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2015年3月

2015年3月30日 (月)

『キリストの花嫁 5』雅歌 4:8-16

 前回は、婚礼の様子と花嫁の美しさを見てきた。成長した花嫁は、すべてが美しく汚れがなかった。7節の後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿が、没薬の山、乳香の丘へ行って、場面は変わる。続きを見よう。

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『北風と南風-きよめといのちの恵み―』雅歌 4:8-16(新改訳聖書使用)

花婿の招き

 「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。」(雅歌 4:8)花婿は、花嫁を招く。遠いところに先へ先へと行って待たれるのではなく、「私といっしょに」とともに歩んでくださるのである。レバノンは、ヘブル原語のlbn「白」の派生語であり、レバノン杉と同様、きよめの象徴である。自我が砕かれきよめられた花嫁は、そこから主とともに歩み出すことを求められている。アマナは、レバノン山脈の東方側(アンティ・レバノン山脈)の峰の一つで、ヘブル原語の「堅い契約、職務、建てること、支えること、忠実であること」を意味することばである。結婚の契約を通して、子孫を建て上げる豊かな実りの契約ということである。セニルは、ヘルモン山の呼称であり、とがったとか、頂上という意味がある。アマナとセニルとヘルモンは、ヘルモン山の3つある頂の名である。ヘルモンは、霧で有名であり、ヘブル原語の「引きこもる」という意味がある。ヘルモン山からの霧は周りの地域を潤し、豊かな実りによる祝福を産み出した。「没薬の山、乳香の丘」(雅歌 4:6)と更なるへりくだりと信仰の高みに行くには、今いる山を降りて越えてこなければ、頂にとどまっている限りにおいては、行くことができないのである。きよめのレバノン山脈を越え、高くそびえるセニルの頂を越え、霧のヘルモンの頂を越え、安全で平和なへりくだりの山への招きである。レバノン、アマナ、セニル、ヘルモンにいる花嫁は、常に危険を伴っていたのである。そこは、ライオンやひょうが棲息し、洞窟があるところであった。常に戦いを意識している必要があった。そこを越え、「没薬の山、乳香の丘に行こう。」と花婿は言われる。

 「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。」(雅歌 4:9)花婿は、「私の妹」と花嫁を呼んでいる。確かに、キリストは、私たちの初穂であり兄であるお方である。イエスの心を奪うもの、引きつけてやませないものとは何か? 花嫁のただ一度のまなざしと、花嫁の首飾りのただ一つの宝石で、とある。花嫁の見た花嫁の目は、顔おおいのうしろで鳩のよう、つまり、素直で、識別力にたけ、しかもへりくだりの中の目であった(雅歌 4:1)。花嫁の首飾りの宝石は、宝石の首飾りは、“chains of gold”「金の鎖」であり、金は神性、鎖はつながれるということから、主に明け渡された意志であった(雅歌1:10)主をとりこにしたのは、花嫁の素直で賢くへりくだったただ一度のまなざしと、主に明け渡されたただひとつの意志であった。これらは、花婿の御前に尊く、価値あるものである。

 「私の妹、花嫁よ。」(雅歌 4:10)と念を押すかのように、もう一度呼びかけられる。「あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(雅歌 4:10)ことを雅歌の初めに、花嫁が花婿の愛について言っている。「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。・・・。私を引き寄せてください。」(雅歌1:2-4)花嫁が、花婿を愛した初めの愛を、花嫁に思い起こさせることばである。当初の花嫁には、狂おしいほどの花婿への愛への飢え渇きがあった。孤独の試練を経、傷ついた花嫁が忘れてきた思いである。花婿の姿が見えなくなって、回復した思いであったが、完全な回復ではなかった。「あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、」十字架の贖いよりも快い、成長した愛、花嫁の愛もまた、十字架の購いでとどまってはいず、成長していたのである。「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来た花嫁。その香料は、調合され、バランスがとれた一致のあるかおりであった。その一致のあるかおりは、どんな他の香料よりまさるものであった。

 花婿は続ける。「花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)罪深さを熟知し、簡単に切れて毒づいたりしない花嫁の紅の糸のようなくちびるは、蜂蜜をしたたらせていた。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(詩篇 119:103)みことばを十分に蓄え、くちびるからしたたり落ちるように、自然にみことばがこぼれ落ちるくちびる、こぼれてもこぼれても、蓄えた蜜と乳はなくならず、舌の裏(ヘブル原語は「下」)に蓄えられているくちびる。花嫁は、蜜のように甘いみことば、乳のように赤子にも吸収できるように処理されたみことばを蓄えているのだ。「あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)花嫁が着ている着物は、レバノンのかおりのよう、つまり、雪よりも白くきよめられた義の衣である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。美しい花嫁のようすが語られた。

 「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(雅歌 4:12)初穂なるイエスさまの妹は、イエスさまの歩まれた十字架の苦難の道の後に続く者でもある。花嫁は、この苦難の試練を通り、心を閉ざしてしまう経験をしていた。人が集えるように整えられた庭、園のような広い心を持っていた。いのちの源であるみことばを流す源泉であった。そして、生ける水が湧き出す泉でもあった。いのちの躍動が見られる生き生きとした花嫁であり、人にもそれが伝えられた。それが今、汚れから守るために、純潔を保つために、庭は誰も立ち入らないように閉ざされてしまい、源、源泉はいのちを流さないように閉ざされてしまい、泉も外に流れないように封じ込められてしまっている。開けば、封印を解けば、ふたたびいのちがあふれるのであるが・・・。

 花嫁から、どんなものが産み出されるか。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:13-15)この箇所は、花嫁の産み出すものとして、ガラテヤ 5:22,23の御霊の実と対比させ、これまでも述べてきた。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)

 ①最上の実をみのらすざくろの園 ざくろは愛である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい。そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあることを先週も述べた。愛ほど、ねたみと憎しみを取り去ることのできるものはない。中東の熱くて乾燥した地域では、果汁が多く、すっぱいざくろの果実は、心をも潤したようだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。多くの愛の種を宿し、人々を潤すざくろ、花嫁は、ざくろの中でも最上の実をみのらせるざくろを産み出すことができ、しかもそれは、果樹園を形成するほどのものなのである。

 ② ヘンナ樹 ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花を付け、非常によいかおりがする花をもつ。化粧やしみを隠すため、また香水にも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。喜びは人を美しくする化粧品である。またよいかおりをただよわせる香水でもある。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10, 欄外) というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。

 ③ナルド ナルドは、おみなえし科の宿根草である。ナルドは、平安、平和に当たる。ベタニヤのマリヤが十字架を目前にしたイエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油を塗った。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになったとある(ヨハネ 12:3) 。ナルドの香料は最もかおりの長持ちする成分を構成するものとして有名であったと言われている。強い香りゆえに、続くピラトの裁判の法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで香ったことであろう。平安、平和をもたらした主の十字架のかおりである。ナルドはまた、ローマや中東で、精神安定剤としても用いられた。神の平安は一番の精神安定剤である。13節の終わりと14節の初めに、この平安の象徴ナルドが計2回述べられている。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30) と主イエスは言われた。イエスのもとに来たときに得る平安、その平安からくるたましいの安らぎ、憩い、平和。平安はこの2面がある。

 ④ サフラン 寛容、忍耐(ヘブル語の訳)に当たる。聖書には、「怒るのにおそく、恵み豊かな神」(民数 14:18)とあるが、寛容は忍耐を伴い、忍耐は寛容を伴う。めしべの柱頭が料理の風味と色(あざやかな黄色、パエリアなど)をつけるのによく用いられるが、サフランは、クロッカスによく似たあやめ科の球根植物である。複雑な薬の成分の一つにも使われ、ヒステリーの鎮静剤として用いられた。サフランの色を変える力、着色力は、多くのものの色を変える忍耐の力についての描写のようである。たとえば、ヒステリーを起こし、周囲を真っ黒に染め上げている状況下で、だれかがこの忍耐と寛容のサフラン(鎮静剤)を用いるなら、次第にヒステリーはおさまり、周囲を麗しい色に染め変えられるのである。

 ⑤ 菖蒲 親切、慈愛、善、やさしさに当たる。菖蒲は、葦のような多数の茎が集まった、切るとよいかおりがする芳香性の植物である。根茎の精油は、芳香性の健胃薬として、茎の甘い糖分は食用のシロップに、茎は音楽の演奏に用いられた。胃にやさしく、甘くやさしい、やさしく心地よい音楽・・・というところだろうか。

 ⑥ 肉桂 善意に当たる。シナモンといえばわかりやすいだろう。芳香性のある根の皮は、健胃薬になり、味や臭いの矯正薬(矯味、矯臭薬)、菓子として用いられた。まさに善意の薬である。

 ⑦ 乳香の取れるすべての木 乳香は誠実、信仰(ギリシヤ語ピスティスの訳)に当たる。乳香は、白くなるという意味の語源から来ている語である。乳香は苦味と酸味があり、きれいで安定してよいかおりのする炎を上げて長時間燃える。信仰の炎である。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。乳香はまた、薫蒸とばい菌や虫を殺すための薬として用いられた。私たちの霊を汚す菌を退治するのもまた、信仰の力である。

