっぱいであったのだが、行動、実行するような元気のない状態である。以前、2章では、花嫁が作った壁の外で呼びかけていた花婿が描かれていたが、今度は、壁ではなく、戸をたたき呼びかけている。きちんと出入り口がある花婿が設けた守りの囲いの戸である。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。」(雅歌 5:2)と呼びかける花婿。汚れのない従順な鳩と・・・。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」(雅歌 5:2)聖書で、露は、天からの恵み、主の教えとして描かれる。出エジプト時、天からのマナは露とともに降った。「夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」(民数記 11:9)「天の賜物の露」(申命記 33:13)モーセは死ぬ前に、民に言った。「私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。」(申命記 32:2)花婿は、教えやことばを分かち合おうとたくさん携えて、眠っている状態の花嫁のもとへ、やってきたのである。花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」このように言いながら、戸をたたいている。

心を閉ざす花嫁

 「私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。」(雅歌 5:3)心は愛でいっぱいである花嫁は、花婿の戸をたたく音に反応はするのだが、起きて戸を開けるのをいやがっている。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉(雅歌 4:12)であった花嫁は、花婿の客や友人たちに、庭を開くことをいやがっていたのだが、今度は、花婿のためにも戸を自ら開けるのをいやがっていたのである。私たちが、自分の心、自分の庭の戸を主のみこころに従って他の人々に仕えることから逃げるとき、神に対して、花婿なるキリストの個人的な訪れに対してさえも、戸を閉ざしていくことになっていくのである。この花嫁の言い訳は、どうとでもなる言い訳である。着物はまた着ればよいのだし、足も再び洗えばよいのである。「どうしてまた」の原語は、強いことば、間投詞「どうしてまた、ああ!」が使われている。着物、「わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。」(エゼキエル 16:10)神である主が、花婿なる女性に着せた義の着物である。義を行なうことに疲れているのか、着物をぬいでいる。また、世を歩いて汚れがついてしまった足も、洗ってきれいになっているのである。母の子らにしいたげられた痛みによる花嫁の心は、もとのようないちずな純粋さはなかなか戻らない。花婿の携えてきた尊く優しい露、しずくを分かち合うには、花嫁側に、それを受け取る意志と力が必要なのである。

 「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。」(雅歌 5:4)応答のない花嫁に、花婿は、手を戸の穴に差し入れた。手は「強さ、権力」という意味もある。この庭の所有権は、花婿にあり、花婿はかしらでもある。花嫁は、花婿のこの行動によって動かされ、起き上がった。初めから起きていれば、次にくるような遠回りの苦しみを通らなくてもすむものを、つまらない意地で、花嫁は、再び花婿を見失い、苦しみにあうことになる。