 ⑧ 没薬 柔和に当たる。没薬とは、ミルラという棘のある低木の樹脂を濃縮したものであり、古くから、通経薬、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。白や黄色の小さな丸薬で売られていて、強いよい匂いがあり、苦味がある薬である。麻酔薬としてよく用いられ、十字架上のイエスに、兵士たちは、没薬を混ぜた酸いぶどう酒を差し出したのは、麻酔薬としてであった。柔和、へりくだりを持つことは、麻酔薬の役割を果たす。他人が、どんなに心を傷つけるような痛いことを言ったとしても、この麻酔薬が効いているなら、大丈夫である。自分は言われて当然な罪ある者であるのだから。シムイにのろわれたダビデがそうであった。息子アブシャロムに王座を明け渡し、逃亡の身となったダビデをシムイはのろった。それに対するダビデは、「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(Ⅱサムエル 16:11,12)であった。信仰のへりくだりである。

 ⑨ アロエ 自制、節制、克己(欲望、衝動を押さえる)、寛大、に当たるやけどの特効薬、緩下剤など医者いらずの薬として用いられている。また、防腐剤としても用いられた。自制というものは、やけどを防ぎ、喜びや楽しみを持続させ、腐るのを防ぐ、医者いらずのアロエのようである。自制がきかないために、カード地獄など大やけどをした人はたくさんいる。これらの香料の中でも、花嫁の産み出す香料は、香料の最上のものすべてであった。ここまでが、御霊の対比に見る花嫁の産み出す実である。それ以外にあと3つ、産み出すものが描かれている。

 ① 庭の泉 庭園にいのちを与えるのは泉である。いのちの泉は、主を恐れることであると聖書は言っている。「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言 14:27)花嫁は、主を愛することだけでなく、主を恐れてもいた。

 ② 湧き水の井戸 生ける水の井戸(泉、穴)新鮮な生ける水が絶えず湧いている井戸に花嫁をたとえているのである。

 ③ レバノンからの流れ きよめの流れ。他人をもきよめることができる花嫁。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉であった花嫁が、開かれるとき、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ、大川になるほどの流れが産み出されるのである。以上、花嫁の産み出す十二個のものを見てきた。

花嫁の応答

 4章1節から15節までにわたった花婿のほめことばに、花嫁は応答する。いなくなった花婿を捜しまわって、しっかりとつかまえて、母の家の奥の間に連れて行って、婚礼の儀のようすが描かれ、花婿のほめことばがあり、山から降りてくるように招かれた後、最初に出てくる花嫁のことばである。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)花婿のことばに応答し、花嫁は、自分が産み出す最上の実をともに喜ぶことができるように、北風と南風なのかを見てみよう。

 ① 東風は、聖書において、主の懲らしめの風として描かれている。熱い焼けつくような風が砂漠から吹いてきたからである。ヨセフが解き明かしたパロの夢は、「東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来る」夢であった(創生記 41章)。モーセによる出エジプト時に、エジプトに下された十の災いの8番目のいなごは、東風が運んできた。「主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。」(出エジプト 10:13)紅海を分けたのは、東風であった。これは、イスラエル人を救うと同時に、エジプトをさばいた。「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」(出エジプト14:21)また、「あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。」(詩篇 48:7)ともある。

 ② 西風はどうか。先ほどのエジプトへのいなごの大群を追いやったのは、西風である。「主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。」(出エジプト14:19)西の風は、また雨をもたらす風でもあった。イエスさまは、正しいことを見分けるたとえとして言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。」(ルカ 12:54)また、エリヤが手のひらほどの雨を見たのも海の方、つまり西であった(Ⅰ列王 18:42-46)。西風は恵みの雨と祝福の象徴である。

 ③ 北風は冷たくて、寒々とした冬の突風のような風であり、(さばきも含む)きよめを象徴する。「今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。」(ヨブ 37:21,22)エリフが語った北風である。エゼキエルの召命時の神の顕現は、「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。」(エゼキエル 1:4<新共同訳>)

 ④ 南風は、新しい成長といのちの恵みをもたらす風である。

 花嫁が、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と言ったのは、花嫁の切なる願いでもあったのである。園をきよめる北風、自分も、そして周囲もきよめる北風が起きるのを待ち望む花嫁。「北風よ、吹け。」ではない。痛い目にあうことを望んでいるわけではない。起きて目覚めてくれればよい。吹くのは南風である。兄弟にいじめられた花嫁や、北朝鮮の拉致の被害者である横田めぐみさんのお母さんのように、いわれのない被害にあった人は、北風が起こってほしいと願っている。それは、その人たちを恨んだりする感情とは違い、愛から出た感情である。周囲の汚れによる被害、自分も罪ある者だが、その自分をきよきうるわしいものに目を向けていけないほどに、追い詰めた周囲の罪。自分も他人もきよめられなけらば、真の安息はないのである。きよめの後は、恵み、成長、いのちの躍動があって欲しい。母なるご聖霊、花婿なる主イエスといつもともにいて、すでに雨の恵み、祝福の中にあり、その祝福の中のつらい試練にあった花嫁には、西風は十分であったのである。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道で」(Ⅰテモテ 6:6)あり、主に喜ばれ、すべてを受ける道なのである。北風が起きて、南風が吹いてきてこそ、花嫁は、最上の実をかおらせることができるのであり、花婿もその実を楽しむことができるのである。私たち現代のクリスチャンに必要なことは、雨の恵みや祝福の西風ばかりを求めることではなく(それも必要であるが)、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と求めることである。

落ち穂の会提供

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2015年3月22日 (日)

『キリストの花嫁 4』雅歌 3:6-4:7

 最近、「キリストの花嫁」という言葉が盛んに使われているようだ。 ヨハネの黙示録19章や21章に小羊の婚礼の時と花嫁について語られているため、終末とともに語られがちだからだ。 キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。 キリストの花嫁の姿は、雅歌を読み解くと、現れてくる。

 前回は、孤独の試練を通ったため、花婿の誘いにも壁を作り、花婿を拒んでいた花嫁の自我が砕かれていく様子を見てきた。花嫁は、花婿との仲も回復され、母の家に、花嫁をみごもった人の奥の間に、つまり祈りの部屋へ、花婿をせかすように連れて行き、エルサレムの娘へ、再度、愛への干渉をしないように誓わせたところまでを見た。この5節の終わりには、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿と花嫁が、祈りの奥の間で、過ごし、時が経っていった。その続きを見ていこう。

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『煙の柱のように-婚礼の時―』雅歌 3:6-4:7(新改訳聖書使用)

婚礼の行列

 「没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。」(雅歌 3:6)ここからのことばは、誰が誰のことを言ったことばであるか、見解の分かれている箇所である。花嫁のことばであると言う人もいるが、「婚礼の日、心の喜びの日のために、」(雅歌 3:11)と婚礼の日であり、その行列のときの第三者である周囲のことば、エルサレムの住民のことばだと言える。「見て、見て、あの美しい栄誉ある座についた花嫁は、だれ?」といったところである。『キリストの花嫁 1』で見た雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の9つの実の対比によると、没薬は「柔和(へりくだり)」、乳香は「誠実(ギリシャ語のピスティス〈信仰〉」にあたる。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。「貿易商人」(ヘブル原語では「交易する、取り引きする、商人」)私たちと取り引き契約されるのは、神であられる主イエスである。ここは、「没薬(へりくだり)や乳香(信仰)、貿易商人のあらゆる香料の粉末(主イエスの持たれるあらゆるかおり、これは、砕かれたかおりであった)をかおらせて、煙の柱のように(柱のようにまっすぐに神の御前に立ち昇るような祈りを携え)、(試練の)荒野から上ってくるあの人はだれ。花嫁はだれ?」と参列している人々が、花嫁を見て、ためいきが出るほどの賛嘆の声を上げたのである。王と結婚したシンデレラを見る人々のような・・・。

 「見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。その回りには、イスラエルの勇士、六十人の勇士がいる。」(雅歌 3:7)「ソロモンの乗るみこし」となっているが、原文は、みこしの所有者、発注者を表わす表現がされているだけであるということで、花嫁が乗ったとする解釈もあるが、10節のみこしの装飾からみると、「ソロモンの乗るみこし」でよいと思われる。解釈者によって、いろいろと意見が分かれるところであり、いろいろ解釈もあると思うが、ここは、そういうふうにまとめてみた。ここの「みこし」はヘブル原語では「寝台、床、ソファー、棺代」であり、花婿が休まれている場である。  「あれがソロモンの乗るみこしよ。あのお付きの従者たちのいさましいこと。」ソロモン王の栄華は、イエスの型ともなっていて、栄光あふれたきらびやかさがある。そのきらびやかさは、「地上のどの王よりもまさっていた」(Ⅰ列王 10:23)とあり、金、銀、象牙、武器・・・と贅沢をつくしていた。そのソロモンのみこしである。さぞ豪華であろう。みこしの回りにいる六十人のイスラエルの勇士、イスラエルの勇士、つまり、主の勇士といえば、祈りの勇士、六十は六(完全数七より一つ足りない人を表わす数)×十(十戒のように神の前の人の責任、十全、欠けたところのない完全)で、神の御前で責任を果たす祈りの人たちということである。

 「彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。」(雅歌 3:8)祈りの勇士たちはみな、剣を帯びていた。御霊の剣といえば、神のことば、みことばである。「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)祈りの勇士たちは、みなみことばで武装されている戦いにたけた熟練された戦士たちであった。ふいの夜襲にも備え、おのおのが腰に剣を帯びていた。腰は、もも、腰、わき腹、基部にあたり、生殖の種を保持しているということから生殖の力を表わす。いのちを産み出すみことばを携えている練達の戦士。主の戦士たちである。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。

 「ソロモン王は、レバノンの木で自分のためにみこしを作った。」(雅歌 3:9)ソロモン王(主イエスの型)、花婿は、自分のために、みこしを作った。ここのみこし(ヘブル原語の「神輿、天蓋」)は、神の霊が座す場である。7,8節のみこしでは、安息が表現されていた。ここからは王なる尊厳である。材料はレバノン杉。レバノン杉は、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや紺色の糸とともに使われたもので、きよめをあらわす。

 「その支柱は銀、背は金、その座席は紫色の布で作った。その内側はエルサレムの娘たちによって美しく切りばめ細工がされている。」(雅歌 3:10)みこしの支えなる柱は、購いを象徴する銀、背(うしろ<口語訳>、support<New King James Version Bible(英国欽定訳)>は神性を象徴する金、座席は王を象徴する紫の糸で作られていた。この紫の王の座、ちりばめ細工こそが、ソロモンの座ということを示している。乗るのは、花嫁ではないように思われる。私たちの王なるイエスは、私たちの王という点では、購いを中心とし、神性の輝きを放ち、王の席につかれる。内側はエルサレムの娘たちによって美しい切りばめ細工がなされているというのは、神にあって隠れてなされた信者たちのいろいろな美しいわざのことである。購い、神性、王、信者たちのわざ、それらが、花婿のみこしを形成しているのである。

 「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。」(雅歌 3:11)あまりの荘厳さに、シオンの娘(エルサレムの別の呼び方)たちに花婿と花嫁の婚礼の儀を見に行くように勧めている箇所である。花婿は、花嫁の結婚の日を待ち望み、心の喜びとされている。その心の喜びの日のために、王である花婿は、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。「母上からかぶらせてもらった冠」母とはご聖霊であることは、今までも見てきた。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたイエスさまに、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスさまの上に来られた(マタイ 3:16)。この冠である。神であられるのに、人、しかも無力な赤子の姿をとって来られたへりくだりの主、いばらの冠をつけられて十字架にかかられた主の冠である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。婚礼から、時が経っていった。

花嫁の美しさ

 「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。」(雅歌 4:1)1章15節で、孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁に感動し、賛嘆したときのことばと同じことばが、また出てくる。今度は、自我が砕かれ、成長した花嫁の美しさに感動しているのである。「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」(雅歌 4:1)1章15節で、「あなたの目は鳩のようだ。」と言っていたのが、今度は、「顔おおいのうしろで」という修飾語がついている。試練をくぐりぬけ、自我が砕かれた花嫁は、顔おおいというへりくだりのベールをつけて出てきたのである。鳩の目は、素直だが、鋭い識別力がある。伝道鳩は、長距離を飛んだ後でも、主人の小屋を判別するのである。伝書鳩の持ち主は、空中に小さい点が突然現れ、ものすごい速さで降下してきて、正確に自分の小屋に降りてくる驚きを話している。素直で識別にたける鳩の目。「あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 4:1)今度は、髪である。女性の髪は、権威に服するしるしとしてかぶるべきものとして、Ⅰコリント 11:10 に書かれていて、服従の象徴である。その髪は、「ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう」 であると言っている。ギルアデは、家畜に適した場所であった。カナン入国の時、「ルベンとガド族は、非常に多くの家畜を持っていて、ヤゼル(ギルアデにある町)の地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、その地にとどまった。」とある(民数 32:1)。イスラエルの山羊は、普通の山羊よりも大きく、毛は黒く長く、大きな耳が垂れ下がっているシリヤ山羊と言われるものであるそうだ。漆黒の黒山羊である。ギルアデの満ち足りた環境の中で、荒野の山羊とは違い、満ち足りた平安の中、その黒山羊が号令に従順に群れをなして、花嫁のへりくだりの従順を表わすように、山腹に登るのではなく、山腹から降りてくるさまを、花嫁の長い黒髪に例えている。山羊は羊よりも賢い動物で、羊の群れを導くために先頭におかれるほどであるという。頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであった。

 「あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 4:2)次は、歯の描写である。歯とは、食べ物を噛み砕くところである。洗い場から上って来たばかりの、つまり、きれいな真っ白な歯。毛を刈られる直前の羊の群れ、つまりきれいで丈夫にはえそろっている健康な歯。この葉は、何のためか。歯がはえていない頃は、みことばの乳を飲んでいた花嫁。今や、きれいな丈夫な歯がはえそろって、「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル 5:14)とあるような堅い肉も食べられるように成長していたのであった。堅い食べ物も良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与えられるようになっていた花嫁は、そのみことばの食事で、霊の子供を産めるようになっていた。しかもふたご(ヘブル原語の「ふたごを産む、対になる」)である。子供を産むからこの羊は雌羊となっている。「ふたごを産まないものは一頭もいない(ヘブル原語の「子を産まないものはいない」)。」とあるように、成長した花嫁のみことばによる働きは、すべて、霊の子を産んでいくのである。

 「あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。」(雅歌 4:3)次に、くちびると口である。花びらではなく糸のようなくちびる、けっして美しいとは思えないが、紅の糸、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、“a strand of scarlet”となっている。紅は、緋色である。ヘブル原語の「緋色」は、ヘブル原語の「うじ(トーラート<うじ、虫(柔らかくて毛がなくて細長い、腐れの原因およびそのしるしとしての)>)」から派生した語である。うじは腐敗した物や死んだものを食べて生きる。そういった意味で、英語の scarlet(緋色)には、「罪悪を象徴する緋色」という意味もある。Strandは、より糸である。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:12)とある糸である。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。このようなくちびるは、プライドが傷ついたと、怒って毒をはいたり、つぶやいたりしない愛らしい口である。「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 4:3)次は、頬である。この頬、ヘブル原語の「頬、こめかみ」であり、額の両脇にある平らな部分で、上下の頭蓋骨のちょうつがいの役割をしている。このこめかみが、ざくろの片割れに例えられている。ぱっくりと熟れて割れ、多くの種が現われているざくろの片割れ。雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の実の9つの実の対比によるとざくろは、「愛」の象徴である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい、そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあるそうだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。1章10節で、頬は意志に関することばであると述べた。「顔おおいのうしろにあって、」とあるように、へりくだりの中の愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、「愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:14)このへりくだりの愛で結ばれた知識と口は、完全である。

 次は首である。「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾だ。」(雅歌 4:4)首、すなわちうなじは、意志を表わしている。1章10節で、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志を見た。その意志が、ここでは、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらに例えられている。 ヘブル原語の「ダビデ」=「愛されている者」である。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志、花嫁の成長が見られる。不要な戦いはせず、千の盾が掛けられていて、守りも万全である。千、10×10×10、縦も横も奥行きも10、十全、神の完全さで守られた首。盾は、防御の武器である。「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ 6:16)盾は信仰を表わす。欠けるところのない信仰によって守られた首。これらの盾は、みな勇士の丸い小盾であった。孤独だと思っていた花嫁、気がつくと、多くの信仰の勇士たちの祈りの守りによって完全に守られていた。祈りの勇士たちによる防御、角張って痛い守りではなく、丸くやさしい愛の守りである。兄弟たちにいじめられ傷つき、花婿を一時拒んでしまう経験を通り、人の弱さを知った花嫁は、多くの愛に気づく。

 「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」(雅歌 4:5)次は、乳房である。赤子にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴である。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。ゆりの花はへりくだりを表わす。へりくだりの中の平和。この二つの乳房は、バランスがとれていた。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛。

 「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」(雅歌 4:6)「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:17)と言っていた花嫁主導であるかのようなことばをも受けて、愛を返してくださる花婿の姿。暗闇、困難の時がくるまでに、没薬(へりくだり)の山、乳香(信仰)の丘に私は行っているからついておいでと主は言われる。「私は・・・行こう」であるが、強制はできないが、花嫁がついてくることを望んでおられることは、一体である夫婦となった今、明らかである。へりくだりは大きな山、信仰は丘、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ 17:20)花嫁もへりくだりがないわけではないが、信仰は丘のように、へりくだりは山のようにと、更なる成長を望んでおられるのである。

 「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌 4:7)更なるへりくだりと信仰と言ったが、花婿は、花嫁が不十分であると言ったわけではない。花嫁は安心してよいのである。花婿は、花嫁のすべてが美しく、何の汚れもないと、花嫁を安心させている。その上で、あなたは、もっともっと美しくなれる人だよと、言っているのである。花嫁を美しくさせるのは、花婿の愛である。婚礼を向かえた花嫁は、美しく成長していた。