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

花嫁の覚醒

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

 「私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。」(雅歌 5:6)花嫁が、戸を開け、ふたりは抱き合ってめでたしめでたし・・・、となればよいのだが、そうはならなかった。花婿は、背を向けて去って行ったのである。戸を開けてくれることをあきらめたのではない。花婿が開けようと思えば、開けられた戸である。戒めのためでもない。見限って捨てたわけでもない。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13:5)と言われ、愛である性質の花婿の愛は変わらないはずである。とすれば、背を向けて去った行為も花嫁への愛によるものである。このままめでたし、めでたしとなったところで、今のままの花嫁では、このことを繰り返す。これを許すことは、花嫁のためにもならず、愛ではない。人に仕え、人を教え、救いに導く働きをなすように願われている花嫁なのである。花嫁には、そのように成長してほしい。花婿は、花婿の客のためなら、洗ったばかりであっても、矯正されてではなく、喜んで足を汚し、喜んで起きるようになることを花嫁に望んでおられたのである。花嫁の悪い態度は、改められなければ、花嫁の成長はなく、花婿も近づけないのである。「母の子らが私に向かっていきりたった(雅歌 1:6)から、私は愛に病んでいる(雅歌 2:5)。だから、私はこの囲まれた守りの中で、何もせずに、ただ花婿であるあなたを愛し続ける。」ではいけないのである。花嫁は、敵をも愛し、敵にも仕えることを学ぶ必要があった。戸を開けなかったのを悔いるだけでは、不十分であり、更なる愛、犠牲を払っても愛する至高の愛を学ぶ必要があったのである。今までの花嫁も、多少の犠牲愛は持っていただろう。しかし、自分がの傷つかない、害になるほどの損害を受けない程度の犠牲であった。犠牲がひどくなると、文句が出る程度の犠牲であった。母の子らにぶどう畑の見張りをさせられると、立てなくなる程度のものであった。主の言われる愛は、敵を愛し、その敵のためにいのちを捨てるほどの愛である。いのちを捨てるという場面に遭遇したこともなかった花嫁にとっては、この愛の差もあまりわかってはいなかったのではないか。「私は、花婿のために、孤独なのよ(花婿のせいで、孤独なのよ)・・・。少しくらい甘えたっていいじゃない。」花嫁であろうが、苦しみが続くと、こうなっていくのが、完全ではない人間の姿である。花婿は、花嫁に、そのことを学んでほしかったのである。「あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」(雅歌 5:6)3章で、花嫁は、自分の作った壁のため、いなくなった花婿を捜したことがあった。同じように、花婿を捜しに行く花嫁。あのときは、花婿は、そば近くで、見守っていてくれたようだ。今度も呼べば出てきてくれるかも・・・。花嫁は呼んでみる。しかし、応えはなかった。中に入れなかったために、いなくなったという状況は同じでも、前の時と同じやり方では通用しないのが信仰の世界。その時々で、取り扱いは違う。すでに学んだ同じことを学ぶ必要はない。

 「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」(雅歌 5:7)3章と同じである(雅歌3:3)。しかし、今度は、「彼らは私を打ち、傷つけました。」(雅歌 5:7)とある。以前、夜回りたちは、花婿を見つけることができなかった。というか、見つけてあげる気もなかったのかもしれない。3章には、その辺のことは省いてあり、何も書かれていない。花嫁は、夜回りたちに、「花婿を見ませんでしたか。」と尋ねて、その後、さっさとすぐに、しかも夜回りたちを通り過ぎてすぐに(夜回りたちの目前であったかもしれない)、自分で、花婿を見つけて、婚礼の儀をしているのである。町の巡回者としてのプライド、町のことは自分たちがよく知っているというプライドはずたずたである。しかし、3章で、花嫁といっしょに探すこともできた彼らが、花婿の捜索の手助けをしなかったのは、そのことを仕事にしているだけに、十分に職務怠慢なことであった。巡回者が捜索の協力をしないということだけでも、十分な悪であるのだが、今度は、「またか、うるさい奴だ。」と花嫁を打ち、傷つけ、花婿捜しの妨害さえしたのである。「彼らは私を打ち、傷つけました。」の「打つ」のヘブル原語は、「強く打つ、殺す、なぐる、追い出す」という意味がある。「傷つけられる」のヘブル原語は、「身が裂かれる」という意味がある。夜回りたちは、今度は、前回と違い、花嫁に尋ねられたわけでもなく(前回の経験からか、力にならないとわかっていてか、花嫁は、尋ねていない)、自分たちから、花嫁を見つけ、近寄り、怒り、憎み、打ちたたき、身を裂くほどに傷つけ、追い出したのである。「城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」(雅歌 5:7)「城壁を守る者たち」は、「町を行き巡る夜回りたち」と同じように、群れの城壁を見張る者、つまり宗教的な指導者、監督たちといったところであろうか。この者たちの中に、キリストの愛に基づいていない人がいて、彼らは、花嫁のかぶり物をはぎ取ったのである。花嫁のかぶり物とは、「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)とあるように、救いのかぶとである。もちろん、実際に救いをはぎ取られて、なくなったというわけではない。そのようなことは、人にはできない。ヘブル原語の「打つ」に「追い出す」という意味があることにふれたが、除名のような状態によって「贖われた者、救われた者」としての自尊心をはぎ取ったということである。花嫁は、このような苦しみを通らされ、徹底的にへりくだらされたのである。