 こうして、イエスの花嫁が整えられていく様子を見ることは、私たちに励ましを与える。花嫁も完全ではない欠陥を備えているのだが、花婿を、不完全かもしれないが精一杯の愛で愛していくうちに、花婿によって、花婿の愛によって、引き上げられ、整えられていくというさまを見ることができる。雅歌は、花婿の愛に満ちた花嫁への取り扱いを示し、私たちに励ましを与える書簡である。この後も、花嫁の苦しみは続くのだが、花婿に引き上げられ、どのようになっていくのか・・・。

落ち穂の会提供

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2015年3月16日 (月)

『キリストの花嫁 3』雅歌 2:8-3:5

 前記事では、無気力になった花嫁が、花婿に、干しぶどうの菓子による力づけとりんごによる元気づけを懇願し、エルサレムの娘たちに、干渉しないことを誓わせたところまでを見た。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。上に愛という花婿の旗じるしを翻し、子やぎを飼う花嫁が、愛に病んで、時が経っていったようである。

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『狐や小狐の退治-自我の解放―』雅歌 2:8-3:5(新改訳聖書使用)

愛のすれ違い

 花嫁の懇願に、花婿は、左の腕を枕にし、右の手で抱きしめようと、駆けつける。「愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。」(雅歌 2:8)みことばなるキリストは、みことばを携え、さっそうとすみやかに来られる。花嫁を助けようと・・・。

 「私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。」(雅歌 2:9)駆けつける姿は、さっそうと雄々しく、まさしくかもしかや若い鹿(ヘブル原語では「の子鹿」)のようである。さっそうと駆けつけた花婿は、花嫁のもとに行ったのだが、近寄ることができなかった。壁があったのだ。私たちの壁と花嫁は言っているが、この壁は共同で作ったものではなく、花婿が作って行ったものでもなく、もとからあった土台に花嫁が自分で作り上げたものであった。しかも、これは、窓を開けて入れるようなものではなく、窓にはしっかりと格子がはめ込まれているような頑固なものであった。花嫁は心に頑固な壁を持ち、花婿を遮断していた。しかし、覗いてもらえるような窓はしっかりと作っているのである。いつの間に、このような壁が・・・、花婿は、壁の後ろにじっと立って、窓から格子越しに中を伺った。「私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)と言って、花婿のかたわらの緑の牧場を理解した花嫁であっても、彼女の意志でできた自我の壁が花婿との間をはばんでいた。壁を作ってしまった花嫁に、花婿は語りかける。壁を壊すことは、花嫁でなければできないのである。壁を壊せるのは、花嫁が自分の思いやプライドを捨てる決意をし、どんな危機の困難の中であっても、花婿を信頼し、心の奥底の主導権を花婿にゆだね渡すことによる。

 「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。『わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。』」(雅歌 2:10)「さあ、そこで、防御の殻を作ってないで、殻から出ておいで。」と。「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。」(雅歌 2:11)「冷たく厳しい冬は過ぎたよ、あなたを容赦なく打った大雨も過ぎて行ったよ」と。「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」(雅歌 2:12)十字架にかかる体験、裸(自我が露わ)にされる聖別の体験はもはや終わり、暖かい春がやってきた。地は花が咲き乱れ、美しくよいにおいで満ちている。鳥のさえずる歌声もまるで喜びの賛美のようだ。鳩は平和の象徴。中でも山鳩の特徴は、生涯に一度だけ結婚し、その配偶者に忠誠を尽くす一夫一妻制であるため、愛の象徴としてよく用いられている。平和な愛の風景である。花婿の語りかけは続く。「いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:13)春、花のない無花果(実は、花がないわけではなく、実の中にたくさんの花を蔵している)は、青い実をつける。ぶどうの木は、花をつけ、よいかおりを放つ。来るべき大収穫のための花である。「愛する美しい人よ、恐れないで、立ち上がって出ておいで。大収穫が来るよ。」と花婿は呼びかける。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「出ておいで。」と呼びかけたが、花嫁の応答はなかったようである。

 さらに、花婿は呼びかける。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(雅歌 2:14)「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩」花嫁の目を鳩のようだと言った(雅歌 1:15)花婿は、ここでも花嫁を素直で温順な鳩に例えている。しかも岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩である。

 以前、集合住宅の9階に住んでいた時のある台風の夜、一羽の鳩が、我が家のベランダに非難してきた。暗い中、鳥目で見えないためか、暴風雨の中、飛び立ったら危険な状態を知っている鳩は、ひとつ場所にじっとしていた。鳩がベランダに住みつくと子作りをしてうるさく、糞害も大変であると聞いていたし、実際に卵を産まれたこともあるため、空き部屋であった隣にでも行ってとばかりに、そばにあったハンガーでつんつんしてみた。つんつんされた鳩は怖かったであろうに、じっとしていた。ハンガーがふれても知らん顔を決め込むように、こちらを見もせず、無視してじっとしていた。人間につんつんされて、怖くないわけではなかったろうに・・・。その姿を見て、いのちがけであることを知り、そのままにしておいた。少しして、少し小柄な鳩も来て、寄せ合うように一夜を過ごし、早朝に飛び立って行ったのか、起きてみると鳩の姿はなかった。ここなら安心とわかっているのか、突付く者があっても目に入れず、嵐が過ぎ去るまで、じっと嵐を見据え、微動だにしなかった鳩、恐れて飛び立ったなら、容赦ない嵐に倒れたかもしれない。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩」とは、まさしくそのような状況である。嵐の中も、必ず嵐は過ぎ去るという信仰をもって、突付く者があっても、主の守りを信じ、見向きもせず、主の守りの中で耐えている花嫁。そのような花嫁に向かって、「危険なところにいたために、頑固な壁を作っているが、私はあなたが鳩のように素直であることを知っているよ。嵐は過ぎ去った。さあ、私に、顔を見せておくれ。」と花嫁は言う。花婿が花嫁の声を聞くことを望んでいるように、主も私たちの祈りの声を望んでおられる。「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」と言った花婿のように、私たちが祈る姿は、主の御前にとても愛らしく、美しく見えている。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「声を聞かせておくれ。」と言われても、すぐに喜んで応答できないほどに病んでいる花嫁。

 「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(雅歌 2:15)「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。」は、今まで花嫁が花婿に言っていたことばなのである。「そのままにしておいたのは、無視していたわけではない。しっかり聞いていたのだ」ということを伝える花婿。イエスさまはヘロデ・アンテパスを「あの狐」(ルカ 13:32)と言ったように、狐は、キタキツネなどを連想すると、かわいいところもあるが、決してよい動物とは言えない。イソップ物語など、童話に登場する狐は、その性質をよく語っている。狐は、単独で行動し、昼間は、他の動物から奪った穴で休み、夜、行動するという。また荒れ果てた廃墟を好む。雑食性で、ねずみ、うさぎ、きじ、かえるなどの小動物や、果実、特にぶどうを好んで食べる。性質は陰険でずる賢い。花嫁は、このような狐に、悩まされ、翻弄され、またせっかくなった少しのぶどうの実を荒らされた経験もあって、花婿に訴えていたことがあったのである。「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。」花嫁の切なる訴えであった。花嫁は「花婿のためでもあるのだから、このいらだたせる狐を退治してくれてもよいではないか。」と言っていたのである。しかし、狐や小狐をとらえることは、花嫁にできる仕事なのである。花婿は、花嫁が成長するのをそっと見守り、待っていたのである。花嫁の目には、放置されているように見えたのだが…。狼や獅子を捕らえるのとは違うのである。しっしっと追い払えばよいのである。畑に入れなければよいのである。入ることを許さなければよいのである。その力を花嫁はすでに花婿によって与えられているのである。今、大収穫を予見するように、ぶどう畑は花盛りなのである。10節からのかぎ括弧は、壁の窓の格子越しの花婿のことばである。これまでの花婿と花嫁の応答には、かぎ括弧などついてはいなかった。直情的に応答していたのである。花嫁は、これをかぎ括弧をつけ、第三者的に、遠いことのように耳にしているのである。人間は、自分のしてほしい絶対的なことに固執していると、どのように麗しいことばであっても、他のことに耳を貸すことをしないものである。例えば、この花嫁は、花婿が、さっそうとかけつけ、いじめっ子から助けてくれることを望んでいたのであるが、花婿は、愛のことばを言い残して、立ち去っていった。主も、私たちが何かに固執している限り、これがみこころだといって、無理やり引きずり出したり、怒鳴っておどして連れ出すようなことはなさらない。花婿は、花嫁に、おしんのように我力でただひたすら耐えることを望んでおられるわけではなく(それもすばらしいかもしれないが、花婿と歩むためには妨げとなる)、花嫁自身の足で、立ち上がってついてくることを望んでおられるのである。

 立ち去った花婿を思い、花嫁は言う。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌 2:16)まだ、自我が捨てきれない花嫁。まず、「私の愛する方は私のもの。自分のもの。」と言っている。次に「私はあの方のもの。」ときている。こう言っていた花嫁が、後には、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」(雅歌 6:3)と砕かれていくのである。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:16,17)ゆりの花、下にうつむくようにして咲くゆりの花は、へりくだりの象徴である。自我に固執する花嫁をおいて、花婿は、へりくだりの中で、群れを飼っている。立ち去った花婿を思い、花嫁は帰ってきてくれるように言っている。が、このことばの中には、自我がつまっている。「私の愛する方よ」と呼びかけてはいるが、次のことばは、「これこれこういう時までに、あなたは帰ってきて、こうこうこのようになるように。」と言っているのである。懇願ではなく、少し高い位置から、ことばはやわらかいが命令しているのである。「花婿なら当然よ」と言わんばかりである。これこれこういう時までにとは、どういう時までかと言うと、「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、」原文では、「そよ風が吹き始め」夜のこと、「影が消え去るころ」も夜である。暗闇の時までに、ということである。「まあ、今はなんとか大丈夫だし、このままそっとしておいてほしいけど、もっと大変な暗闇の時になったら、あなたはすみやかに帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってくださいよ。」こういったところだろうか。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。時が経った。

砕かれる自我

 強がったものの、時が経つとともに、花嫁はだんだん、不安になっていった。すぐに、花婿を探し回ることになる。「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:1)最初、花嫁のしたことは、捜しながらも、床につくことだった。「床について何もせず、休んでいよう。家宝は寝て待てと言うではないか。楽にして待っていれば、そのうち、時が来て、主(花婿)の方から、来てくださるに違いない。ハレルヤ。主よ、早く来てください。私は待っています。」信仰のように見えても、実は自我の中のあきらめである。寝て待つことは、ことわざであっても、聖書の真理ではない。聖書は、「求め続けよ、たたき続けよ、探し続けよ。」(マタイ 7:7参照)とある。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」と何もしていないのだから、達成感もなく、むなしさが残る結果となる。

 達成感がないことから、花嫁が次にしたことは、人ごみ、にぎやかな通りを捜し回ることであった。「『さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。』私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:2)にぎやかに働いている街中、奉仕に忙しい場所、奉仕の大通りの中、わいわいと華やいで活気づいているところで、捜し始めたのであった。括弧の中は、「私は・・・捜して来よう。」と私が主語の労働である。奉仕は、大切な事柄であるが、主の助けと祝福によってなさせてくださる恵みである。主を捜すためとか、誉れとか、自分のためにという動機でなしたところで、恵みを見出せるものではない。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」徒労に終わってしまう結果となる。主についての働きの大切さは、主とともに、主の後から、ということである。

 次に花嫁がしたことは、出会った夜回りに聞くことであった。「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。『私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。』」(雅歌 3:3)「町を行き巡る夜回りたち」群れの監督者であり、見張る者といえば、宗教的な指導者、牧師、教師たちのことである。彼らは、「どうしたの?」と花嫁を見つけて尋ねたことだろう。花嫁は、わらにもすがりたい気持ちで尋ねる。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。どこに行けば会えるのでしょうか。」と。しかし、彼らも彼女のための答えは持ってはいず、首をかしげただけであった。いよいよ、花婿に会いたい一心で、花嫁は捜し続ける。主はこのように限界になるまで、信仰をためされる。信仰を引き出し、高めるために。

 「彼らのところを通り過ぎると間もなく(ヘブル原語は「すぐに」)、私の愛している人を私は見つけました。」(雅歌 3:4)床での休息、奉仕の大通り、夜回りでは見つからないことを学んだ花嫁が、捜す場所ももはやわからず、目をやると、偶然にもというか、花婿にしてみれば、この時をずっと待っていて、見守っていたからであるのだが、すぐに花婿を見つけることができたのであった。花嫁は、私は見つけましたと、言っているが、花婿は、花嫁のいる位置をいつも知っていて、待っていたのである。この瞬間を・・・。自我を手放す瞬間を・・・。「この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。」(雅歌 3:4)花嫁は、もはや、壁を作り、「放っておいてちょうだい。私は愛に病んでいるのだから。」という態度で接したりはしなかった。花婿への愛がほとばしり、目覚めたのである。自我のプライドを捨て、壁を自ら崩したのであった。自分のほうから、しっかりとつかまえて放さず、ことばだけではなく、態度をもっても、花婿の愛に応えたのであった。「私の母」聖霊さまは、私たちにみことばの光を照らし、私たちの霊の中にみことばを宿らせ、命を与えてくださる母なるお方である。聖霊さまの奥の間は、祈りの部屋である。花嫁は、祈りの部屋の戸を開け、花婿を連れて行った。祈り(花婿との語らい)の大切さをも悟ったのである。ぶどうの実を食べる狐、それは、人ではなく、自分の思い、そこから出た行動である。きっかけは、人から来たかもしれないが、狐に心を許し、疑いや不信仰の小狐を産むのは、自分自身である。狐を追い払い、不動の信仰に立つなら、神の国は広がっていく。花嫁は、花婿の呼びかけ、みこころを無視して、自分の意志・やり方で、花婿を捜したことによって、しばらくの間、花婿と離れ離れになるという犠牲を払った。しかし、この経験によって、自我をつつき、自我にしがみつかせようとするずるがしこい狐を追い払い、小狐を産ませないすべを学んだのである。

 狐を追い払おうとする時に、やはり、他人の干渉を相手にしている余裕はない。花嫁は、エルサレムの娘たちに、再度、念を押す。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 3:5)狐は、ずるがしこく、自我を突付いてくるかもしれないが、私たちがなさなくてはならないことは、心に侵入し、聖霊の実すらも食べ尽くし、収穫の実をも成らせないようにする狐、小狐から、自分の畑を守ることである。

落ち穂の会提供

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2015年3月 9日 (月)

『キリストの花嫁 2』雅歌 1:12-2:7

 前記事では、雅歌1章11節までより、王なる花婿イエスさまの大きな愛とキリストの花嫁となる女性の初々しい愛を見てきた。王に、引き寄せられ、その深い愛を知り、奥の間から出てきた花嫁。孤独を訴える花嫁に、花婿は、銀をちりばめた金の特性の飾り輪を作ること、つまり、購いと神性、イエスの似姿で花嫁を飾ってくださることを約束した。

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『かもしかや野の雌鹿をさして-干渉の禁止―』雅歌 1:12-2:7(新改訳聖書使用)

羊飼いの愛

 王なる花婿に励ましの言葉を受けて、花嫁は言う。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」(雅歌 1:12)と。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)と言われる王が、私たちとともに、うたげの座、つまり食事の席についてくださっている間は、花嫁は、平安に満たされて、その平安、平和のかおりが周囲にも満ち溢れるのである。ナルドは、おみなえし科の宿根草で、平安の象徴である。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、・・・」(雅歌 4:13,14)と花嫁から産み出されるかおりのある実について書かれている箇所がある。この後は、「香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:14,15)と続いているのだが、かおりのある実は、ちょうど9つ(ざくろからアロエまで)である。私たちから産み出されるかおりのある実とは、何であろうか?  「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)(雅歌 4:14,15)ちょうど9つある。対比してみると、ナルドは、平安となる。ベタニヤのマリヤは、十字架を目前にした主イエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油をぬった。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになった、とある (ヨハネ 12:3)。強い香りゆえに、ピラトの法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで、香り続けたことだろう。平安、平和をもたらした主の十字架の香りである。

 次に、花嫁は、花婿を、2つのものに例える。「乳房の間に宿る没薬の袋」と「エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさ」である。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」(雅歌 1:13,14)没薬とは、ミルラという植物の樹脂であり、古くから、通経薬(月経を通じさせる薬)、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。没薬は、柔和、へりくだりを象徴する。当時の女性は、自分の体によい香りを漂わせる香水の代わりとして、におい袋を胸元につけた。花嫁にとって、よい香りを放つ柔和、へりくだりのかおりの源は、愛する花婿である。乳房の間=心の中心に宿るへりくだりは、イエスさまによる。また、エン・ゲディとは、「子やぎの泉」という意味である。そこは、死海の西岸中心にあるオアシスの地で、石灰岩の裂け目から泉が湧き出るとともに、死海水面200メートルの高さからも滝が落ちて、美しく深い泉をつくっているそうである。ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花をつけ、香りも高い。化粧やしみを隠すためや香水などにも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。美しいきれいな泉のそばの多くのおいしそうな実をつけているぶどう畑、その中にあるよい香りを放ち、喜びの種を多くならせるヘンナ樹の花房に、花婿を例えているのである。まことに、主イエスは、へりくだりのかおりの源であり、おいしい実とともに、よい香りと多くの喜びを与えてくださるお方である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。段落が変わる。

 花婿は告げる。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」(雅歌 1:15)2度繰り返されている「なんと美しいことよ。」ということばから、花嫁としての孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁への思い、感嘆ぶりが伝わってくるようだ。鳩の目は、素直で優しい。その目を花嫁に当てはめている花婿。この柔軟に主の思いを受け取る花嫁を花婿は、このように、感嘆して喜んでくださるのである。

 花嫁は返す。「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)まことに、雅歌は、比喩が多く、主を知ることなしには、理解できない、奥深く主の愛情にあふれた書簡であるとつくづく思う。「私を美しいなどとおっしゃいましたけど、美しく慕わしいのはあなたです。」と花嫁は言っているのである。「長いいす」は、休息の場を表わす。「青々としています。」は、ヘブル原語の「ra`anan(新鮮な)」である。想像していた特上のゴージャスな牧場ではないけれど、花嫁の霊の目は開かれた。こここそが、最上の求めていた安息の牧場であったと。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇 23:1,2)乏しいことがなく、安息の新鮮な牧場にいたことに、花嫁は気づいたのであった。こうして見ていくと、私たちは、王であり、羊飼いである花婿が、雅歌1章に表わされていることを知ることができる。