花嫁の成長

 「エルサレムの娘たち。誓ってください。」(雅歌 5:8)前2回、花嫁が、エルサレムの娘たちに誓わせた誓いは、「エルサレムの娘たち。私は、・・・あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7,3:5)であった。今度は、「誓ってください。」と言っている。へりくだらされた花嫁のことばである。「あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌 5:8)「私は、花婿に愛されているのよ。」というにおいをぷんぷんさせていた花嫁が(愛されているのは真実だろうが、他人にとってはいやみかもしれない)、「愛を求めている、と伝えてほしい。」とエルサレムの娘たちに頼んでいるのである。花嫁は、自分よりも立場の低い人々に、自分のためのとりなしを頼んでいるのである。「私は愛に病んでいます。すぐに開けるべきであった戸を開けませんでしたが、私はあなたを愛しています。私はこのような状態では生きていけない。喜んで足も汚します。喜んで仕えます。私は、あなたがいないと生きていけません。」花嫁にとっては、夜回りたちからの悪よりも、花婿がいなくなったことのほうが苦しいことであった。自分も決して正しい者ではない。自分も、花婿を中に入れないで(閉め出して)いたのだ。夜回りのしたことを主張するよりも、花嫁の目には、愛しか、目にはいらなくなっていた。自分のなしたことのすべての責任をとれる人間はいない。ただ主の愛にすがるだけである。愛から出るうそは、愛のない本当のことよりもまさるのである。愛に目覚め、正しくないことをした兄弟たちを訴えていた花嫁は、実感したことだろう。姦淫罪で連れてこられた女性に、イエスさまは、「罪を犯したことのない者から、石を投げよ。」と言われた(ルカ 8:7)。年取った者から順に、その場を離れ、だれもいなくなった、とある(ルカ 8:9)。これは、罪を責められた者が、正当防衛するために使うみことばではない。罪を責めてはいけないという教えでもなく(裁いてはいけないが)、罪よりも愛が大事だという教えである。ここでのイエスさまは、うそをついてかばったわけではないが、この女性が姦淫罪を犯していたことは事実である。姦淫罪を犯したという罪の事実よりも愛が大きいのである。

 「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(雅歌 5:9)エルサレムの娘たちの答えである。彼女たちは、信じ、救いを得ている信者であったが、花婿の何がそんなにすぐれているのかを、悟ってはいなかった。エルサレムの娘たちは、花嫁が、女の中でも最も美しいこと、自分たちが持っていない何かを持っていることを見て、「女の中で最も美しい人よ。」と敬意を払っているのである。キリストの花嫁は、ご自身の妻を、ご自身の目だけではなく、エルサレムの娘たちの目にも、本当に美しい者として、整えてくださるのである。しかし、エルサレムの娘たちは、花婿のすぐれていること、王の王、主の主であることをほとんど知らなかった。「花嫁のような美しい女性には、あなたの愛する方の代わりなんて、いくらでもいるでしょうに。なぜ、そんなに、悲しくつらいのですか?」エルサレムの娘たちにとっては、花嫁の花婿への熱心さが不思議に映っている。これほど美しい人が、たったひとりの花婿しか、しかも見栄えの悪いような(「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ 53:2,3)と、十字架で死なれたお方である)花婿しか求めないとは、そこには、何か隠されたものがあるのに違いない。ひどい目にあったにもかかわらず、そのこともどうでもよくなるくらいに、愛の病にかかり、熱心にたったひとりの花婿の愛を求める花嫁の姿に、人々は、やがて、詰め掛けるようになる。それほどまでに愛される花婿とは、どのような人なのかと、花嫁を見て、知りたくなってくるのである。

 花嫁にとって、すべては、益になるのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)

 苦難にあったら、次の3つのことによって、後がぜんぜん違うものとなる。① 苦難をどうするか、どう乗り越えるか。② どのような幻、ビジョンを描くか。③ 誰と働くか。例えば、花嫁の苦難の場合、どうすれば、ベストであるか。  ① 孤独という苦難を妥協せず、花婿にたよりきってのりきる。② 花婿とともに働き、遂には、兄弟たちも一致へ。③ 花婿を愛する人々(花婿の愛について知りたいと聞きにくる人々)

 祝福を祈ります。

落ち穂の会提供

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