 「私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」(雅歌 1:17)花嫁は、ここで、花婿と花嫁の家についてふれている。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント 3:16)とパウロは言っていることをふまえ、この霊的な家について見ていく。花嫁の内には、内なる家、霊的な家が成長してきたのである。家の梁、梁は建物の内部に見られるように、内部の構造であり、壁の中や天井で支えとして使われるものである。この支えは、杉の木(レバノン杉)でできていた。杉の木とは何を意味しているのか? 民数記19章にその答えを見出せる。罪のためのきよめについての神の定めが書かれているが、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや緋色の糸とともに使われるのが、杉の木であった。霊の家は、きよめという支え、基礎の上に成り立つものであることを忘れてはならない。次に、たるきであるが、たるきは屋根を形づくるものである。糸杉は、果樹園の防風樹の生垣に用いられている木である。樹脂を含むこの木は、腐敗しにくい。聖ピエトロ大聖堂の扉は、この糸杉で作られているそうである。このような腐敗しにくく風よけに適している木で守られた家は、さぞかし安全で強いことだろう。

 比喩ばかりで、ため息が出てきそうだが、なぜ、このように、困難なたとえで、雅歌はつづられているのか。主の愛の宝庫である雅歌、イエスさま自身のことばで言うなら、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ 13:13)である。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ 13:10-15)イエスさまの愛に自らの欲で近づかないためにである。

愛のことばの交し合い

 花嫁は続ける。「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。」(雅歌 2:1)シャロンは、地中海沿岸のヨッパの町から北にカルメル山まで続いている平原のことである。エルサレムからは遠く離れている。「サフラン」は口語訳や新共同訳、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、「ばら」と訳され、文語訳は、「野花」と訳されている。赤い小さな花で、シャロン平原ならどこにでも見られるようなありふれた花である。「谷のゆりの花」も日本人は、大きなやまゆりやおにゆりを想像しやすいが、イスラエルの野にあるアネモネのような可憐な花であると思われる。ここで、花嫁は、花婿に美しいと言われても、エルサレムの洗練された娘たちに比べると、自分は、洗練されていない一輪の野花であり、谷の中にうもれるようにひっそりと咲く野花であると、けんそんに言っているのである。

 このような花嫁のことばを受けて、花婿は言う。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(雅歌 2:2)私の愛する花嫁が、エルサレムの他の娘たちの間にいることは、とげだらけのいばらの中のゆりの花のように、美しいと告げる。ゆりは、いばらのとげが当たって痛いかもしれないが、いばらの中にあって、ゆりの美しさは、花婿の目には、いっそうきわだっているのである。

 今度は、花嫁が返す。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌 2:3)聖書には、しばしば、人を木に例えて描いている。イエスさまがおいやしになった盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」(マルコ 8:24)と言った。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5)イエスさまはご自身をぶどうの木に例えた。同じ実のなる木でも花嫁は、「林の木の中のりんごの木」と言っている。他の若者たちと比較すると、実のならない他の木の中で、花婿は一際目立ち、赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木のようだと言っているのである。ぶどうは多くの木の中にあると、目立たない色の果実であるから、ここではりんごの木となっているのではないかと思う。花嫁は、そのりんごの木陰で、つまり覆われ、守られて、休むことを切に望んだ。実のないスカの木の木陰で休んだとしたら、お腹がすいても満たしてもくれず、のどが渇いても潤してももらえず、見栄えばかり立派で、飢え乾いてしまうが、多くの実をつけたりんごの木陰は、その実がのどもお腹も満たしてくれることだろう。実がなく、葉っぱばかりをつけていたいちじくの木をイエスさまがのろわれたことを思い出す。主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇 19:7-10)とあるが、主が、私たちに与えてくださる食物は、蜜よりも、蜂蜜の巣のしたたりよりも甘いのである。

 「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4)直訳すると「ぶどう酒(宴)の家に連れて行った。」である。そうして、花嫁は、喜びの宴の席に伴われて行ったのである。主がくださった食物は、私たちをどんな境遇にあっても喜びで満たしてくださるのである。「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(Ⅱコリント 7:4)とパウロが言えたのは、主によって酒宴の席に伴われたからであった。旗は、勝利を意味する。花嫁の頭上にはためいている主の勝利のしるしは、愛であった。愛が、勝利の要なのである。主の愛にとどまり続け、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主を愛すること、相互の愛である。

 愛が要であることは、花嫁も知っているのだが、先週見てきたように、兄弟たちのしいたげによって、無気力になっている花嫁は、愛する力も出てこない。そこで、花嫁は言う。ここまでの花婿の語りかけで、花嫁は、次のように言う力を得たのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)こんなに愛のことばをもらって、やっと、花嫁は、「力を得たい、元気づきたい、私は愛に病んでいる。」と言えたのであった。「干しぶどうの菓子」は、「干しぶどう」とは異なる、ケーキ状に圧縮したぶどう菓子のことである。ぶどうの実そのままよりも、圧縮しているので、多くの実を口にすることができる。シナイ修道院では、今日でも旅人を元気づけるために、この種のケーキを出しているそうだ。そのぶどうの実の食物、ぶどうの木からとれる食物、主イエスから直接いただく食物は、私たちを最も力づける食物である。「りんご」も先ほど見たように、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物である。花嫁は、無気力で、愛する力が出てこないことを「私は愛に病んでいるのです。」と表現している。「病む」は、ヘブル原語では「病気になる、病気である、悲しい、弱くなる、懇願する、自分で病気にかかる、病気にされた、疲れた、弱くされた、傷つけられる」などの意味である。

 より強い愛を求め、愛に病む花嫁は懇願する。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)同じことばが、8章3節でも言われている。左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)「あなたの右の手は義に満ちています。」(詩篇 48:10)「私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」(詩篇 138:7)他にも多くあるが、右の手は、力、救いとして表わされている。主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られることは、なんと心地よいことか。

 「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7)雅歌に3回繰り返され、念をおされていることばである。花嫁は、今度は、エルサレムの娘たちに、お願いする。「かもしかや野の雌鹿をさして、誓いを立てることを。」かもしかや野の雌鹿は、「純粋さ」を表わし、誓いの純粋さの意味であろうとある註解書には書かれている。私は、後の9節で花婿のことをかもしかや若い鹿に例えていることから、ここは、主なる花婿の象徴であると思える。誓いのゆるぎなさを表わしている。「山々をとび越え、丘々の上をはねて」(雅歌 2:8)花嫁のもとに馳せてくる花婿の性質。かもしかが駆けてくるさまは、軽やかにすばやい。主イエスの再臨をも思わせる描写、かもしかは、主イエスの象徴である。野の雌鹿は、鋭い認識力を備えている。雌なので、母として例えられるご聖霊の性質のようである。ご聖霊は、私たちの心の畑の見張りをもしてくださる敏感なお方である。花嫁は、ここで、主イエスと、エルサレムの娘たちの内にも住まわれているご聖霊にかけて誓わせているのである。誓いとは、神聖なもの、何にでも誓えばよいというものではない。「軽々しく誓ってはならない。」とあるように(マタイ 5:34-36)。しょうもないものに誓っても、仕方がない。誓いにならない。完全である神にではないと、その誓いはあてにならないものになる。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。花嫁は、花婿とのさらなる愛の関係を望んではいるのだが、それは、娘たちに揺すられたり、かき立てられたりして、無理やりに目覚めたいと思ってはいない。花婿との愛の関係は、花婿自身によって、なされるべきだからである。他人が干渉することではない。他人ができることは、見守り、応援することだけである。花婿だけが、花嫁の愛を目覚めさせることができるのである。

 主イエスの愛がわからなくなるほど、無気力になったときは、花嫁がしているように、懇願すればよいのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)と。そして、主の左の腕に枕し、右の腕でしっかりと抱いてもらうのである。ただし、その間、決して、エルサレムの娘たちによる干渉を受けないように・・・、と聖書は言う。

落ち穂の会提供

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2015年3月 1日 (日)

『キリストの花嫁 1』雅歌 1:1-11

 最近、特に「キリストの花嫁」という言葉が盛んに使われているようだ。 が、キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。 雅歌には、そのことがよく表されている。 雅歌を読み解くと、壮大な大河ロマンを見るような感動が湧き上る。 この雅歌を11回に分けて見ていく。 聖書は、多くの宝が埋まった不思議な書物である。

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『羊の群れの足跡-キリストの花嫁-』雅歌 1:1-11(新改訳聖書使用)

信じる愛

 「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5, 8:4)雅歌に三度も繰り返されていることばである。イエスさまは、急がずあわてず、信仰が成熟し愛が育つまで、私たちを信じて待っていてくださるお方である。

 私たちは、「私はイエスさまを信じます。」と自分でイエスさまを信じたように信仰を表明するが、実は、イエスさまのほうが私たちを信じてくださっているのである。先にイエスさまのほうが、私たちを信じてくださっているから、救いを得たと言える。「イエスさまを信じます。」と言った後も、私たちはとかく、疑いや甘えなどから従わなかったりしてしまうような者である。しかし、そのようなときにもイエスさまは、私たちを信じて、とりなしをしてくださっているのである。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル 7:25)

 「イエスさまが私たちを信じる? 逆ではないのか?」と奇妙に聞こえるかもしれないが、イエスさまは、罪人の私たちを信じてくださっているのである。信じていなければ、聖霊を託したとはいえ、この世の救いを当時の信者たちにゆだね、「地の果てまで宣べ伝えよ。」と告げて、天に行かれることはできない。  このような話を聞いたことがある。復活後、昇天されたイエスさまに、ある天使が聞いた。「イエスさま、あのような頼りにならない(眠りこけ、主を否み、逃げ去った)弟子たちに、後を任せて来られて、大丈夫ですか? 信者がだれもいなくなったら、この世はどうなるのでしょう? イエスさまがかかられた十字架も無意味になってしまうじゃないですか? 心配じゃないですか?」と。動じずに主は答えられた。「わたしは、わたしの友を信じている。私が選び、愛した者たちだから。」「愛は・・・すべてを信じ」(Ⅰコリント 13:7)とあるが、主は、ご自身のゆるがない愛ゆえに、私たちを信じておられるのである。

 ある人が、試練の中、愛も冷え、祈れなくなっている状態でいるときに、あることばが心に響いた。それまでは、祈れなくなっていることを責められているような罪責感が心のどこかにあった。「・・・今は祈れないほど心弱っているが、彼女は、必ず、再び祈る者となる人です。」「わたしはあなたが立ち直るまで、待っているよ。」心に直接語られたことは、ことばに置き換えたら陳腐になってしまうが、主はご自身のその愛とともに、語ってくださるお方である。私たちが、立ち上がる力をいただくのは、主の愛によってである。主の期待、愛に答えたいと思うからである。このようなどうしようもない者をも、祈ることを期待して待ってくださることを思うなら、その期待を裏切ることなどできるだろうか。ここで言っている期待は、愛の期待である。エゴの期待はまた別である。

 「愛は・・・すべてを期待し」(Ⅰコリント 13:7)ともあるが、期待とは、時期を待つと書くが、信じて待っていてくれると思うから、つまずいても、がんばって立ち直れるのである。「あいつは、だめだと思うよ。」という心と、「あの人は、いつか必ずできる人だと私は信じるよ。」という心のどちらに愛があるかは、聖書を知らなくてもすぐわかる。人は愛に敏感である。むしろ、宗教的になっていくほどに、愛については、鈍くなるようだ。

花嫁の王なる花婿への求め

 「ソロモンの雅歌」(雅歌 1:1)雅歌は、ソロモンが、愛する妻に、結婚を祝して書いたものと考えられている。花婿と花嫁のやりとりの形で婚約期間、結婚、夫婦となってと順に構成されている。ソロモンの花嫁といえば、異教徒である。そのソロモンのラブレターが、なぜ聖書に収められているのか? ある著名なクリスチャンの方が、信仰の初め頃は、この雅歌はエロティックで敬遠していたが、信仰が増すにつれて、意味深い宝が隠されていることがわかってきた、と言っておられた。「右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で・・・」(雅歌 4:5)というような描写があるために敬遠しがちだったという。出だしからして、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)とおよそ聖なる書物とも思えぬことばが書かれている。単なる人間の書いたラブレターとして読むなら、他人のラブレターなのだから、こんなにつまらないものはない。しかし、これは、霊感され書かれた書物である。イエスさまの愛に飢え渇いて無垢な心で読むと、主が、ご自身の花嫁をどのように愛されているかが見えてくるのである。雅歌は、ご自分の花嫁として召された信者をどのように愛しておられるかを綴った主からのラブレターなのである。

 「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)花嫁となる女性は、花婿の愛を大胆に求めている。「あの方」とはもちろんキリスト、これを言っている花嫁となる女性は、キリストの花嫁なる教会、つまり信者である。「口づけ」 相互の楽しみ、お互いの喜び、対等な愛の交換を表わすこの語、原語は複数形である。東方のある国では、ある人が赦しを求めているときの口づけは、悔い改めを意味するそうである。私たちは、まず、キリストに罪の赦しをいただかなければ、よい関係は結べない。へりくだって、赦しの口づけをたくさんいただくことが、第一に必要なことである。これは、飢え乾き、つまりキリストへの愛への求めから始まるのである。

 「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、」(雅歌 1:2)キリストの愛は、ぶどう酒、つまりキリストの血潮、つまり十字架の贖いよりも快いということである。といっても十字架の贖いを軽んじているわけではない。贖いがあってこその愛である。ぶどう酒はすでに経験済みであることを前提にしている。花嫁は、ぶどう酒に甘んじてなどいない。十字架の贖いの愛を通り、さらに深い愛の関係に進むのである。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」(へブル 6:1,2)

 「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」(雅歌 1:3)キリストのかおりは、最もかぐわしく、魅力的であり、楽しい愛にあふれたものである。香油にたとえられているように、辺り一面に立ち込めるほど影響力のあるかおりである。主の祭壇、香壇にささげられた香油は、詳しくは主題からの学び「幕屋(香壇と香)」にまとめてあるが、次の五つの原料からなっていた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって(塩でこすること)、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。」(出エジプト 30:34,35)ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、純粋な乳香、塩である。ここで、花嫁は、主の名をこの香油に例えている。ナタフ香は、没薬の木に深い傷をつけることによって抽出する没薬の樹液の一種であるが、神であられるのに、罪となられ、十字架の死にまで従われた主イエスの柔和、へりくだりを象徴していた。シェヘレテ香は、ソデガイという貝殻の薄蓋から採集され、燃えると油を出して、芳香を放つ香であり、平和、平安の象徴であった。ヘルベナ香は、せり科の木の根の方の割に太い部分に傷をつけて浸出する乳状の液を集めたものであり、支え、土台としてのイエスの象徴であった。純粋な乳香は、乳香樹の幹を傷つけて取る乳白色の樹脂であり、純粋な信仰の象徴であった。塩は、腐敗を防止するための、純化し、保存し、きよめ、味をつけるという象徴であった。これらのかおりに惹かれて、おとめらは、イエスを愛するのである。それらのかおりに惹きつけられて、おとめらが集まってくるのである。

 「私を引き寄せてください。」(雅歌 1:4)たくさんのおとめらが、愛を携えてくる中で、花婿に引き寄せてもらわなければ、とても彼について走ることができないことに、気がつく花嫁。謙遜さゆえに、どの娘たちよりも愛され、大勢のおとめたちの中から王に選ばれたエステルのように、(「そこの女は、王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった。」(エステル 2:14))私たちも、引き寄せてもらわなければ、花婿なるイエスのもとには行けないのである。「私たちはあなたのあとから急いでまいります。」(雅歌 1:4)そこに行くのは、へりくだりに尽きる。引き寄せられたからといって、待ってましたとばかりに、花婿の前を進むのではなく、花婿の後から、のんびりとではなく、急いでついていくのである。

 「王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」(雅歌 1:4)ここで、花婿は、王と呼ばれている。この奥の間は、主と二人きりになるための祈りの部屋であるかもしれないし、ひょっとして孤独の試練の部屋であるかもしれない。いずれにしても、深い祈りへと導かれていく。そうして、花嫁は、その奥の間で、花婿による楽しみと喜びを知るのである。十字架の購いを入口とし、試練を通って、花嫁は花婿のはかりしれない愛を知るのである。今、花嫁は、愛をぶどう酒にまさってほめたたえるように成長し、真心をこめて、花婿を愛しているのである。この後、ヘブル原語では「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿なる王と奥の間で過ごし、時が経ったということだろうか。

 「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。」(雅歌 1:5)他のエルサレムに住む娘たち(まだ花婿をよく知らない幼く若い者たち)に、花嫁は言う。「ケダルの天幕のように」ケダルはイシュマエルの次男である。ケダルはイシュマエルの子孫を指し、荒野に住み、その天幕は黒っぽい山羊の皮でできていた。焼けつく試練の荒野を通り、たくましくなり、日にも焼け、黒くなってしまった花嫁は、エルサレムの都会で上品に暮らしていた娘たちよりも黒くなってしまったことであるが、きらびやかなソロモンの幕のように、栄光の美しさを放っているのである。

 花嫁は花婿に、荒野で黒くなってしまったことを恥じらい、懇願する。「私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。」(雅歌 1:6)「母」とは出発点、分岐点の意味もあり、聖霊のことであり、子らというのは聖霊によって生まれ、いのちを与えられた教会の信者たちを表わしている。「いきりたち」とは、「怒りに燃える、憤る、熱くなる、嫉妬する、激怒する、かっとなる、燃える、いらだつ・・・」の意味である。王から花嫁として選ばれ、奥の間から出てきた花嫁を待っていたのは、兄弟姉妹たちからの敵意であった。兄弟姉妹たちは、見せかけではない花嫁の美しさを見ていきりたち、ぶどう畑の見張りに立てた。兄弟たちはぶどう畑の中、見張りは外、その収穫のための労働、収穫の恵みにもあずかれずに、「おまえはそこで見張っておれ。」といったような状態である。そこに境界線を引いたのである。遠く追放なら、おいしそうなぶどうも楽しそうに過ごす兄弟姉妹たちも見えないが、ぶどう畑から離れてもらっても困るのである。「あなたの姉妹はどこにいったのか?」と父や母に聞かれかねないからである。ひとり多くのぶどう畑(原語は複数形)の見張りに立てられた花嫁、心痛からか、自分のぶどう畑(原語は単数形)を見張ることができなくなっていった。

花嫁の羊飼いなる花婿への求めと応答

 心痛で力尽きた花嫁は、花婿に懇願する。「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」(雅歌 1:7)もはや花嫁は、花婿に向かって、大胆に「私の愛している人」と呼べるほどに親しくなっている。にもかかわらず、兄弟姉妹たちに境界線を設けられ、区別された花嫁は、どこで羊を養えばいいのか困惑している。多くの花婿の仲間の群れがあるにもかかわらず、なぜ、自分はその群れのところに加われないのか、そこに安息があったのに、なぜ、自分は締め出され、食事の牧草地(群れのかたわら)に行くためには、ひっそりと顔おおいをつけた女のように忍びで行かなくてはならないのだろうか?

 それに対する花婿の答えは、こうであった。「女のなかで最も美しい人よ。」(雅歌 1:8)と敬意を払って、花婿は答える。「あなたがこれを知らないのなら、羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」(雅歌 1:8)「あなたがこれを知らないのなら、」愚かな女たちがいうようなことをいうのだね。あなたは、どこで羊を飼えばよいかを知っていると思ったのだが、知らないのであったら、こうこうこうしなさい、とでも言うように、主(花婿)は答えられた。どうしなさいとおっしゃったかというと、この牧場で飼いなさいと、王の花嫁にふさわしい兄弟たちもうらやむような特上のゴージャスな牧場を与えられたわけではなく、「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」とおっしゃられたのである。

 エリシャに、「ヨルダン川に行って七たびあなたの身を洗いなさい。」と言われたナアマン将軍のようである。特上の専用の牧場を与えてくださってもよいのに、群れの後ろどころか、孤独にも群れがいなくなった後に残された足跡をついて行きなさいと言われたのである。足跡もなかったなら、途方にくれ、行く方向もわからなくなり、困るのだが、幸い、足跡が残されていて、その足跡をついていきなさいと言われている。花嫁は不満だったが、これが最も祝福される道であり、他より寵愛されている花嫁の安息の場であり、花婿にふさわしい花嫁となるための道であったのである。群れに未練があり、忍びででも群れのかたわらに、無理やりにでも引っ付いている限り、花嫁はみじめであった。足跡からはずれないように、群れのかたわらではなく、羊飼いのかたわらで、子羊ではなく、子やぎを飼うのが、花婿(主)の現在の花嫁に対するみこころであった。子羊は、群れが面倒を見ているのである。羊飼いが、さらにまさる安息の牧場を用意してくださるまで、花嫁は、羊飼いのかたわらで、子やぎに対する働き、つまり、群れにいる羊ではない、それ以外の幼い人々に対する働きを続けなければならないのである。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花嫁が、みこころを知り、羊飼いのかたわらで、子やぎを飼って、時が経ったのだろう。

 愛のことばをもって、花婿は語る。「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。」(雅歌 1:9)いくらパロの戦車のという修飾語がついていようと、花婿から「あなたは雌馬のようだ」と言われて、うれしいと思う花嫁がいるだろうか。しかも「あなたの頬には飾り輪がつき、首には・・・」(雅歌 1:10)と続くのである。トレンディドラマの中なら、平手打ちがとびそうである。ここで、パロの戦車の雌馬になぞらえているのはどういった意味があるかを見ていく。パロの戦車の雌馬は、戦い、つまり信仰の戦い、それももっとも戦いにたけた強い信仰の馬のことである。

 ヨハネの黙示録には、幾種類かの馬が出てくる。勝利の白い馬(黙示録 6:2)、さばきの流血の赤い馬(黙示録 6:4)、さばきのききんの黒い馬(黙示録 6:5)、さばきの死の青ざめた馬(黙示録 6:8)、そして、黙示録 19章でキリストが乗ってこられるのは勝利の白い馬であり、キリストに従ってくる御使いたちも白い馬に乗ってくることが描かれている。いさましい信仰の馬である。花嫁であるから雌である。聖書には、馬の特性が描写されている箇所がある。「あなたが馬にを与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるかそのいかめしいいななきは恐ろしい。馬は谷で前掻きをし力を喜び武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑ってひるまず剣の前から退かない矢筒はその上でうなり槍と投げ槍はきらめくそれはいきりたって、地を駆け回り角笛の音を聞いても信じない角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき遠くから戦いをかぎつけ隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。」(ヨブ 39:19-25)ここに16の馬の特性が描かれている。

 ① 「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)主が与えてくださった、主を喜び、そこから得る力である。

 ② 首につけられたたてがみ 「たてがみ」の原語の訳はいろいろあるが、ここでは、英欽定訳を見る。たてがみ(ヘブル原語の「ラマー」)が派生した原語「ラアム」は「雷」である。「その首にたてがみをつけるのか。」New King James Version Bible(英国欽定訳)では、“Have you clothed his neck with thunder?”「あなたが、その首にいかづちをつけたのか。」である。いいかえれば、特性②は、その首にいかづちをつけ、である。ある人は、自然界において、雷は一致のデモンストレーションであると言っていた。なぜなら、稲妻が空を引き裂いた後、雲が再び一つになるときに、雷が鳴るからだという。よって、雷は、力の象徴であるが、一致の象徴ともいえる。

 ③ いなごのように、とびはねさせることができない 信仰の馬は、悪魔のおどしにも、とびあがるようなことはなく、簡単に怖がらない。

 ④ そのいかめしい(威厳のある)いななきは恐ろしい 馬の鼻から出る「ぶるぶるぶる」といういななきは、威厳を放ち、恐れをいだかせる。

 ⑤ 谷で前掻きし 前掻きするは、「掘る、掘り出す、探り出す、探求する」の意味である。信仰の馬は、暗い谷底にいるときでも、神が埋めた宝を探求し、掘り出す。

 ⑥ 力を喜び 信仰の馬は、力の源である主を喜ぶ。

 ⑦ 武器に立ち向かって出て行く 信仰の馬は、向かって来た敵と戦うだけでなく、自分から、敵に立ち向かえる信仰がある。

 ⑧ 恐れをあざ笑って 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ 4:18)信仰の馬には恐れがない。

 ⑨ ひるまず

 ⑩ 剣の前から退かない 剣であるみことばの前にも、自我を明け渡し、逃げ出さない。

 ⑪ 矢筒はその上でうなり 矢筒がうなるというのは、矢筒の中で、矢がぶつかりあって、がらがらなるということである。迅速で強くいさましい様子。

 ⑫ 槍と投げ槍はきらめく 信仰の馬が放つ槍と投げ槍は、きらめきながら、敵に向かっていく。

 ⑬ それはいきりたって、地を駆け回り いさましく、主のために、福音をたずさえ、地を駆け回る信仰の馬。

 ⑭ 角笛の音を聞いても信じない 例えば、危ないから、地を駆け回るのをやめなよ、というような不信仰の角笛の音(警告)を聞いても、主ご自身が止められない限り、信じず、主の戦いをやめたりしない。

 ⑮ 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき 角笛が鳴るごとに、信仰のおたけびをあげる信仰の馬。

 ⑯ 遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける 遠くからでも、戦いを認識し、隊長である主の号令と、その時を見極める感覚を備え、洞察力にすぐれている。

 花婿は、このような特性を備えている馬になぞらえて、自分のぶどう畑の世話もできないほどに、無気力になっている花嫁を励ましているのである。

 「あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。」(雅歌 1:10)「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は、自分の意志の明け渡しに関係する。飾り輪で飾られた頬、自分の意志のままではなく、尊い主の意志で飾られた頬は、実に美しいであろう。また、反抗的で、堅く自分の意志を変えない者を聖書は、「うなじのこわい者」(箴言 29:1)と言っている。首も意志を表わしている。宝石の飾り、New King James Bible(英欽定訳)では、“chains of gold”「金の鎖」となっている。金は神性を表わす色。主につなげられている鎖である。主に明け渡された意志は、とても美しい。

 「私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。」(雅歌 1:11)ここで、花婿が複数形になっていることに、注目したい。人間の花婿は複数ではないが(花嫁は複数のこともありえようが、花婿が複数のことは、まずない)、三位一体の神は複数形である。銀は、購いを象徴、金は神の神性を象徴する。飾り輪には、耳輪、鼻輪、腕輪、指輪、首飾り、腕飾り、足飾り等が聖書に出てくる。そのどこの飾りにしろ、神は、私たちを銀をちりばめた金の飾り輪で飾ってくださる。それも既製品ではなく、「あなたのために」と言われているように、花嫁個人のために、作ってくださるのである。

 結婚に向けての整えの婚約期間の愛の歌を見てきた。花嫁となるべく、整えの真っ只中にいる者のなすべきことが、8節で語られていた。「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」 自らの力で、他を蹴落とすのではない。ひっそりと、主御自身の整えの中で、花嫁は整えられていく…。

落ち穂の会提供

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